八十日間世界一周 ジュール・ヴェルヌ

フィリアス・フォッグはどんなときにも自分自身を見失わないこと


1時間後、アンリエッタ号はハドソン川の入り口を指し示す灯台のそばを通り、サンデーフック岬を回って海に出た。その日、船はロングアイランド島沿いを通り、ファイア島を通り、一路東に進んでいった。

翌正午、男がひとりブリッジに立ち、船の位置を確かめていた。もちろんその人はスピーディ船長であるはずだった。だがそうではなかった。なんと、フィリアス・フォッグその人であった。スピーディ船長はというと、彼の部屋に鍵をかけられ、閉じこめられていた。船長は大声でわめいていた。当然ではあるが、もうれつに怒り狂っていた。

事実は簡単だった。フィリアス・フォッグはリヴァプールに行きたかったのだが、船長はそれを承知しなかった。それゆえ、フィリアス・フォッグはボルドー行の船に乗り込み、30時間ほどの間に、札束でもって水夫や火夫をうまいこと買収してしまったのだった。彼らはただの雇われ乗務員にすぎなかったし、船長との関係はよいとは言えなかったから、みんなフォッグ氏の方についてしまったのだ。これが、フィリアス・フォッグがスピーディ船長のかわりに船を指揮していて、船長がとらわれの身になっていた理由である。つまりそういったわけで、アンリエッタ号はリヴァプールへとその針路を変えていたのだった。

この冒険がいかなる終わりを迎えるか、すぐに分かるだろう。アウダは心配であったが、何も言わなかった。パスパルトゥーは、フォッグ氏の計略に脱帽するばかりだった。船長はアンリエッタ号が「11から12ノットで」進むといっていたが、その言葉に嘘はなかった。

それでもしも―またもしもだ―海があまり荒れないで、いい風が東から吹き続けて、船体やエンジンに事故が起こらなかったら、アンリエッタ号はニューヨークからリヴァプールまでの3000マイルを、12日から21日までの9日間で渡りきれるかもしれないのだ。ただし到着した瞬間、アンリエッタ号事件とイングランド銀行強盗の件が重なって、フォッグ氏に、想像を超える困難が襲いかかる可能性もあるのだった。

最初の何日かは、船は順調に進んでいた。海は静かな方だったし、風はいつも北東に向かっていたから、アンリエッタ号は帆をあげて、大西洋横断用の汽船のごとく波をかき分けていた。

パスパルトゥーは嬉しくてたまらなかった。主人の手柄に心を奪われていた。その手柄がどんな結果をもたらすのかは考えなかった。彼は乗組員たちにない愉快さと器用さを持っていた。水夫たちと気軽に話し込み、ときにはアクロバットで水夫たちをびっくりさせた。彼の目には、水夫たちは紳士のように船を動かし、火夫たちは勇士のように火を焚いているように見えるのだった。パスパルトゥーの上機嫌なおしゃべりのおかげで、みんなが上機嫌になった。彼は今までのことや、遅れていることによる焦りを忘れてしまっていた。頭の中は、まもなくたどり着くはずの旅の終わりのことでいっぱいだった。ときたま焦りでかっとはなった。アンリエッタ号の炉で熱くなったのだろうか。そして、フィックスのそばをうろつき、熱心に、かつ疑い深く見つめたりもした。だが、話しかけることはなかった。以前の旧交はもう消え去っていたのだ。

フィックスはというと、今までのことがまるで理解できていないと言わねばならない。アンリエッタ号の強奪、乗組員へのわいろ、フォッグ氏の操船技術の巧みさを見て、驚きとまどっていた。どう考えればいいのか分からなかった。結局、55000ポンドを盗んだやつが、船を一隻盗むのは簡単だろうと考えた。そして、フィックスはこう結論づけた。アンリエッタ号は、フォッグ氏の命令のもと、リヴァプールに行くものと見せかけて、強盗から海賊へと職業替えして、静かに身の安全を確保しようとしているのだろう。この考えは彼にはもっともらしく見えた。そして、この仕事に関わったことを心底後悔しだしていた。

スピーディ船長は、依然として船室で怒り狂っていた。パスパルトゥーが船長に食事を運ぶ任務を仰せつかり、最大級に警戒しながらも、勇敢に任務をこなした。フォッグ氏は、船長が船に乗っているということを無視しているようだった。

13日に、船はニューファンドランド島付近を通過した。そこは危険な場所であった。特に冬になると、頻繁に霧におおわれ、強風も吹きつけてくる場所だった。前の晩からずっと、気圧計は大幅に落ち込んでいた。これは上空の大気が変化していることを示していた。夜のうちに温度も下がり、鋭い寒さが船を襲った。風も南東へと吹き出した。

これはフォッグ氏には災難だった。フォッグ氏は、航路から外れないように、帆をたたんで火を強くした。しかし、船の速度は落ち、海にできた大きな波が船尾にぶつかって砕けた。船は激しく揺れ、速度も落ちてしまった。風はだんだん嵐に近づいていった。アンリエッタ号が波のせいで横倒しになる事態さえ予想された。

空を見ていたパスパルトゥーの顔が曇った。そして、2日間ずっと恐怖を感じていた。しかし、フィリアス・フォッグは肝のすわった水夫であった。海の上でどうやって前に進ませればいいかをよく心得ていた。火の勢いを保ちつつ、船をまっすぐ走らせていった。アンリエッタ号は、波頭に登れないときには波に突っ込んでいき、デッキを水浸しにしながらも無事に航海していった。ときどきスクリューが波のせいで水から出てしまい、空回りすることもあったが、それでも船はまっすぐ進み続けた。

思っていたほど風は激しくはならなかった。時速90マイルを記録するような大嵐にはならなかった。しかし、風は吹いていた。不幸にも、東南からずっと吹き続けていたから、帆は役に立たなかった。

12月16日、フィリアス・フォッグがロンドンを出発してから75日経っていた。アンリエッタ号はそれほど遅れてはいなかった。航海も半ばを数え、しかも最悪の地点はすぎていた。夏であれば、成功はほとんどまちがいなかった。今は冬だったから、悪条件がつきまとっていた。パスパルトゥーは何も言わなかったが心中ひそかに希望を抱いていた。もし風が吹かなくたって、まだ蒸気があるさと考えていた。

この日、機関士がデッキに上がってきて、フォッグ氏に歩み寄り、深刻そうに話をしていた。パスパルトゥーは、なぜか分からぬまま―たぶん虫の知らせだろう―ばくぜんと不安を抱いた。片方の耳で2人の話を聞き取れたら、もう片方は人にやっても惜しくはなかっただろう。だが、彼には2、3の言葉、特に主人が言った次の言葉しか聞こえなかった。「君の言うことはまちがいないんですね。」

「まちがいありません。」機関士は答えた。「いいですか、出航以来、常に炉の火をがんがん焚き続けたんです。ニューヨークからボルドーまでたまに火を焚きながら行けるだけの石炭は積んでいましたが、ニューヨークからリヴァプールまで全速力で行けるだけの石炭は積んでないんです。」

「考えておきます。」フォッグ氏が答えた。

パスパルトゥーはすべてを理解した。死ぬくらいの恐怖を覚えた。石炭が足りなくなったのだ!

「あぁ、もしご主人様がこの危機を解決できたら、」パスパルトゥーはつぶやいた。「まさしく英雄と言えるだろう。」

彼は自分が聞いたことをフィックスに言わずにいられなかった。

「君はまだこの船がリヴァプールに行くと思ってるのか?」

「もちろんだ。」

「バカバカしい!」探偵はそう言うと、肩をすくめ、歩いていった。

パスパルトゥーはその言葉を聞いて怒りを覚えたが、この言葉が何を意味しているのかはまったく分からなかった。あの運が悪いフィックスは、きっと深い失望を味わい、自尊心を傷つけられたんだろう、偽の手がかりを追って世界一周をしてしまったんだからなと考え、返事をしなかった。

ところで、フィリアス・フォッグはこの難局をどう乗り切るつもりだろうか? 全く想像できなかった。それでも、何か決心したようだった。この日の夕方、機関士を呼んでこう言ったのだ。「石炭がなくなるまで火を焚き続けてください。」

すこし後、アンリエッタ号の煙突が勢いよく煙を吐き始めた。船は蒸気の力だけで進んでいった。だが、18日になって機関士が、前に言ったとおり、今日じゅうに石炭がなくなるでしょうと言ってきた。

「火を絶やさないでください。」フォッグ氏は答えた。「石炭がつきるまで炊き続けるんです。バルブを閉めないでください。」

正午ごろ、フィリアス・フォッグは船の位置を確かめた後、パスパルトゥーを呼び、スピーディ船長を連れてくるよう命令した。パスパルトゥーの様子は、トラを放せと言われたみたいだった。こうつぶやきながら、後甲板に降りていった。「船長はきっと狂ったように暴れるだろうな!」

2、3分して、怒号や罵声が後甲板の方から聞こえてきた。まさしく爆弾であった。その爆弾はスピーディ船長であった。怒りが爆発しているに違いなかった。「いま、どこにいるんだ!」怒りとともにまずこう口にした。怒りのあまり卒倒しかねなかった。それでも怒りはおさまりそうになかった。

「いま、どこにいるんだ!」船長は顔を真っ赤にしながら、こう繰り返した。

「リヴァプールから707マイルのところです。」落ち着いた様子でフォッグ氏が答えた。

「海賊め!」スピーディ船長が答えた。

「あなたをここへ呼んだのは―。」

「悪党め!」

「―船を売っていただきたいのです。」フォッグ氏は続けた。

「ダメだ! どんな悪魔にでもダメだ!」

「この船を燃やさなければならないのです。」

「アンリエッタを燃やす!」

「そうです。少なくとも、上の部分を。石炭がなくなったんです。」

「船を燃やす!」スピーディ船長の声はかすれ、ほとんど聞き取れなかった。「この船…50000ドルも…するんだぞ!」

「ここに60000ドルあります。」フィリアス・フォッグはこう話し、船長に札束を一巻き手渡した。このことが、アンドリュー・スピーディに莫大な影響を及ぼした。60000ドルを見て心が動かないアメリカ人はほとんどいないのだ。船長の怒りはすぐおさまった。監禁されたことや、乗客に対する恨みなどは忘れてしまったのである。アンリエッタ号は建造されてから20年経っていた。それがこんな値段で売れるとは思わなかった。爆弾はもう破裂しなくなった。フォッグ氏が火を消してしまったからである。

「鉄の部分は俺のものだろうな。」船長の声は前より柔らかかった。

「鉄の部分とエンジンはあなたのものです。いいですね。」

「いいだろう。」

そしてアンドリュー・スピーディは、札束をつかんで枚数を数え、ポケットに入れた。

この会話の間、パスパルトゥーの顔は船の帆みたいに真っ白だった。フィックスは卒倒してしまうように思われた。フォッグのやつめ、20000ポンド近く使ってしまって、しかも船体とエンジン、つまり船のほぼ全体を船長にくれてやるなんて! やつの盗んだ金が55000ポンドになることは明白だ!

アンドリュー・スピーディがお金をポケットに入れると、フォッグ氏は船長にこう言った。「驚かないでください。12月21日の午後8時45分までにロンドンに着かなければ、私は20000ポンドを失ってしまうのです。私はニューヨークで汽船に乗り遅れました。そしてあなたが私をリヴァプールに連れていくことを拒否しましたので……。」

「それで俺は得したわけだ。」アンドリュー・スピーディは大声を上げた。「おかげで40000ドル以上もうかったぜ!」そしてやや平静を取り戻し、こう言った。「申すまでもないですが、えーと……。」

「フォッグです。」

「フォッグ船長、あなたはヤンキー気質をお持ちですな。」

こんなふうに彼なりにほめた後、立ち去ろうとした。その背中にフォッグ氏が声をかけた。「では、船は私のものですね。」

「そうです。竜骨からマストまで、木の部分は全部あなたのものです。」

「いいでしょう。部屋にある寝台と骨組みを壊して、燃やしてしまいましょう。」

蒸気圧を適切に維持するために、乾いた木が必要だった。この日、船尾楼、船室、船室の寝台、上甲板などが壊された。翌12月19日には、マスト、筏《いかだ》、帆桁《ほげた》が燃やされた。乗組員はさかんに働き、火を維持した。パスパルトゥーも切ったり挽《ひ》いたりに全力を挙げた。そこには完全に破壊してしまおうという熱狂があった。

20日には、甲板の欄干、船の設備、それから甲板の大部分がなくなってしまっていた。アンリエッタ号は今や廃船同様となってしまっていた。だがこの日、アイルランドの海岸とファストネットの灯りが視界に入ってきた。夜10時、船はクイーンズタウン沖を航海していた。フィリアス・フォッグはあと24時間でロンドンに到着しなければならなかった。蒸気船でリヴァプールに着くには24時間が必要だった。そして、蒸気はもうなくなりかけていた!

「船長、」今やフォッグ氏の計画に深い関心を寄せていたスピーディ船長が話しかけてきた。「残念だが、すべてはあんたに不利なようだ。俺達はまだクイーンズタウンの沖合にいるからな。」

「あぁ、」フォッグ氏が答えた。「あの灯りが見えるあたりがクイーンズタウンですね。」

「そうだ。」

「港に入ることはできますか。」

「3時間経たないとダメだ。満潮時にしか入れないんだ。」

「待ちましょう。」フォッグ氏は静かに答えた。何も顔に表さなかったが、すばらしい案が頭に浮かんだため、不幸に対して敢然と立ちむかうことにしたのだ。

クイーンズタウンは、アイルランドにおいて大西洋を横断する船が郵便物を水揚げする港である。これら郵便物は、待ちかまえている急行列車によってダブリンに運ばれていく。そしてダブリンからリヴァプールまで最も速い船で輸送される。この方法を使えば、船で行くよりも12時間早くリヴァプールに着けるのである。

フィリアス・フォッグはこの方法で12時間稼ごうと考えたのだ。アンリエッタ号で行けば明日の夜にしかリヴァプールに着かないが、この方法なら正午にリヴァプールに着くはずだった。従って、夜8時45分よりも前にロンドンに到着できる余裕があるのだった。

アンリエッタ号は満潮を待ち、午前1時にクイーンズタウンに入港した。フィリアス・フォッグはスピーディ船長と固く握手を交わし、平らになった老朽船を船長にあげた。平らになったといっても、船はまだスピーディ船長が手にいれた売値の半分の価値はあった。

一行はすぐに上陸した。フィックスはフォッグ氏をその場で逮捕したい衝動に駆られた。だが彼はそうしなかった。なぜだろう? 彼の頭の中で、どんな葛藤があったのだろうか? 彼は「この男」に対する考えを変えたのだろうか? あるいは、自分は重大なまちがいを犯したと思ったのだろうか? それでも、フィックスはフォッグ氏を見捨てなかった。

一行は列車に乗り込んだ。ちょうど1時半の列車が発車しようとしていた。夜明けごろ、一行はダブリンに着いた。すぐに船に乗らなければならなかった。船は荒れた海を突き進み、波を乗りこえていった。

12月21日、午前11時40分、フィリアス・フォッグはついにリヴァプールの埠頭《ふとう》に立った。いよいよあとわずか6時間でロンドンにたどり着けるのだ。

そのときフィックスが歩み寄り、フォッグ氏の肩に手をかけ、逮捕状を見せてこう言ったのだった。「フィリアス・フォッグだね。」

「そうです。」

「女王陛下の名において、君を逮捕する!」


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