牧師館の娘, デーヴィッド・ハーバート・ローレンス

第十三章


二日後の夕刻、六時半を過ぎた頃、ルイーザは石切り小屋の戸をこつこつと叩いた。アルフレッドはすでに夕食を終え、洗いものを片付けた家政婦も去った後で、だが彼は依然、炭坑の汚れにまみれたまま、椅子に坐っていた。この後、彼は酒場に行くつもりだった。家に籠った温気を逃れるように、彼はそこへ通うようになっていた。ほんのうわべだけでも、男たちと言葉を交わし、喧噪と、人いきれに触れて、幾時間か憂いを忘れることを、彼は必要としていたのだった。だがこの時は、彼はじっと身動きせずにいた。あたかもこの空ろな家屋が、いつしか異様な空間に変じて、彼の上に覆い被さってくるのを待つかのように、彼は独り坐っていた。

彼は炭に汚れた恰好のまま、戸を開けた。

「今晩は、──ずっとお邪魔したいと思っていて──もしよければ上がらせてください、」と彼女は言って、部屋に入ると、ソファに坐った。彼は、何故彼女が母親の丸い肘掛け椅子に坐らなかったのかを、ぼんやり訝しんだ。それでいて普段、家政婦がその肘掛け椅子に坐っているのを見れば、怒りに似た何かが、彼の内で縺れるのだったが。

「いつもだったら、この時間には、もう身体を洗い終えているんですが──」と、彼は、蝶と桜の細工で装飾され、「T・ブロックス、マンスフィールド」と銘の彫られた時計に、ちらと目をやった。そして黒い掌で、斑らに汚れた腕を擦った。ルイーザは彼を見つめた。彼の内にあって彼女を怯えさせる、打ち解けなさと、単純で無機質な態度を、彼女は感じた。そういう態度を見せられると、彼と心を通わせることは、ほとんど不可能のように思われた。

「あなたを夕食に招いたことで、何か失礼がなかったかと、気がかりだったのですけれど──」と彼女は言った。

「いえ、僕はそもそも、ああいうことには慣れていないんです、」と、唇の間に白い歯を見せて、彼は微笑んだ。彼の眼差しはしかし、何も見ていないかのように固かった。

「いえ、そうじゃなくて──」と、彼女は慌てて言った。戸惑った彼女の顔は、穏やかな鋭敏な美しさで、その濃い灰色の眼は賢慮に充ち、深みがあった。不意に彼は、彼女がそこに坐っていることに、常ならぬものを感じ、彼女についての意識が彼の内でふくらみ出した。

「独りで暮らしていて、大変じゃありませんか?」と彼女は訊ねた。

彼は暖炉の方へ眼を逸らした。

「そうですね──、」と彼は、ぎごちなく、気後れして応えたが、最後まで言い切ることができなかった。

彼女の顔つきは、じっと冴えて落ち着いていた。

「こんなに部屋を閉め切っていて、暖炉の火もあるのに、蒸し暑くないですか? 私、コートを脱がせてもらいますわ、」と彼女は言った。

彼は彼女が帽子とコートを脱ぐのを眺めていた。彼女は下に、金の絹糸で刺繍した、浅黄色のカシミヤ織のブラウスを着ていた。喉元と腕首に吸いつくように合ったその服は、彼にはとても淑やかに見えた。それは、安らいと清潔の感を彼に与え、そして、彼の鬱屈を一時忘れさせてくれた。

「身体を洗わないで、何をしていらしたんですか?」と、柔らかな親密な調子で、彼女は訊ねた。彼は笑って、顔を横に向けた。その薄汚れた顔の中で、彼の澄んだ白目は際立って見えた。

「さあ、」と彼は言った、「それは教えられませんね。」

しばらく沈黙がつづいた。

「これからも、この家にずっと住みつづけるつもりなんですか?」彼女は訊ねた。

質問を向けられて、彼は椅子のなかで少し身じろぎした。

「当面、どうとも決めてません、」と彼は言った。「ほんとうは、僕はカナダへ行きたいと思ってるんです。」

それを聞いて、彼女の魂は静止し、注意を凝らした。

「カナダへ、何のために?」と訊ねた。

またも彼は、椅子のなかで落ち着きなく姿勢を変えた。

「そうですね、」──彼はゆっくりと喋った──「まあ、ちゃんとした生活をはじめるために。」

「──どんな生活を?」

「そりゃ、いろいろですよ──農業で働いてもいいし、森で働いても、鉱山で働いてもいい。どんな生活かってことは、たいして重要じゃないんです。」

「それで、本当にそうしたいと考えていらっしゃるの。」

その点まで深く考えていなかったので、彼は、答えられなかった。

「わかりません、」と彼は言った、「実際向うに行ってみないことには。」

彼女は、彼が永久に離れ去って行こうとしているのを、見て取った。

「このお家と庭を残して行ってしまって、本当にいいんですか?」と彼女は訊ねた。

「どうかな、」と彼は舌がもつれたように言った、「フレッド兄さんに、ここに住んでもらってもいいですし──実際、兄さんもそうしたがってたはずです。」

「じゃあ、本当に外国に行ってしまうんですね?」彼女は訊ねた。

彼は椅子の肘掛けに身を傾げた。そして彼女の方を向いた。蒼然とした彼女の顔は、じっと静かだった。表情は純一で、とても厳かに見え、彼女が色を失うにつれて、却って彼女の髪は艶やかに輝くようだった。彼の前で、彼女は何かしら揺るぎない、確としたもの、永遠に通じるような何ものかだった。不可思議な悩ましさに、彼の心は火と燃えた。怖れと痛みの鋭いひっつりが、彼の四肢を刺し貫いた。彼は逃れるように、彼女から自分の身を引き離した。耐え難い沈黙が二人のあいだに充ちた。彼女が傍に坐っていることが、彼にはもう堪えられなかった。彼女がそこに居るだけで、彼の心臓は灼け、胸のなかで締めつけられた。

「今晩は、どこかへ出かける予定だったのですか?」彼女は訊ねた。

「ええ。まあ、ちょっと酒場へ、」と彼は言った。

ふたたび沈黙がおりた。

彼女は帽子に手を掛けた。結局、彼女は何も得るところはなかった。もう彼女は帰るべきだった。彼は彼女が立ち去って、この緊張の時が終わってくれるのを、坐りながら待っている。もしこのまま家を出て行けば、何もかもが無首尾に終わるのだと、彼女は分っていた。分っていながら、彼女は帽子をピンで留める仕種をつづけた──もう間もなく、彼女はこの家を出て行ってしまっていることだろう。不可避の流れに沿うように、彼女は帰り仕度をすすめていた。

だが突然、雷光のように、鋭い戦慄が彼女の頭から足先までを伝い、彼女は我を失った。

「私、ほんとうに帰っていいんですか?」と、彼女は、抑揚のついた、しかしあたかも、彼女の手を離れて言葉が口に出たかのように、身を切る苦痛から吐き出された声で、訊ねた。

炭に汚れた彼の顔が、蒼白になった。

「なぜ?」強いられたように、不安げに彼女と向き合い、彼は訊ね返した。

「ほんとうに帰ってもいいんですか?」彼女はくり返した。

「なぜ?」彼はまたも訊ね返した。

「私があなたと一緒に居たいんです、」と、荒い息衝きで、肺臓が火に焦げたように感じながら、彼女は言った。

彼の顔はひきつり、少し項垂れた恰好で身じろぎせず、波打つ苦しみを堪えながら、真直ぐに彼女の眼を見据え、彼は、自分を確かに保てぬほどに、切れ切れの思惟に苛まれた。彼女は、まるで石像と化したかのように、一に彼の眼を見つめ返していた。そのあいだ、彼らの魂は、剥き出しに曝されていた。それは苛酷なことだった──二人には到底堪えられぬほどに。彼はさらに深く項垂れ、身体は微かに、角々しくひきつり震えた。

彼女はコートを取ろうと向きを変えた。彼女の魂は、すでに息を殺されていた。彼女の手の震えはおさまらなかったが、もはや彼女は、何も意識することができなかった。彼女はコートを着た。研ぎすまされた切迫が、部屋に充ちた。いよいよ彼女は立ち去らねばならない。彼は顔を上げた。瑪瑙のような彼の眼は、苦しみの色濃い黒目をのぞいては、何の表情も伝えなかった。その眼に捉えられると、彼女は一切の意志を、生気を失ってしまった。彼女は自分が打ち砕かれたように感じた。

「ほんとうにいいんですか?」切羽詰まった彼女は、言った。

彼女に据えられた彼の眼に、熾烈な苦しみが走った。

「僕──僕は──」と、彼は言いかけたが、言葉が後につづかなかった。何か不可知のものが、彼を椅子から立たせ、彼女の方へ引き寄せた。生贄に差し出された動物のように、呪縛されたように、彼女は、じっと立っていた。おずおずと、あいまいに、彼は手を彼女の腕に触れた。彼の顔は見知らぬ、非人間的な表情を帯びていた。彼女は身際をぴたりととどめて、立っていた。やがて彼は、不器用に腕を彼女にまわし、抱えて、彼女がほとんど意識を失うまで、そして彼自身が死滅するまで、無下に、盲目的に、抱き締めた。

彼女をきつく抱擁し、目眩に意識が渦をなし、そして彼自身が自分から離れて、下方へと沈んでいくのを感じているうちに──、そして彼女が、彼に身体をあずけ、死に似た感情に恍惚となっているうちに、いつしか、彼はまったき闇の只中に立たされ、次いで二人は、あたかも永い眠りから抜け出たように、新たな覚醒の感につつまれていた。──彼は本来の自分に戻っていた。

しばらくして後、彼の腕が緩められると、彼女は強ばった身体の力を解き、彼女自身の腕を彼にまわして、抱擁を交わした。二人は重なり、また互いに互いの姿を隠すかのように、一言も口にできず、ひっそりと寄り添っていた。そして次第に、彼に触れた彼女の手は戦きに震え、愛情から、彼をより強く両腕に包んだ。

ようやく押し付けていた顔を離して、彼女が彼を見上げた時、彼女の眼は潤み、明るく煌めいていた。それを見て、彼の心臓は畏怖に静まり返った。まさに彼は彼女とともにあった。翳りを宿した、測り知れぬ面差しをした彼は、彼女には、永遠の何かであるように思われた。そしてふたたび、このきわめて稀な至福の時に、悲痛のこだまが呼びさまされ、堪えていた涙が彼女の頬を伝った。

「あなたが好きです、」と、すすり泣きながら、唇を震わせて彼女は言った。彼女に身を傾けて俯いた彼は、彼女の言葉を受け止められず、また、彼の心臓を押し拉ぐかのように、不意に波打つ鋭い歓喜と熱情にも、堪えきれなかった。物音がひっそりと鳴り、二人はただ一つになって立っていた。

永い時が過ぎ、また彼の顔を窺いたくなった彼女は、目を上げた。漆黒の小さな虹彩をもつ彼の眼は、不思議に燃え輝いていた。いかにも不思議で、その眼は何かの力のように、彼女を惹き付けた。彼の唇が彼女に迫った。ゆっくりと彼女の瞼は閉じられ、彼の口は彼女の口を探すように、少しずつ近づき、ついに触れ合った。

永いあいだ彼らは動かずに、何もできぬほどに、激情と、悲嘆と、死の感触に絡めとられて、しかし、互いに痛苦によって相手と結びつき、恐怖が愛欲に変わる端境で、深い、息長い口づけを、創痍を触れ合わせるように、交わしつづけた。それからとうとう、彼女は彼から身を離した。心臓が痛みに痛み、だが、にもかかわらず幸福を感じていた彼は、彼女を見つめるのが恐ろしかった。

「私、幸福よ、」と彼女は言った。

彼は感謝と愛欲の念に憑かれて、彼女の手を握った。まだ意識が混濁していて、彼は何も言うことができなかった。ただ彼は、あまりの安息に茫然としていた。

「もう行かなくちゃ、」と彼女は言った。

彼は彼女を見据えた。彼女が帰ってしまうということが、今の彼には不可解なことに思われ、ただ彼女と別れることはできないという想いだけが、彼を占めていた。だが、その我意をあからさまに言う勇気はなかった。彼は彼女の手をきつく握った。

「あなたの顔、真黒ね。」彼女は言った。

彼は微笑んだ。

「君の顔も少し汚れているよ、」と彼は言った。

彼らは互いに相手の存在に敏くなり、話すのに気後れしていた。彼は自分の傍に彼女を引き止めることができるだけだった。やがて彼女は、自分の顔を洗いたくなった。彼女のために湯を汲んで来た彼は、脇に立って彼女を見つめた。何か話しかけたかったが、やはり口に出なかった。彼女が顔を拭き、髪を撫で付けるのを、彼はじっと見ていた。

「君の家の人は、ブラウスが汚れているのも怪訝に思うだろうね、」と彼は言った。

彼女は自分の袖に目をやり、楽しそうに笑った。

彼の内に誇らしさが兆し、身が引き締った。

「君はこれからどうするの?」彼は訊ねた。

「なんのこと?」彼女は言った。

彼は口ごもりながら、言葉を継いだ。

「つまり、僕のことを。」そう言った。

「あなたは、私にどうして欲しいの?」彼女は笑いながら言った。

彼は静かに、彼女に手を差し伸べた。そうだ──、これからのことなんて、今はどうでもいいではないか。

「ともかく、まず身体を洗うことね、」と彼女は言った。


©2006 稲富裕介. この版権表示を残す限りにおいてこの翻訳は商業利用を含む複製、再配布が自由に認められる。プロジェクト杉田玄白 (http://www.genpaku.org/) 正式参加作品。