ダブリンの人たち ジェイムズ・ジョイス

カウンターパーツ


怒り狂ってベルが鳴り、ミス・パーカーが管のところへ行くと、怒り狂った大声がつんざくようなアイルランド北部のなまりで呼ばわった。

「ファリントンをここへ寄越せ!」

ミス・パーカーは自分の機械に戻りながら、机で書き物をしている男に言った。

「ミスター・アランがあなたを上へと。」

男は小声で「くそったれ!」とつぶやき、椅子を後ろへ押しやって立ち上がった。立ち上がると彼は長身で巨体だった。彼の顔はしおれて、暗赤色で、ブロンドの眉と口ひげがあった。彼の目はわずかに前に突き出ていて白目は濁っていた。彼はカウンターを持ち上げ、依頼人たちのそばを通り、重い足取りでオフィスから出た。

彼は足取り重く階段を上がり、ミスター・アランと刻まれた真ちゅうの表札のついたドアのある二番目の踊り場まで来た。ここで彼は労苦といらだたしさにあえぎながら立ち止まり、ノックした。鋭い声が叫んだ。

「お入り!」

男はミスター・アランの部屋に入った。同時にミスター・アラン、きれいにひげをそった顔に金縁のメガネをつけた小男が、山積みの文書の上に頭を突き出した。その頭はピンクではげていたので紙の上に載った大きな卵のように見えた。ミスター・アランは一刻もむだにしなかった。

「ファリントン?これはどういうつもりかな?なぜいつも君に文句を言わなけりゃならんのだ?なぜ君があのバドリーとカーワンの間の契約書の写しを作らなかったのか教えてもらえまいか?四時までに用意しなければならないと言ったろう。」

「しかしミスター・シェリーのおっしゃるには、ですね――――」

「ミスター・シェリーのおっしゃるには、ですね・・・どうかミスター・シェリーの言うことではなく私の言うことを注意して聞いていただきたいものですね。君はいつも仕事を怠けてはなんだかんだ言い訳するね。言っとくがね、夕方前に契約書の写しがなかったらそのことをミスター・クロスビーに話すつもりだ・・・さあおわかりかな?」

「はい。」

「さあおわかりかな?・・・承知ならもう一つちょっとしたことだ!君に話をするのは壁に話をするのも同じだ。一度っきりだからよく聞きたまえよ、昼食は一時間と半分ではなく一時間の半分にするんだ。何品必要なんだ君は、知りたいもんだ・・さあよろしいかな?」

「はい。」

ミスター・アランは再び頭を山積みの書類の上にかがめた。男はクロスビーアンドアランの業務を指揮する磨き上げられた頭蓋骨を、そのもろさを計測するようにじっと見つめていた。怒りの発作がほんの一瞬彼ののどをつかみ、それから鋭い渇いた感覚を後に残して過ぎ去った。男はその感覚を認めて夜の酒がたっぷり必要だと思った。月の中間も過ぎて、彼があの写しを間に合わせることができれば、ミスター・アランは会計係への命令書を彼にくれるかもしれない。彼はじっと立ち、山積みの書類の上の頭を見据えていた。不意にミスター・アランが何かを捜して書類を全部ひっくり返し始めた。それから、あたかもその瞬間まで男の存在に気づかなかったかのように、再び頭を突き出して言った。

「ええ?君はそこに一日中立ってるつもりか?あきれたよ、ファリントン、君は楽観的だな!」

「私はお待ちして確かめ・・・」

「結構、君はお待ちして確かめる必要はない。下に行って仕事をしたまえ。」

男は足取り重くドアヘと歩き、部屋から出るときに、夕方までに契約書の写しができなかったら事はミスター・クロスビーの聞くところとなるだろうという彼を追いかけるミスター・アランの叫び声を聞いた。

彼は下のオフィスの机に戻り、写しを取るべき残りの枚数を数えた。彼はペンを取り上げてインクに浸したものの、自分で書いた最後の言葉を愚かしげに見つめ続けた。決して前述の場合バーナード・バドリー・・・夕暮れが迫っているし数分のうちにガス灯が点されるだろう。そうしたら彼は書くことができる。彼はのどの渇きを癒さなければならないと感じた。彼は机から立ち上がり、前と同じようにカウンターを持ち上げ、オフィスから外へ立ち去った。彼が外へと通り過ぎる時、主任書記が不審そうに彼を見た。

「大丈夫です、ミスター・シェリー」と男は指をさして彼の旅の目的を示しながら言った。

主任書記は帽子掛けをチラッと見て、ところが、全部並んでいるのを見て、何も意見は言わなかった。踊り場に出るやいなや男は白黒チェックの帽子をポケットから引っ張り出し、それを頭にかぶり、ガタガタの階段をすばやく駆け下りた。彼は表のドアから角に向かって歩道の内側をこそこそと歩き、たちまちある戸口にもぐりこんだ。彼は今無事にオニールの店の暗い個室にいて、バーを覗き込む小窓を濃いワインあるいは濃い肉色と言ってもいいが、真っ赤になった顔でいっぱいにして大声で呼んだ。

「おい、パット、ジーピーを一つくれ・・悪いな。」

バーテンが彼にプレーンのポーターを一杯持ってきた。男はそれを一息に飲み、キャラウェーの種を頼んだ。彼はカウンターにペニーを置き、暗がりでそれを手探りするバーテンを残し、入ってきた時と同じようにこそこそと個室から立ち去った。

暗闇が濃霧を伴って二月の黄昏を侵しつつあり、ユーステス・ストリートにはランプがともされていた。男は時間までに写しを終えられるだろうかと思いながらオフィスのドアに着くまで家並みの近くを行った。階段ではつんとくる香水の湿っぽい香りが彼の鼻を出迎えた。明らかに彼がオニールのところへ出かけている間にミス・デラクールが来ていた。彼はもう一度帽子を元通りポケットに押し込み、ぼんやりした風を装って再びオフィスに入った。

「ミスター・アランがずっと君を呼んでいるぞ」と主任書記が厳しく言った。「どこにいたんだ?」

男はカウンターに立っている二人の依頼人を、彼らがいるので答えられないことをそれとなく示すかのようにチラッと見た。依頼人はどちらも男だったので主任書記は笑ってしまった。

「その手は食わんよ」と彼は言った。「一日五回はちょっとな・・・まあ、急いでデラクールの件の書状の写しをミスター・アランに持っていったほうがいい。」

人前でこう言われたこと、階段を駆け上がったこと、それと大急ぎでぐいと飲んだポーターが男を混乱させ、要求されたものを取りにデスクに腰を下ろした時には、契約の写しを五時半前に終える仕事がいかに絶望的かを彼は悟った。暗いじめじめした夜が訪れようとしていたが、彼はそれを酒場で、ギラギラするガス灯とガチャガチャ鳴るグラスの中で友達と飲んで過ごしたいと渇望した。彼はデラクールの書状を取り出し、オフィスから出た。彼はミスター・アランが最後の二通の手紙の紛失していることに気がつかなければいいがと思った。

ミスター・アランの部屋までずっと、湿った鼻につんとくる香りがしていた。ミス・デラクールは中年の見るからにユダヤ人という女だった。ミスター・アランは彼女に、もしくは彼女の金に夢中だと言われていた。彼女はたびたびオフィスに来ては、来ると長居した。彼女は今、香水の芳香の中、傘の柄をなでたり帽子についた大きな黒い羽根をうなずかせたりしながら、彼の机のそばに座っていた。ミスター・アランは椅子をぐるっと回転させて彼女と向き合い、気取って右足を左ひざの上に投げ出していた。男は書状を机の上に置き、恭しくお辞儀したがミスター・アランもミス・デラクールも彼のお辞儀を気にも留めなかった。ミスター・アランは書状を指で軽くたたき、それから「結構、行ってよし」とでも言うかのようにそれを彼の方へぽんとはじいた。

男は下のオフィスに戻り、再び机に向かって腰を下ろした。彼は未完のフレーズを一心に見つめた。決して前述の場合バーナード・バドリー・・・そして最後の三つの言葉が皆バ行で始まるのはなんとも不思議だと思った。主任書記がミス・パーカーを、郵便に間に合うように手紙のタイプを終えられないと言ってせきたて始めた。男は数分間機械のカチカチいう音に耳を傾け、それから写しを終えるべく仕事に着手した。しかし彼の頭ははっきりしないし、心はパブのギラギラ、ガラガラヘとさまよい出ていた。熱いパンチがうってつけの夜だった。彼はその写しと格闘し続けたが時計が五時を打った時、まだ十四ページ書く必要があった。ちくしょう!彼は時間に終えられない。彼は大声でのろってこぶしを乱暴に何かの上に打ちおろしたいと渇望した。あまりひどく立腹したので彼はバーナード・バドリーの代わりにバーナード・バーナードと書き、また白紙から始めなければならなかった。

彼は片手でオフィス全体を一掃するに十分な力を感じた。彼の肉体は何かしたくて、外へ突進して暴力をほしいままにしたくてうずうずした。生涯に受けたすべての侮辱が彼を激怒させた・・・・・ひそかに会計係に前借を頼めるだろうか?いや、会計係はだめだ、まったくだめだ。あいつは前払いしてくれやしない・・・・・彼は仲間に会える場所はわかっていた。レナードにオハロランにノーズィ・フリン。気圧計は彼の感情的衝動を受けて一陣の騒嵐に設定された。

空想に気が散っていた彼は名を二度呼ばれてから返事した。ミスター・アランとミス・デラクールがカウンターの外側に立ち、書記全員が何かを予期して振り向いていた。男は席から立ち上がった。ミスター・アランは手紙が二通なくなっていると言って、長い罵倒演説を始めた。男は、それについては何も知らない、彼は正確な写しを作ったと答えた。長演説は続いた。それは辛らつで激しく、男にはこぶしを目の前の小人の頭にお見舞いするのを抑えかねるほどだった。

「私は他の二通の手紙については何も知りません」と彼は愚かしげに言った。

「君は――何も――知らない。もちろん君は何も知らない」とミスター・アランは言った。「おい、」彼は、まずそばにいる婦人の賛成を求めてチラッと見ながら付け加えた、「私をばかにするのか?君は私をまったくのばかだと思うのか?」

男はチラと婦人の顔から小さな卵形の頭へと視線を移し、再び戻した。そして彼がそれと気づく直前に彼の舌がうまい瞬間をとらえてしまった。

「それは、」彼は言った、「私に対する妥当な質問ではないと思います。」

書記たちの息遣いそのものが一息ついた。誰もが(名言の作者も隣人たちに劣らず)びっくり仰天し、太って気立てのよい人であるミス・デラクールは大口をあけて笑い始めた。ミスター・アランは野バラのように赤くなり、ちんちくりんならではの怒りの爆発にその口はひきつっていた。彼がこぶしを男の顔めがけて振り回していると、それは何かの電気器具のつまみが揺れるように見えた。

「無礼な悪党め!無礼な悪党め!お前なんかさっさと始末してやる!見てるがいい!無礼をわびるかさもなけりゃ直ちにオフィスをやめるんだ!お前はここをやめるんだ、いいかほんとだぞ、でなけりゃ私に謝るんだ!」

彼はオフィスの向かいの戸口に立って会計係が一人で出てくるかどうか確かめようと見張っていた。書記全員が出ては去り、最後に会計係が主任書記と出てきた。主任書記と一緒では彼に一言話してみても何にもならなかった。男は自分の立場はかなりまずいと感じた。彼はミスター・アランに無礼を平謝りに謝らざるをえなかったが、オフィスが彼にとってどれほど危険なスズメバチの巣になるかを知った。彼はミスター・アランが自分の甥の席を作るためにリトル・ピークをオフィスから狩り出したやり方を思い出していた。彼は自分自身に、そして他のみんなにいらいらして、かんしゃくをおこすしのどは渇くし復讐の念にも燃えていた。ミスター・アランは決して彼に一時間の休憩を与えないだろう。生活は彼にとって地獄となるだろう。今度はまったくばかなまねをしてしまった。口を慎むことはできなかったのか?もっとも彼らは初めから、彼とミスター・アランは、彼がそのアイルランド北部の訛りをまねしてヒギンズとミス・パーカーを笑わせているのをミスター・アランが偶然耳にしてしまったその日以来決して協力できなかった。あれがことの始まりになってしまったのだ。金ならヒギンズに当たってもよかったが、ヒギンズは自分の分だって何も持っていないのは確かだ。二つの所帯を維持する男だから、もちろん彼には無理・・・

彼はその巨体が再び快適なパブを求めてうずうずするのを感じた。霧に体が冷えてきていたし、彼はオニールのとこのパットに無心できないかと思った。彼にはボブ以上は借りられないしボブでは役に立たない。それでも彼はどこかしらで金を手に入れなければならなかった。彼はジーピーで最後のペニーを使ってしまったし、まもなくどこからにしろ金を手に入れるには遅くなりすぎてしまう。突然、時計の鎖を指でいじっていた時、彼はフリート・ストリートの質屋、テリー・ケリーのことを思いついた。それで解決だ!なぜもっと早く思いつかなかったのだろう?

みんなくたばっちまえばいい、こっちはこれから楽しい夜を過ごすんだからとぶつぶつ独り言をつぶやきながら、彼はテンプル・バーの狭い路地を抜けて急いだ。テリー・ケリーの事務員は一クラウン!と言ったが委託者はあくまで六シリングを要求した。そしてとうとうちょうど六シリング、彼に与えられた。彼は親指と他の指の間でコインを重ねた小さな円筒を作りながら嬉しそうに質屋から出た。ウェストモーランド・ストリートの歩道は仕事帰りの若い男女で混雑し、ぼろ着の浮浪児たちが夕刊紙の名を大声で叫びながらあちこち走っていた。男はその光景全般を誇らしげな満足顔で眺めたり、雑用の女たちを横柄にじろじろ見たりしながら群衆の間を通り抜けた。彼の頭の中は電車の鐘とヒュッというトロリーの騒音で満たされ、彼の鼻はすでに渦巻くパンチの蒸気をかぎつけていた。彼は歩き続けながら仲間に出来事を話すその言い方をあらかじめ考えていた。

「そこで俺はまっすぐ彼を見た――冷静にな、そして彼女を見た。それからまた彼に目を戻した――ゆっくりとな。『それは私に対する妥当な質問ではないと思います』と俺が言った。」

ノーズィ・フリンはデイビー・バーンのいつもの隅に座っていたが、その話を聞くと、そんな気の利いたのは聞いたことがないと言ってファリントンにハーフを一杯おごった。次にはファリントンが一杯おごった。しばらくしてオハロランとパディ・レナードが入ってきて彼らにもその話が繰り返された。オハロランは一座のみんなに特製モルトの熱いのをおごり、フォーンジズ・ストリートのカランの店にいた時彼が主任書記に逆ねじをくわせた話をした。しかし彼は、その逆ねじは牧歌詩の中の寛大な羊飼い風のものであり、ファリントンの逆ねじのようにうまくはないと認めなければならなかった。これに対してファリントンはそいつを早くあけてもう一杯やろうと仲間に言った。

ちょうど彼らが酒は何にしようかと言っていた時、誰あろうヒギンズが来たではないか!もちろん彼は連中に加わらずにはすまなかった。男たちが彼に彼の見たところも聞かせてくれと頼み、大いに気分を浮き立たせる熱いハーフのウィスキー五つを目の前にして彼は陽気至極にそれに応えた。ファリントンの顔をめがけてミスター・アランがこぶしを振り回した様子を彼がやって見せた時にはみんなが大笑いした。それから彼が「さあこれなる我が友、クールになことお望みのままだ」と言ってファリントンをまねると、ファリントンの方はどんよりと濁った目の奥から仲間を眺め、にっこりしたり、時にはこぼれた酒のしずくを下唇を使って口ひげから吸い出したりした。

その回が終わって一頓挫した。オハロランは金を持っていたがあとの二人はどちらも持ち合わせがないようだった。そこで一行は皆いくぶん残念そうに店をあとにした。デューク・ストリートの角でヒギンズとノーズィ・フリンは斜め左方に離れていき、他の三人は市内へと引き返した。そぼ降る雨が冷たい街路に落ちており、バラスト・オフィスに着いた時にファリントンがスコッチ・ハウスを提案した。バーは男たちでいっぱいで話し声やグラスの音で騒々しかった。三人の男はドアのところで哀れな声を立てるマッチ売りを押しやって通り、カウンターの隅に小さく陣取った。彼らは話を交わし始めた。レナードがウェザースという名の、ティボリで軽業師やどたばた喜劇の芸人として演じている若い男を紹介した。ファリントンが皆に酒をおごった。ウェザースはハーフのアイリッシュとアポリナリスをいただくと言った。物の道理に明確な考えを持つファリントンは仲間に、やはりアポリナリスをやるかと尋ねた。しかし仲間はティムに彼らのはホットにしてくれと言った。話は芝居くさくなった。オハロランが一回みんなにおごり、それからファリントンがもう一回みんなにおごり、ウェザースがそのもてなしはあまり気前がよすぎると抗議した。彼は彼らを舞台の裏に連れて行ってかわいい娘を何人か紹介すると約束した。オハロランが彼とレナードは行くがファリントンは奥さんがいるから行かないだろうと言った。するとファリントンのどんよりと濁った目は彼がからかわれているのはわかっているというしるしにいやらしく一座をにらんだ。ウェザースはほんの気持ちばかり彼ら皆にと自腹を切り、後でプールベグ・ストリートのマリガンの店で会おうと約束した。

スコッチ・ハウスが閉まると彼らはマリガンの店ヘ回った。彼らは奥の別室に入りオハロランが全員にホットスペシャルのハーフを注文した。彼らは皆ほろ酔い機嫌になり始めた。ファリントンがちょうど次の皆の分をおごっている時ウェザースが戻ってきた。今回は彼がビターを飲んだのでファリントンは大いにほっとした。資金は乏しくなってきていたが続けるには十分だった。まもなく大きな帽子をかぶった若い女が二人とチェックのスーツの若い男が入ってきて近くのテーブルに着いた。ウェザースは彼らに挨拶して彼らはティボリからだと連れに話した。ファリントンの目はたえず若い女の一人の方ヘとさまよっていた。彼女の外見には何か印象的なものがあった。巨大なピーコックブルーのモスリンのスカーフが帽子に巻きつけられ、あごの下で大きな蝶結びを作っていた。そして彼女は肘まで達する明るい黄色の手袋をはめていた。ファリントンは彼女がとても優雅に、非常によく動かすふくよかな腕をうっとりと見つめた。そして彼女が少しして彼の視線に応えた時、彼はさらにうっとりと彼女のこげ茶色の目に見とれた。斜めにじっと見つめるその目の表情が彼を魅惑した。彼女は一、二度彼をチラッと見て、一行が部屋を出て行く時に彼の椅子をかすめて通り、ロンドン訛りで「あらごめんなさい!」と言った。彼は部屋を出て行く彼女が振り返って彼を見るのではと期待してじっと見ていたが、当てははずれた。彼は金の不足をのろい、皆におごった酒をことごとく、とりわけウェザースにおごったウィスキーとアポリナリスをことごとく呪った。彼が嫌悪するものが一つあるとすればそれはたかり屋だった。彼はすっかり腹を立て、友人たちの会話の論点もわからなくなった。

パディ・レナードに大きな声をかけられて彼は彼らが力わざについて話していると気づいた。ウェザースが仲間に二頭筋を見せてはひどく自慢するので他の二人はファリントンに国の名誉に力を貸せと言ったのだ。ファリントンはそれに応えて袖をまくり上げ彼の二頭筋を仲間に見せた。二本の腕は検査され比較され最後に力試しをするということで意見が一致した。テーブルがきれいにされ、二人の男がその上に肘を載せ、手を握り合った。パディ・レナードが「ゴー!」と言ったらそれぞれが相手の手をテーブルに倒そうとすることになった。ファリントンは非常に真剣で断固たる顔つきだった。

力試しが始まった。約三十秒後、ウェザースは敵手の手をゆっくりとテーブルに倒した。ファリントンの顔の暗赤色はこんな青二才に負けてしまったという怒りと屈辱とで血が上っていっそう濃くなった。

「後ろから体重をかけてはだめだ。フェアにやれよ」と彼は言った。

「誰がフェアじゃないって?」と相手は言った。

「さあもう一丁だ。三番勝負だ。」

再び力試しが始まった。ファリントンの額には静脈が浮き立ち、ウェザースの青白い顔色が真っ赤に変わった。彼らの手や腕は圧力に震えた。長い格闘の末、ウェザースが再び敵手の手をゆっくりとテーブルに倒した。見物人たちからかすかな称賛のざわめきがおきた。テーブルのそばに立っているバーテンが赤い頭を振って勝者にうなずき、愚かしいなれなれしさで言った。

「ああ!それはこつさ!」

「お前にいったい何がわかるんだ?」とファリントンはその男に向かって激しく食ってかかった。「何でむだな口をはさむんだ?」

「シ、シー!」とオハロランがファリントンの顔の凶暴な表情に気づいて言った。「金を払おう、みんな。ほんの少しもうちょびっとやって、それで終わりにしよう。」

非常に不機嫌な顔をした男がオコゥネル・ブリッジの角に立って彼を家へと運ぶサンディマウント行きの小さな電車を待っていた。彼の心はくすぶる怒りと復讐心でいっぱいだった。彼は恥ずかしく、不満だった。酔いさえ感じなかった。そしてポケットには二ペンスしかなかった。彼は何もかもを呪った。彼はオフィスではやっちまうし、時計は質に入れちまうし、金はすっかり使っちまうし、それで酔っ払ってさえいなかった。彼は再び渇きを感じ始め、再び熱い湯気のたつパブに戻りたいと切望した。彼はほんの小僧に二度も負けてしまって強い男という評判を失った。彼の心に怒りがこみ上げ、彼をかすめて通ってごめんなさい!と言った大きな帽子の女のことを考えた時、彼は怒りのあまりほとんど息が止まりそうだった。

電車は彼をシェルボーン・ロードに降ろし、彼はその巨体を兵舎の壁の陰の内側に沿って進めた。彼は家に帰るのがいやでたまらなかった。彼が側面のドアから入るとキッチンは空でキッチンの火はほとんど消えていた。彼は二階に向かってわめいた。

「エイダ!エイダ!」

彼の妻はとがった顔の小柄な女で、夫がしらふの時は彼を脅しつけ、彼が酔っている時は脅しつけられていた。彼らには五人の子供がいた。小さな少年が階段を駆け下りてきた。

「誰だ?」と男は暗闇の中を凝視しながら言った。

「僕だよ、パー。」

「誰だお前は?チャーリーか?」

「ううん、パー。トムだよ。」

「お母さんはどこだ?」

「チャペルに出かけてる。」

「よかろう・・・俺に夕食を残しておいてくれたかな?」

「うん、パー。僕――」

「ランプをつけろ。どういうつもりでここを暗くしておくんだ?他の子達は寝たのか?」

男は椅子の一つにどしんと腰を下ろし、小さな少年の方はランプをつけた。彼は半ば独り言を言うように、息子の平舌の発音をまねし始めた。「チャペルに、チャペルに、すみませーん!」ランプがつくと彼はテーブルをこぶしでどんと叩き、大きな声を出した。

「俺の夕食はどうした?」

「今僕が・・・温めるよ、パー」と小さな少年は言った。

彼は怒り狂って跳び上がり、火を指した。

「あの火で!お前、火が消えてるじゃないか!二度とそんなことをしたら承知しないからな絶対!」

彼はドアへと踏み出し、その陰に立っているステッキをつかんだ。

「火を消したら承知しないぞ!」と彼は腕が自由に動くように袖をまくり上げながら言った。

小さな少年は「ああ、パー!」と叫び、すすり泣きながらテーブルの周りを走ったが、男は追いかけて子供の上着をつかんだ。小さな少年は狂ったように周りを見回したが、逃げ道はないと見て、ひざをついた。

「おい、今度火を消しやがったら!」と男はステッキで彼を力強く打ちながら言った。「これでもか、このがきっこめ!」

ステッキがももを打つと少年は苦痛の悲鳴を発した。彼は両手を虚空で握りしめ、その声は恐怖に震えていた。

「ああ、パー!」と彼は叫んだ。「ぶたないで、パー!そしたら僕・・・僕パーのためにアベマリアを唱える・・・僕アベマリアを唱えるよ、パー、ぶたなかったら・・・僕アベマリアを唱える・・・」


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