動物農場 ジョージ・オーウェル

「動物農場」ウクライナ語翻訳への前書き


動物農場のウクライナ語翻訳の前書きを書くよう依頼された。よく知らない読者に向けて私がこれを向けて書いていること、また彼らも私のことを何ひとつとして知る機会がなかったであろうことは理解している。

この前書きで私に期待されているのは動物農場がどのように生まれたかを述べることだろうと思うが、まず初めに私自身についてと、私が現在の政治的立場へとたどり着く原因となった経験について述べたいと思う。

私は一九〇三年にインドで生まれた。父親は現地のイギリス政府の役人で、私たち一家は兵士、牧師、政府の役人、教師、弁護士、医者といったごくありふれた中流階級家庭のひとつだった。私はイートン校で教育は受けた。もっとも金がかかり、お高くとまったイギリスのパブリックスクールだ[下記注記]。しかし私がそこに入学できたのは奨学金のおかげだ。もしそれが無ければそういった種類の学校に私を送る余裕は父にはなかったことだろう。

[注記:パブリックな「国立学校」ではなく、それとはまったく反対のものだ。排他的で高価な全寮制の中等学校で、それぞれ遠く離れて散在する。つい最近まで裕福な貴族の子息以外はまず入学することを許されなかった。十九世紀の成金銀行家の夢は自分の息子たちをパブリックスクールに入れることだった。こうした学校でもっとも重視されるのがスポーツだ。それによって威厳、頑健さ、紳士的な態度を養うことができると言われているのだ。こうした学校の中でもイートン校はとりわけ有名である。ウェリントン公ウェリントン公:初代ウェリントン公爵アーサー・ウェルズリーを指す。ワーテルローの戦いでフランス軍に勝利した軍人で、後にイギリスの首相を務める。イートン校出身。は、ワーテルローワーテルロー:ワーテルローの戦い。当時オランダ領だったベルギーのワーテルローで、イギリス、オランダ、プロイセンらによる連合軍とナポレオンが率いるフランス軍との間で行われた戦争。での勝利はイートン校の運動場で決したと語ったと伝えられている。様々な点でイングランドを支配していた人々の圧倒的多数がパブリックスクールの出身だったのはそう古くない時代の話だ(オーウェルによる注記)]

学校を出るとすぐ(まだ二十歳にもなっていなかった)私はビルマへと行き、インドの帝国警察へ入った。これは武装警察で、スペインのグアルディア・シビル治安警察やフランスのギャルド・モビール機動憲兵隊とよく似た警察組織である。そこで五年間働いた。あまり性に合わず、私は帝国主義を嫌うようになった。とはいえ当時ビルマではナショナリスティックな機運が特に高かったわけではなく、イギリス人とビルマ人の間の関係も特に険悪であるというわけでもなかった。一九二七年にイングランドに帰ったおりに、その仕事を辞めて作家になることを決めたが初めはまったく売れなかった。一九二八年から一九二九年にかけてパリに滞在し、出版のあてもない短い記事や小説を書いた(それらは全て捨ててしまった)。その後しばらくはほとんどその日暮らしで、何度か飢えも経験した。ようやく物書きで稼いだ金でやっていけるようになったのは一九三四年になってからだ。それまでの間はときどき数カ月にわたって貧しい、なかば犯罪者のような人々に混じって暮らした。貧しい地区の中でもとりわけひどいところに暮らしている人々、路上生活者、物乞いや盗人といった人たちだ。最初は金がないためにその仲間に加わったわけだが、次第に彼らの生活それ自体に興味を惹かれるようなった。また、何カ月もかけて(今度はもっと体系的に)イングランド北部の炭鉱労働者の状況を調べたこともある。一九三〇年になるまでは自分自身のことを社会主義者だとはあまり考えていなかった。実際のところ今でも明確に定義された政治的な見解は持ち合わせていない。私が社会主義支持になったのは、産業労働者の中の貧しい一団がいかに虐げられ捨て置かれているかを見て嫌悪を感じたからであって、計画社会に対する論理的な賛意のためではない。

一九三六年に結婚をした。それとほぼ週を同じくしてスペインで内戦が勃発した。妻と私は二人ともスペインへ行ってスペイン政府のために戦いたいと考えた。準備には六ヵ月かかった。当時書いていた本を書き終えてすぐのことだ。スペインではアラゴン戦線に約六ヵ月いたがウエスカでファシスト側の狙撃手に喉を撃ちぬかれた。

この戦争の初期段階で外国人たちは政府側を支持するさまざまな政党の間の内部闘争についてまったく気がついていなかった。いくつかの偶然が重なって私が仲間に加わったのは多くの外国人たちの参加する国際旅団ではなくPOUM民兵団……つまりスペインのトロツキストたちだった。

一九三七年の中ごろ、スペイン政府の支配権を(少なくとも部分的には)共産党が手に入れてトロツキストに対する狩り出しが始まった時に私たちはその犠牲者の中にいたのだ。私たちは幸運にもなんとかスペインを生きて脱出し、一度の逮捕も経験せずに済んだ。多くの友人たちは銃殺され、長期にわたって監禁されたり、忽然と姿を消したりした者もいた。

スペインでのこれらの人間狩りはソビエト連邦での大粛清と時を同じくして進み、いわばそれを補うものだった。スペインでも非難の口実はロシアと同様であり(つまりファシストとの共謀だ)、スペインに関して言えばそれらの非難が事実でないと信じるに足る十分な理由が私にはあった。こうした経験の全ては価値ある教訓だった。全体主義のプロパガンダがどれほど簡単に民主主義国家の進歩的な人々の意見をコントロールできるかを私に教えてくれたのだ。

妻と私の二人ともが、非正統であるという嫌疑だけで無実の人々が監獄へと投げ込まれるのを目撃した。イングランドへ帰ってからも、分別があり広い見識を持つ識者の多くがモスクワ裁判から報道される陰謀や裏切り、サボタージュに関する考えうる限りもっとも異様な解説の数々を信じているのを目にした。

こうして私はソビエト神話が西側の社会主義運動に対して及ぼす負の影響を以前よりもずっと明確に理解するようになった。

ここで立ち止まってソビエト体制に対する私の態度を説明しておく必要があるだろう。

私はロシアを訪れたことは一度もなく、私のロシアに関する知識は本と新聞から得られるものだけから成り立っている。たとえもし私にその力があったとしてもソビエト国内の出来事に対して影響力を持ちたいとは思わない。野蛮で非民主主義的なやり方だけを理由にスターリンやその同輩を非難しようとも思わない。たとえ最良の意思をもってしてもあの地に広がる状況の下では彼らがそれを実現に移せないということは十分に考えられる。

しかし一方で、西側ヨーロッパの人々がソビエト体制の真の姿をどのように考えるかは私にとって最重要の関心事だ。一九三〇年からこちら、ソビエトが真に社会主義と呼べる何物かに向かって前進を続けていると示せるだけの証拠はほとんど無いと言っていい。反対にそれが階級社会へと姿を変えている明らかな兆候を私は目にしている。そしてそこでは他の支配階級同様、支配者たちは自らの権力を放棄する気はなさそうなのだ。さらに言えばイングランドのような国では労働者と知識人たちは現在のソビエト連邦が一九一七年のそれとはまったく異なるものになっていることを理解できないでいる。ひとつには彼らが理解したがらないということもあるし(つまりどこかに真の社会主義国が実際に存在することを信じたがっているのだ)、ひとつには社会生活において相対的に自由で穏健であることに慣れているということもある。彼らにとって全体主義はまったくもって理解しがたい存在なのだ。

一方でイングランドが完璧に民主主義的であるわけではないことは思い出す必要がある。イングランドは資本主義国家であり、巨大な階級格差と(全員を平等へと導く傾向のある戦争の後である現在に至っても)巨大な富の偏在が存在する。しかしそれでも大きな争いなく数百年にわたって人々が共に暮らしてきた国であり、そこでは法は比較的公正であり、公式な報道と統計はほとんどの場合で信じるに足るものである。さらに重要なのは少数意見を持ち、それを声に出しても何ら生命の危険を感じることがないということだ。このような雰囲気の中では通りを行く人が強制収容所や集団国外追放、裁判無しでの拘留、報道の検閲といったものを真に理解することは不可能である。ソビエト連邦のような国について読んだことはすべて自動的にイギリスの言葉に置き換えられ、全体主義プロパガンダの嘘は実にやすやすと受け入れられる。一九三九年まで、さらにはその後に至ってもイギリスの大多数の人々はドイツのナチ体制が持つ真の性質を見定めることができなかった。同じことが現在のソビエト体制についても言える。大部分はいまだに同じ幻惑の影響下にあるのだ。

これはイングランドでの社会主義運動にとって非常に有害であるし、イギリスの外交政策に深刻な影響を与えている。そしてロシアは社会主義国であり、その支配者の全ての行動は真似しないまでも免責されるべきである、という考え以上に社会主義本来の思想を汚す物は間違いなく無いと私は思う。

そして過去十年にわたって私は、社会主義運動を復興したいと思うのであればソビエト神話を打ち壊すことこそが必要なのだと確信してきた。

スペインから戻ると私は物語でソビエト神話を暴きだそうと考えた。ほとんど誰であっても簡単に理解でき、簡単に他の言語へ翻訳できるような物語だ。しかし実際の物語のディテールを思いつくまでには少し時間がかかった。きっかけはある少年を目にしたことだった(その頃、私は小さな村に住んでいた)。たぶん十歳くらいだろう。巨大な馬車馬に乗って狭い道を進んでいるところで、馬が向きを変えようとするたびに鞭を振るっていた。もしこうした動物たちが自らの力を知ったとしたら私たちは彼らに対して無力になるだろう、そして人間が動物を利用する手口は富める者が貧しい労働者を利用する手口にそっくりではないか、という考えが私を襲った。

私はマルクスの理論を動物たちの視点から分析していった。彼ら動物にしてみれば人間の間の階級闘争という概念はまったくの幻想だろう。いつだろうと人間は動物を利用し、全ての人間は団結して動物と対峙しているのだ。真の闘争とは動物と人間の間でおこなわれるのだ。これを出発点とすると物語を生み出していくのは難しいことではなかった。一九四三年になるまで私がその話を書くことはなかった。それまでずっと他の仕事に取り組んでいて時間がとれなかったのだ。物語の最後の方にはいくつかの出来事を含めた。例えばテヘラン会談といった出来事で、これは私の執筆中におこなわれたものだ。従ってこの物語の主要な筋書きは、それが書かれる以前の六年の期間にわたって私の頭の中にあったことになる。

この作品について何かを述べようとは思わない。物語それ自身が語らないのであればそれは失敗作だ。しかし二つの点については強調しておきたい。ひとつ、さまざまな出来事はロシア革命の史実からとられているが、その概略と時系列は変更されている。物語に対称性を持たせるためにはそうする必要があった。二点目はほとんどの批評家が見誤っているものだ。おそらく私が十分に強調しなかったせいだろう。多くの読者はこの本を読み終わった後、豚と人間が完全に和解して話が終わったと思うかもしれない。これは私が意図したところではない。反対に私は仲違いの不協和音でこの話を終わらせたのだ。これを書いていたのはちょうどテヘラン会談が終わった直後のことだった。この会談によってソビエト連邦と西側諸国の間に可能な限り良好な関係が築かれたと誰もが思っていた。私は個人的にはこんな良好な関係が長く続くとは信じていなかった。そしてその後の出来事が示す通り、それは当たらずとも遠からずといったところだったのだ。

これ以上何か付け加える必要はないだろう。もし個人的な細かいことに興味がある人がいれば、私は三歳になろうとする息子のいる男やもめで、職業は作家であり、今回の戦争始め頃からは主にジャーナリストとして働いてきた。

私が一番よく執筆している定期刊行物はトリビューンだ。これは社会政治を扱った週刊誌で、一般的に言って左派労働党の代弁をおこなっているものだ。一般の読者がもっとも興味を持つであろう私の本は以下の通りだ(この翻訳書の読者が見つけられればだが)。ビルマでの日々(ビルマについての話)、カタロニア賛歌(スペイン内戦での私の経験をもとにしている)、批評的エッセー(主にその時々に人気のあった英文学を取り上げたエッセー集で、文学的な観点よりも社会学的な観点から有益なものになっている)。

1947年

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