八十日間世界一周, ジュール・ヴェルヌ

フィックスが、いわれたことをいくらか理解しながら、素振りも見せないこと


ラングーン号は、半島・極東株式会社に所属している客船であった。シナとニッポンの海に就航している鋼鉄製のスクリュー船であり、その総トン数千七百七十トン、四百馬力のエンジンを搭載している。速度はモンゴリア号と同じだけ出せたが、モンゴリア号ほどには装備が整ってはいなかった。そのため、アウダに対して、フィリアス・フォッグが望むような快適な生活を提供できる船ではなかった。しかし、カルカッタからホンコンまでの航路は三千五百マイルにすぎず、十日から十二日でいける距離だった。それに、アウダはそう口やかましい客ではなかった。

最初の数日間で、アウダは自分を助けてくれた人のことをよく観察することができた。アウダはフォッグ氏がしてくれたことに対して、いつも変わらぬ感謝の念を表していた。かの紳士はというと、アウダの話に何の反応も示さなかった。その声からも、露ほども感情を読みとれなかった。ただ、フォッグ氏は、アウダに何一つ不自由な思いをさせまいと、常に気を配っていた。彼は毎日、ある時間になると決まってアウダの部屋をたずねた。彼自身が話すだけでなく、座って彼女の話を聞いていた。フォッグ氏はおそろしく上品にアウダをもてなした。だが、その動きはまるで機械のようだった。機械さながらに、アウダを保護していた。

アウダはフォッグ氏のふるまいには大いにとまどった。パスパルトゥーは、主人が風変わりであることを説明した。世界一周が八十日間でできるかどうか賭けをしている、ということを聞いて、アウダは微笑を禁じ得なかった。ただ、アウダはフィリアス・フォッグに命をゆだねたのであり、アウダにとってフォッグ氏は尊敬すべき人物であった。

アウダはパーシー人のガイドが語った彼女の経歴を裏付けた。ガイドの話どおり、インドの民族の中でも高貴な地位に属していた。パーシー人の商人は、その多くが綿貿易によって一財産を築いていた。そのひとり、サー・ジェームズ・ジェジーブホイ氏は、英国政府によって准男爵に列せられていた。アウダはその准男爵の親戚であった。准男爵にはジェジーという名のいとこがいて、アウダはホンコンに着いたら、その人のところへ身を寄せたいと思っていた。そのいとこがアウダを助けてくれるかどうか、アウダには分からなかった。しかし、フォッグ氏はアウダを安心させようと、万事は数学的に――本当に彼はこの言葉を使った――処理されるだろうと請けあった。アウダはその「ヒマラヤの聖なる湖のようにすんだ」瞳で、いつもフォッグ氏を見ていた。しかし、この扱いにくい紳士は、相も変わらず遠慮がちで、自ら湖の中に飛び込むようなそぶりすら見せなかった。

航海の始めごろのような穏やかな日々は長くは続かなかった。しかし、穏やかなうちに汽船は、すばらしい天候と追い風に恵まれ、大アンダマン島が視界にはいるところにやってきた。大アンダマン島は、ベンガル湾にある島々の中でも大きい方であった。標高二千四百フィートのところにある、絵のような風景をみせるサドル・ピークが、遠くにぼうっと見えていた。汽船は岸の近くを通っていた。そこは、野蛮で人間としては原始的な生活をしているパプア人がいるところだった。目の前にその姿はなかった。ちなみに、パプア人は食人種とされているが、それは誤りだ。

島の景色は次から次へと変わっていった。どれもすばらしかった。シュロ、ビンロウ、タケ、チーク材、巨大なミモザ、木のようなシダなどのジャングルが前景となっていた。遠くには、山々の優雅な輪郭が空に描かれていた。海岸には貴重なツバメが数千羽も群がっていた。そのツバメの巣は、シナの皇帝に出される豪華な料理の材料となるのだ。

アンダマン諸島がみせるさまざまな景色も後方へ消えていった。ラングーン号は速度を上げたままでマラッカ海峡へと近づいていった。それは、シナの海が近づいてきたことを示していた。

フィックス探偵は、不幸な成り行きで世界一周をすることになってしまったのだが、その間何をしていたのだろうか? フィックスはパスパルトゥーに見られることなく、カルカッタに停泊していたラングーン号に乗船することに成功していた。もちろん、逮捕令状が届いたら、ホンコンへ転送してもらうようちゃんと頼んでおいた後に、である。フィックスは航海の終わりまで隠れているつもりだった。なぜ自分がラングーン号に乗っているのかを、パスパルトゥーにうまく説明できるかどうか分からなかったからだ。なにしろ、パスパルトゥーは、フィックスはまだボンベイにいるものと考えているはずだからだ。しかし、運命はフィックスに、心ならずもパスパルトゥーとのつきあいを再開させるのである。そのいきさつはいずれ分かるだろう。

探偵の希望は今やホンコンにかかっていた。ラングーン号は、シンガポールには短時間しか寄港せず、そこで何かすることなどできなかった。強盗はホンコンで逮捕しなければならない。さもなければたぶん永遠に逃げおおせてしまうだろう。ホンコンは、彼が立ち寄る最後の英国領であった。その向こう、シナ・ニッポン・アメリカは、フォッグ氏にとって絶好の避難先となるだろう。もし逮捕令状がホンコンに着いていれば、フィックスは何の支障もなくフォッグ氏を逮捕できる。しかし、ホンコンの先では、令状だけでは何の役にも立たない。犯人引き渡し令状が必要になってくるのだ。そしてそのことは遅延と障害をもたらし、犯人は処罰を逃れることとなってしまうに違いなかった。

フィックスは、客室の中で長いことこの問題について考えていた。そして次のように自分自身に言い続けていた。「今現在、逮捕状がホンコンにあれば、俺はそこでやつを逮捕しよう。だが、もしホンコンになければ、そこでは逮捕はしない。そのときはやつの出発を遅らせることが絶対必要だ。俺はボンベイで失敗した。カルカッタでも失敗した。もしホンコンでも失敗したら、俺の名声は地に堕ちてしまう。どんなことをしてでも成功しなくてはならない! だが、どうやってやつを引き留めればいいんだ? 逮捕状がホンコンになかったとしたら?」

フィックスは心に決めた。もし最悪の事態が現実となったら、パスパルトゥーの前に姿を現して、彼が仕える主人の真の姿を話すことにしよう。パスパルトゥーがフォッグの共犯でないことはもう明らかだ。したがって、この話を聞けば、自分が共犯者にされることを恐れるだろうから、おそらく俺に味方してくれるはずだ。だが、その方法には危険も伴う。だから、どうにも打つ手がなくなったときにだけ使うことにしよう。パスパルトゥーの口から主人に伝わってしまえば、すべては終わりだ。以上のようなことで、探偵は考えをまとめられなくなってしまった。

だが、突然新しい考えが探偵の心に浮かんだ。ラングーン号に、フィリアス・フォッグとともに乗り込んできた、アウダの姿を見て、新たな考えが彼の心をとらえたのだ。

あの女性は誰だ? どんな事情で、フォッグ氏と旅行しているのだろうか? フォッグ氏が、ボンベイとカルカッタの間のどこかで彼女と一緒になったのは明らかだ。だが、どこで会ったんだ? 偶然会ったんだろうか、それともフォッグはあの魅力的な女を捜すために、インドの奥地へ入っていったんだろうか?

フィックスにはわけが分からなかった。何かよこしまな企みが行われたのかと考えた。この考えは探偵に強い影響を与えた。頭の中で考えた陰謀が実際に行われたものとひとり合点してしまった。あの若い女性が結婚しているかどうかということには関係なく、フォッグが大金を積んだって逃げられないような状態にできるだろう。だが、フォッグのやつがホンコンに着くまで待っていていいのだろうか? やつは小癪にも、船から船へと飛び移る早業を使ってくる。事が起こる前に、再びヨコハマへと出発してしまうかもしれない。

フィックスは今後の方針を決めた。ラングーン号が目的地に到着する前に、当局に警告を出さなければならない。これは簡単だ、船はシンガポールで停泊するし、そこからホンコンまで電信用の線が敷かれているからな。

さらにフィックスは考えを進めた。行動を起こす前に、パスパルトゥーにいくつか質問をしよう。あいつに話をさせることはそう難しくないだろう。一刻も無駄にできなかったから、フィックスは姿を見せる準備を始めた。

その時の日付は十月三十日だった。その次の日に、ラングーン号はシンガポールに到着する予定だった。

フィックスは客室を出てデッキに上がっていった。パスパルトゥーは船の前の方であちこち散歩していた。探偵はひどく驚いたといった表情でそこへかけより、声をあげた。「おや、あなたもこの船に?」

「おお、ムッシュー・フィックス。あなたもこの船に?」パスパルトゥーは、モンゴリア号にいた知人を発見して、本当に驚いていた。「私はボンベイであなたと別れたのに、何でこの船にいるんですか? ここはホンコンへ行く道だというのに。あなたも世界一周をしているのですか?」

「いやいや。」フィックスは答えた。「私はホンコンにいますよ。少なくとも数日はね。」

「ふむ!」パスパルトゥーはそういわれて、明らかに当惑していた。

「しかし、それなら私たちがカルカッタを出てから、なぜ船で見かけなかったんでしょう?」

「ああ、軽い船酔いになりまして。ずっと寝台で寝ていたんですよ。ベンガル湾もインド洋も、私にはあわないんですよ。それで、フォッグさんは?」

「これまで同様、まったく正確ですよ。一日と遅れませんね。そういえばムッシュー・フィックス、あなたは知らんでしょうが、私たちは若い婦人と一緒に旅をしているんですよ。」

「若い婦人?」分からないふりをして、探偵は言った。

そこでパスパルトゥーは、アウダのことを話して聞かせた。ボンベイのパゴダでの事件、二千ポンドで象を購入したこと、アウダをサッディーから救ったこと、カルカッタで逮捕され、裁判を受けたこと、フォッグ氏が保釈金を払って自由の身になったこと。フィックスは最後の部分についてはよく知っていた。しかし、パスパルトゥーの話を、すべて今初めて知ったように聞いていた。パスパルトゥーはといえば、関心を持って聞いてくれる人を見つけて、話に熱を帯びてきた。

「それでは、ご主人はその若い婦人をヨーロッパまで連れていくつもりなんですか?」

「そんなことはないですよ。私たちは親類のところまで彼女を護送していくだけです。その人はホンコンで成功した商人でしてね。」

「それじゃ何もできないな。」フィックスは独り言を言った。しかし、内心失望していることは隠していた。「ジンでもどうです、パスパルトゥーさん。」

「喜んで、ムッシュー・フィックス。ラングーン号で一杯やらなきゃいけませんね。」


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