明日の田園都市 エベネザー・ハワード

自治体支援作業


あらゆる進歩的なコミュニティの中には、コミュニティが集合的に保有したり示したりするよりもずっと高い水準の公共心や公共的事業を持つような、社会や組織が必ず存在する。おそらく、あるコミュニティの政府は、そのコミュニティが要求して強制する平均的な感覚以上の高みに出ることはできないし、それ以上の水準で活動することもできないのだろう。そして、国や自治体組織の活動が、平均より高い社会的な責務の理想を抱いた成員たちの活動によって、啓発されたり加速されたりするならば、その社会の福祉に大いに貢献することになるだろう。

原注:「ある社会で、新たな真理の旗を把握するだけの勇気を持ち、それを未踏の荒れた道中でも抱きつづけるだけの忍耐力を持つ者は、ほんの一部だけだ。(中略)その時代のいちばん先進的な思索知性がようやく理解し始めたような、新しい考え方や新しい行動の制約下に、コミュニティ丸ごと置こうとするなどというのは――これが実現可能だとしても、生活は相当なまでに非現実的なものとなり、社会的な崩壊への道を急ぐに等しい。(中略)新しい社会国家がある考え方を確立するには、その考え方を抱く人々が、それを公然と語り、それに対して心底から有効な形で従うことが不可欠なのだ」――ジョン・モーレイ氏『妥協について』第 V 章。

そしてそれは、田園都市にもあてはまるだろう。最初のうちはコミュニティ全体どころか、コミュニティの多数派すらその重要性を理解せず、また採用すべきと考えないような、そんな公共サービスの機会がたくさん見つかるはずだ。そういう公共サービスは、だから自治体がやってくれるのを期待しても無駄だ。でも、社会の福祉を重要視する人々は、この都市の自由な空気の中で、いつでも自己責任で実験できるし、それによって一般の良心を加速して、一般の理解を拡大することができるようになる。

この本が描き出している実験全体が、まさにこのような性格のものだ。これはパイオニア的な仕事で、土地共有の経済的、衛生的、社会的なメリットについて、ただのご立派な意見にとどまらない現実的な信念を持ち、したがってそうしたメリットが国の歳出という最大のレベルで確保せよと提案するだけでは飽きたらずに、十分な数の同じ精神の持ち主たちにすぐにでも加わって、自分たちの信念に形と実体を与えようと熱望している人々によって実行されるものだ。

そして国にとってのこの実験全体にあたるものが、田園都市や社会一般にとっては、ここで「自治体支援」活動と名付けるものだ。田園都市の実験全体が、この国をもっと公正で改善された土地保有方式へと導き、町づくりについてもっと常識的な見方をさせるためのものであるように、田園都市における各種の自治体支援活動は、町の福祉を向上させるための事業を先導する用意があっても、その計画やスキームを中央評議会に採用させるのにはまだ成功していない人々によって実行される。

各種のフィランソロフィー団体や慈善団体、宗教組織、教育組織などが、こうした自治体支援や国家支援組織の集団の中で、非常に大きな部分を占めることになる。これらについてはすでに触れたし、その性質や目的はよく知られている。でも、もっと厳密に福祉の物質面だけを扱う組織、たとえば銀行や建築協会なども、この中に含まれるだろう。

ペニー・バンクの創設者たちが、郵便貯金銀行への道を開いたように、田園都市をつくりあげる実験を慎重に調べた者たちのなかから、ペニー・バンクのように創設者の利益ではなくコミュニティ全体の福祉を目指す銀行が、どれほど役に立つかを見て取る人が出るかもしれない。そういう銀行は、その純収益の総額か、あるいは一定の利益率以上の利益を自治体の財務局に払い込んで、町の当局に対して、有益で全般に危ういところがない使途については、その払い込み分を使う権限を与えるようなことができるだろう。

また、人々の住宅建設作業の面でも、自治体支援活動の範囲は広い。自治体としては、この仕事を引き受けるとあまりに手を広げすぎていることになる。少なくとも最初の段階ではそうだ。たっぷり資金を持った自治体として、そういう方向がいかに望ましいことだとされても、それは経験的に正当化される道からはずれすぎることになるだろう。

しかしこの自治体は、人々が明るく美しい家を建てられるように、さまざまに手を尽くしてきた。地域の中では、一切の過密をうまく廃しているので、既存都市では解決不可能な問題が解決できている。地代と税金の年平均6ポンドだけで、十分に広い敷地を提供している。ここまでやった以上、自治体としては経験豊かな自治体改革者の警告には耳を貸すだろう。自治体事業拡大の願望は疑い得ないこの人物(ジョン・バーンズ氏、下院議員、ロンドン郡評議会委員)すらこう言っているのだ:「ロンドン郡評議会の事業委員会には、その成功を熱望する評議員たちによって大量の仕事が山積みとなっている。評議員たちは委員会を、仕事の重荷で締め上げようとしている」

でも労働者たちが自分の家を建てる手段を求めるなら、ほかのやり方がある。建築組合(訳注:住宅金融公庫みたいな低利融資組織がイメージされている)をつくるか、共同組合組織や友愛組織、労働組合などを説得して、必要資金の融資と、必要な機器の手配支援を頼むのだ。真の社会精神なるものが、ただのことばや名前だけではなく、本当に存在する以上、その精神は無限に多様な形であらわれてくるだろう。この国には、よい賃金を確保している労働者集団が、有利な条件で自分の家を建てるのを支援するための資金を集め、協会を設立しようという個人や集団はたくさんいる。これは疑いようのないことだ。

融資者としても、これ以上確実な担保はない。借り手が支払っている地主地代がとんでもなく少額であることを考えればなおさらだ。もしこうした労働者たちの住宅建設が、きわめて個人主義的性格のつよい投機的な建築業者に任せらて、その業者が暴利をむさぼるようなことになれば、それは資金を銀行に預けている、大労働者組織の過失ということにもなるだろう。建築業者たちはその資金を引き出して、その資金をそもそも提供した人たちを「搾取」することになるわけだから。

労働者たちが、この自業自得の搾取について文句を言い、国のすべての土地や資本を国有化して自分たちの階級の監督下におけというのは、怠慢というものだ。その前にまず、男女を組織化して自分の資本をもうちょっと小規模な建設作業に向けさせるという、もっと慎ましい作業で練習を積むべきだろう――かれらは今までよりもはるかに大きな形で、資本の構築を支援しなければならない。ストライキで資本を無駄にしたりせずに、さらには資本家がスト破りで資本を無駄に使うようにするのでもなく、自分や他人のために住宅と雇用を、公正で立派な条件で確保するための支援をするのだ。資本家の弾圧に対する真の対処法は、仕事をしないことによるストライキではなく、真の仕事によるストライキだ。そしてこれに対しては、弾圧者の最後の一撃といえども、なんら対抗できる武器を持たない。もし労働指導者たちが、いま共同の組織破壊で無駄にしているエネルギーの半分でも、共同組織構築に向けてくれたら、いまの不公正なシステムはとっくに終っているはずだ。

田園都市では、こうした指導者たちは自治体支援機能の実行のための、公平な舞台を持つことになる――これは自治体のために実行される機能であり、自治体が実行する機能ではない――そしてこの種の建築組合の形成は、最大限の効用を持つだろう。

しかしながら、人口3万人の町の住宅建設に必要な資本というと、膨大なものになるのでは? この問題を議論した人々は、事態を次のように考える。田園都市には家がコレコレ軒あって、それが一軒いくらいくらかかるから、必要な資本総額は締めておいくら、という具合だ(原注:この考え方をこのように表現したのは、バッキンガム氏である。『National Evils and Practical Remedies(国の邪悪と現実的な対処法)』第 10 章を見よ)。これはもちろん、この問題の考え方としてはまるっきりまちがっている。

この問題を、次のようにして検討してみよう。過去10年で、ロンドンに何軒家ができただろう。まあ、ものすごくおおざっぱな見当で、150,000軒、それが一軒300ポンドとしよう――これは店舗や工場や倉庫は一切含まない。すると合計で、4,500万ポンドだ。ではこの目的のために4,500万ポンドが調達されただろうか? もちろんだ。さもなければ家が建たなかっただろう。でも、この金額はすべて一度に調建されたわけではない。そしてもしこの15万軒を建てるのに使った実際の貨幣をたどることができたら、同じ硬貨が何度も何度も顔を出すのがわかるだろう。

田園都市でも同じことだ。田園都市では、完成までに家が5,500軒できて、一軒300ポンドとしたら165万ポンドだ。でもこの資本は一挙に調達されるわけではなく、田園都市ではロンドンよりずっと顕著に、同じ硬貨が多数の家を建てるためにまわっていくだろう。

というのも、おわかりのように金は使われても、失われたり消費されたりするわけではないのだ。単に持ち主が換わるだけだ。田園都市の労働者が、自治体支援建築組合から200ポンド借りて、家を建てる。その家はその労働者には200ポンドかかったので、200ポンド分の硬貨はかれにしてみれば、消えたことになる。でも実はそれは、れんが製造業者や建築業者、大工、配管工、左官など、家を建てた人々の所有物になり、そして次にはこうした職人他取引をしている取引先のポケットに入り、そこから町の自治体支援銀行に入り、するとまさにその同じ200ポンドが融資されて別の家の建設に使われるわけだ。というわけで、それぞれ200ポンドの家が2軒、3軒、こんどは4軒と建つのに、実際にあるお金は硬貨200ポンド分だけ、という一見すると異常な事態が生じることになる(原注:これと似たような議論が、ママリー & ホブソン著『The Physiology of Industry(産業の生理)』(Macmillan & Co,.)と題するとても優れた本にたっぷりと説明されている)。

でも実は、これは異常でもなんでもない。いまの仮想例のどれ一つとして、家を建てたのはもちろん硬貨なんかではない。硬貨はただの価値の物差しでしかないから、てんびん秤と分銅のように、何度も何度も使っても、その価値が目に見えて減るようなことはない。実際に家を建てたのは、本当は労働であり、技能であり、事業であり、それが自然の無料の贈り物を活用したわけだ。そして労働者はそれぞれ報酬を硬貨で計られて受け取ったけれど、田園都市の建物や土木工事のコストは、主にその労働を動員したことによるエネルギーや技能で判断されなくてはならない。

とはいえ、金や銀が交換の媒体として認識されているのだから、それは使わざるをえないし、それを上手に使うことが大事だ――というのも、それを使う技量、あるいはその無駄な使用をの押さえ方は、銀行家のクリアリングハウスと同じで、町のコストやひいては借りた資本の金利のために毎年徴収される税金にも、とても大きな影響を持つことになるからだ。したがってその技量というのは、硬貨が一つの価値を計測したら、すぐに次の価値をはかるようにさせることに向けられる必要がある――そうやって、一年のうちにできるだけ何度も回転させて、各硬貨で計測される労働量を最大限にするわけだ。そうすれば借りた硬貨への金利分が、同じ通常の普通の利率ではあっても、労働に対して支払われた金額に比べてできるだけ小さくなる。これが効果的に行われれば、実証の簡単な地主地代での節約分に匹敵するだけの利払い分がコミュニティとして節約できるはずだ。

さて読者のみなさん、共有の土地にきちんと組織化された形で移住することで、実にみごとに、そしてまるでほとんど自動的に、お金が経済的に使われるようになり、同じ一枚の硬貨がずっと多くの目的を果たすようになることが、これでおわかりだろう。お金というのはしばしば「市場の麻薬」と呼ばれる。労働そのもののようにそれは魔法がかかったようなところがあって、だから一方で銀行には金銀で何百万ものお金がなにもせずに寝ているのに、その銀行が面している通りでは、人々が文無しで仕事もなくうろついていることになる。でも、この田園都市の敷地では、働く意欲のある人々が職を求める声は、もはや無駄にはならない。たった昨日まではそうだったかもしれないけれど、今日、魔法にかかっていた土地は目覚めて、大声で子供たちを呼んでいるのだ。仕事を探すのに苦労はない――それも、儲かる仕事だ――火急をきわめる、必須の仕事――故郷の都市をつくる仕事であり、そして人々がこの都市や、いずれ必ず後に続く他の都市の建設を急ぐにつれて、都市部への移住――それも過去のものとなる古い、混在した混沌きわまるスラム街への移住――は見事に見直されることとなり、人口の流れはまさに反対方向へ向かうことになるだろう――これらの明るく美しく、豊かできれいなニュータウンへと向かうのだ。

原注:下院議員 A・J・バルフォア氏は、都市への移住について次のように述べている:「農業が不振なら、都市への移住が増えざるを得ないのはまちがいない。でも、農業が20年前ほど豊かだったら、あるいは夢見がちな人の中でもひときわ夢見がちな人の最大の夢想くらいに豊かだったら、この地方部からの移住をやめさせられるかもしれないなど、議員の誰一人としていささかでも考えてほしくない。この移住は、われわれが可決できるどんな法律でも永続的には変えられないような原因と自然法則によるものなのだから。単純な事実として、地方部では可能な投資が現に一つしかなく、それ以外にあり得ないのであり、さらに労働の雇い手も一種類しかないのだ。農業が豊かになれば、町への移住は減るだろう。それはまちがいない。でも農業がどんなに繁栄しても、これ以上は土地に資本を投下できず、労働を土地にこれ以上向けられない普通の地点がいずれやってくる。そしてその点に到達してしまったら、婚姻が現在のような頻度で起こり、いまほどの大家族が続く限り、地方部から都市への移住は起こらざるを得ないのだ。雇用が一種類しかなく、しかもその量が土壌の自然の要領ではっきり制約されているところから、投資を求める資本の量からくる制約と、その資本を活用できる労働の量以外には、労働の雇用にまったく何の制約もないところへの移住が起こる。もしこれが政治経済の深遠な教義であるなら、わたしはこれを下院で述べるのをためらっただろう。下院では政治経済というのは、バカにされて非難されるものになってしまったからだ。でも、いま述べたのは実際には、自然法則を単純に述べただけであり、これはみなさんにきちんと留意してもらいたいと、心底からお願いするものである」Parliamentary Debates(議会討論)、1893年12月12日。


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