メイカーズ 第一部, コリイ・ドクトロウ

第五章


::ペリーは六ヶ月で百万のホームアウェアが売れると考えていた。
::こいつは頭がおかしくなったのかとレスターは思った。どう考えても
::その数は多すぎる。
::
::「おいおい」彼は言った。「こいつを発明したのは確かに俺だが
::アメリカ全体を考えてもルームシェアしてる世帯は百万もない。
::売れるにしても全部で五十万がせいぜいさ。

レスターは彼女が彼のことをブログ記事に書くといつも不平を言ったが彼女の見たところでは密かにそれを楽しんでいるようだった。

::今日、彼らは百万個目の商品を出荷した。
::それまでにかかった時間はたったの六週間だ。

百万個目の商品を出荷した時にはみんなでシャンパンのボトルを開けた。正確には出荷のめどが立ったときだったが。生産工場は全国の四十のチームに広がり、そこにはいくつかのカナダのチームさえ含まれていた。RFIDプリンターを作っている会社は自分たちが去年解雇した労働者の半分を再雇用し、需要に応えるために全員が超過勤務で働いた。

::私たちに興奮を与えるのは彼らが作り出しているのものが単なる
::お金だとかコダセルの株主への配当だとかではなくそれらを可能に
::するエコシステムであることだ。家庭にあるものを体系的に整理したり
::タグ付けしたりして共有や可視化を可能にする競合の商用システムは
::少なくとも十はある。親たちは子供のためにそれを愛用している。
::学校の教師や老人ホームもだ。

老人ホームで使うというのはフランシスのアイデアだった。彼は生産設備の警備員として一緒に仕事をするようになっていた。無許可キャンプ場の周りを走り回っている若者たちも一緒だった。フランシスは若者の誰が従順か知っていて彼らに指示を出すことができた。ある日の夕方、彼は二人とスザンヌに加わって作業場の屋上に置いた折りたたみチェアの上でビールを飲みながらにじむ夕焼けを眺めていた。

::彼らが唯一のサプライヤーというわけではない。それがエコシステム
::なのだ。大勢のプレイヤーのための価値を作り出している。この
::競争は私たちにとっては朗報だ。おかげでホームアウェアの価格は
::四十パーセントも下落しているのだから。そしてそれはレスターと
::ペリーはそろそろ新しい何か発明しなければならないことを意味し
::ている。利幅が完全になくなってしまう前に……これも私たちにとって
::朗報だろう。

「まだかい?」レスターはしばらくの間、ある女の子と付き合っていた。クレイグリストで出会った子だ。しかし彼女は彼を振った。ペリーがばらしたところによると彼女が去ったのは彼がスザンヌの記事に書かれていたのとは大違いだったからなのだそうだ。振られてしばらくはスザンヌに対してさえ八つ当たりする始末だった。距離を置いて彼女を見る目は物欲しさ半分、恨みつらみ半分といったところだ。

「すぐだから」当り障りのない明るい笑顔を顔に張り付かせる努力をしながら彼女は答えた。レスターはとてもいい人間なのだがときおり彼女のことを蹴りつけられた子犬のような目で見ることがあってそれが彼女を落ち着かない気分にさせた。そしてそのことがますます彼を不機嫌にさせるのだ。

屋上には既にビールの詰まったクーラーボックスが用意され、そのかたわらには明るい色の機械部品がはいった巨大なプラスチック容器が置かれていた。

「ジェットエンジンだ」ペリーが言った。月日が経って彼は少し太り、新しいしわもできていた。こめかみには白髪が目立ち笑いじわの奥にさらに笑いじわができている。ペリーはいつも自分の周りのものを笑いのたねにしていた(「くそったれな金を払ってやつらは俺に仕事をやらせてるんだ」一度、彼は彼女にそう言って文字通り床に倒れこみ、抑え切れない癇癪に転げまわったことがあった)。彼が再び笑った。

「お人好しのケトルベリーおじいちゃん」彼女は言った。「きっと心を痛めているに違いないわ」

フランシスは曲線を描くエンジンカバーの部品を手にとった。「こんなもんは長持ちしやしない。ここやここに歪みが見えるだろう? こいつは仮想風洞と自動旋盤を使って作られたのさ。私たちも何度かやってみたことがあるが風洞シミュレーションでは十分な精度がでなかった。コンピューターの中で上手く飛ぶ形ってやつは実際に空を飛ばすと決まってすぐにだめになるんだ。なんにせよ二年もしたら改修しなきゃならなくなって、こいつを作った韓国人に馬鹿みたいな量の部品を売りつけられるって寸法さ」

「そいつは残念」レスターが言った。「きれいなのに。華麗だとさえ思うよ」彼のずんぐりした手が優雅な動きでその曲線を真似てみせる。

「航空宇宙産業ってやつは仮想風洞が大好きだ」フランシスがエンジンカバーをにらみながら言った。「シミュレーションの中でなら進化論的なアルゴリズムを使って真に効率的なデザインを探すこともできる。理論的にはな。そしてコンピューターはエンジニアより安い」

「あなたが解雇された理由はそれ?」スザンヌが尋ねる。

「私は解雇されちゃいないよ。お嬢さん」曲がった足を揺らしながら彼が言った。「準備万端の状態で六十五歳の時に退職したんだ。だけど年金が破綻してね。それでひと月の入院もできなくなって治療は中断、終いには保険も切れた。妻が病気になった時に鎮静剤やらなにやらで全財産を使い果たしてね。だが辛いとは思わんね……貧乏人だからって死ななきゃならないわけじゃないだろ?」

ドゥーラグを頭に巻いた三人の少年が笑い、ボトルキャップを投げ捨てるために屋上の縁に歩いていった。バラック街からついて来た彼の信奉者たちだ。

「そいつはやめておけ」彼が言った。「ジャンクヤードを汚しまわりやがって。まったく。あいつら動物園かなんかで生まれ育ったみたいじゃないか」飲むとフランシスは少し意地が悪く、怒ったようになるのだ。

「そうだぜ。少年たち」ポケットに手を突っ込んだままぶらぶらと彼らの方に歩いて行きながらペリーが言った。沈む夕日に浮かぶシルエットは二頭筋が盛り上がり厚い胸が腰のあたりで絞りこまれてまるでギリシャの彫像のように見えた。「君らは俺たちが作ってるものをどう思う?」

彼らは自分のつま先に目をやった。「まあまあじゃねえ」彼らの一人がうめくように言った。

「彼に答えるんだ」フランシスが厳しい口調で言う。「ちゃんとした話し方をしろ。相手の方を見ろ。自尊心を持て。まったくおまえら五歳児か?」

彼らは居心地悪そうな様子だった。「いいと思います」一人が言った。

「家で使ってみるか?」

一人が鼻で笑った。「いいえ。手に入れたもので売れそうなやつは何でも親父が盗んで売り払っちまうんで」

「そいつはひどい」ペリーは言った。

「この前の晩、こそ泥に入られたんですけど捕まえたら俺のiPodを持った親父だったんです。誰なのか気がつくのが遅かったら銃で頭を吹き飛ばすところだった。ステロイド中毒の筋肉バカです」

「やっちまうべきだんだ」別の少年が口を開いた。「うちのおふくろは親父をバスの前に突き飛ばした。そうすればいなくなるからな。親父は両足を折ってそれっきり音沙汰が無い」

自分たちを驚かせるための話だとはわかっていたがそれでもスザンヌは驚かずにはいられなかった。フロリダの暖かい霧の中で書き物をして暮らしているとここの人々が不法占拠のキャンプに住み、法的には犯罪者であって法律の保護を受けることができない立場にいるということを簡単に忘れてしまう。

しかしペリーは太陽光に目を細めながら頷いた。「防犯ベルを使ってみたことはあるか?」

少年たちは馬鹿にしたような笑い声を上げ、スザンヌはその声にたじろいだがペリーは落ち着いていた。「誰か入り込んだらいつでも起き上がれるし、光やサイレンで脅して追っ払うこともできるだろう」

「槍を発射するやつが欲しいね」ステロイド中毒の父親を持つ少年が言った。

「火炎放射器がいい」母親が父親をバスに轢かせた少年が続ける。

「俺は結界が欲しいよ」三番目の少年が初めて口を開いた。「誰も入ってこれなくなるようなやつが欲しい。そうすりゃ片目を開けたまま眠る必要もなくなる。安全だからな」

他の二人もゆっくりと頷いた。

「まったくそのとおりだな」フランシスが言った。

フランシスの信奉者が屋上での集会に参加したのはそこまでだった。仕事が終わって家に帰る時と同じように彼らは低い声でつぶやくように話をしながらゆっくりと歩いていった。屋上にいるのが大人だけになると雰囲気はずっと落ち着いたものになった。

「あの煙は何だ?」レスターが西側の夕日の光の中でうねるように立ち上る黒い柱を指さして言った。

「火事さ」フランシスが言った。「そうに決まってる。それか自動車がろくでもない大事故でも起こしたんだろう」

ペリーが階段を駆け下りていったかと思うと高倍率の双眼鏡を手に戻ってきた。「フランシス、あれはあんたの家だ」一瞬、口ごもってから彼は言った。双眼鏡をフランシスに手渡す。「ボタンを押せば自動で焦点を合わせてくれる」

「俺の家だ」フランシスが言った。「なんてこった」顔色が灰色に変わり、酔いがすっかり醒めたようだった。唇が濡れて目が光っている。

彼らは猛スピードで現場まで飛ばした。スザンヌはレスターの改造スマートカーに体を押しこみほとんど彼の脇の下にいるような有様だった。ペリーはフランシスと一緒だった。レスターはまだ彼女の父親と同じコロンを使っていたが彼女が窓を開けると焼けるタイヤの匂いがその匂いをかき消した。

現場に到着してみるとバラック街に近い幹線道路の脇でトラックが燃え上がっているのが見えた。その脇で消防士が律儀に突っ立って運河の上まで伸びる炎を見守っている。

彼らは急いで歩道橋に駆けていったが消防士に行く手を阻まれた。

「すいませんが危険なので」彼は言った。まるで映画俳優のように整った顔立ちのラテン系で日に焼けた肌が炎に照らされて赤銅色に輝いていた。

「俺はあそこに住んでいるんだ」フランシスが言った。「あれは俺の家なんだよ」

消防士が顔をそむけて「危険ですから」と答える。

「なぜ火を消そうとしないの?」スザンヌが言った。

フランシスの頭が忙しくあたりを見回す。「おまえら火を消そうとしてないじゃないか! 俺たちの家を丸焼きにするつもりか!」

ぱらぱらと二、三人の消防士がやってくる。川の向こうでは炎が小さな集落の半分近くを焦がしていた。住人の一部はよたよたとしたおぼつかない様子で運河からバケツリレーをおこなっている。他の者はまだ火の移っていない建物に駆け込み、腕いっぱいに家財道具や小さな家具、写真の詰まった箱を持っては出てきていた。

「失礼ですが」映画俳優男が言った。「この土地の所有者は私たちに手出ししないように依頼しています。人命上の危険もありませんし、炎が他所に広がる危険もないので私たちは炎を消すために立ち入ることができないんです。何もできません」

「所有者だと?」フランシスが怒鳴った。「ここは所有権争いが起きている土地だ。もう二十年以上も訴訟が続いている。所有者ってのは誰だ?」

映画俳優男は肩をすくめた。「申し訳ありませんが私はこれ以上のことは知りません」

川の向こうでは炎が広がってバケツリレーが後ろへ下がっていく。今ではまるで沸騰したやかんの蒸気を顔に受けたようにスザンヌにも炎の熱気がわかった。

炎を背景にした消防士と消防車を見てフランシスは怒りを抑え切れない様子だった。まるで爆発してしまうか、あるいは叫びだしたり炎に向かって突進を始めてしまうように見えた。

スザンヌは彼の腕をつかむと彼を連れたまま消防車に向かって歩き出し、最初に出くわした消防士を捕まえた。

「私はスザンヌ・チャーチと言います。マクラチ新聞社のサンノゼ・マーキュリー・ニューズの者です。この現場の責任者にお話をお聞きしたいのですがお取り次ぎ願えますか」マーキュリーを辞めて数カ月が経っていたが未だに彼女はスザンヌ・チャーチ・ドット・オーグのスザンヌ・チャーチと名乗ることができずにいた。どれだけ読者がいて、広告収入が上がっていても実在する新聞社の名前を告げなければ消防士がすぐに行動を起こさないだろうことは彼女にもわかっていた。

彼はすぐさま年長の男に駆けていって肩を叩くと耳元で何か囁いた。スザンヌはフランシスの腕をぎゅっと握りしめながら消防隊の隊長が近づいて来るのを待ち受けた。彼女は腕を差し出すと早口に喋った。「スザンヌ・チャーチです」言ってメモ帳を取り出した。報道記者には欠かせない小道具だ。「お聞きしたところによるとこの土地の所有者と名乗る者が立ち入らせようとしないためにこの火災を放置されているとか。しかし一方でこの土地の所有権を巡っては紛争が起きていて何十年も訴訟が続いているとも聞きました。この件についてご説明をお聞かせ願えます? ええと、お名前は……」

「隊長のブライアン・ワナメイカーです」。彼は彼女と同じくらいの年格好だった。長い時間を野外で過ごすフロリダ生まれに特徴的なざらざらとした肌をしている。「申し訳ないが今は質問に答えることはできない」

スザンヌは表情を顔に出さないようにしながら黙っているように警告するためにフランシスの腕をきつく握った。彼は震え始めていた。「なるほど。あなたは話すことも、火を消すこともできない。明日の新聞にはそう書いて欲しいということでよろしいですか?」

隊長はしばらく炎を眺めた。川の向こうではバケツリレーの敗色がいっそう濃厚になっていた。彼が顔をしかめ、手をぎゅっと握り締めたのがスザンヌにもわかった。「電話をかけさせていただいても?」返事を待たずに彼はきびすを返すと消防車の座席に乗り込み携帯電話に手を伸ばした。

スザンヌは会話に耳をそばだてたが炎のぱちぱちという音に紛れて聞き取ることはできなかった。振り返ってみるとフランシスがいない。あたりを見回すと運河に向かって走る彼の姿が見えた。次の瞬間、彼は浅くて濁った水の中に飛び込み、おぼつかない足取りで歩き出した。よろよろと対岸にたどり着くと彼は苦労しながらそこをよじ登ったのだった。

一瞬の間を置いてペリーがその後ろに続き、そのあとをレスターが追った。

「隊長!」彼女は消防車に向かって走りながら指さして言った。隊長はまだ通話中だったが何が起きているのか見て取るとすぐに電話を切ってポケットにしまい、大声で命令を出し始めた。

消防士たちが動き出した。橋に向かって殺到し、ホースを伸ばし、酸素ボンベとマスクを身に付ける。落ち着いた様子で水が流れるように整然とした動きだ。水と泡が炎に降り注ぎ、黒い煙が白い蒸気に変わるまでほんの数秒しかかからなかった。

バラック街の住人たちから歓声が上がる。炎は徐々に弱まっていった。消防士たちが整然と働く間、ペリーとレスターは火災現場に突進しようとするフランシスを捕まえて抑えていた。

上がる蒸気はやけどするほど熱く、スザンヌはブラウスの襟を顔まで引っ張りあげた。彼女の周りには大勢のバラック街の住人がいた。小さな子どもを連れた母親、老人、一見してギャングとわかるティーンエイジャー、小さなサイクリングパンツを履いてドゥーラグを頭に巻いた少年たち。チューブトップを着てラメだらけの化粧をほどこし、細く割いた古布を何重にも重ねて作ったスカートを履いている少女たちはまるで黙示録の後の世界のフラダンスの衣装を着ているようだ。どの顔も表情は険しく怒りに満ち、煙のすすで汚れて熱で火照ったようになっている。

父親が母親にバスの前に突き飛ばされたと言っていた少年が彼女の目に止まった。彼が彼女の方を向いて顔をしかめた。「これからどうすればいい?」

「わからないわ」彼女は言った。「あなたは大丈夫? 家族は?」

「眠る場所も行くあてもない」彼が言った。「着替えの服さえないんだ。おふくろはずっと泣いている」

彼の瞳には涙が浮かんでいた。彼はまだ十五歳なのだ、と彼女は改めて思った。屋上にいたときはもっと年上に見えた。彼女は彼を引き寄せて抱きしめた。最初は強張ってぎこちなかった彼の体はやがて彼女の体に溶けるように柔らかくなり、彼は彼女の肩ですすり泣いた。彼の背中を擦りながら彼女は安心させるための言葉をつぶやき続けた。他のバラック街の住人はそれをまるで見世物のように見ていたがやがて目をそらした。数人の不良少年さえ……彼らはこの弱みをさらけ出すような行為を指さして笑うとだろうと彼女は確信していたのだが……じろじろと見るだけで通りすぎていった。その一人の頬には煤の汚れの上を走る一筋の涙の跡があった。

人を慰めることが得意でない者から見れば私はその経験が豊富に見えるのだろう彼女は思った。

フランシスとレスターとペリーが彼女と合流するとフランシスは少年をぶっきらぼうなやり方で抱きしめて心配することは何もないと言って聞かせた。

火事は既に消え、消防士は燃え残りにホースで水をかけたり群衆の間をまわって怪我人がいないか調べたりしている。テレビニュースのクルーが準備を整えてかわいらしい二十代の黒人女性レポーターがカメラの前に立った。

「不法占拠者たちの住むこの地域は長い間、ブロワード郡保安官事務所によってギャングと薬物売買の問題を抱える地域であるとされてきました。この場所の被害は甚大であるように見えますがこれによってこの野営地が無くなるのか、それとも住人たちが再建をおこなって留まるのかどちらになるのかはっきり断言することは難しいでしょう」

スザンヌはあまりの恥辱に激怒した。自分だってああなる可能性はあったのだ。初めてこの場所を見た時、まるでエチオピアのドキュメンタリー映画から飛び出してきたようだと思った。この場所を知るに従ってだんだんとそこを我が家のように思うようになったのだ。住人たちは少しずつ家を作り上げていった。壁を、窓を、打ちっぱなしのコンクリート床を。一度に一つずつ、できるぶんだけ。住宅ローンを組んでいるような者は一人もいなかったが整った家庭菜園を持ち、白い石が敷かれた小道には庭園用の陶器の小人が門番代わりに立っていた。

レポーターは彼女を見つめ……自然と彼女もレポーターを見つめる形になった。彼女はレポーターをにらみつけた。

「俺のRVが」指さして言うフランシスの声が彼女を引き戻した。それは黒焦げの残がいになっていた。彼が溶けたドアに手を伸ばして開けると中から煙が立ち上って彼を後ずさりさせた。気がついた消防士がその内側に放水の向きを変え、フランシスと燃えずにすんでいたもの全てをずぶ濡れにさせる。彼は振り向くと消防士に向かって何かを叫び散らしたがその時には既に相手は何かに別のものに水をかけていた。

それから彼らはフランシスのトレーラーから水に浸かった写真アルバムや少しばかりの家財道具、それにちょっとした書類がはいった手提げ金庫を手分けして回収していった。ラップトップについてはその日の朝に腕時計についたメモリーにバックアップしたばかりだったのでデータは無事だった。「こいつをスキャンしなくちゃとずっと思ってだんだが」彼はずぶ濡れのアルバムの写真が貼られたページをめくりながら言った。「やっぱりやっとくべきだったんだ」

日が沈み、あたりを蚊がうるさく飛び回りはじめた。焼け跡にはそこかしこにつぎはぎの無骨な建物や残骸をきれいに取り除いた小道ができていた。

バラック街の住人は小さなグループに分かれてより集まるか、焼け跡からまだ使えそうなものを探しだそうとしていた。かたわらを通り過ぎる車のドライバーはもの珍しそうにスピードを落としては首を伸ばし、何人かは下品な煽り文句を叫んだ。スザンヌはそいつらのナンバープレートをしっかりと写真に撮ってやった。家に帰ったら公開してやるつもりだった。

小雨が降りだした。子供たちがわめき声を上げる。沼地独特のセミとカエルの鳴き声と蚊の羽音がだんだんと暗くなってくる中であたりを満たし、やがて運河脇を走る幹線道路を照らす街灯に明かりがともると全てが青白い水銀灯の冷たい色に染められた。

「テントを建てなくちゃならん」フランシスが言った。何人かの若者を捕まえると彼は必要なものを調達させにいった……きれいな水やビニルシートといった避難所を建てるのに必要な道具だ。

レスターは彼らを手助けしに行き、ペリーは腰に手をあてたままスザンヌの隣に立ち尽くした。

「なんて有り様だよ」彼は言った。「このくそったれな大惨事だ。確かにここの連中は行儀が悪いが、だからって……」彼は力なく手を振りながらそこで言葉を止めた。手のひらを尻のあたりで拭ってから彼はフランシスを捕まえた。

「みんなを連れてこいよ」彼は言った。「身の回りのものを集めて俺たちの所まで歩いていくんだ。少なくとも当座は場所を用意できる」

フランシスは何かを言いかけようとしたが口を閉じた。彼は危なっかしくレスターの車のボンネットによじ登ると周りに集まるようにみんなに叫んだ。彼に付き従う少年たちがまずその呼びかけに応え、ほとんどの者が集まって来るまでそう長い時間はかからなかった。

「みんな、聞こえるか? これ以上の大声はだせんぞ」

同意を表すざわめきが起きる。スザンヌはまだ状況が悪くなっていない頃、昼間に人々と話し合いをする彼を見たことがあった。みんなの彼に対する敬意がうかがえたものだ。彼は厳密な意味においては指導者というわけではなかったが彼が言葉を発すると人々はそれに耳を傾けるのだ。それは彼女が自動車産業やテクノロジー産業で何度も見てきた人々を惹きつける特性、つまりカリスマだった。

「少しいった所に今夜泊まれる場所を確保した。歩いて三十分くらいのところだ。屋根とトイレはあるがおそらくベッドは足りないと思う。手に持って一マイル運べるものだけ持ってきてくれ。残りのものは明日になれば取りに戻れる。行きたくなければそれでもいいが今夜はあまり愉快に過ごせないだろうと思う」

一人の女性が前に進み出た。若いが十代の少女というほど幼くはない。長い黒髪をしていて落ち着いた声でフランシスに話しかける間、ずっと両手を組んでいた。「私たちの持ち物はどうなるんです? 今夜。ここを離れることはできない。あれが私たちの持っている物の全てなんですから」

フランシスは頷いた。「今夜は五人体制の二交替で見張りをたてる。十人必要だ。若者がいい。懐中電灯、電話、コーヒー、提供できる物は何でも提供しよう。野次馬を近寄らせないようにするんだ」声が届く範囲には野次馬はいなかったがやがて集まってくるだろうことは明らかだった。ここがいかに危険で汚い場所かを話していたあのニュースキャスターのせいだ。彼らがスザンヌが見たのと同じものを見ることは決してないだろう。十人の男女が群衆の片方に並んで立った。勇気ある若者、若い女性、中には彼女と同じくらいの年格好の者もいる。みんな、険しい表情をしていた。

フランシスが持ち物を一ヶ所に集めるのを監督した。このバラック街に何人くらいが住んでいるのかこれまでスザンヌには全くわかっていなかったが今では道路沿いに集まって歩き出す彼らを数えることができた。百人かそれより少し多いくらいだ。驚くほど多い赤ん坊を数に入れればその数はもっと増える。

レスターが手短にフランシスと話し合い、フランシスは三人の老人と赤ん坊を抱えた二人の母親の肩を叩いてレスターの車に詰め込んでから出発した。スザンヌは避難者の長い列に混じってつぶやくような彼らの話し声を聞きながら道路脇を歩いていった。数分もするとフランシスの配慮でレスターがさらに人を拾いに戻ってきた。

ペリーは彼女の横にいた。その目はまるで百万マイルの彼方を見つめているようだ。

「どうしたの?」彼女が尋ねる。

「今夜は作業場に泊めて、明日は家を建てるのを手伝おう」

「あなたたちの所に? ずっと彼らを居させるつもりなの?」

「なぜいけない? 俺たちは半分しか土地を使っていない。あそこの地主は毎月賃料をとってるがもう五年以上も顔を見せてない。気にはしないさ」

彼女は数歩進んで言った。「ペリー、私はこのことを記事にしようと思う」

「ああ」彼が言った。長いこと黙って二人は歩いた。小さな子供が泣いている。「もちろんそうすべきだ。地主なんてくそ食らえだ。ケトルウェルが何か文句を言ったらとことんやってやる」

「ケトルウェルはこのことをどう考えると思う?」

「このこと? 見てみろよ。これは俺がずっと言い続けてきたことだ。俺たちは彼らのための製品を作る必要がある。彼らこそが巨大な未開拓市場なんだ」

彼女が本当に聞きたかったのはティジャンはこれに何と言うか?だったが最近では彼らがティジャンについて話すことはなくなっていた。ケトルウェルは数週間のうちに新しい経営マネージャーを用意すると約束していたが未だにそれは姿を表さず、ペリーはこれまでにも増して経営の仕事に追われて作業場にいる時間はどんどん少なくなっていた。彼女から見ても彼がそれに苛立っていることがわかった。彼女とケトルウェルとの話し合いの中でスーツな人材を見つけることが才能あるナードを見つけるよりも難しくなっていると彼は打ち明けた。大勢の人間がビジネスをおこないたいと思っているが実際にそれをおこなう能力のある者の割合は限られているようだった。

そろそろジャンクヤードが見えてきた。ペリーは電話を引っ張りだすとサーバーを呼び出した。タッチパネルでコードを打ち込んで明かりを全てつけ、扉の鍵を全て開けた。

驚くべきがらくたの山の間の道を行く間に何人かの子供がはぐれ、フランシスが年長の子供に探しに行かせて連れ戻らせた。戻ってきた子供たちは倉庫で見つけた宝物を手にしていた。レスターは何度も老人や母親、脱落した者を連れに戻ってその運送サービスは全員が作業場の中に入るまで続いた。

「ここだ」フランシスが言った。「今夜はこの屋内で過ごす。トイレはあそことあそこ……列を作って乱さないようにしてくれ」

「食べ物は?」眠った小さな少年を肩に抱いた一人の男がきいた。

「ここは赤十字じゃないんだぞ。アル」フランシスが厳しい口調で答える。「朝になったら自分たちで食事を用意しよう」

ペリーが彼の耳に何かを囁く。フランシスが頭を振るとペリーはさらに何かを囁いた。

「明日の朝食はある。ペリーの厚意だ。ここは彼の場所だ。明日、店が開いたら私たちのために彼がコストコに買い物に行ってくれる」

みんなから歓声があがった。何人かの女性が彼に抱きつき、男性の何人かは彼に握手を求めた。ペリーは顔を赤くさせた。スザンヌはほほえんだ。みんな善良な人間だ。スザンヌが想像した以上に善良なのだ。自分は彼らを手助けできると彼女は感じた……今まで無視してきた物乞いや通りすぎて来た見捨てられた酔っぱらいに対する行いを補うように。

毛布もベッドもなく、人々はコンクリートの上で眠った。若いカップルはテーブルの下で抱きあうようにして眠り、子供は両親の間に潜りこむか母親にしがみついて眠った。みんなが眠りに落ちるとスザンヌは良心の呵責にさいなまれながら彼らの間を通って自分の車へと歩いていった。まるでオーキーキャンプの中を歩く大恐慌時代の写真家のような気分だった。角を曲がるたびに胸が張り裂けるような光景が見えるのだ。

賃貸マンションに戻ると厚い羽根布団がかかった居心地のいいベッド……彼女は毛布の下で気持よく眠るためにエアコンをつけっぱなしにしておくのが好きだった……と四つの枕が目にはいった。パジャマを身に着けたが布団の間に身を滑りこませることはできなかった。

彼女にはできなかったのだ。

ありったけの毛布とシーツ、枕、大きなタオル、さらにはソファークッション……家主は苦い顔をするだろう……まで持って彼女は車へと取って返し、急いで作業場へと戻った。

彼女は室内に入ると家族連れの者や老人に毛布や枕、タオルを配り始めた。一人の女性……どう見ても五体満足で歳も若かった……が体を起こして言った。「ねえ、私の分は?」スザンヌはその声に聞き覚えがあった。IHOPで会ったジャンキーだ。あのレスターの友達。彼女をつかんで悪態をついたやつだった。

彼女はその女に毛布を渡したくなかった。手元にはもう二枚しか残っていなかったし、まだ剥き出しの床の上に横たわっている老人たちがいるのだ。

「私の分は?」女は声を大きくして言った。眠っていた者が何人か目を覚まして体を起こす。

スザンヌは動揺した。誰に毛布を渡すか彼女が決めて何が悪いというのか? IHOPで無礼を働いたのだから焼け出された時に寝具をもらう資格はないのではないか?

スザンヌは彼女に毛布を渡した。女は素早い動作でさらにソファークッションを一つ奪っていった。

こうやって彼女は生き延びてきたんだスザンヌは思った。これが彼女のサバイバルの方法なんだ

最後の毛布を配り終わると彼女は家に戻った。剥き出しのベッドで古いコートを毛布代わりに丸めたセーターを枕にして眠ることになるだろう。シャワーの後にはTシャツで体を拭いた。タオルも全て寝具として使うために配っていたのだ。

新しいバラック街はそうそうにできあがった……それは彼女が想像していたよりもずっと早かった。あの青年たちが手助けしたのだ。レスターは臨時の避難所で気がついた問題について全て調べて情報をダウンロードした……セメントや土嚢、ダンボールやビニルシートを使った家の建て方といったことだ……そしてそれらを全て試した。がたがたで使い物になりそうもないものも一つ、二つあったが彼女が見て回った限りではどれも十分しっかりしていて彼女は自分の作品の横に誇らしげに建つ家の住人を写真にとって回った。

作業場からはちょっとしたものが消えていった……作業道具、質屋に持ち込みやすい本や記念品、ペリーの財布……彼らは二人とも机の引き出しに鍵をかけるようになった。不法占拠者たちの中にはジャンキーもいたし、絶望に駆られた者や道徳心の無い者もいたのだ。ある日、彼女は卓上スタンドの横に置いておいた自分の小ぶりでかわいらしいゴールドのイヤリングが消えたことに気がついた。昨晩、そこに置きっぱなしにしてしまったのだ。周り中に当たり散らしたい気分になり、ほとんど泣き出さんばかりだった。

数日後、彼女はハンドバッグの底にそのイヤリングを見つけたがそれは事態を悪化させただけだった。例え彼女が非難の言葉を一言も発していなくとも、あの日、彼女は心のなかで不法占拠者たち全員を非難していたのだ。その週の残りの数日間、彼女はまともに彼らと目をあわせることができなかった。

「今の状況については書いておかなくちゃならない」彼女はペリーに言った。「これは物語の一部だもの」一ヶ月近くの間、彼女はこの話題を避けていたが間に合わせの製作所と間に合わせの作業員でものすごい数のデバイスとアドオンを作り出す労働者たちのことを抜きにはこれ以上ホームアウェアの成功について続きを書くことができなくなっていた。

「なぜ?」ペリーは答えた。彼は修道僧のようなストイックさで注文に応じたり人々を訓練したり火災の傷跡と戦ったりしていた。夕方になると目が虚ろになって不機嫌になった。レスターはもう屋上での会合には参加しなくなっていた。バラック街のフランシスと若者たちのところに入り浸っては蹄鉄投げに興じるか、町の通りの要所に彼が設置したバイオトイレの修繕をして過ごすのが彼のお気に入りになっていた。「ビジネスだけに集中できないのか?」

「ペリー、これはビジネスなのよ。ケトルウェルがティジャンの代わりを送り込んでこないせいであなたがその代わりを務めている。そのおかげでここは労働者所有の協同組合みたいになっているわ。これは重要なニュースだと思う……この試みで大事なことはあらゆる種類のビジネスをやってみてそれがどう動くかを確認することなのよ。もしあなたがもう何か上手くいく方法を見つけているなら私はそれについて書かなきゃならない。特にそれがコダセルが抱える問題だけでなく他の人々の抱える問題まで解決するものであるならなおさらだわ」

ペリーは不機嫌に黙り込んだままビールを飲んだ。「これ以上、ケトルウェルに手出しされたくないんだ。状況はうまくいってる。監視されたらそれが台無しになっちまう」

「恥じることは何もないわ」彼女は言った。「まずいことは何も起きていないんだから」

ペリーはしばらく彼女を見つめた。あれもこれもいろいろやろうとしすぎて彼は爆発寸前だった。彼女は話を持ちだしたことを後悔した。「必要ならそうしてくれ」

::元々のバラック街は驚くべきものだった。とても走ることはできない
::ように見えるトレイラーやRV車の群れの周りで移住者たちは
::自分の小さな土地に増築に増築を重ねた。最初はビニルシートと
::ポールで家を建てたが余裕が出てくると少しずつそれをレンガや
::コンクリートや鉄筋で置き換えていった。屋根は椰子の葉や屋根板、
::リノリウム材、トタンで葺かれた……時には潰したビール缶を張った
::ベニヤ板が使われることさえあった。木材でできた壁、窓がある壁も
::あった。古い自動車のドアで作られた壁もあった。ドアに付いた
::ハンドルで昼間は窓を下げておいて、夜には蚊を防ぐために窓を
::閉めるのだ。移住者のほとんどはハンモックで眠った。
::
::ちょうど私が到着した頃には第二の波が村に到来していた。それは
::増築ではなかった……隣人の屋外トイレや送水ポンプ、不可思議な
::電力源から遠く離れた場所で……彼らは元からある建物の上に必要
::な場所では壁につっかい棒を入れながら建物を築き上げていた。
::ハリケーンには耐えられそうになかったし、“資産家”が占拠する
::真四角の賃貸マンションとも違った。家賃を払うという取り決めが
::一階の住人と彼らの間で結ばれた。狭い「通り」を挟んで向かい合う
::二階の部屋は部屋の間を結ぶ空中通路で結び付けられ、二人の
::大家に合わせて家賃を払うことになった。
::
::これらの寄せ集めの家々に共有物としてあるものは全て創意工夫と
::誇りに満ちた作品だった。整えられた菜園、花の鉢植え、塗りたての
::ペンキ。壁には子供用自転車が立てかけられ、料理のいい匂いが
::漂っていた。素朴な家々と言えるだろう。
::
::そこに住む多くの人たちはフルタイムの職で働いていた。毎朝、一
::番近い市バスのバス停まで三マイル歩き、夕方になると三マイル歩
::いて戻ってくるのだ。彼らは子供を学校に送り、私書箱で架空の住
::所を作った。何人かは引きこもりがちになる者もいたし不運に見舞
::われた者もいた。
::
::彼らは互いに助け合った。何か貴重なものが盗まれればお金を出し
::あって泥棒を探し出すための懸賞金にした。誰か一人が軒先で
::ソーダやサンドイッチを売る小さな商売を始めれば、他の者は彼女の店
::をひいきにした。医者にかかる必要のある者がいれば、みんなで
::無料診療所までのタクシー代を出してやるか、ちゃんと動く自動車を
::持っている者が連れて行ってやった。まるで遠い昔に失われた
::アメリカの町の隣人同士のようだった。それは私たちの遠い先祖が持ち、
::今では神話になってしまった市民的道徳の理想像だったのだ。通り
::にはいつも人の目があった。誇りある住人はみんなが何をやって
::いるのか知っていて、不品行な行いは行われる前にそれと知られて
::防がれた。
::
::しかしどういうわけかそれは焼け落ちてしまった。消防署は調査を
::しようとはしない。不法建築だからだ。それを理由にどうして火事
::が起きたのか気にも留めないのだ。火はほとんどの家屋と彼らの質素
::な所有物を焼き払った。放水はされなかった。消防署は最初、火
::を消そうとしなかったのだ。市庁の誰かが土地の所有者は消防員を
::土地に入れようとしないと言ったからだ。結局わかったところによ
::れば、オレンジ果樹園と四車線の幹線道路の間の細長い荒地の所有者
::は誰だかわからないらしい……数十年も前から続く土地所有権を
::巡る争いがそれを法律的にどっち付かずの状態へと追いやり、
::無断居住者をそこに居着かせたのだった。なんともうさんくさい話だ……
::これまで様々な人々が無断居住者立ち退かせようと試みたが法廷闘争
::がそのどっち付かずの土地での彼らの幸福な生活を守っていた。
::警察ができなかったことを火事がおこなったというわけだ。
::
::このストーリーはハッピーエンドで終わる。あの青年たちは彼らの
::工場にその無断居住者たちを引っ越させ、今ではドクター・スース
::が設計したような「職住一体」のマンション[写真ギャラリー]で
::仕事をおこなっている。前世紀のセントラルパークにあったホームレス
::のバラック街を見た当時の記者が語ったのと同様にそれは
::「狂った詩人が作り上げ、酔っ払ったつむじ風がまき散らした」ものの
::ように見えることだろう。
::
::昨年、市はここからほど近い場所に新しい公営住宅を作り、押しか
::けたソーシャルワーカーはスラム街の住人にその低家賃の高層ビル
::に引っ越すよう話している。住人たちは動こうとしない。「家賃が
::高すぎる」とXさんは語る。彼女は自分の家族をオクラホマに帰せ
::ば自分が夫や幼い娘と一緒に不法占拠した場所で暮らしているとい
::うことを知られると嫌がっている。「稼ぎで食事をテーブルの上に
::用意したいと思ったら家賃を払う余裕なんて全然ないのよ」
::
::彼女の選択は正しい。公営住宅は都市再開発の悪夢だ。犯罪と
::ジャンキーが満ち溢れ、小柄な老婦人であれば扉にはチェーンを三重に
::取り付け、食料品店では自動引き落としで支払いをするようにして
::現金を持ち歩かないようにしなければならないような場所なのだ。
::
::無断居住者の村はバラック街ではあったがスラムではなかった。
::改善の可能性に満ちた地域だったのだ。そしてあの青年たちは今まさ
::にそれをおこなっている。村を自分たちの敷地に移転し、安くて
::居心地の良い住まいを手早く建てる新しい技術を考案したり組み合わせ
::たりしているのだ。[写真説明:十軒の小屋とその内部のテクノロジー]

強烈な反響と議論が巻き起こった。何十人もの読者が彼女は不法占拠で土地を盗む詐欺師に騙されているのだと書いて送ってきた。予想通りのことだった……彼女自身、初めてあのバラック街を歩いて通り過ぎた時にそう思ったのだ。

しかしそれよりももっと彼女を驚かせたのは自動車、通り、無断占拠した家屋、掘っ立て小屋に住むホームレスの人々からのメッセージボードへの投稿とメールだった。それを読むと彼女の読者の半分は辛い眠りに耐え、図書館やスターバックス、あるいはたまたま見つけた場所のワイヤレスネットワークからネットに接続し、骨董品もののラップトップで街角からアクセスしているのかと思うほどだった。

「ケトルウェルがこっちを見に来るってさ」ペリーが言った。

彼女の胃が痛む。彼女はこの二人を厄介事に巻き込んだのだ。「怒ってた?」

「わからない……ボイスメールを受け取ったのは午前三時だ」サンノゼの午前零時にケトルウェルは怒りの衝動に襲われたらしい。「今日の午後にはこっちに着くらしい」

「あのジェット機のおかげで彼にとって動きまわるのは大した手間じゃないってわけね」彼女は言って背伸びをした。朝からずっとデスクでメールに答えたり、投稿前のブログ記事の校正をしたりしていたので肩が凝っていた。もう昼食の時間だ。

「ペリー」彼女は言いかけて口をつぐんだ。

「だいじょうぶ」彼が言った。「なぜああしたかはわかっている。まったく。君が俺たちについて書いてくれなかったら俺たちの今はない。俺はやめるよう言える立場じゃないのさ」彼は言葉を飲み込んだ。バラック街の住人が来てからの月日が彼を五歳ほど余計に老けこませていた。日焼けは薄くなり、目尻の皺は深く、刈り込んだ顎の無精ひげと髪には白いものが混じっている。「だけど俺たちがケトルウェルの相手をする手助けはしてくれるんだろう?」

「一緒にそばにいて彼が言ったことを書き留めるわ」彼女は答えた。「いつもやっているのと同じ手助けね」


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