牧師館の娘 デーヴィッド・ハーバート・ローレンス

第五章


それから六ヵ月が経って、メアリーはマッシー青年と結婚した。二人のあいだには、どんな求愛の言葉も交わされず、誰も、何の徴候も目にしなかった。にもかかわらず皆が、この結婚の成就の期待で、張りつめ、ぎこちなくなっていたのだった。或る日、メアリーとの結婚を認めて欲しいと、願いに来た、マッシー青年を前にして、リンドリー師は、ぎくりと戦き、そしてその小男から洩れて来る、痩せた、抽象的な声を聞いて、総毛立った。マッシー青年は神経質でありながら、奇妙で絶対的な確信を持っていた。

「それは祝福すべきことだね、」と牧師は言った、「でももちろん、すべてはメアリーの意志次第だよ。」机の上の聖書に触れた、彼の窶れた手は、やはり震えていた。

求婚という考えだけを胸裡に抱え、この小男は、メアリーに会おうと、静かな足取りで部屋を出て行った。彼はメアリーの傍に坐ったが、彼が話を切り出すまでのあいだ、メアリーは、彼と当たり障りない会話を交わしていた。何がこれから起ろうとしているのか、メアリーは脅え、不安に憑かれて、身を堅くした。立ち上がって、彼を突き飛ばしてしまおうとする、肉体的な衝動を、彼女は感じた。だが彼女の精神は、震え戦き、ただ待っていた。彼女は何かを期待して、ほとんど彼を求めるかのように、待っていた。それから、ようやく彼が口を開こうとする気配を、彼女は察した。

「もうお父様にはお尋ねしたのです──、」と、彼が言うと、彼女は突として、嫌悪を感じ、彼の痩せた膝に眼を落とした──、「つまり、私が貴女に求婚するのに、異議はないかどうか、と。」こう言うと彼は、自分が弱い立場にたたされたように思ったが、しかし、彼の意志は折れはしなかった。

坐ったまま彼女の身体は、冷たくなっていき、あたかも石と化してしまったかのように、無感覚になっていった。マッシー青年は焦れるように返事を待っていた。彼は彼女を説得しようとはしなかった。彼自身、人の説得などに耳を傾けたことなどなく、我が道を押し通すばかりだったのだ。自分自身には確信を持ちながら、彼女の返事には確信を持てず、彼は彼女を見つめ、そして言った。

「私の妻になって頂けませんか、メアリー?」

彼女の心は、やはり頑なに冷たいままだった。冷然と彼女は坐っていた。

「母にまずこのことを伝えねばなりません、」と彼女は応えた。

「それは、当然そうでしょうね、」とマッシー青年は応えた。そうしてすぐに、彼は鈍い足音を立てて部屋を出て行った。

メアリーは母親のところへ向った。彼女はもの言わず、身体が冷えきったように感じていた。

「お母さん、マッシーさんに結婚を申し込まれました、」と彼女は言った。リンドリー夫人は読んでいた本に眼を落としたまま、じっとしていた。夫人の内では驚悸が脈打った。

「で、あなたは何て答えたの?」

二人とも沈鬱な、冷たい表情をしていた。

「答える前にお母さんに相談してみなければ、と言いました。」

この言葉は、答えをあずけたのと同じだった。リンドリー夫人はこれに応えたくなかった。夫人は寝椅子の上で、神経質に、重い身体をよじった。メアリーは口をつぐみ、ただ静かに、まっすぐに坐っていた。

「お父さんなら、悪い相手じゃないと言うでしょうね、」と、何でもないことのように、母は言った。

それ以上のことは何も聞かれなかった。誰もが冷たい心を抱え、口を閉ざしていた。メアリーはこの事をルイーザには話さず、エルネスト・リンドリー師は、もとよりこの事には関わり得なかった。

その日の夜、メアリーはマッシー青年に受諾を伝えた。

「私はあなたと結婚いたします、」と、メアリーは、彼の前で、微かに、もの柔らかな仕種を見せて言った。青年は困惑したが、しかし満足もした。青年が彼女に向って動き始め、彼の内の、冷たくて尊大な男性が、自分に押し付けられてくるのを、メアリーは感じた。メアリーはただ身じろぎせず坐って、待っていた。

ルイーザは、この事を知ると、皆に対して、メアリーに対してさえ、苦々しい怒りを感じて、言葉を失ってしまった。彼女は自分の信念が傷つけられたと感じた。結局、彼女にとって大切と思えた現実は、何の意味もないのだろうか? 彼女はどこか遠くへ行ってしまいたかった。ルイーザは、マッシー青年のことを考えてみた。彼には何かしら不可思議な力、抗し得ない権威というものがある。彼は、彼ら皆が決して撥ね返すことのできない意志のようだ。──と、突然、彼女の内で閃光が発した。もしあの男が近よって来たら、ひっぱたいて、部屋から追い出してやる。もう二度とあの男に自分に触れさせはしない。彼女は喜びに燃えた。彼女は自分の血が滾るのを感じ、そしてあの小男が、いかにその威容で、彼女の思惟を麻痺させようと、いかに抽象的な善事を誇ろうとも、もし彼女に近寄って来たなら、断然追い払ってやる、という意気に昂った。彼女は自分が歪んだ喜びに酔っていると思ったが、その方が、彼女には好ましかった。「断然あの男を部屋から追い払ってやるわ、」と彼女は言い、そうはっきり言うことで、彼女はいよいよ喜びを感じた。にもかかわらず彼女は、依然として、或る意味では、メアリーを自分より傑れた存在として敬わねばならないだろう。しかし、メアリーはメアリーであって、彼女自身はルイーザであり、その違いは変えることはできないのだ。

メアリーは、マッシー青年と結婚するにあたって、感受性も、敏い衝動も殺して、彼のような純粋な理性になりきろうとした。彼女は、自己自身を抑圧し、夫婦生活の初めに来る、恥辱の苦悶、凌犯の恐怖に対して、無感覚であろうとした。彼女は何も感じない──自分はもはや何も感覚しない。自分は彼に黙従する、ただの純粋な意志だ。自分はそうなることを自ら選んだのだ。そうすることで、自分は善に充ち、まったくの純粋になり、これまでに知らなかった尊い自由を呼吸し、俗世の腐臭から逃れ、正しき途を歩む純粋な意志と化すことができるのだ。自分は自らを売り渡した──が、それによって、新たな自由を得たのだ。彼女はもう自分の肉体を超克した。彼女は低次の自分、肉体的な自分を売り渡すことで、高次のもの、物質的な事物からの自由を手に入れたのだ。彼女は、夫から授かったものに対して代償を払ったのだ、と考えた。そして、一種の自律を得た彼女は、誇らしく、軽やかに生きることができた。彼女は肉体の死を代償としたのだ──これからは、自分の肉体に煩わされることはない。肉体から脱け出したことに、メアリーは喜びを感じていた。彼女は世界の中での、自分の地位を手に入れたのであり、それは今は異質でも、いずれはごく自然に感じられるようになるはずだった。すなわち、慈善の活動と、気高い精神性への志だけが残存する生活が。

夫とともに人前に出ることは、メアリーには、ほとんど堪えがたいことだった。彼女の私生活は絶え間ない恥辱だった。しかしそれならば、隠し通せばよいのだ。鉄道の通る場所から何マイルも離れた、別の小さな村の牧師館に、メアリーは引き蘢って暮らした。他の人から、彼女の夫が嫌悪の目で見られたり、人々が彼を、「例の人」と言って揶揄し、変に遇したりすると、彼女は、まるで自分自身の肉体が侮辱されたかのように、苦しんだ。だが大抵の者は、彼女の夫の前でぎごちない緊張を見せ、それで彼女は自尊心を取り戻すことができるのだった。

もし、彼女が自分自身に素直であれば、彼女は夫を憎悪しただろう──彼が家のまわりをとぼとぼ歩くのを、人間味を欠いた彼の細い声を、彼の痩せた傾いた肩を、そして、未熟児を思わせるあの不細工な顔を、嫌ったに違いなかった。しかし彼女は厳として、自分の姿勢を固持していた。メアリーはまめまめしく、ひたむきに夫の世話をした。その態度には、奴隷が主人に対するのにも似た、夫に対する、根深いおどおどした脅えもあった。

彼の振舞いに、欠点らしい欠点があるわけではなかった。彼は、自身の力の及ぶ範囲では、まったく几帳面で、優しくさえあったのだ。だが彼の内の男性は凍り付き、自己充足していて、しかも、ひどく傲岸だった。そのような図太さを、この弱々しい、未成熟な小柄な存在が秘めているとは、メアリーには思いがけないことだった。それはついに、彼女の理解できない何かだった。この事実に動揺しないためにも、彼女は頭を高く上げつづけていなければならなかった。彼女はぼんやりと、自分は自分を殺してしまったのだということを、悟りはじめていた。結局のところ、そう容易く肉体から脱け出すことなどできなかったのだ。しかし、自分はこんな風に肉体を抹殺してしまった!──彼女は時折、もう一思いに命を絶たちたい、自分の手で、周囲の何もかもを否定し、無に還らなければならない、と思うこともあった。

夫は、身のまわりのことを、ほとんど顧慮していないかのようだった。彼は家庭のことでは不平一つ言わず、家のなかで、彼女は気侭に振舞うことができた。実際彼女は、彼のおかげで身にあまる自由を得ていた。椅子に坐っているときの夫は、幾時間も存在を消しているのも同然だった。また彼は優しく、理解のある夫だった。しかし、自分の正しさに確信のあるときは、彼は、あたかも冷徹な機械のように、盲目で男性的な意志と化した。そういう時には、論理的な正しさという点では、彼はほぼ完璧であり、さもなければ、彼と彼女双方が受け入れている教義に完全に一致していた。常にそうだった。したがって彼女には、彼に逆らう余地などおよそ無かった。

そうして日々が過ぎて行き──子供を妊った時、彼女ははじめて、神と人を前にしての戦慄に怯えた。それは彼女にとって、切り抜けねばならない試練だった──新しい生命を産むことは、人の定めなのだから。そして、産まれて来た子供は、とても健やかで愛らしかった。その赤ん坊を両腕に抱いた時、彼女の身体の内奥で、心が痛んだ。惨く扱われ、擦り切れてしまった彼女の肉体が、ふたたび赤ん坊に応じて敏くなるのを、止められなかったのだ。結局、彼女はまたも生に連れ戻された──生とは、そう簡単に割り切れるものではなかったのだ。自分の内で完全に死に絶えたものなど、何もなかった。メアリーは、ほとんど憎悪の眼差しで、赤ん坊を食い入るように見つめ、湧いてくる愛情の痛みに苦悶した。肉体を持って生きることをもはや断念したにもかかわらず、赤ん坊の存在は、彼女の生の肉体をふたたび呼び覚まそうとし、そのために彼女は、赤ん坊を憎んだ──そう、彼女は、もう肉体に沿って生きることはできなかった。彼女は自分の肉を踏みにじり、踏みのめし、乾涸びさせ、ただ精神の中でのみ生きることを望んだのだった。だが、赤ん坊が産まれたことが、すべてを狂わせてしまった。これほどに残酷で、惨めな状況はあり得なかった。彼女は赤ん坊を愛さざるを得なかったからだ。彼女の生の目的は、ふたたび二つに分裂してしまった。彼女はもはや、現実の事物とかかわり得ない、目的を欠いた、ぼんやりした存在でしかなかった。母としても、彼女は、とりとめがなく、恥ずべき存在だった。

人間らしい感情に関しては、あらゆる意味で盲な、マッシー青年は、やがて彼の子供への想いに取り憑かれた。産まれて来た子供が、突然に、彼の意識する世界のすべてを占めてしまったのだ。その子供は彼の強迫観念になり、その幸福と健康が脅かされることを、彼は、もっとも怖れるようになった。この変化は、何かしら新生に似て、あたかも彼自身が、裸の赤ん坊として産まれ、自分の裸形を意識して不安で堪らないかのようだった。今までの人生で、誰のことにも心を掛けなかった彼が、今は、その子供のことだけを考えているのだ。彼は赤ん坊と一緒に遊んでやったり、キスしてやったり、世話をしてやることはなかった。しかし、その赤ん坊は彼の意識を占め、心を奪ってしまい、そのため精神的には、彼は白痴のようになった。ただ赤ん坊のことだけが、彼の世界だった。

彼の妻は、「何故この子は泣いてるんだい?」という彼の質問、「ほら、この子のことを考えてやってくれ!」という彼の催促、そして乳をあげるのが五分遅れただけでも苛々する、彼の短気も、堪えねばならなかった。結婚という契りには、そうした義務も含まれているのだ──そして彼女は、その契りを破るわけにはいかなかった。


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©2006 稲富裕介. この版権表示を残す限りにおいてこの翻訳は商業利用を含む複製、再配布が自由に認められる。プロジェクト杉田玄白 (http://www.genpaku.org/) 正式参加作品。