八十日間世界一周 ジュール・ヴェルヌ

フィリアス・フォッグは命令を二度従者にいう必要がなかったこと


サヴィル街に住んでいる人たちが、もうフィリアス・フォッグが帰ってきてるんですよといわれたら、きっとびっくりしただろう。屋敷のドアや窓はまだ閉まっていた。表面上は何の変化も見られなかった。

駅を出た後、フォッグ氏はパスパルトゥーに食べ物を買いに行くよう命じて、静かに家に帰っていった。

フォッグ氏は、いつも通り静かに不幸を耐えていた。彼は破産してしまった! それも探偵のへまによってだ! 長旅を着実に遂行し、多くの障害に打ち勝ち、危機に対して勇敢に立ちむかい、余裕があるときにはいささかの善行も施してきたのだ。それなのに彼は、ゴールを目前にして、予期せぬ突然の―つまり、対処法を考えていなかった―障害にはばまれてしまったのだ。全くひどいものだ! ところで、フォッグ氏が持っていった莫大な金はもういくらも残っていなかった。残りの財産はベアリング商会に預けていた二万ポンドだけだったが、このお金はリフォーム・クラブにいる彼の友人たちに借金のかたとして取られる運命にあった。フォッグ氏は世界一周のために莫大な金を使っていたから、たとえ賭けに勝ったとしても、あまりもうけは出なかっただろうし、それにフォッグ氏は、もともと金を得るためにというよりは、名誉を守るために賭けを提案したのだ。だが、この賭けのせいでフォッグ氏は破産に追い込まれたのだ。

それでも、フォッグ氏はこれからどうするかはすでに決めていた。自分に残されたなすべきことを十分心得ていた。

サヴィル街にあるフォッグ氏の屋敷の一室が、アウダのために提供された。アウダは自分を保護してくれた人の身にふりかかった不幸を思い、悲しみに沈んでいた。フォッグ氏がもらした言葉から、アウダはフォッグ氏が、よからぬことをたくらんでいるのではないかと気が気でなかった。

イギリス人というものが、ときどきよこしまな考えにとりつかれて、自殺という向こう見ずな手段に訴えることはよく知られている。パスパルトゥーもまた、それとなく主人の行動を監視していた。

それでもパスパルトゥーは、屋敷に着くないなや彼の部屋に走っていき、八十日間燃え続けていたガスバーナーの火を消した。郵便受けに入っていたガス会社からの請求書を見つけ、「やれやれ、これ以上請求がかさんだら、払えなくなるところだった。」と思った。

寝る時間になった。フォッグ氏はベッドに入ったが、果たして眠ったのだろうか? アウダは一晩中ずっと目を開けていた。パスパルトゥーは、忠犬がよくやるように、一晩中主人のドアを見張っていた。

朝になると、フォッグ氏は従者を呼び、アウダのために朝食を作れ、自分は紅茶とトーストだけでいいと言った。そして、自分はやらなければならない仕事があるから朝食も夕食もご一緒できないが、夜になったらアウダと話がしたい、そのことをアウダに言っておいてくれと従者に告げた。

パスパルトゥーは命令を受けたのだから、その通りにする以外になかった。だが、落ち着き払った主人を見ていると、その場から離れる気になれなかった。胸がいっぱいになった。心は後悔でずたずたになっていた。この取り返しのつかない不幸は自分のせいだという思いが彼を苦しめていた。そうだ! もし俺がご主人様に、フィックスのもくろみを話して注意を促していれば、ご主人様はあいつをリヴァプールまで連れてはこなかっただろう。そうしたら……。

パスパルトゥーはたまらなくなってこう叫んだ。

「ご主人様! フォッグ様! みんな私が悪かったのです。私の責任だったのです……。」

「私は誰も責めんよ。」フォッグ氏の声は冷静そのものだった。「さあ行くんだ。」

パスパルトゥーは主人の部屋を出て、アウダを探しあて、フォッグ氏の言葉を伝えた。

「奥様、」彼は伝言にこうつけ加えた。「私には何もできません…何にもです! 私では、ご主人様に影響を及ぼさないのです。ですが奥様なら、あるいは……。」

「私に何ができましょうか?」アウダは答えた。「フォッグさんは誰の影響も受けないのです。あの方への感謝の念でいっぱいな私の気持ちをあの方は分かっているのでしょうか? 私の心を読みとっているのでしょうか? ねぇパスパルトゥーさん、あの方を片時もひとりにしておいてはいけませんよ! ところで、あの方は今晩私とお話があると言っていたのですね。」

「そうです、奥様。たぶん、あなたの英国での生活についてお話ししたいのでしょう。」

「では、お待ちしましょう。」アウダは答え、深いもの思いに沈んだ。

この日(日曜日だった)を通じて、サヴィル街の屋敷は無人の館そのものだった。そしてフィリアス・フォッグは、この家に住んでから初めて、ウエストミンスター寺院の時計が十一時半を打っても、リフォーム・クラブに行かなかった。

なぜフォッグ氏はリフォーム・クラブに行かなかったのだろうか? 友人たちが彼に会う必要はもうなかったのだ。フィリアス・フォッグは、昨日の夕方、つまり十二月二十一日午後八時四十五分にサロンに姿を見せなかった時点で、賭けに負けているのだった。銀行に二万ポンドを取りに行く必要すらなかった。相手方はすでに小切手を持っていたから、それに裏書きしてベアリング商会に換金を願い出ればそれでよかった。

だから、フォッグ氏には出かける理由がなかった。だがら自宅にこもりっきりだった。彼は部屋に閉じこもり、仕事に余念がなかった。パスパルトゥーは絶えず階段を上り下りした。時間が長く感じられた。主人の部屋のドアに耳をあて、鍵穴から部屋をのぞき込んだ。まるで彼自身にそうしたことができる権利があるみたいだった。そのふるまいは、何か恐ろしいことが起こりはしないかとびくびくしている感じだった。ときたま彼はフィックスのことを思った。そこにはもう怒りはなかった。フィックスも、他のみんなのようにフィリアス・フォッグを誤解していて、そして職務上の義務に従ってフォッグ氏を尾行し、逮捕しただけなんだ。俺はといえばああだこうだと苦悩していた。自分のみじめさ、バカさかげんにずっとぐちをこぼしていた。

パスパルトゥーは、ひとりでいるつらさに耐えかねて、アウダの部屋をノックして、中に入った。彼は部屋の一隅に座り込み、何も言わずただ悲しげにアウダを見つめていた。アウダはずっと物思いにふけっていた。

午後七時半ごろ、フォッグ氏はアウダにこれから会いたいと伝えた。数分後、彼はアウダと二人きりになった。

フィリアス・フォッグは暖炉のそばの椅子に座り、アウダと向かい合った。その顔には何の表情もなかった。帰国後のフォッグは、出発前のフォッグであった。同じ冷静さ。同じ沈着さ。

すわってからしばらく、フォッグ氏は無言だった。やおらアウダを見すえて、こう話し出した。「マダム、英国まであなたをお連れしたことをお許しくださいますか。」

「まぁフォッグさん。」アウダは答えた。胸が思わずときめいた。

「終わりまで言わせてください。」フォッグ氏は言った。「私があなたを連れて、あなたにとってもう安全ではなくなったあの国から出ようと決めたときには、私はお金持ちでした。財産の一部をあなたのために使うつもりでした。あの時はあなたの生活を、自由で幸福なものにするつもりでした。ですが今、私は破産してしまいました。」

「存じております、フォッグさん。」アウダは答えた。「ですが、私の方からもおうかがいしなければなりませんわ。ここまであなたにくっついてきたことや、それから、旅行を遅らせて、さらにはあなたを破産にまで追い込んだことをお許しくださいますでしょうか?」

「マダム、あなたはインドにとどまることはできませんでした。あなたの安全を保証するためには、あの狂信者どもがあなたに手を出せなくなるまで遠くにあなたをお連れするしかありませんでした。」

「それでフォッグさん、」アウダは続けた。「あなたは私をあの恐ろしい死から救うだけでなく、外国での私の生活をも保障しようとお考えになったのですね。」

「そうです。しかし運命は私に背を向けました。ですが、まだすこしばかりのものが残っています。それをお使いください。」

「それで、あなたはどうなるのですか、フォッグさん。」

「私ですか、」フォッグ氏は冷静に答えていた。「私は何もいりません。」

「ですがあなたは今後、どうするおつもりですの?」

「適当にやっていきますよ。」

「どちらにしても、」アウダは続けた。「あなたのような方がお困りになってはいけませんわ。お友達が―。」

「私には友達はいません。」

「では、ご親戚などが―。」

「ひとりもおりません。」

「まぁ、お気の毒に。フォッグさん、孤独というものは寂しいものです。深い悲しみを分かちあう人が誰もいらっしゃらないなんて……。人はよくこう言いますわ、困難も二人で分かちあえば、なんとか耐えていけるものだって。」

「そんなことを言ってますね。」

「フォッグさん。」ここでアウダは立ち上がり、フォッグ氏の手を握りしめてこう言った。「あなたは親戚と友人を一度にお望みですか? 私をあなたの妻にしていただけないでしょうか?」

フォッグ氏はこの言葉を聞いて立ち上がった。その瞳は異常な輝きを放っていた。くちびるはかすかに震えていた。アウダがフォッグ氏の顔を見つめていた。その柔らかい視線の中には、誠実、正直、堅い決心、そして優しさがあった。命の恩人に報いるためには、どんな苦労もあえて辞さない、という決意がそこにはあった。フォッグ氏はその目線に驚いた。フォッグ氏の中で何かが変化していった。アウダの視線を避けるかのように、一瞬目を閉じた。再び目を開けたときのフォッグ氏の答えは、単純だった。「あなたを愛してます。もっとも神聖な方に誓って、あなたを愛します。すべてをあなたに捧げます。」

「あぁ。」アウダはそう言うと、フォッグ氏の手を自分の胸に持っていった。

パスパルトゥーが呼ばれ、すぐに参上した。フォッグ氏はまだアウダの手を握りしめていた。パスパルトゥーはすべてを理解した。大きな丸顔が熱帯の空にあがった太陽みたいに赤くなった。

フォッグ氏はパスパルトゥーに、これからメリールボーン教区のサミュエル・ウィルソン師のところに結婚を申し出ようと思うんだが、遅すぎないかな、と尋ねた。

パスパルトゥーはいかにも嬉しそうに、「決して遅くはございません。」と言った。

時刻は八時五分だった。

「明日の月曜でよろしゅうございますか。」

「明日の月曜でいいかい。」フォッグ氏はアウダに向かって言った。

「はい、明日の月曜に。」アウダは答えた。

パスパルトゥーは急いでそこを辞去した。できる限りのスピードで走っていった。


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