明日の田園都市 エベネザー・ハワード

問題点をいくつか検討


「ワットはよく、発明や発見と称する代物について相談を受けたけれど、かれの答は決まっていて、モデルを作って試してみなさい、というのだった。ワットは、機械工学における新機軸の価値を計る唯一の真の試験がこれだと考えていたのだ」――Book of Days

「利己的な人々や議論好きな人々は団結しない。そして団結なしには何も達成できない」――チャールズ・ダーウィン『Descent of Man人類の系譜』 (1871)

「共産主義、あるいはそこそこ発展した社会主義ですら、なにが問題かというと、それが人間の多様な性質に応じた要求を行う自由や、その要求を満たすために努力する自由を妨害してしまうということだ。たしかにそれは、万人にパンを確保するかもしれないけれど、人はパンのみにて生くるに非ず、という教義を無視している。未来はおそらく、社会主義か個人主義かでお互いにやりあっている人々のものではない。社会と国家について、個人主義と社会主義の両方がそれぞれきちんと取り分を持つような、真の重要な有機的なあり方を探し求める人々のものだ。文明人とその命運を乗せた帆船は、このようにアナーキーというスキラと圧制というカリュブディスとの間で、進退窮まることなくバランスのとれた航路を進むこととなるだろう」――デイリー・クロニクル紙、1894年7月2日号

さてわれわれのスキームのねらいや目的を、抽象的ではない具体的な形で述べたので、読者の頭に生じるかもしれない反論について、ここで手短に触れておくのもいいだろう。「あなたのスキームはたしかに魅力的だけれど、でもこれまで提案された数多くのスキームの一つでしかなくて、その多くは試してみると、ほとんど成功していない。そういうのとはどこがちがうんだ? そういう失敗続きの中で、こんなスキームを実施するにあたって必要な、多大な一般の支持をどうやって確保するつもりだ?」

これはしごくもっともな疑問で、答えておく必要があるだろう。わたしはこう答える:よりよい社会状態を目指す実験の道は、失敗だらけだというのはまったくその通りだ。でも、価値ある成果を得るための実験の道というのは、なんであれそういうものなのだ。成功というのはほとんどが、失敗によって築き上げられる。『ロバート・エルスミア』でハンフリー・ワード夫人が述べるように「あらゆる偉大な変化に先だって、数々の散発的で、傍観者から見れば途切れ途切れの試みがやってくるものなのよ」。成功した発明や発見というのは、ふつうはゆっくりと成長するもので、そこに新しい要素が追加され、古い要素が除かれていくのだ。まずは発明家の頭の中で、次に外に見える形で。そうしてついには、本当に正しい要素だけが集まり、それ以外はないようになる。

それどころか、もし様々な作業者によって長年つづけられている一連の実験があるなら、いずれは多くの人々ががんばってさがしてきた結果が出てくるのは確かなはずだ。長く続いている試みは、失敗や敗北があろうとも、完全な成功への先駆となる。成功を得ようとする者は、過去の敗北を未来の勝利へと転換させられるのだが、そのためには守るべき条件が一つある。過去の経験をこやしにして、それまでの試みの長所はすべて残したまま、弱点は受け継がないようにしなくてはならない。

社会実験の歴史について、ここですべて網羅するのは、本書の範疇を越える。でもこの章のはじめに挙げたような反対に答えるべく、いくつか特徴的なものについてだけ、ここでは採りあげよう。

おそらく過去の社会実験が失敗した大きな原因は、問題の主要素についての思い違いだろう。その主要素とは、人間の性質そのものだ。平均的な人間性が、愛他的な方向でどのくらいの圧力に耐えられるものか、新しい社会組織の形態を提案する作業に着手した人々はきちんと考えてこなかった。似たようなまちがいとしては、ある行動原理を採用することで、それ以外の行動原理を排除してしまうということがある。

たとえば共産主義。共産主義はとてもすばらしい原理だし、われわれみんな、大なり小なり共産主義者ではある。そう言われて身震いする人々を含めて。というのも、みんな共産主義的な道路や、共産主義的な公園や、共産主義的な図書館を信じているではないか。でも共産主義がすばらしい原理である一方で、個人主義も負けず劣らずすばらしい。すばらしい音楽でわれわれを高揚させる偉大なオーケストラを構成する男女は、共同で演奏するのに慣れているだけでなく、自分一人でも演奏できるし、比較からいえば弱々しいともいえる演奏でもって、自分自身や友人たちを喜ばせることができる。

いや、それ以上だ。組み合わせて最高の結果を確保しようと思ったら、独立した個別の思考と行動が不可欠だし、個別の試みで最高の結果を得ようと思ったら、組み合わせと協力が不可欠なのだ。新しい組み合わせが試されるのは、独立した思考による。そして協力を通じて学んだ教訓により、最高の個別作業が達成される。そして社会が最も健康で活発になるには、個人と協力の両方の面で、いちばん自由で最大限の機会が提供されたときなのだ。

さて、共産主義的な一連の実験がすべて失敗したのは、そのせいではないだろうか。つまり、この原理の二重性に気がつかず、それ自体としては優れた原理を一つだけ追い求めすぎた、ということでは? かれらは、共有物はよいものだから、あらゆる財産は共有されるべきだと考えた。共同作業がめざましい成果をあげるからといって、個人の試みは危険視されるか、少なくとも無駄なこととされ、極端な論者だと、家族や家庭という考え方を丸ごとなくせとまで言う。読者の中で、この田園都市で提案されている実験を、絶対的な共産主義の実験と混同する者はいないはずだ。

また、このスキームを社会主義的な実験とも考えないでほしい。社会主義者は、穏健な共産主義者だと考えればいいのだけれど、土地とあらゆる生産・流通・交換設備の共有化を支持している――たとえば鉄道、機械設備、工場、ドック、銀行などだ。でも、賃金という形で公僕に渡されたものについては、すべて個人所有の原理を保存する。ただし条件があって、そうした賃金は、一人以上を雇用するような、組織化された創造作業に使用されてはならない。社会主義者の考えでは、営利目的の雇用はすべて、政府のしかるべき部局の監督下におかれ、政府ががっちりした独占体制をしく。

この社会主義の原理では、人間性の社会的な面だけでなく、個人的な面にもある程度配慮はしているけれど、それでもこれにしたがって実験を進めても、永続的な成功の基盤になれるかどうかは、非常に疑わしい。大きな困難が二つ出てきそうだ。まず、人間の利己性の側面だ。人はあまりにしばしば、自分個人の利用と楽しみのために所有すべく、生産したがる。そして第二に人は独立を愛し、自主性を愛し、個人的な野心を愛し、したがって勤務時間の間ずっと、他人の指示を受けるだけで、自発的な行動の機会もほとんどなく、新しい事業の創造について指導的な立場になれないのをいやがるだろう。

さて、いまの最初の困難――つまり人間の利己性――は乗り越えたとしよう。コミュニティの各メンバー用の娯楽財でも、通常の競争手段――つまり各個人がお互いに自分のためだけに苦闘する方式――よりも共同の社会的な試みのほうが、はるかにすぐれた結果を生み出すと確信した男女の群ができたとしよう。それでも、もう一つの困難は残る。この困難は、組織されるべき男女の低俗な性質から生じるものではなく、高い人間性から生じるものだ――人々の独立性と自主性への愛である。

人々は、共同作業は好きだけれど、個人作業も愛しているので、厳格な社会主義コミュニティで許される程度の、ごくわずかな個人的努力の機会だけでは、満足できないだろう。人々は、有能なリーダーシップのもとで組織化されるのには反対したいけれど、でも指導する側にまわりたい人もいるし、組織化するほうの仕事に加わりたい人もいる。指導されるだけでなく、するほうもやりたいのだ。

それに、あるやり方でコミュニティに奉仕したい人がいたとしても、コミュニティ全体としては、その時点ではそれが役にたつとは思っていないことだって十分にあるだろう。そうすると、その人物はまさに社会主義状態の基本原則のために、自分の提案を実行するのを禁じられてしまうのだ。

さて、トポロバンポでのきわめて興味深い実験が崩壊したのも、まさにこの点においてであった。この実験は、アメリカの土木技術者A・K・オウエン氏が始めたもので、メキシコ政府からの租借で広大な土地で実施された。オウエン氏の採用した原理の一つは、「すべての雇用は時価産業多様化局経由で行われなくてはならない。あるメンバーが別のメンバーを直接雇ってはならず、メンバーは局による調停経由でしか雇用されない(原注:A・K・オウエン、Integral Co-operation at Work(統合された協力の働き(US Books Co., 150 Worth St., NY. 1885))」というものだった。言い換えると、もしAやBが経営陣に不服があったとしても(たとえば経営陣の能力不信や誠実さへの不信感など)、かれらは二人で協力して仕事をするように取り決められないのだ。かれらがひたすら、共通の利益を願っているだけだとしても、である。それどころか、入植地を去らなくてはならないことになる。そしてまさに、大量の人々が入植地を去ったのである。

この点で、トポロバンポでの実験と本書で提案したスキームとは大きく異なっている。トポロバンポでは、組織はあらゆる生産作業の独占を敷き、各メンバーは、その独占をコントロールする人々の指揮下で働くか、組織を去るかのどちらかしかなかった。田園都市では、そんな独占はないし、町の運営についての公共的な行政に不満があっても、田園都市ではそれは、ほかの自治体と同じように、そんなはでな分裂にはつながらない。少なくとも初期には、実施される仕事の相当部分は、公僕以外の個人または個人の協力で実施される。ちょうど既存の自治体と同じように、自治体としての仕事は、他の集団が行う作業に比べれば、まだとても小さいのである。

一部の社会実験における失敗の原因としては、移民たちが将来の労働場所にたどりつくのに、かなりの費用がかかるということ、大規模市場から遠いこと、そしてそこに存在する生活条件や労働条件について、事前にまともな情報が得られにくいということがある。得られる唯一のメリット――安い土地――だけでは、これらをはじめとするデメリットをうち消すにはまるで不足のようだ。

ここで本書で提案されているスキームと、これまで提案されたり実行されたりした、類似スキームとの、おそらくは最大のちがいにやってきた。そのちがいとはこういうことだ:ほかのスキームでは、小グループにさえまとまっていない個人たちを、いきなり一つの大きな組織としてまとめあげようとした。あるいは、その大組織に参加するために、すでに参加している小集団を脱退しなくてはならない。でもわたしの提案は、個々人にだけではなく、共同組合や製造業者、フィランソロフィー組織など、実績ある組織にも魅力を持っている。かれらや、その下部組織にとっても、田園都市にやってきて新しい制約がつくことはなく、むしろもっと大きな自由を確保できるのである。

そして、ここでのスキームのおどろくべき特徴として、すでにこの土地で働いているかなりの数の人々は、移住させられたりすることなく(ただし町の部分に住んでいる人々は別だが、これも段階的に行われる)、まさにかれら自身が価値ある核となって、この事業の創始時点から地代を支払うことになるのだ――そしてそのお金は、敷地購入費用の利払いとして、非常に有意義に使われる――その地代は、前よりずっと喜んで支払われるだろう。受け取る地主はかれらを公平に扱い、そしてその戸口に、産物の消費者をつれてきてくれるのだから。

したがって組織の機能は、その大部分が達成されている。軍隊はすでに存在しており、あとはそれを動員するだけだ。われわれが相手にするのは、無秩序な暴徒などではない。この実験と、先立つ数々の実験とのちがいは、二種類の機械のようなものとも言えるだろう――一つは、様々な金属から作られるが、それはまず集めてきて、そして様々な形の部品に仕立てなくてはならない。ところが田園都市のほうは、すべての部品はすでにできあがっていて、単に組み立て作業が残っているだけなのだ。


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