たわむれ アントン・チェーホフ

第二章


翌日の朝、ぼくはメモを受け取る:『本日もしゲレンデに行かれるのなら、わたくしのところへお立ち寄りください。エヌ』

この日からぼくとナージェンカは毎日ゲレンデへ通い、スキーで下に滑降しながらぼくはいつも小声で同じあの言葉を口にするのだった。

『ぼくあなたを愛しています、ナージャ!』

そのうちナージェンカはワインかモルヒネのようにこのフレーズに慣れてしまう。彼女はそれなしには生きることができない。

たしかに、山からの滑降は以前同様恐ろしいが、しかし現在ではもう恐怖と危険は愛の言葉、まえと同じように謎を形づくり心を疲れ果てさせる言葉に特別な魅力を与えているのだ。

ぼくと風、そのどちらもが疑わしく思える……どちらが彼女に愛を告げるのか彼女には分からない、しかし、どうやらもう彼女にとってはどうでもいいらしい。

どちらの器から飲もうと-同じことではないか、酔ってしまえば。

ある日の昼ごろ、ぼくは一人でゲレンデの方へ足を向けた。人だかりにまぎれたぼくは、ナージェンカが山の方へ歩いてゆき、目でぼくを探しているのがわかった……。

その後小さな階段沿いにこわごわと上っていく……。 一人で滑るのは恐ろしい、ああ、なんて恐ろしい! 彼女は雪のように青ざめ、震えている。彼女はまさに処刑に向かうように歩いてゆく、しかし歩いてゆくのだ。わき目もふらず決然と歩いてゆく。

彼女は、おそらく、ついに試すことに決めたらしい、つまり、僕がいなくてもあのすばらしく甘い言葉が聞こえるのかどうか、を。

ぼくは見ている。彼女が青ざめ恐ろしさで口を開いたまま橇に乗り込み、この世と永遠のお別れをしてその場から出発するのを……。

『ジジジジ……』スキーが軋む。ナージェンカがあの言葉を耳にしたのか否か、僕は知らない……。

僕にはただ、疲れ果てて弱々しい彼女が橇から立ち上がるのが見えるだけだった。

そして彼女の顔からは、何かを耳にしたのかどうか彼女自身わからなかった様子が見てとれた。

下まで滑る際の恐ろしさは彼女から聞き取り、音を分別し理解する力を奪ってしまったのだった……。

しかし三月の、春の月が訪れる……。 太陽はもっと柔らかくなる。ぼくらの雪山は黒くなり、その輝きを失って溶けていく。おしまいだ。

ぼくらは雪滑りをやめる。かわいそうなナージェンカはもうその言葉を聞ける場所がないし、それを言ってくれる人もいない。それというのも風は聞こえないし、また、ぼくはペテルブルグへ出発してしまう。長期間、おそらく永久に。

出発前のある、二日ほど前の日暮れ時にぼくが小庭に座っていた。ナージェンカの住む家の敷地とこの小庭は釘のついた高い塀で隔てられている……。

まだかなり寒く、厩肥の下にはまだ雪が残っているし、木々は死んだようだ。しかし、春の匂いが感じられ、ミヤマガラスが寝床に横になりながら、騒がしく鳴いている。

ぼくは塀に近づき長いことその割れ目から見ていた。ぼくが見ると、ナージェンカが玄関のポーチまで出てきて、悲しくふさいだような眼差しを空に向けていた…… 春風が彼女の青ざめた物憂げな顔にじかに吹きつける。

それは彼女にあの風を思い出させる。彼女があの4つの言葉を聞いたときに山の上でぼくらに吹きつけた風を。すると彼女の顔は悲しげになり、悲しげに涙が頬を伝うのだった……。

そして哀れな少女は両手を伸ばして、この風がもう一度その言葉を運んできますように、とお願いするかのようだった。そこで風を待ってぼくは小声で言う。『ぼく あなたを 愛しています、ナージャ!』

ああ、ナージェンカの様子といったら! 声を上げて、満面の笑みを浮かべ風に向かって手を伸ばしている。楽しそうに、幸せそうに、あんなにも美しく。

ぼくは荷造りに戻る……。

それもだいぶ以前の話だ。今ではナージェンカはもう結婚している。嫁にやられたのか自ら行ったものか、どうでもいいことだが、貴族保護会の秘書と結婚し、現在3人の子持ちだ。

いつだったかぼくらが一緒にゲレンデに行き、風が彼女に『ぼくはあなたを愛してる、ナージェンカ』という言葉をもたらしたことなどは忘れずにいる。彼女にとって今ではそれは人生でもっとも幸福で感動をよぶすばらしい思い出なのだ……。

だが、今、歳をとってみると、ぼくにはわからなくなっているのだ、どうしてあの言葉を口にし何のためにたわむれたのかということが……。


<< 前へ 目次
©2006 おがわ. この版権表示を残す限りにおいてこの翻訳は商業利用を含む複製、再配布が自由に認められる。プロジェクト杉田玄白 (http://www.genpaku.org/) 正式参加作品。