ダブリンの人たち ジェイムズ・ジョイス

小さな雲


八年前彼はノースウォールで友人を見送り、成功を、と祈った。ガラハーはうまくやっていた。それは彼の旅なれた態度、仕立てのいいツイードのスーツ、恐れを知らない話しぶりからもすぐにわかった。彼のような才能を持つ者はまれだし、あんな成功にもだめになっちまわずにいられる者はさらにまれだ。ガラハーは優しい心の持ち主だし、勝利を得るにふさわしかったんだ。ああいう友達を持つのは大事なことだ。

リトル・チャンドラーは昼食の時からずっとガラハーとの出会いのこと、ガラハーの招待のこと、ガラハーの住む大都市ロンドンのことを考えていた。彼がリトル・チャンドラーと呼ばれたのは、平均身長をほんのわずかに下回るだけなのに小柄な男という感じを人に与えたからである。彼の手は白くて小さく、からだはきゃしゃで、声は静かで、ふるまいは洗練されていた。彼は絹のようなブロンドの髪と口ひげに大変気を使い、ハンカチには控えめに香水をつけていた。彼のつめの半月は完璧で、彼が微笑むと子供のような白い歯並がちらりと見えた。

彼はキングス・インの自分の机に向かい、その八年間がどんな変化をもたらしたか考えた。彼の知るところみすぼらしく困窮した様子だった友、それがロンドンプレスの才気あふれる人物になっていた。彼はたびたびあきあきする書き物から目をそらし、オフィスの窓から外を見つめた。晩秋の落日の燃え上がる輝きが芝生や散歩道をおおった。それはだらしない子守女たち、ベンチでうとうとするよぼよぼの老人たちに優しい金粉のシャワーを降り注ぎ、動く人影すべての上にゆらめいていた――砂利道に沿って叫びながら走る子供たちや公園を通り抜ける誰も彼もに。彼はその光景をじっと見て人生について考えた。そして(人生について考えるときの常として)彼は悲しくなった。穏やかな憂愁が彼を支配した。彼は運に逆らってもがくことがどんなに無益であるかを感じた。これは時代時代が遺してきた分別が彼の重荷になっているのだった。

彼は家の本棚にある詩の本を思い起こした。それらは彼が独身時代に買ったもので、よく夕暮れに、玄関からすぐの小さな部屋に座っている時、彼は書棚から一つ取って妻に何か読んで聞かせたい気持ちになった。しかしはにかみが彼をいつもしりごみさせた。それで本は棚にのったままだった。たまに彼は一人で短詩を朗唱し、これが彼を慰めた。

時間が来たところで彼は立ち上がり、きちょうめんに自分の机と同僚の書記たちにいとまごいをした。きちんとした質素な姿の彼がキングス・インの封建時代のアーチの下から現れ、ヘンリエッタ・ストリートを速足に歩いていった。金色の入日は衰え、空気は肌を刺すようになっていた。垢まみれの子供たちの群れが通りに生息していた。彼らは立っていたり、道路を走ったり、口をあけたドアの前の階段を這い上がったり、ねずみのように敷居の上にうずくまったりしていた。リトル・チャンドラーは彼らのことを考えもしなかった。彼はその取るに足らない害虫のような生き物すべての間を縫い、かってダブリンの古い貴族階級が威張って暮らしていた不気味な幽霊屋敷の陰の下を巧みに進路を取った。心は現在の喜びでいっぱいで、過去の記憶が彼に影響することはなかった。

彼はコーレスに行ったことは一度もないが、その名のありがたみは知っていた。人々が観劇の後にそこへ行って牡蠣を食べ、リキュールを飲むことを彼は知っていた。そしてそこではウェーターがフランス語やドイツ語を話すと聞いたことがあった。夜、そばを速足で通ると、ドアの前に停まったタクシーから、ナイトたちにエスコートされた豪華な服を着た貴婦人たちが降りてさっと中に入るのを見ることがあった。彼らは派手な服に小物をたくさん着けていた。顔にはおしろいを塗り、地面に触れるときには不安を感じたアタランテーのようにドレスをつまみあげた。いつも彼は頭を振り向けて見ようともせずに通り過ぎた。日中でも通りを速足で歩くのが彼の習慣であり、市内で夜遅くなってしまった時にはいつも彼は不安げに、興奮しつつ行く手を急いだ。しかしながら時には彼が自分で不安の原因を招くこともあった。彼がいちばん暗くいちばん細い通りを選び、大胆に歩を前に進めると、彼の足音の周りに広がる静寂が彼を悩ませ、うろついている無言の人影が彼を悩ませた。そして時折、低い、束の間の笑い声が彼を木の葉のように震えさせた。

彼はケイペル・ストリートへと右に曲がった。ロンドン・プレスのイグネイシャス・ガラハーか!誰が八年前にそんなことがありうると思っただろう?それでも、今過去を思い返してみると、リトル・チャンドラーは友における未来の大物の兆候をいくつも思い出すことができた。イグネイシャス・ガラハーはよく乱暴だと言われていた。もちろん彼はその頃放埓な仲間連中と付き合っていた。飲みまくり、あちこちで金を借りた。とうとう彼は何かいかがわしいこと、何かの金銭の取引にかかわり合った。少なくともそれが彼の脱出についての一つの解釈だった。しかし誰も彼の才能を否定しなかった。イグネイシャス・ガラハーにはいつもある種・・・人が思わず知らず印象付けられてしまう何かがあった。たとえ服の肘が抜け、金策に窮している時でも彼は恐れを知らぬ顔を保ち続けていた。リトル・チャンドラーはイグネイシャス・ガラハーが苦境にある時に言ったことを一つ思い出した(そしてそれを思い出すと誇らしさにかすかに彼の頬が赤らんだ。)

「今はハーフタイムだ、諸君」といつも彼は陽気に言ったものだ。「俺の思案の首はどこへ投げちまったんだ?」

まったくのところそれがイグネイシャス・ガラハーだ。そして、ちくしょうめ、彼には感服するほかないじゃないか。

リトル・チャンドラーはペースを速めた。生涯で初めて彼は行き会う人々より自分が優っていると感じた。初めて彼の精神は沈滞して優美さに欠けるケイペル・ストリートに嫌悪を感じた。疑う余地はなかった、成功したけりゃ出て行かなきゃならない。ダブリンにいては何もできやしない。グラタン・ブリッジを渡る時彼は川の下流の岸辺を見下ろし、貧しい、いじけた家々を哀れんだ。彼にはそれらが浮浪者の一団のように見えた。河岸に沿ってごちゃごちゃと寄り集まり、その古いコートは埃やすすに覆われ、日没のパノラマにぼうっとしつつ、彼らに起きろ、体を震わせて立ち去れと命じる夜の冷気の訪れを待っている群れ。彼は思った、自分の着想を表現する詩が書けないだろうか。ことによるとガラハーがどこかロンドンの新聞にそれを載せられるかもしれない。彼に何か独創的なものが書けるだろうか?彼には自分がどんな着想を表現したいのか定かでなかったが、詩的瞬間が彼に触れたという考えが彼の中で幼児の希望のように命を得た。彼は勇敢に前方へ踏み出していった。

一歩一歩が彼をロンドンへ近づけ、彼自身の地味な非芸術的な生活から遠くへと運んだ。彼の心の地平線上に光が揺れ始めた。彼はそれほど年ではない――三十二だった。彼の精神的資質はちょうど成熟期に至ろうとしていると言えるかもしれなかった。彼には非常に多くの、韻文で表現したいと思う、さまざまな気分や印象があった。彼はそれらを自身のうちに感じた。彼は自分の魂が詩人の魂であるかどうか知ろうと、それをはかりにかけてみた。彼の気性の基調を支配しているのは憂愁だが、それは信仰と諦めと純真な喜びとの循環によりやわらげられた憂愁だ、と彼は思った。彼がそれを一冊の詩集に表現できたら、あるいは人が耳を傾けるだろう。彼は決して人気者にはなるまい。それはわかっていた。彼には大衆を揺り動かすことはできないが、少数の気の合った人たちのサークルではうけるかもしれなかった。イングランドの批評家は、たぶん彼の詩の憂鬱な調子のために彼をケルト派の一人と認めるだろう。そのほかにも彼は隠喩を差し挟むつもりだった。彼は彼の本が得るだろう批評の文章や言葉をこしらえ始めた。「ミスター・チャンドラーには平明で優美な韻文の才能がある。」・・・「憂いに沈む悲しみがこれらの詩にしみこんでいる。」・・・「ケルトの特徴。」彼の名前がもっとアイルランド風でないのが残念だった。たぶん姓の前に母方の名を挿入した方がよかろう。トーマス・マローン・チャンドラー、いやT・マローン・チャンドラーならもっといい。彼はガラハーにそれを話そうと思った。

彼はあまり熱心に夢想を追い求めたために通りを行き過ぎ、引き返さなければならなかった。コーレスに近づくと以前の動揺が彼を圧倒し始め、彼はドアの前で優柔不断に立ち止まった。最終的に彼はドアを開き、中に入った。

バーの光と喧騒が彼をちょっとの間、戸口に引き止めた。彼はあたりを見たが、彼の視覚はたくさんの赤や緑のワイングラスの輝きに混乱した。バーは人で一杯のように見え、彼は自分が物珍しげに観察されていると感じた。彼は(自分の用向きを重大なものに見せるためにかすかに眉をしかめながら)すばやく左右を一瞥したが、視覚が少しはっきりした時に見ると、振り返って彼を眺めているものは一人もいなかった。そしてはたしてそこに、背中をカウンターに寄りかからせ、足を大きく開いたイグネイシャス・ガラハーがいた。

「やあ、トミー、おい、来たな!どうだい?何にする?俺はウィスキーをやっているよ。海の向こうよりものはいいな。ソーダは?リチアは?ミネラルウォーターはいらない?俺も同じだ。風味を台なしにするから・・・へい、ギャルソン、モルトウィスキーのハーフを二つ、よろしくな・・・さて、それで、最後に会ってからどんなふうにあくせくしてたんだ?まったく、お互い年を取ったなあ!見ればわかるだろ、年取ったって――ええ、何?てっぺんが少し白いし薄いし――ええ?」

イグネイシャス・ガラハーは帽子を取り、短く刈り込んだ大きな頭を見せた。彼の顔はどっしりとして青白く、ひげはきれいに落としていた。青みを帯びた灰色の彼の目は不健康な青白い顔色を和らげ、着けている鮮明なオレンジ色のネクタイの上ではっきりと輝いていた。この競いあう目立ち屋の間で唇は非常に長く不恰好で色も悪く見えた。彼は頭をかがめ、二本の思いやりある指で脳天の薄い髪に触れた。リトル・チャンドラーは首を振って否定した。イグネイシャス・ガラハーは再び帽子をかぶった。

「参っちゃうぜ、」彼は言った、「記者の暮らしは。いつもせかせか急いで、ネタを探し、時にはそれが見つからない。そのうえ材料にはいつも新しいものがいる。ゲラも印刷もくそ食らえさまったく、二、三日はな。すごく嬉しいよ、ほんとに、懐かしい土地に帰ってきて。体にいいんだな、わずかな休暇だが。大好きなダーティーダブリンの地を再び踏んでからずっと気分もいい・・・そらきた、トミー。水かい?いいって言ってくれ。」

リトル・チャンドラーはウィスキーがずいぶん薄くなるにまかせた。

「うまいもんがわからないんだなあ」とイグネイシャス・ガラハーは言った。「俺はストレートで飲るんだ。」

「いつもはほとんど飲まないんだ」とリトル・チャンドラーはおずおずと言った。「たまに誰か昔の仲間に会った時にハーフを一杯かそこら飲む、それだけなんだ。」

「ああ、じゃあ、」イグネイシャス・ガラハーは快活に言った、「我々に、そして昔日と昔馴染みに、乾杯。」

彼らはグラスをチリンと鳴らし乾杯した。

「今日何人か昔の仲間に会ったよ」とイグネイシャス・ガラハーは言った。「オハラは調子悪そうだな。あいつ何してる?」

「何も」とリトル・チャンドラーは言った。「あいつは落ちぶれちゃった。」

「しかしホーガンはうまい口を手に入れたんじゃないか?」

「ああ、土地委員会だ。」

「いつだか夜ロンドンで会ったらやけにたんまり持ってそうだったな・・・気の毒にな、オハラは!飲りすぎだな?」

「ほかにもね」とリトル・チャンドラーはそっけなく言った。

イグネイシャス・ガラハーは笑った。

「トミー、」彼は言った、「お前ちっとも変わってないようだな。いつも日曜の朝、こっちが二日酔いで頭が痛むって時に説教してたのとまったく同じくそまじめじゃないか。少しは世界を歩き回ることを考えたがいいぜ。どこかへ旅行に行ったことさえないのか?」

「マン島に行ったことがあるよ」とリトル・チャンドラーは言った。

イグネイシャス・ガラハーは笑った。

「マン島!」と彼は言った。「ロンドンかパリへ行けよ。どっちかといえばパリかな。それがためになるだろうよ。」

「パリは見たことあるのかい?」

「なくってさ!あそこはちょっとうろつきまわったことがあるんだ。」

「それで、ほんとに噂に言うほどきれいなのかい?」とリトル・チャンドラーは尋ねた。

彼がちびちび自分の酒を飲むのに対してイグネイシャス・ガラハーは大胆に飲み干した。

「きれいかって?」とイグネイシャス・ガラハーは言って、その単語、酒の味を吟味した。「それほどきれいではないけどね。もちろん、きれいだが・・・でもパリの活気、肝心なのはそれさ。ああ、パリのような都市はないな、華やぎ、動き、興奮・・・」

リトル・チャンドラーはウィスキーを飲み終え、いささか苦労した後、うまくバーテンの視線を捕らえることができた。彼はもう一度同じものを注文した。

「ムーランルージュは行った、」イグネイシャス・ガラハーはバーテンが彼らのグラスを片付けたところで言った、「ボヘミアンのカフェも全部行った。すげえのなんの!お前みたいな信心深いやつ向きじゃないな、トミー。」

リトル・チャンドラーはバーテンがグラスを二つ持って戻るまで何も言わなかった。彼は友人のグラスに軽く触れ、先ほどの乾杯の返礼をした。彼はいくぶん幻滅を感じ始めていた。ガラハーの言葉遣い、ものの言い方が彼には気に入らなかった。彼の友達には前には気づかなかった俗悪なところがあった。しかしたぶんそれは単に新聞社の騒々しさや競争の中にいるロンドンでの生活の結果かもしれなかった。この新しい安っぽい派手な態度の下にはまだ昔の本来の魅力があった。そして、何と言ってもガラハーは生を享受してきたのだ、世界を見てきたのだ。リトル・チャンドラーは友人をねたましそうに眺めた。

「パリでは何もかもが陽気だ」とイグネイシャス・ガラハーは言った。「あいつらは人生を楽しむことを信条としている――あいつらが正しいと思わないか?本当に楽しもうと思ったらパリへ行かなくちゃ。それにねえいいかい、あそこはアイルランド人にえらく親切なんだぜ。あいつらは俺がアイルランドから来たと聞くと俺を食っちまいそうになったからなあ。」

リトル・チャンドラーはグラスを四、五回すすった。

「ねえ、」彼は言った、「本当かな、パリはとても・・・不道徳って言うけど?」

イグネイシャス・ガラハーは右腕ですべてを含めるしぐさをした。

「どこだって不道徳さ」と彼は言った。「もちろんパリに行けばどうしたってきわどいものに出くわすさ。たとえば学生舞踏会へ行ってみな。そりゃあ活発、っていうかな、男好きたちが羽目をはずしだしたらもう。連中のことは知ってるだろうな?」

「聞いたことはある」とリトル・チャンドラーは言った。

イグネイシャス・ガラハーはウィスキーを飲み干し、首を振った。

「ああ、」彼は言った、「何と言おうとかまわないがね。パリジェンヌのような女はいないね――やることといい、エネルギーといい。」

「だったら不道徳な街なんだね」とリトル・チャンドラーはしつこくなるのを気にしながら言った。「というのは、ロンドンかダブリンと比べてさ?」

「ロンドン!」とイグネイシャス・ガラハーが言った。「そりゃどっちもどっちだ。ホーガンに聞いてみな。あいつが向こうに行った時ロンドンはちょっと案内して回ったんだ。あいつがお前の目を覚ましてくれるだろう・・・なあ、トミー、ウィスキーをパンチにするなよ。どんどん飲んな。」

「いや、本当に・・・」

「おう、さあさあ、もう一杯くらい何でもないさ。何にする?また同じのでいいよな?」

「じゃあまあ・・・オーケー。」

「フランソワ、また同じのを・・・タバコを吸うか、トミー?」

イグネイシャス・ガラハーはシガーケースを取り出した。二人の友達は葉巻に火をつけ、飲み物が来るまで黙ってそれを吹かした。

「俺の考えを言うと、」イグネイシャス・ガラハーはしばらく逃げ込んでいたもくもくとした煙の中から現れて言った、「おかしなな世界だ。不道徳ったって!いろいろ聞いたな――何言ってるんだ俺は――俺は知ってるんだ。いろいろ・・・不道徳な・・・」

イグネイシャス・ガラハーは思いにふけるように葉巻をスパスパ吹かし、それから穏やかな歴史家の口調で友に、外国に蔓延する堕落の大まかな描写に取り掛かった。彼は多くの首都の悪弊を要約し、ベルリンに栄冠を与えたいように見えた。(友達が彼に話した)いくつかのことは彼には請合いかねたが、他のことは彼が個人的に体験したことだ。彼は階級や地位にも攻撃の手を緩めなかった。彼は大陸の修道院のたくさんの秘密を暴露し、上流社会で流行している習慣の一部を描写し、イングランドの公爵夫人の話――彼が真実と知る話を細部を添えて語って終えた。リトル・チャンドラーはびっくりした。

「まあなあ、」イグネイシャス・ガラハーは言った、「そんなことは何一つ聞かない、ここ古くて歩みののろいダブリンに我々はいるわけだ。」

「きっとここは面白くないだろうね、」リトル・チャンドラーが言った、「そこらじゅう見てきたんでは!」

「まあ、」イグネイシャス・ガラハーは言った、「ここまで来るとくつろげるよな。それにさ、何と言ってもね、いわゆるなつかしの祖国、そうじゃないか?どうしたってあるものを感じるさ。それが人間性だし・・・だが何かお前のこと話せよ。ホーガンが言ってたな、お前・・・結婚の至福の喜びを味わったって。二年前、だって?」

リトル・チャンドラーは顔を赤らめ微笑んだ。

「うん」と彼は言った。「五月で結婚して十二ヶ月になった。」

「お祝いの言葉を言うのが遅すぎでなければいいんだが」とイグネイシャス・ガラハーは言った。「住所を知らないし、さもなきゃその時そうしたんだが。」

彼は手を差し出し、リトル・チャンドラーはそれを取った。

「では、トミー、」彼は言った、「お前と家族の人生にあらゆる喜びを、な、それからたくさんの金を、それと俺が撃つまでお前が死なないようにな、俺は祈るよ。そしてそれが誠実な友の、旧友の願いだ。わかった?」

「わかった」とリトル・チャンドラーが言った。

「子供は?」とイグネイシャス・ガラハーは言った。

リトル・チャンドラーはまた顔を赤くした。

「子供が一人できたよ」と彼は言った。

「息子、娘?」

「リトルボーイだ。」

イグネイシャス・ガラハーは友の背にピシャリと音を響かせた。

「ブラボー、」彼は言った、「やってくれると思ってたよ、トミー。」

リトル・チャンドラーは狼狽してグラスを見ながら微笑み、子供のように真っ白な三本の前歯で下唇をかんだ。

「一晩うちで過ごしてくれないか、」彼は言った、「帰る前にさ。妻も君に会えたら大いに喜ぶよ。僕たちは音楽もちょっとやれるし―――」

「ほんとにありがとうなあ、」イグネイシャス・ガラハーは言った。「もっと早く会えなかったのが残念だ。しかし明日の晩には発たなくてはならないんだ。」

「今夜は、できたら・・・?」

「実にすまないが、なあ。だって他のやつとこっちへ来てるんでね、若くて利口なやつさ、あいつも、で、ちょっとしたカードパーティーに行くことに決めてあるんだ。それさえなければ・・・」

「ああ、そういうことなら・・・」

「でもことによったら」とガラハーは思いやって言った。「これを皮切りに来年もひょいとこっちに飛んでくるかもしれないな。楽しみを先に延ばしただけさ。」

「オーケー、」リトル・チャンドラーは言った、「次に来たときは一晩付き合ってくれなくちゃいけないよ。さあ、承知だね?」

「ああ、承知だ」イグネイシャス・ガラハーは言った。「来年やってきたら、名誉にかけて。」

「それじゃ契約成立ということで、」リトル・チャンドラーは言った、「ちょっとここでもう一杯としよう。」

イグネイシャス・ガラハーは大きな金の時計を取り出して見た。

「最後になるかな?」と彼は言った。「何しろほら、約束があるんでね。」

「おお、そりゃもちろん」とリトル・チャンドラーが言った。

「オーケー、それじゃ、」イグネイシャス・ガラハーは言った。「deoc an druis――別れの酒としてもう一杯いこうじゃないか――まったくウィスキーのハーフにぴったりのお国言葉だな。」

リトル・チャンドラーが飲み物を注文した。少し前に顔に上った赤みは定着していた。彼はいつだって少量で赤くなった。そして今彼は体がほてり、興奮していた。半量のウィスキー三杯は彼を酔わせ、ガラハーの強い葉巻は彼の心を混乱させた。そのくらい彼は繊細で禁欲的な人間だった。八年ぶりにガラハーに会い、ガラハーとともにコーレスの光と喧騒に取り囲まれ、ガラハーの話に耳を傾け、短い時間だがガラハーの放浪と成功の人生を共有するという経験は、彼の感じやすい性質の均衡を転倒させた。彼は自身の人生と友のそれが対照的なことを痛切に感じ、それが彼には不公平に思えた。ガラハーは生まれも教育も彼より劣っていた。彼はただチャンスさえつかめば、友がやってのけたことやいずれやれることより上等なこと、単なる卑俗なジャーナリズムより高尚なことが自分にはできると確信していた。彼の行く手に立ちはだかるものは何だろう?彼が運悪く臆病なこと。彼は何とかして自らの正しさを立証し、男らしさを主張したいと思った。彼にはガラハーが彼の招待を断った裏がわかった。ガラハーはこの訪問によりアイルランドに対して恩人を気取るのとちょうど同じように、その友情により彼に対して恩人を気取っているだけなのだ。

バーテンが彼らの飲み物を持ってきた。リトル・チャンドラーは一方のグラスを友の方へ押しやり、大胆に他方を取り上げた。

「ひょっとすると」と彼は二人がグラスを上げた時に言った。「来年君が来る時にはイグネイシャス・ガラハー夫妻の長命と幸福を祈る喜びに与れるかもしれないな。」

イグネイシャス・ガラハーは酒を飲みながらグラスの縁の向こうで思わせぶりに片目を閉じた。ぐっと飲んだ彼は決然たる舌鼓を打ち、グラスを下に置いて言った。

「そんなとんでもない恐れはないからなあおい。俺はまずは好き勝手をして、人生、世界をのぞいて見るんだ、厄介なことに首を突っ込む前に――いずれするにしてもな。」

「いつか君もするさ」とリトル・チャンドラーは静かに言った。

イグネイシャス・ガラハーはオレンジのタイとスレートブルーの目をまともに友に向けた。

「そう思うか?」と彼は言った。

「厄介なことに首を突っ込むさ、」リトル・チャンドラーは断固として繰り返した、「他のみんなと同じように彼女を見つけられればね。」

彼はわずかに語調を強め、うっかり本音を漏らしたことに気づいた。しかし、頬の色は増したけれども、彼は友の凝視にひるまなかった。イグネイシャス・ガラハーは少しの間彼をじっと見て、それから言った。

「いずれそうなるとしても、それが色だの恋だのってことにはならないさ、有り金はたいて賭けても大丈夫。俺は金と結婚するつもりさ。たっぷり銀行に預金がある女、でなけりゃ俺には用はないな。」

リトル・チャンドラーは首を振った。

「おい、なんだよ、」イグネイシャス・ガラハーは激しく言い立てた、「わからないかなあ?俺が来いって言いさえすれば明日には女と金が手に入るんだ。信じないのか?え、そうなんだぜ。何百という――何言ってるんだ俺は――何千という裕福なドイツ人やユダヤ人、金のある堕落したのが、大喜びで・・・ちょっと待ってろって。俺がうまい手を打つか打たないか見てな。俺がことに取り掛かるって時は本気だからな、ほんとに。まあ見てなって。」

彼はグラスを口にほうり込み、酒を飲み干し、大声で笑った。それから彼は深く考えるように前方を見てやや落ち着いた口調で言った。

「だが急ぐことはない。向こうが待てばいい。一人の女に縛り付けられるなんて想像もできないからなあ。」

彼は口で味わう形をまね、渋面を作った。

「必ず少しは味が落ちるもんだよな」と彼は言った。

********

リトル・チャンドラーは玄関からすぐのあの部屋に座り、子供を腕に抱いていた。金を節約するために彼らは女中を雇っていなかったがアニーの妹のモニカが朝一時間かそこら、夕方一時間かそこら手伝いに来ていた。しかしモニカはだいぶ前に家に帰ってしまっていた。九時十五分前だった。リトル・チャンドラーはお茶の時間には遅れて帰るし、そのうえアニーにビューリーズのコーヒーの包みを持って帰るのを忘れてしまったのだった。もちろん彼女は不機嫌で、彼にそっけなく応じた。彼女は茶などなしで済ますと言ったが角の店の閉まる時間が近づくと、四分の一ポンドの茶と二ポンドの砂糖を買いに自分が行くことに決めた。彼女は眠っている子供を巧みに彼の腕に預けて言った。

「さ、起こさないでね。」

白い磁器のシェードの小さなランプがテーブルの上に立ち、その光が曲がった角製の枠に囲まれた写真に当たっていた。アニーの写真だ。リトル・チャンドラーのそれを眺める目はきつく結んだ薄い唇に止まっていた。彼女はいつか土曜日に彼がプレゼントとして持って帰った薄いブルーのサマーブラウスを着ていた。彼はそれに十シリング十一ペンス費やした。しかしそれに費やした彼の神経の苦しさがどれほどであったことか!どんなにその日、彼が悩んだことか。店が空になるまで店の戸口で待ち、彼の前で女店員が婦人もののブラウスを積む間カウンターに立ってくつろいで見えるように努め、デスクで支払いをして余分のペニーのつり銭を取り忘れ、レジ係りに呼び戻され、そして最後に店を出る時にはしっかり縛ってあるか確かめるために包みを調べることで赤面を隠そうと努めた。彼がブラウスを家に持って帰るとアニーは彼にキスをしてそれがとてもかわいくて流行のものだと言った。しかし値段を聞くと彼女はブラウスをテーブルの上にほうり、それで十シリング十一ペンス取るとはまったくの詐欺だと言った。初め彼女はそれを返品したいと思ったが、着けてみると彼女はそれに、特に袖の作りに大喜びで、彼にキスして彼女をことを思う彼はとても優しいと言った。

フム!・・・

彼が写真の目の中を冷ややかに覗き込むとそちらも冷ややかに応えた。確かにそれはきれいだし顔そのものもきれいだった。しかし彼はそこにどこか卑しいものを認めた。なぜそれはああまで気のつかない貴婦人然としているのか?その沈着な目が彼をいらだたせた。それは彼をはねつけ、彼をなんとも思っていなかった。そこには少しの情熱もなく、歓喜もなかった。彼は金持ちのユダヤ女についてガラハーの言ったことを考えた。ああいう東洋の暗い目は、と彼は思った、どんなに情熱、官能的な欲望に満ち溢れているだろう!・・・なぜ彼はこの写真の目と結婚してしまったのか?

彼はその疑問に心を奪われ、神経質に部屋をぐるっと見回した。彼はこの家にと月賦で買ったこぎれいな家具にどこか卑しいものを認めた。アニーが自身でそれを選び、それは彼にアニーを思い出させた。それもまたいやに上品ぶってきれいだった。人生に対する鈍い憤りが彼のうちで目覚めた。彼は自分の小さな家から逃れられないのか?ガラハーのように勇敢に生きようとするには遅すぎるだろうか?ロンドンに行けるだろうか?まだ支払いのある家具があった。本を書いて出版してもらえさえすれば、彼に道が開けるかもしれなかった。

バイロンの詩の一冊が彼の前のテーブルの上に置いてあった。彼は子供を起こさないように左手で注意しながらそれを開き、その本の最初の詩を読み始めた。

風は黙して静かな憂暮れ

木立をさまようゼフィロスもなし

マーガレットの墓へと帰り

愛しちりの上花まき散らす。

彼はちょっと休んだ。彼はその部屋の自分の周囲に詩のリズムを感じた。なんと物悲しい!彼にも、そのように書き、彼の心の愁いを韻文に表現できるだろうか?彼には言葉にしたいことがたくさんあった。あの数時間前のグラタン・ブリッジでの感覚。もう一度あの気分に帰ることができれば・・・

子供が目を覚まし泣き始めた。彼はページから目をそらし黙らせようとした。が、静まらなかった。彼はそれを腕の中で前後に揺すり始めたが、泣き叫ぶ声はより激しくなった。彼はさらに早くそれを揺らす一方、目は第二節を読み始めた。

狭い小室に横たう土くれ

かってそこには・・・

むだだった。彼は読むことができなかった。彼は何もできなかった。子供の泣き声は彼の鼓膜をつんざいた。むだだ、むだだ!彼は一生囚人だ。腕を怒りに震わせ、いきなり子供の顔にかがみながら彼は叫んだ。

「やめるんだ!」

その子は一瞬やめ、恐怖の発作を起こして悲鳴を上げ始めた。彼は椅子から跳び上がり、子供を腕に、あわてて部屋を行ったり来たり歩いた。それは哀れげにすすり泣きを始め、四、五秒間息を切らしたり、それから改めてわっと泣いたりした。部屋の薄い壁にその音が反響した。彼はなだめすかそうとしたが、それはますます痙攣を起こしたようにすすり上げた。彼は子供のしかめた震える顔を見て不安になりだした。彼は休みなく七回すすり上げるのを数え、肝をつぶして子供を胸に抱きとめた。もし死んだら!・・・

ドアがぱっと開き、若い女が息を切らして駆け込んだ。

「どうしたの?どうしたの?」と彼女は叫んだ。

子供は母親の声を聞いて急に激しいすすり泣きの発作に陥った。

「なんでもないんだ、アニー・・・なんでもない・・・この子が泣き出して・・・」

彼女は包みを床に放り出し、子供を彼からひったくった。

「この子に何をしたの?」と彼女は彼の顔をにらみつけながら叫んだ。

リトル・チャンドラーはちょっとの間彼女の目の凝視に耐えたが、その中の憎しみと出会うと同時に彼の心は閉じた。彼は口ごもって言い始めた。

「なんにも・・・この・・・子が泣き出して・・・僕が何かしたはずが・・・何もしなかった・・・え?」

彼を気にも留めずに彼女は部屋を行ったり来たり歩き始め、子供を固く抱きしめてささやいていた。

「私の坊や!私の坊やちゃん!怖かったわねえ?・・・さあさあ、ね!さあさあ!・・・いい子ちゃん!ママの大事なかわいい坊や!・・・さあさあ!」

リトル・チャンドラーは頬に羞恥心が広がるのを感じ、ランプの明かりの外へ引っ込んで立った。彼は子供のすすり泣きの発作が次第におさまっていく間耳を傾けていた。そして良心の呵責の涙が突然彼の目に浮かんできた。


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