メイカーズ 第二部, コリイ・ドクトロウ

第八章


マイアミに到着した時にはペリーは半分昏睡状態だった。ここ数日の酒浸りによるひどい二日酔いでまぶたが閉じたまま張り付いてしまったようだ。睡眠不足で体もうまく動かせず飛行機を降りる時には二度もつまずいた。かすれた声はかろうじて聞き取れるようなありさまでテキサスだかオクラホマだかでひいた風邪のせいで喉がひどく痛んだ。

レスターはトランクが回るベルトコンベアの向こうで待っていた。まるで聖なる愚者のようににたにたと笑っている。高い背丈に広い肩、肌は日に焼けてファトキンス独特のけばけばしく飾り立てた派手な服を着ている。体にぴったりと張り付くストレッチ生地の服はいたるところが輝いていた。

「おい、どうした。まるでくそみたいなありさまだな」おしゃべり相手のファトキンスの若い女との会話を中断して彼が言った。その手に携帯電話が握られているのにペリーは気がついた。女の番号は聞きだしたってわけだ。

「十だ」ペリーは風邪のせいで止まらない鼻水を垂らしながらにやりと笑って言った。「ライドが十できた」

「ライドが十だって?」レスターが答える。

「十だ。サンフランシスコ、オースティン、ミネアポリス、オマハ、オクラホマシティ、マディソン、ベリンガム、チャペルヒル、それに……」そこで彼は言葉を止めた。「それに……くそ、忘れちまった。全部、メモしてあるよ」

レスターは彼のカバンを受け取ると下に置いた。それから巨大な筋肉質の腕で彼を抱擁して押しつぶした。ファトキンスであれば誰もが発するケトン体のかすかな匂いがする。

「やったじゃないか、カウボーイ」彼は言った。「それじゃあとっととずらかって農場に戻ろうぜ。飯を食ってベッドに飛び込むんだ。それでいいだろう」

「寝ていいのか?」

「もちろんだ」

「四月まで寝ていていいか?」

レスターは笑うとペリーに肩を貸してスーツケースを拾い上げ、最新の彼の改造車まで駐車場を歩いていった。

暑く湿った空気を吸い込みながら車に乗っていると胸がすき、風邪による鼻詰まりも治っていくようだった。彼のまぶたは今にも落ちそうだったが道路脇のぐったりとした椰子の木や道路の中央分離帯をうろつくネット状の袋に大量のiPodやらvPodやらを詰め込んだ露店商の姿を見ると……我が家に戻ってきたんだという実感が湧いた。

レスターが彼のために作ってくれたのは巨大な皿にはいったスクランブルエッグだった。中にはコーンビーフやパストラミ、サラミやチーズが入っている。付け合せにザワークラウトの山が乗せられていた。「やれやれおまえ肉をつけろよ。がりがりにやつれているじゃないか、相棒」高カロリーな即席料理を手早く作ることにかけてはレスターは専門家だ。

ペリーは腹がはちきれるほど詰め込み、それから懐かしいシーツに懐かしい枕の懐かしい自分のベッドに倒れ込んだ。数秒で落ちた眠りはここ数ヶ月で最高の眠りだった。

翌日、目が覚めると風邪はひどくなっていた。汗まみれで体は強張り、枕から顔をあげることさえ難しかった。部屋に入ってきたレスターは彼の様子をしげしげと眺めると取って返して新鮮なオレンジジュースを一クォート、ポットにはいった紅茶、大量の何もつけていないトースト、それに風邪薬を一パック手にして戻ってきた。

「これを全部食って、調子が戻ったらライドまで降りてくるんだ。必要なら二、三日は俺があそこの面倒を見よう」

その日、ペリーはバスローブを着てリビングとテラスにおいた日光浴用の寝いすの間を行ったり来たりして過ごした。日光浴をしていると鼻水も少し治まってきたようだった。レスターの気遣いと風邪のせいで彼は子供の頃のノスタルジーに襲われた。彼が病気になると父親はひどく彼を甘やかしたものだった。

ペリーの父親は小柄な男だった。ペリー……彼も決して大柄な方ではなかったが……は十三歳になる頃には父親の背丈を追い抜かしていた。父親の姿は賢くてにこ毛で覆われた動物、アライグマかアナグマをいつも彼に連想させた。小さな手をしていてその身のこなしは控えめかつ器用で注意深いものだった。

二人はたいていのことでは互いを思いやり仲良くやっていたが今は遠く離れて暮らしていた。彼の父親は機械工場でCAD/CAMの管理者として働いていたが始めからそうだったわけではない。最初は昔ながらの機械工だった。他の全ての機械工と同じように工場で働き始めたが彼だけが新しく現れたコンピューター化されたデバイスへの過渡期を乗り切ったのだ。他の者は全員、くびになったか、早期退職したか、たんに仕事をやめた。だが彼の父親は全てを捨ててCAD/CAMを選んだのだ。彼はスクリーン画面に没頭し、十時間も十五時間も画面の前に座っていた後は疲労でよろめくようにして家の中を歩いていた。

だがペリーが病気になると大違いだった。ペリーの父親は看病ごっこが大好きだったのだ。仕事を投げ出して家にこもると大量の紅茶やビーフスープ、炭酸抜きのジンジャーエール、何もつけていないトースト、風邪薬と咳止めシロップを用意した。暖かい時には窓を開け放ち、冷たい風が少しでも吹き始めると家の中を駆けまわっては窓を閉めてまわった。

その最たるものがペリーが眠れなかった時に父親のやるパフォーマンスだった。ペリーを連れてアップライトピアノの置かれたリビングに降りて行くのだ。ピアノはペリーの祖父のものだった。彼……ペリーが生まれる前に亡くなっていた……はジャズピアニストでキャブ・キャロウェイからデューク・エリントンまであらゆる人間とセッションをしていた。

「準備はいいか、P」父親は尋ねたものだった。

いつだってペリーは父親がピアノのいすに座るのを見つめながら頷いて集中していた。

すると父親がピアノの演奏を始めるのだ。最初はおずおずとそれから叩きつけるように指先が鍵盤の上を駆け巡って即席のジャズの独演会が開かれる。時にそれは何時間も続いた。ペリーの母親が額縁屋での仕事を終えて家に戻ってきてようやく終わることも珍しくなかった。

ペリーの人生で父親の演奏する音楽ほど彼を捕らえて離さないものはなかった。その指先は踊っていた。文字通り、鍵盤の上で踊っていたのだ。まるで高く振り上げた両足のように右に左に歩きまわり、ちょっとしたコメディーのような動きを繰り広げた。まるでヤギの足のように関節に毛が生えた短くずんぐりとした指先がすばやく跳ねまわるのだ。

そしてその演奏だ。ペリーはときどきピアノを弾いてどんな組み合わせでも三本の指で叩けば和音になることを発見していた。だがペリーの父親はほとんど和音を鳴らさなかった。和音から外れた耳障りで違和感を感じさせる音を鳴らすのだ。そこには和音にならないように慎重に選ばれたあの神秘的な黒い鍵盤の音が含まれていた。

その調子外れの和音で調子外れの旋律を奏でるのだった。曲の中にはどこかに一ヶ所か、二ヶ所、メロディーがあってほとんどのメロディーはペリーが自分の部屋で聞いているような曲のものだったが時には昔のジャズやブルースの定番曲からとってきたもののこともあった。

その演奏はまるで長々と続く即興のノイズのようだったが本当のノイズというわけではなかった。最高の演奏だった。そこにメロディーが存在するかどうかペリーには答えることができなかったからだ。時にはわかることもあった。次に何が来るのか言い当てることもできた。切れ目なく演奏される旋律が「ヒア・カムズ・ザ・サン」や「レッツ・ザ・グッド・タイム・ロール」や「メリリー・ウィ・ロール・アロング」へと変わっていくことがわかるのだ。だがそこまでくると父親の演奏は別の曲へと移っていき、後になって振り返ってみるとそれは間違いようのない隠れた曲のパターンなのだった。

父親の好きなジョークがあった。「Time flies like an arrow, fruit flies like a banana時間バエは矢を好み、果物バエはバナナを好む」。これがなぜ面白いかと言うとこうだ。予測と違うものが次に続き、予測が裏切られた瞬間にただただ愉快な気分になる。腹を抱えて床の上を転げまわりたくなる。とんでもなく面白い。

普段演奏する時、父親は目を固くつぶり口をわずかに開けていた。ときには曲に合わせてうなったり、声を上げることもあったが演奏している曲とは正反対の何かを低い声で歌っていることの方が多かった。まるでたまたま自分がピアノで弾いているメロディーとリズムがたまたま自分の歌っている歌とは反対のもの、まさに完璧に反転したものなのだとでも言うかのようだった。そのせいでピアノの演奏と一緒にそれを反転させたものが否が応でも耳に入ってくるのだ。

父親が鍵盤の並んだピアノの横板を即興で叩き始めピアノの弦をハープのようにかき鳴らしペリーのティーカップを慎重に皿の上でかちゃかちゃと鳴らすとそれが遊びの終わるサインだった。

その演奏以上に彼の病気に効くものはなかった。演奏はすばらしい強壮剤で薬や紅茶やトーストやテレビを昼間に見られることや炭酸抜きのジンジャーエールよりもよっぽど効果があった。

ペリーの成長とともに父親とは女の子やパーティーや学校といったありきたりなことで親子げんかをするようになっていった。しかしペリーが病気になれば少年時代に戻って、驚くべきピアノの独奏会が始まった。父親のずんぐりとした指先がコミカルに高く振り上げられては鍵盤の上でしりもちをつき、喉の奥から反転した歌が低く流れ、最後にはティーカップとピアノの弦でその大騒ぎはフィナーレを迎えるのだ。

今、彼は水の入っていないプールを六階にあるバルコニーから気難しい表情で見つめていた。プールは転がってきたゴミや落ち葉、それに蜂の巣で占領されていた。父親の演奏が耳の奥の方で聞こえ、風邪も次第によくなってきていた。今は引退して故郷のウェストチェスター郡に戻っている父親に電話しなければ。近頃では互いに話をすることもほとんどなかった。年に三、四回、誕生日や記念日に電話するだけだ。仲違いがあったわけではない。日々の忙しさにかまけていただけだ。

父親に電話しなければ。だがその代わりに彼がしたことは着替えて近所のジョギングに出ることだった。何度か鼻をかむために立ち止りながらも彼はなんとかぜいぜいと鳴る肺から湿った瘴気を追い出そうとした。日の光が彼の髪を焦がす。いつもは子ガモの産毛のような彼の髪も伸びていくぶんぼさぼさになっていた。日光に頭を焼かれ、ついでに風邪も焼きつくされると彼は家に戻って大量のオレンジジュースを一気に飲み干した。ようやく人間らしい心持ちを取り戻した彼はシャワーを浴びて普段着に着替えると懐かしいチケットカウンターの仕事へと戻ったのだった。

行列は市場を横切って通りにまで伸びていた。行列に並ぶ人々の雰囲気は和やかでまるでパーティーのようだった。アイスキャンディーや自家製コーラ、巧みに折られた折り紙製のいすやダンボールをリサイクルして作った日光浴用の寝いすを市場で働く少年たちが元気に売り歩いている。何人かは彼に気がついて手を振ってからまた商売に戻っていった。

彼は露店の間を伸びる行列をたどっていった。露店商たちは少年たちにも増して嬉しそうだ。商品を並べれば端から売れていくのだ。行列にはありとあらゆる種類の人間がいた。年寄りに若者、流行りに敏感な者や保守的な痩せこけた南部人、赤ん坊を連れたラテン系の母親たち、無表情な都会育ちの不良ども、貧乏白人たち、淡い色合いの短パンを履いたマイアミビーチの同性愛者たち。ユダヤ人の老カップルもいた。奇妙な具合に髪を染め分けてシャギーカットにし、周りの人間の吸うタバコの煙を防ぐための防じんマスクをした者たちもいた。見る者が見ればヨーロッパからの旅行者とすぐわかる。冗談抜きに韓国人のツアー団体までいた。まるでディズニーワールドで目にするようなやつだ。日傘を頭の上にさし、汗だくになったスーツ姿の小柄な女性ガイドに先導されている。

「レスター、これはどういうことだ?」レスターの肩を叩いて笑いながら彼は言った。レスターはぞんざいに黒いマニキュアが塗られたゴス系の若者の指から五ドル紙幣を受け取っているところだった。「いったい何が起こっている?」

レスターが笑った。「驚かせようと思って黙ってたんだ、相棒。この客の入りは新記録だ……毎日、増えていってる。何時にオープンしようが何時に店じまいしようが関係なく行列ができているんだ。俺が追っ払わなくちゃならない始末だ」

「みんなどうやってここのことを知ったんだ?」

レスターは肩をすくめた。「口コミさ」彼は答えた。「考えられるなかで一番の宣伝方法だ。やれやれ、ペリー、おまえはこいつのコピーを作りたいっていう連中がいる場所を十ヶ所も周って戻ってきたんだろう……その連中はどうやってここのことを知ったと思っているんだ?」

ペリーは頭を振ってまたしばらく驚きの目で行列を見た。あの韓国人のツアー団体が近づいて来る。ペリーはレスターを軽く横に押しのけてからチケットのロールを取り出した。ずっと旅をしていた後ではその馴染んだ動作さえ懐かしかった。

ツアーガイドが二十ドル紙幣の束をカウンターに置いた。「五十人分ください」彼女が言った。「二五〇ドルあります」。彼女の発音はアメリカ人のものだった。メーソン・ディクソン線より南のどこかのアクセントだ。ペリーはてっきり韓国訛りのたどたどしい英語が飛び出すのかと思っていたのだ。

ペリーは紙幣の束をぱらぱらとめくった。「信じるよ」

彼女は彼に片目をつぶってみせた。「彼ら、飛行機から降りるとみんな同じ事を言うのよ。『ディズニーはもう結構。ソウルにもあるから。何か新しくてアメリカならではのものはないか?』ってね。それでここに連れてくるの。あなたたちは最高だわ」

まるで彼女とキスしたかのように心臓が飛び上がった。「中へどうぞ」彼は言った。「レスターが追加でライド用の乗り物を用意してくれるだろう」

「フル稼働中だ」彼が答えた。「ここ二週間、稼働率百パーセントなんだ。今、もう十台追加の注文を出しているところだ」

ペリーは口笛を吹いた。「それを言ってくれよ」彼はそう言ってからツアーガイドの方に向き直った。「少し待ってもらわなくちゃならないようだ」

「十分か十五分だね」レスターが言う。

問題ないわ」彼女は答えた。「この世の終わりまでだって彼ら待つわよ。買い物する場所さえあればね」確かにツアーの団体は胸像やプリントタトゥー、コンタクトレンズやアクションフィギュアやキッチン用品やライターを売り歩く露店商の少年たちに取り囲まれていた。

彼女が去るとレスターが彼の肩をつかんだ。「乗り物を入り口に戻すために追加で二人、子供を雇ったぜ」ペリーが出発した時には一日一回、店じまいの前にやれば済んでいた作業だ。

「まじかよ」入り口に向かうツアーの団体が少しずつ中に消えていくのを見守りながらペリーは言った。

「驚きだろ?」レスターが答える。「だがライドを見たらもっと驚くぞ!」

その日遅くになるまでペリーがライドに乗るチャンスはなかった。日が沈んで最後の店が閉まり、最後のライドの客が家へと追い立てられた後、彼とレスターはまだ少し水の残ったミネラルウォーターのボトルを潰してからチケットカウンターに座って疲れた足を休めた。

「さあ俺たちが乗る番だ」レスターが言った。「気に入ること間違いなしだ」

最初に気づいたのはライドがかなり手狭になっているということだった。彼が出発した時は巨大な空間……ウォールマートの廃墟全体……に小さな展示品が散らばっているという感じだった。ちょうど巨大な自動車展示会の会場のような感じだ。だが今では展示品は互いの姿を遮るように配置され、背丈の高い作品が並べられた場所は目隠しの壁ができたようだった。まるでカーニバルのお化け屋敷だ。

乗り物はゆっくりと最初の「部屋」を巡っていった。そこにはたくさんのがらくたが積み上げられていた。ニューワーク全盛期のおかしな発明品ではない。端がかけた人形用のゆりかご、女の子用の人形の小さなコレクション、床に転がるハンドバッグには誕生日パーティーでおどけてみせる幼い少女たちの写真がはいっていた。彼は苛立ちながらジョイスティックに手を伸ばし乱暴にマイナス一の方向に倒した……いったいこのがらくたは何だ?

その次の部屋は少年向けの戦車や自動車やトレーディングカードでいっぱいだった。中にはていねいに包装されたり額縁に入れられているものもある。使い込まれて角がとれ、ぼろぼろになっているものもあった。あらゆる時代のものがあってそのごたまぜの中に自分が少年時代に大好きだったおもちゃがあることに彼は気がついた。展示品は同心円上に並べられている……ロボットに最初から組み込まれている展示品配置パターンの一つだ……その中心では激しく振動しながら動きまわる家庭用ロボットが上へ上へと積み重なって螺旋状のタワーを形作っていた。このロボットの流行はありがたいことに短命に終わったがすさまじいものだった。ペリーにとっては自動車やカード、戦車やロボットが並べられているところを見るのは胸がつまるような思いだった。そこには家庭の雑用を自動化したいという意志、それに想像上の戦車で想像上の敵の想像上の軍隊を打ち破る純粋な喜びがあった。さらに言えばそこには収集の本能とでも言うべき何かが、全てのカードを集め、それぞれを完璧な状態に保ち、完璧な順番に並べ、しかる後その全てを忘却するという欲望があった。

彼の手はジョイスティックをプラス一の方向に倒した。いつもそうする時と同じように今回もはっきりとそうすべきだとわかったのだ。

次の部屋には彼にも見憶えがあるたくさんの古い発明品が置かれていた。しかしそれが並べられているのは輝く銀色のテーブルの上ではなかった。発明品は積み上げられた衣服の中に置かれていた。明るい色のありふれたTシャツの山だ。それはニューワークのそれぞれの発明品やチームのものだった。Tシャツの山にはドットコム時代のビンテージTシャツが混じり、その山の頂上に小さな女の子向けの人形が座って彼をガラス玉の瞳で見つめていた。人形はありふれたものだった。最初の人形の部屋にも同じものがあったはずだ。

次の部屋は以前の「キッチン」展示を元に作られていたが今では乱雑に乱れ、荒れ果てていた。流しには皿があふれ、カウンターに置かれた皿からはタバコの吸殻が溢れ出している。その前のリノリウムの床には三つに割れた皿が置かれていた。

ライドは続いていった。それぞれの部屋は彼が出発した時とは全く違うものになっていたがどこかしらに見憶えがあった。彼が出発した時のライドはニューワークとそれに関わった人々を称賛するものでそれについてはこのライドも同じだった。しかしこのライドはあまり直接的ではなく展示というよりもむしろ……。

「物語だ」ライドから降りると彼は言った。

「俺もそう思った」レスターが答えた。「どんどん物語のようになっていっている。あの人形を繰り返し登場させることでそうしているんだ。誰かが十個ほどあれを持っていて定期的に投げ入れた後でそれぞれのシーンでプラス一の小細工をしているんだろう」

「シーンか! そうだな。あれはシーンだ。まるでディズニーのライドだ。ファンタジーランドにあるちょっと暗いやつだよ」

「あんなくそと一緒にするなよ。俺たちのライドは結構いけてるぜ。むしろカリブの海賊の方があっている」

「好きなように呼べ。とにかくなんだってこんなおかしなことが?」

「とんでもなくおかしいってほどじゃない。物語といっても雲に浮かんだ顔程度のものさ。俺たち人間には無意味なものを無視して意味ありげなものを強化する能力があるんだ。人間が世界に意味づけして物語を仕立てあげるのはごく自然なことだ」

ペリーは頭を振った。「それ自分で考えたのか?」

「ある男が客にいてな。カルチュラル・スタディーズをやっている教授なんだが毎日のように来ている。そいつが教えてくれたんだ。俺たちがどうやってこの世界を解釈するのかが物語で、俺たちがどうやって自分たちの物語を選びとるのかが技術なんだとさ。

ギリシャ人を見てみろよ。ギリシャ演劇はみんなデウス・エクス・マキーナで終わる……脚本家は書くのに疲れたら神様をステージに引っ張りだして登場人物を指差させるんだ。そうすると全てがうまくいく。現代の物語ではこうはいかない。だけど当時はこの世界を観測したり記録したりする助けになる道具が無かったから、せいぜい言えるのはこういう風にして物事は進んでいくんだってことだけだった!

現在じゃこの世界についてもう少し詳しくわかっている。だから物語の登場人物は何が自分たちの抱える問題を引き起こしているかわかっているし、その原因を取り除こうと試行錯誤する。因果律に従う宇宙には因果律に従う物語だ。世界を因果関係の観点で捉えれば因果関係を探しまわるようになる……それが存在しない所でもな。ギャンブラーを見ろ。奇妙なカーゴカルトじみた考え方をする。ルーレットで三回連続で黒に来たから次は赤に違いないだとかな。こいつは迷信ってやつじゃない。それとは正反対のもの……因果律の暴走だ」

「これは俺たちの集合的無意識が生み出した物語だっていうのか?」

レスターは笑った。「そんな大げさなものじゃないと思う。どっちかと言えば日本でとれる蟹の方が近いな」

「日本でとれる蟹だって?」

「ティジャンがその話をした時におまえはいなかったっけ? それともロシアの蟹だったかな? まあいい。日本にはそういう蟹がいるんだ。甲羅が顔に見えるようなやつだ。もしそういうやつだったら漁師は海に投げて戻す。甲羅に顔がついた蟹を食べると災いが起きるって言ってな。だから顔に似た甲羅の蟹はより多くの子孫を残せるようになった。つまりその蟹の甲羅はどんどん顔に似ていったのさ。顔に似ていない甲羅の蟹が全て遺伝子プールから取り除かれたせいだ。そうなると漁師は選択基準を緩めることになる。少し顔に似ている甲羅の蟹は食べるようになるだろう。だが顔そっくりなのは食べない。次は少ししか顔に似ていない甲羅の蟹が全て取り除かれるわけだ。あとに残るのはそこそこ顔に似た甲羅だ。これが何世代にもわたって繰り返されてその結果、俺たちは現在甲羅に鮮明な顔を持った蟹を目にすることになったってわけだ。

俺たちはライドの客が物語的じゃない要素をライドから取り除くように仕向けちまったのさ。その結果、あとに残されたものはますます物語的になっていった」

「だがそれにしちゃあプラス一、マイナス一のレバーはおおざっぱ過ぎないか? ポインターか何か渡して気に入らない要素を指定できるようにすべきだ」

「こいつを後押ししたいのか?」

「おまえもそうだろう?」

レスターは力強く頷いた。「もちろん賛成だ。ただおまえはあんまり乗り気じゃないんじゃないかと思ってたんだ。ニューワーク関係の展示が目立たなくなるからな」

「冗談だろ? これこそがニューワークの本質である集団創作だ! これ以上に嬉しいことはない。まじな話……こいつは俺が作り出せるものよりもずっとクールだ。そのうえネットワークでのオンライン化も開始される……最高だ。想像してみろよ。最高に風変わりなものになるぞ。おい」

「かくあれかし、だな」レスターは答えた。腕時計を見て彼は悲鳴をあげた。「くそ、デートに遅刻しちまう。乗せていかなくても大丈夫だな?」

「ああ」ペリーは答えた。「自分の車がある。また後でな……楽しんできな」

「彼女、最高だぜ」レスターが言った。「以前は体重が九百ポンドもあって十年間、引きこもっていたんだ。彼女とやった男はみんな彼女の虜さ。なんでそうなっちまうかと言うと……」

ペリーは耳をふさいで見せた。「なになに。聞こえなーい。情報過多だ。レスター。まじで。情報が多すぎる」

レスターは頭を振った。「たいした堅物だな。まったく」

ペリーは一瞬、ヒルダのことを思い出してにやりとした。「その通り。俺は完璧な清教徒なんだ。行けよ。気をつけてな」

「安全に、健康に、淫靡に」レスターは言って車に乗り込んだ。

ペリーは店仕舞いを終えると市場を見回した。並んだ店の屋根が赤みがかった熱帯の夕日に輝いている。やれやれ。夕日までが懐かしかった。湿った熱帯独特の空気と通りを挟んだバラック街から漂う夕食を作る匂いを鼻から肺いっぱいに吸い込む。バラック街にはなかなか思うように足を運ぶことができなかったがそこは彼が訪れる度に姿を変え、より大きく、より複雑に変わっていった。

バラック街にはダーティーマックスという名のいいバーベキュー店があった。裏手に闘犬場がある薄汚れた店で客はやたらと友好的だ。そのあたりは常に人でごった返していて住人は手にしたスペアリブで脂ぎっている。そしてかたわらには捨てられた骨が溢れ出しそうな大きなバケツが置かれているのだ。

そこに向かってぶらぶらと歩きながら自分が最後に訪れてからバラック街がどれだけ変わったのかを見て彼は仰天した。以前はほとんどの建物が二階建てで三階建てはごくわずかだった。今ではほとんど全ての建物が四階建てで、通りを挟んで互いに向かって危なっかしく傾いでいた。電力ケーブルやネットワークケーブル、そして吊るされた洗濯物がぞんざいに紡がれた蜘蛛の巣のように頭上に張り巡らされている。新しくできた階は昔フランシスが説明してくれた驚くべきやり方で建て増しされていた。そのやり方というのはこうだ。ほとんどの者は自分の建物の上に建て増しをする権利を貸し出すか売り出す。そうすると今度は上の階の住人が自分たちの権利を売りに出すのだ。ときには二つの隣り合う建物の上に建て増しを考える三階の住人もいる。そうすれば大家族のためにもっと広い住処を作ることができるからだ。そしてそれをおこなおうと思えば両方の建物のそれぞれの階の「所有者」全員と交渉する必要があるのだ。

建物を見ているだけで高層階に現れるとんでもなく複雑にもつれ合った不動産と所有権の関係に彼の頭は痛んだ。そのうち開いた窓から洩れ出るのんびりとしたおしゃべりと音楽と赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。通りを子供たちが駆け抜けていく。子供たちは笑いながら互いを追いかけまわしたり、ボールをついたり、携帯電話でネットワーク通信のRPGゲームを遊んだりしている。ゲームをしている子供は曲がり角に来るとそこから覗き、他のプレイヤーを見つけると急いで頭を引っ込めて走り去った。

バーベキュー場にいたグリル係の女性が彼の名を呼んで出迎え、そこにいた人たちが彼のために場所を空けてくれた。友好的で気さくな雰囲気だった。しばらくするとフランシスが数人の弟子を連れてふらりと現れた。彼らはビールのはいった箱を運んでいるところだった。

「おいおい」フランシスが言った。「やっと帰ってきたか。ええ?」

「ただいま」ペリーは答えた。指についた肉のソースを拭くと彼はフランシスと心のこもった握手を交わした。「まったく。ここが恋しくてしかたなかった」

「俺たちもあんたがいなくて寂しかったよ」フランシスが言った。「それに道の向こうのあの人出だ。何か一山当てたみたいだな」

ペリーは頭を振るとほほえんで手にしたスペアリブを口に運んだ。「最近はどんな具合だ?」

「色んなことがあった」フランシスは答えた。「全部ネットがきっかけだ。色んな所からAARP全米退職者協会のメッセージボードに大量のアクセスが集まってな」

「それじゃああんたも一山当てたんだな」

「いいや。列車が来たから列車に乗る。無断占拠者が旬だから無断占拠に注目する。それだけさ。知ってるか? セブンイレブンがここに店をオープンしたがってるんだ」

「まさか!」ペリーは笑って肉を喉につまらせ、ビールでそれを流し込むんだ。

フランシスはしわだらけの手を彼の心臓の上に置いた。まだ彼が結婚指輪をしているのがペリーの目にとまった。彼の妻は何十年も前に亡くなっているというのに。「誓ってもいい。ほら、あそこだ」彼はにぎやかな街の一角を指さした。

「それでどうしたんだ?」

「失せやがれって言ってやったさ」フランシスは言った。「ここにはコミュニティーで経営している商売がたくさんあってセブンイレブンが俺たちのためにやってくれることはみんなそいつらがやってくれる。俺たちのコミュニティーの富をどこぞのまぬけな企業に吸い取られちまう心配もない。どれだけの金をやつらからふんだくれるか知りたがって不満を言うやつも何人かいたが俺が言ってきかせたんだ……セブンイレブンが俺たちに何をよこそうがそれはそれ以上のものを俺たちから得られると思っているからなんだってな。そいつらも納得したよ。その上、俺はそういうことの担当にさせられちまった……俺は議論じゃ負け知らずだからな」

「あんたは最高に優しい独裁者だな」ペリーは言った。彼は新しいビールに手を伸ばした。暑さとバーベキューの煙の中、外で飲むビールは格別だった。

「そう思ってくれるやつがいると嬉しいよ」フランシスは答えた。

「というと?」

「セブンイレブンのことでたくさんの人間が俺に腹を立ててるんだ。ここがどんな風にして始まったのか憶えていないやつらが大勢いる。そいつらからしたら俺はやつらを押さえつける気難しい老人ってわけだ」

「問題になりそうか?」この小さな居住地が深刻で大規模な無法地帯になる可能性があることを彼は理解していた。フィリピン人女性のメイドに貸し出され、彼のような起業家を困惑させたあの失敗した集合住宅とは違うのだ。警官が口実を付けて警棒(彼のおかしな形の眉がぴくりと動いた)と催涙ガスで武装して押し入ろうとする場所であり、非常に凶悪な人間が何人か暮らしていることは否定できない場所なのだ。マイアミにも悪党はいるが彼が問題にしているのはそういうことではない。

そういう悪党と秘められた混沌も彼がここを愛している理由なのだ。あらゆることについて予定調和で安全な場所で彼は育ち、彼は常にそれを憎んでいた。周りに広がる愉快な混沌状態こそ望むところだったのだ。薪の煙が巻き上がって鼻をつき心地良い匂いが心を浮き立たせた。

「わからんな。引退しておとなしく絵でも描いてようかとも思うんだ。要するに今じゃ俺はならず者の親分だ。別にそれに不満はないがとにかく仕事が多すぎる」

「ポン引き稼業は楽じゃない」フランシスの驚く顔を見て彼はペリーは急いで付け加えた。「すまない……あんたをポン引き呼ばわりしたんじゃない。ただの歌の一節だ」

「今じゃここにもポン引きがいる。売春婦もな。あんたが言ったようにここもそうなっているんだ。それでもまだ住みやすい場所なのは確かだ……俺に言わせればマイアミよりマシだ……だが本物のけだものに成り下がる可能性だってある。最低のけだものにな」

薪の煙の中に立って指を舐めながらビールを飲んでいるとにわかには信じられなかった。風邪も高温多湿の沼地の熱に焼き尽くされたかのようだ。

「そうだな。フランシス。もし平和を保つ方法を知っているやつがいるとしたらそれはあんただ」

「ソーシャルワーカーも巡回に来ては同じことを言う。だがここいらには小さな子供を抱えた者もいるんだ。そういう者はソーシャルワーカーに追い出されたり子供を連れ去られないかと心配している」

こんな風に愚痴をこぼすのはフランシスらしくなかった。そんな性格ではなかったのだが現に彼は今、愚痴をこぼしている。物事を仕切る精神的な重圧が見て取れた。自分の精神的な重圧も同じように表に現れているのだろうかとペリーは考えた。最近はこんな風に愚痴ばかりこぼしていただろうか? たぶんそうなのだろう。

落ち着かない沈黙が二人の間に広がった。ペリーはしかつめ顔でビールを飲んだ。自分が不機嫌かどうか考えて不機嫌になるなんて馬鹿げていると思ったが気分を切り替えることはできなかった。

その時、携帯電話が鳴りだしてそれ以上の会話から彼を救い出してくれた。ディスプレイを見て彼は頭を振った。またケトルウェルからだ。最初のボイスメールには彼も腹を抱えて笑ったが二、三日経っても二人から電話がかけ直される気配がないのをみて少しワインを飲み過ぎてその場の勢いで電話したのだろうと思っていた。

その二人が電話をかけ直してきたのだ。西海岸はまだ早朝のはずだ。二人が昔と変わっていなければワインをがぶ飲みするにはまだ早い時間だ。

「ペリー、ペリー、ペリー!」ケトルウェルだった。まるで酔っ払っているようだった。それとも単に興奮でおかしくなっているのか。ときどき彼がそうなることをペリーは思い出した。

「ケトルウェル。調子はどうだい?」

「私もいるのよ、ペリー。飛行機に飛び乗ってアメリカに戻ってきた」

「スザンヌか?」

「ええ」彼女が答える。その声は馬鹿に元気でまるで電話をかける直前まで二人して笑い転げていたかのようだ。「ケトルウェルの家にお世話になっているの。私みたいな気まぐれな放浪者を泊めてくれるのよ」

「二人ともずいぶん、あー、ご機嫌だな」

「すばらしい時間を過ごしているよ」ケトルウェルが言った。スピーカーフォンを通したその声はまるで井戸の底から聞こえてくるかのようだった。「思い出すのは君らのことばかりさ。今は何をやろうとしているんだ? ネットで調べようとしたんだが情報がごちゃ混ぜ状態でね。それでどんな物語なんだ?」

「物語だって?」

「君らのライドとそこにある物語については読んだよ。理解はさっぱりできていないがね」

「俺はその手のものを読まないんでね。だけど物語に関してはちょうど今夜、レスターと話していたところだ。そいつを話題にしているやつが他にいたとは知らなかった。どこでそいつを見たんだ?」

「それについてはメールする」スザンヌが言った。「とにかく今夜、そのことについてブログ記事を書くつもり」

「それであんたたち二人はサンフランシスコにたむろして笑い転げながら思い出話をしているのか?」

「まあそうだな! そろそろそうしてもいい頃だ。みんなずいぶん長い間、離れ離れだったしな。同窓会をしたいんだよ、ペリー」

「同窓会?」

「君らのところを訪れて君らが今何をしているか見物したい。私たちがどれだけ楽しくやっているか君にはわからんかもしれないがね、ペリー、これは真面目な話だ」ケトルウェルの声はまるでニトライト系のドラッグでもやっているかのようだ。「は楽しくやっているか?」

彼はその質問について考えた。「うーん。どうだろう?」彼は自分の旅のことを手短に話した。どの町にいつまでいたかを思い出すのは苦労したし、あの最高だったセックス……それを思い出したときにはヒルダと一緒にカプセルの中にいたあの夜のことが暖かな幻のように頭をよぎった……については話さなかったが。「どちらかと言えばイエスだな。楽しんでるよ」

「それは良かったわ。まあそんなわけで私たちはあなたたちを訪ねてあなたとレスターと楽しい時間を過ごしたいのよ。彼はまだそっちにいるんでしょう?」

スザンヌとの間で何があったのかはレスターに聞いていたがレスターについて尋ねる彼女の口ぶりからするとまだ何か裏の事情があるようだとペリーは感じた。

「当たり前だろう? 俺らを引き離したかったらバールが必要だぜ」

「ほら、だから言ったでしょう」スザンヌが言った。「ケトルウェルはレスターが退屈してどこかに行ってしまっていると思っていたのよ」

「まさか! やつのメッセージボードの書き込みとブログを見ていればあいつがここで工作仕事に精を出していることは誰だってわかる」あんたはやつのブログを読んでいるだろう、スザンヌ? だがそれを言う必要はなかった。電話の向こうで彼女が赤面する様子が想像できるようだった。

「それじゃあ明日でいいかな?」

「何が?」

「私たちがそちらに着くのがさ。妻と子供たちも連れて行くよ。ホテルの部屋をいくつかとって一週間ほどそちらに滞在する。盛り上がること間違いなしだ」

「明日だって?」

「午前のフライトが取れるだろうし朝食の頃にはそっちに着くよ。良いホテルを知らないか? カプセルホテルじゃないやつで子供と別部屋がいいんだが」

ペリーの鼓動が速くなった。あの二人のことが懐かしくてたまらなかった。二人は上機嫌に大はしゃぎしている。二人に会いたくて仕方なかった。彼は電話を消音モードにした。

「おいフランシス? この道を言った先のゲストハウスはまだやっているか?」

「ルルのところか? ああ。この前、建て増ししたばかりだ。隣の家の最上階を借りてな」

「完璧だ」彼は電話の消音モードを解除した。「バラック街の無断占拠者のゲストハウスに泊まるってのはどうだ?」

「うーん」ケトルウェルがうなったがスザンヌは声を上げて笑った。

「もちろんイエスよ」彼女は言った。「そんな顔しないでよ、ケトルウェル。冒険なのよ」

「そいつは大好きだ」ケトルウェルが答える。

「さすがだな。部屋をとっておくよ。いつまでいるんだ?」

「いなくなるまでよ」スザンヌが答えた。

「間違いない」ペリーは言って思わず笑ってしまった。記憶の中の二人とはずいぶん変わってしまっていたがそれでもやはり昔からの友達だ。そしてその二人が明日、彼に会いに来る。「いいだろう。部屋をとっておく」

フランシスに連れられてゲストハウスまで足を運ぶとオーナーはまるで二人が貴賓客であるかのように大騒ぎを繰り広げた。ペリーはその場を見渡した。魅力的な場所だ。おそらく夜になれば売春婦とその客が部屋を借りに来るのだろうと彼は見当をつけたが、それはヒルトンホテルだって同じことだ。

家にたどり着いたら倒れこんで眠ってしまいそうな状態だったが彼はどうにか目を見開いて車を運転した。しかしそれもベッドに這い上がって目を閉じるまでのことだった。そうなってみると彼は全く寝付けなくなってしまったのだ。自分の部屋のベッドに戻ってきたというのに何か落ち着かず興奮がおさまらなかった。起き上がって部屋の中を行ったり来たりしているとそのうちレスターが男狂いのファトキンスとのデートから帰ってきた。うそ臭いエピソードを山のように語るその顔は小さなキスマークだらけだった。

「誰が来るか聞いても信じないだろうな」ペリーは言った。

「スティーブ・ジョブズだな。仏教を捨ててラマ教の僧院を出て来たんだ。彼は全ての客にフリーなコンピューターを与えたがっているのさ」

「黙って聞けよ」ペリーは言った。「ケトルベリーとスザンヌ・チャーチだ。明日から期間未定で滞在する。同窓会だ。こいつは同窓会なんだぜ、この野郎! 最高だ! 最高だぜ!」ペリーはステップを踏んでみせた。「同窓会だ!」

しばらくの間、レスターは困ったような顔をした。その後その顔に現れたものは動揺だっただろうか? それから彼はにやりと笑うとペリーと一緒に飛び跳ねて回った。「同窓会だ!」

電話が鳴ったのはようやく眠りに落ちたと思った頃だった。時計の針は午前六時を指している。電話の相手はケトルベリーとスザンヌで時差ぼけで疲れ、フライト後の一時間に及ぶセキュリティーチェックに不機嫌になっていた。

「朝食が食べたいわ」スザンヌが言った。

「俺たちはライドの仕事を始めないとならないんだ、スザンヌ」

「朝の六時から? 来なさいよ。仕事を始めるまでにはまだ時間があるわよ。あなたとレスターと私たちでIHOPで会うってのはどう?」

「やれやれだ」彼は答えた。

来るのよ! ケトルベリーの子供たちは何か食べたくて死んじゃいそうだし彼の奥さんはを食べかねない様子よ。何年ぶりかしらね。本当に! さっさとシャワーを浴びてインターナショナル・ハウス・オブ・パンケーキズへ向かいなさい!」

レスターは簡単には目覚めなかった。しかしペリーは昔からの友達をベッドから引っ張り出す方法を知り尽くしていた。二人は結婚しているも同然なのだ。

二人が到着したのはちょうど朝の混雑する時間だったがトニーは笑顔で二人に挨拶して彼らを列の先頭に入れてくれた。レスターはいつものメニューを頼み(「キャンディーを三ポンド頼む。付け合わせで肉とポテトをつけてくれ」)、二人はそわそわしながらスザンヌとケトルウェル一家が姿を見せるのを待った。

彼らはタクシーで大騒ぎしながら到着した。旅行かばんを手にしてその両目は見開かれている。時差ぼけの子供たちはケトルウェルとケトルウェル婦人に抱えられていた。子供たちもケトルウェル婦人も二人と会うのは初めてだった。彼女は小柄な若々しい女性で歳は四十代半ば、見事にスタイリングされた髪型に大きな抽象的なモチーフのいかついシルバージュエリーを身に着けていた。スザンヌの姿はヨーロッパ風に変わっていた。ガリガリに痩せてタバコを咥え、地味な装飾のない黒っぽい服を着ている。ケトルウェルはと言えば完全な中年太りでその太鼓腹を腰のあたりに座った彼の娘がリズミカルに叩いていた。

「座って、座って」ペリーは言いながら立ち上がると彼らが旅行かばんをIHOPの中央にある長テーブルの両側に積み上げていくのを手伝った。大量の旅行かばんを持った大家族の集団はフロリダでは珍しくなかったので全員が席に座る時に、押しやられた常連客が軽くいらだちを見せた他にはたいして関心をひかなかった。

レスターとスザンヌが最後に隣り合って腰をおろすと早くも身を寄せ合っておしゃべりに夢中になるのを見てペリーは少し愉快な気分になった。小声で話しているせいで二人は互いの声を聞き取るために体を寄せ合わなければならないようだった。

彼はケトルウェル婦人の隣に座った。尋ねると彼女はエヴァと名乗った……「Extra-Vehicular Activity宇宙船船外活動と同じ綴り」彼女は彼と一緒に笑いながら言った。ケトルウェルは娘と息子をトイレに連れて行っていて、ケトルウェル婦人……エヴァ……はようやく大人相手に会話ができることにほっとしているように見えた。

「あなたはきっととても我慢強い女性なんでしょうね」自分たちの一団の大騒ぎを笑いながらペリーは言った。

「そう。たしかにそうね」エヴァは答えた。「我慢強さには自信がある。あなたは?」

「ええ。我慢強さは非常に重要ですね。特に俺の相手をする人にはね」ペリーは言った。その言葉にエヴァが笑うと魅力的な笑いじわとえくぼが浮かんだ。この女性とケトルウェルがどうやって互いに補い合っているのかが見てとれるようだった。

彼女は頭を左右に振るとウェイターがテーブルに注いで回ったコーヒーを飲み干して、テーブルに置かれていったポットからさらに注いだ。「合法な刺激剤に感謝しなきゃね」

「フライトは長かったんですか?」

「子供と旅行するのはいつだって大仕事」彼女が答える。「だけど子供たちは旅行が大好きなの。窓に張り付いているのを見せたかったわ」

「二人にとっては初めての飛行機?」

「私はキャンプに行くのが好きなの」肩をすくめて彼女は言った。「ランドンは子供たちをハワイかどこかに連れて行こうといつも言っているんだけど私はいつもこう返すの。『あなた。人生の半分をブリキ缶の中で過ごしているというのに……なんだって休日までその中で過ごしたいわけ? ヨセミテにいって泥だらけになりましょうよ』って。子供たちはディズニーランドにだって連れて行ったことはないわ!」

ペリーは額に自分の手の甲を当ててみせた。「そいつはこの辺じゃ異端だ」彼は言った。「フロリダにいる間に彼らをディズニーワールドに連れて行く予定は? 知っているでしょうがランドより大きいし……別の部門だ。ぜんぜん違うらしいですよ。俺が聞いたところでは」

「冗談でしょう? ペリー、私たちがここに来たのはあなたのライドのため。評判になってるわよ」

「たぶんネットでだけだ。たいしたことない」顔が赤くなるのを彼は感じた。「そうだ。もうすぐあなたの近所にも一つできるんですよ」彼はバーニングマンの集団とサンフランシスコ国際空港の南、一〇一号線の先にライドを作る計画について彼女に話した。

ちょうどその時、ケトルベリーが子供を連れて席に戻った。子供たちを席に座らせると彼はコーヒーを飲んだりテーブルの中央に置かれたバスケットからビスケットをつまんだり、手を止めて抗議の声を上げる子供たちの口に食べ物を押し込んだりし始めた。

「子供たちはお疲れだ」妻にキスするためにもたれかかりながら彼が言った。一瞬、彼がスザンヌの方に目を走らせたようにペリーは思ったがたぶんそれは思い過ごしだろう。スザンヌとレスターは二人の世界に没頭中だった。

「もうすこしで飛行機がおちちゃうところだったのよ」ペリーの隣りに座った小さな女の子が言った。たんぽぽの綿毛のように広がった髪に、真剣な表情の黒い瞳。りんごのような頬の間に大きな唾に濡れた口が鎮座していた。

「本当に?」ペリーは尋ねた。見たところ彼女は七、八歳くらいで店に入ってきた時からずっと弟に威張って指図をしていた。

真面目くさった顔で彼女は頷いた。エヴァをみると彼女は肩をすくめていた。

「本当?」彼は聞いた。

「ほんとう」今度は強く頷きながら彼女が言った。「テルリストが乗っていて飛行機をふっとばそうとしたの。だけど航空ほわんかんがそいつらを止めたの」

「どうしてそいつらが『テルリスト』だってわかったんだ?」

彼女は舌打ちすると目をくるりと回した。「ないしょ話していたの」彼女が答えた。「『キャプテン・プレジデントと自由の戦士たち』みたいだった」そのマンガのことは彼も少しは知っていた。ライドの前の露店で海賊版が売られているのだ。

「なるほど」彼は言った。「なるほど。航空ほわんかんがそいつらを止めてくれて良かったよ。パンケーキを食べる?」

「ブルーベリーバナナソースのかかったキャラメルアップルチョコレートパンケーキがほしい」ラミネート加工されたメニューの汁のしたたるフードポルノの下に書かれた説明文に丸々とした指先をはわせながら彼女は答えた。「おとうとはチョコレートミルクセーキとストロベリーソースのかかったにこにこピエロのワッフルセットをおねがい。だけど少しでだいじょうぶ。おとうとはまだ赤ちゃんだからあんまりたくさん食べられないの」

「そんなに食ったらお父さんみたいに太っちまうぞ」ペリーが答えるとエヴァが彼の横で吹き出した。

「太らないわ」彼女が答える。「私、ファトキンスになるもの」

「なるほど」彼は言った。エヴァは頭を振っている。

「いまいましいファトキンス宣伝広告のおかげ」エヴァが言った。「いまじゃいたるところにそれがあるんだから……デジタルカメラに、電話、シリアルの箱の中にさえ載っている。各階級の最低カロリーを摂らないといけないのよ。さもないと飢え死にしちゃうんだから。これはチャンピオン用」

「わたしは国内ランカーよ」メニューから顔を上げずに小さな女の子は言った。

ペリーがテーブルの向こうに目をやるとスザンヌがレスターの手の上に彼女の手を置いているのが見えた。レスターは彼女と一緒に何か楽しそうな話に笑っている。まるで姉か母親と過ごしているかのようにレスターはどこか少しびくついているようだった。

「スザンヌ」彼は言った。「最近はどんな具合なんだ?」

「ペテルブルクのことで手一杯ね」かすれた笑い声をとともに彼女が答えた。「ペテルブルクはまるでデトロイトとパリを掛け合わせたみたいよ。とんでもなく古びていて退廃的。ここ五年間ずっと動き回っている連続殺人犯がいるんだけどそいつの逮捕を阻む最大の障害は最初に現場に駆けつけた警官が賄賂と引き換えにやじ馬に証拠を記念品としてあげてしまっていることなのよ」

「まさか!」レスターが言った。

Oh, da, big vayいや本当だって」アニメの「ボリスとナターシャ」の口調を真似ながら彼女は答えた。「Bolshoi vay大まじさ

「なんでそんなとこに住んでるんだ?」

「我が家みたいなものだもの。デトロイトのかつての荒々しくて素朴な雰囲気があるし、シリコンバレーの熱狂的な活力もある。それが気に入っている」

「あっちに落ち着くつもりか?」

「そうね、そう聞かれると答えはノーだわ。長い間やっていくのは無理。だけど私の人生の今この瞬間にはもってこいなのよ。でもアメリカに戻ってきたことも同じくらい良かったと思っている。二、三ヶ月はこのあたりをぶらぶらしようと思うわ。ロシアは物価が安いからだいぶ貯金があるのよ。インフレで紙切れになる前に使い果たした方がいいと思って」

「ルーブルで貯めているのか?」

「まさか……ルーブルを使っているのは観光客だけよ。私が心配しているのはアメリカでもう一度インフレが起きること。やれやれ。あなた最近、ニュースを見ている? あなたが住んでいるのは第三世界の国なのよ、まったく」

山盛りの湯気をたてる食事がのった皿を手にしたウェイターが二人の間に割ってはいった。到着を待っている間に最初の朝食を済ませていたレスターの二回目の注文が他の者の朝食と一緒に到着したのだ。テーブルの上には食べ物が山と積まれ、皿の周りにはリンゴジュースのはいったコップとコーヒーポットがところ狭しと並んだ。

信じられないことに食べ物はまだまだ出てきていた……いくつものシロップのびんやハッシュドポテトの皿、ビスケットのかごとホワイトソーセージのグレービーソースがはいったボウル。注文がとられている時にはたいして関心も払っていなかったが状況から見たところペリーの食事相手はIHOP初体験でこの店がやばいということをよく知らない連中だったのだ。

彼はおかしな形の眉を笑っている彼女に持ちあげてみせた。「OK、確かに実際のところは第三世界の国ってわけじゃない。だけど今じゃ正真正銘の工業国ってわけでもないわ。たぶん近いのは末期のローマといったところかしら。富に溺れて貧困にもがいている」彼女はフォークを使ってハッシュドポテトを口いっぱいに詰め込むとコーヒーで流し込んだ。ペリーも自分の皿へと攻撃をしかけた。

ケトルウェルは子供たちに食事をさせながらその合間にこそこそと自分の分をかじっている。エヴァがその様子を満足気に眺めていた。「立派だわ。ランドン・ケトルウェル」まるでアーティストのようにナイフをふるって自分のステーキと目玉焼きを小さく几帳面なサイコロ状に切り分けながら彼女が言った。

「どうぞご自分のご朝食をお楽しみください。女王様」レーズンやバナナ、グラノーラ、それにボイセンベリーのジャムがはいったオートミールをスプーンですくって小さな男の子の口に運びながら彼が答える。

「あなたたちにプレゼントがあるのよ」バナナチョコレートキャラメルアップルをすくって口に運ぶのをつかのま止めて少女が言った。

「本当に?」ペリーがおかしな形の眉を持ち上げると彼女がくすくすと笑った。彼はもう一度眉を持ち上げ、今度は蛇のようにくねくねと動かしてみせた。彼女は思わずチョコレートバナナをテーブルに吹き出したがすぐに拾って口へと戻した。

力強く彼女が頷く。「パパ、プレゼントをあげて!」

ケトルウェルが返事をする。「誰かがおまえの弟に食事させてやらなきゃならないだろうが」

「私がやる」彼女が答えた。フォークで弟のオートミールをすくうと彼女はそれを小さな男の子の顔へと運んだ。「だからプレゼント!」

ケトルウェルはテーブルの下の旅行かばんの山を漁るとぱんぱんに詰まったおむつかばんを取り出し、手間取りながらそれを開けようとした。その間にも彼の娘は弟に食べ物を運びながら「プレゼント! プレゼント! プレゼント!」と唱えて急かした。エヴァとレスター、それにスザンヌが唱和に加わる。周りのテーブルの視線が自分たちに集まるのがわかったがペリーは気にならなかった。彼は脇腹が痛くなるほど大笑いしていた。

ついにケトルウェルが紙袋を取り出して勝ち誇った表情で掲げてみせた。そして娘の口を手で覆って静かにさせた。

「君らのための買い物は本当に大変だった」彼が言った。「全てを手にいれてその上、何でも作り出せる男二人に何を贈ればいいと言うのか?」

スザンヌが頷く。「間違いないわね。一日中あれでもないこれでもないって探し回ったのよ」

「それで何なんだ?」

「そうだな」ケトルウェルが答える。「まず何か実用的なものじゃないとだめだろうと思った。装飾品はだめだ。君らは装飾品なんか鼻にもかけない。残る選択肢は工具だ。君らが持っていないような工具を見つけ出してやろう。そうすればきっと感謝されるだろうってね」

スザンヌが話を引き継いだ。「アンティークの工具がいいって思ったのよ。いい作りの今でも使えるようなものがいいんじゃないかって。だけど便利なものってことはそれ以上改良しようのないものじゃないといけないし、実際には現代の製造技術の手が入ってしまっているものってことになるのだけれどね。

最初は古い巻尺にしようかと思ったんだけどあなたたちはたいていはキーホルダーに付けてるレーザーレンジファインダーを使っていたことを思い出したのよ。ドライバーやペンチ、ハンマーは全滅……あなたたちが持っているものを超える逸品を見つけることができなかった。技術っていうのは進歩し続けているのね。

古い真鍮製のアルコール水平器や手回し旋盤製の錘球なんかだったら良さそうなものもあったんだけど、どれも実用的と言うよりは装飾的で。とんでもなく古い鋼鉄製の作業ヘルメットなんかものすごくかっこよかったけどその重さときたらここで使われている安全ヘルメットの百倍もあるのよ。

諦めて大きな時代遅れの真空管アンプかイヌイットのガラスナイフにしようかとも思ったんだけどどっちにしてもあなたたちがそれを使っている様子が想像できなかった。

そんなこんなで工具自体を諦めてレジャー用品……スポーツ用具に切り替えたわけ。そこで鉱脈を掘り当てた。木製バット。いいわね。豚の本皮でできたフットボール。独特のスピンがかかるからうまく扱うには練習しなくちゃならない。だけど見つけ出したときには有望な鉱脈を掘り当てたって気になったわ」

彼女は大仰な身振りでケトルウェルの手から紙袋を取り上げて開けてみせた。そして一瞬の間の後、彼女は全く同じ二つの包装を彼らに手渡したのだった。プレゼントはザラザラしたリンネル仕上げの紙で包まれ、包装紙の上にはバットを振ったりフットボールを抱えて突進するスポーツマンの姿がビクトリア朝の木版画で刷られていた。

「じゃじゃーん!」

子供たちがその声に加わった。「最高のプレゼントよ」小さな女の子が上品な紙包みを慎重に開けていくペリーに告げた。

紙包みを解くと彼とレスターは手にした宝物を高く掲げた。

「野球グローブだ!」ペリーは言った。

「キャッチャーミットと野手用のグローブだ」ケトルウェルが言った。「キャッチャーミットを見てくれ。一九一〇年製だ!」それは黒く丸まっていて素材の皮は柔らかくしなやかだった。まるで古びたペンキ塗装のように小さなひび割れが入っているが表面には艶がある。オイルと革の香りが漂う。まるで紳士クラブか高価なブリーフケースを思わせるような古びた豊かな匂いがした。手にはめてみるとまるで吸い付いてくるようにぴったりで最高のつけ心地だった。あたかもボールを投げ込んでくれと叫んでいるようだ。

「そしてこの野手用グローブだ」ケトルウェルがレスターの持ったグローブを指して言葉を続けた。伝統的な黄褐色をしていて冗談のように大きかった。まるでマンガに登場するグローブのようだ。そのグローブも古びた見かけをしていた。よく使い込まれた革製でペリーのものと同じように革とオイルの神秘的な香りがした。ペリーが指先で触れるとまるで女性の頬のように滑らかで柔らかかった。「ローリングスXPGシックス。ミッキー・マントル。一九六〇年代初頭モデル……究極のグローブだ」

「セールストークは全部終わった? ダーリン?」エヴァが言った。口調に悪意は感じられなかったがケトルウェルは赤面してしばらくの間、彼女の方をにらみつけた。

ペリーがその沈黙に割って入る。「おいおい、これは……驚いた。すごい」

「最新製品より優れている」スザンヌが言った。「それが重要なところね。あなたたちでもこれをプリントアウトしたり、作ったりすることはできない。これのすばらしいところはとてもしっかりと作られていてしかもよく使い込まれていることなのよ! これだけいいグローブを作る方法は一つだけ。作った後で五十年から百年かけて何世代もの野球選手に愛用されること」

ペリーはキャッチャーミットをひっくり返してみた。百年以上前のものだ。ガラスケースにしまい込まれていたものではないのだ。スザンヌは正しい。これはすばらしいグローブだ。そしてそれは人々がずっとこれを使い続けてきたからなのだ。使い続けられることこそが必要なのだ。さもなければそれは実用に耐えるものではなくなってしまう。

「こりゃ野球ボールを買わなきゃならないな」ペリーが言った。

彼の横にいた少女がぴょんぴょんと飛び跳ね始めた。

「見せてあげて」スザンヌが言うと少女はテーブルの下に潜り、二つの白い新品の硬球を手に姿を現した。ペリーのグローブのポケットにぴったりとはまるサイズだ……まるで鍵と鍵穴だった。このポケットは何年もの間、たくさんのボールを収めてきたのだろう。

レスターも自分のグローブのポケットにボールを入れた。ボールを空中に投げ上げてつかむ。それを何度も繰り返した。その顔に浮かんだ心底満足している表情は間違いようのないものだった。

すばらしいプレゼントだ」ペリーが言った。「まじな話。お見事だ」

みんなが笑顔になりざわめく。次の瞬間、レスターの放り投げたボールがテーブルにぶつかった。ボールはブルーベリーシロップのはいったピッチャーを砕き、オレンジジュースのポットをひっくり返しながら転がって少女の前のチョコレートのかたまりに突っ込んで止まった。少女が笑い転げる。

これが部屋の中でボール遊びをしちゃいけない理由よ」スザンヌが言った。頑張ってしかめっ面を作ろうとしていたが吹き出さないように我慢していることは明らかだった。

ウェイターが慣れた手つきで飛び散ったものを拭き取り、レスターがきまり悪そうにそれを手伝った。彼らが全てを元通りに直している間にペリーがエヴァに目をやると彼女が自分の夫を見つめながら唇をすぼめているのが見えた。ケトルベリーの視線の先を追うと彼は一心にスザンヌを見ていた(スザンヌは笑いながらレスターがこれ以上『片付け』をしないように抑えている)。一瞬でペリーは事態を了解できた気がした。なんてこった、彼は思った。

子供たちはバラック街を大好きになった。小さな女の子……名前はエイダだ。「プログラミング言語と同じ綴り」とエヴァは説明した……は下に降りてひび割れたセメントの歩道を自分で歩くと言って聞かず、頭を前後に揺らして危なっかしく傾く建物を視界に収めようとしたり、人混みの通りを行き来して走り回るモーターバイクや自転車を目で追ったりしていた。バラック街の住人は自分たちの間をうろつく観光客に慣れていた。ジャマイカ系ギャングの何人かが彼らをにらみつけたがペリーが付き添っているのに気がつくと何か別のものに関心を移した。それがなんとなくペリーを誇らしげな気持ちにさせた。数ヶ月の間、留守にしたというのに街角にたむろする少年たちさえ彼が誰なのか知っていてちょっかいをだそうとはしないのだ。

ゲストハウスの女主人は戸口に立って彼らを迎え入れた。口伝えで既に彼らの到着を知っていたのだ。彼女は興奮気味にペリーと握手し、エイダにキャンディーをやり、小さな少年(名前はパスカル。「プログラミング言語と同じ綴り」と呆れ顔でエヴァは説明した)のあごの下をくすぐった。チェックインはカプセルホテルやヒルトンより簡単だった。利用可能な部屋の簡単な説明とちょっとした案内だけだ。ケトルウェル一家は最上階の屋根裏部屋を選んだ。部屋には二つの大型ベッドとベビーベッドがおさまり、見晴らしの良い窓からは曲線を描いて伸びる通りを眺めることができた。スザンヌはすぐ下の階の普通の部屋を選んだ。プラスチック製のフルーツを切り刻んだかけらと割れたソーダのびんで作ったすてきなタイルモザイクで飾られている(女主人は彼女の営むいわゆる「時間貸し商売」はそれ専用の階段があるゲストハウスの全く別の所でやっていることを裏でペリーに確約していた)。

数時間後、一人に戻った彼はチケットカウンターで働いていた。ケトルウェル一家は昼寝中、レスターとスザンヌはどこかへ観光に出かけていた。ライドに群がる人々は既に長蛇の列となって市場の中を蛇行していて、そこに露店商と物売りの子供たちが群がってなんとか客に手持ちの金を出させようとしていた。

まるで自分はカーニバルで大声を上げて客寄せをしているようだと彼は思った。右へ寄って、右へ寄って、ここは大事な出口なんだよ! だがその朝の客たちにはまったく浮ついたところが見えなかった……みんな真剣な表情で真面目に振舞っていた。

「楽しんでるかい?」ライドに乗るのが少なくとも二回目の若い女性に彼は尋ねた。中西部風の姿をした大柄な女性だ。歳は二十代くらい、大きい前歯に幅の広い肩をしていて色あせたインディアナポリス・フージャーズのベースボールキャップをかぶり、サンゴでできた装飾品をこれでもかと言うほど身に着けていた。「いや、あまり楽しそうに見えないから」

「ストーリーがあったわ」彼女は言った。「オンラインで聞いてはいたんだけどぜんぜん信じてなかった。だけど確かにあった。でもあれはあなたが作ったんでしょう? 自然にできたわけではないんでしょう?」

「いいや。自然にできたんだ」ペリーは答えた。女性は少し気味悪げな様子だった。彼は自分の心臓の上に手を置いた。「誓ってもいい」

「ありえない」彼女は言った。「だって本当に真に迫っている物語だった。誰かが作ったに違いないわ」

「たぶんみんなが作ったんだろう」ペリーは言った。「大勢の人間がライドにストーリーをつけたら楽しくなると考えて、そいつを作ったんだ。たぶんね」

「きっとそうね」女性は言った。「もしくはたんなる悪ふざけ」

その意味を彼が尋ねる前に彼女はライドの方へと進んでいった。彼女の後ろにいた三人の不良どもはチケットだけが目的で彼と会話をしようとはしなかった。

一時間後、彼女がまた戻ってきた。

「メッセージボードよ」彼女は答えた。「自分について何が書かれているか見ていないの? オセオラ郡に住んでいる男がいて彼が言っていたのよ。私にはよくわからないけど、これは私たちの内的な集合的非意識を映しだしたストーリーだとかなんとか」ペリーは「非意識」という言い間違いを笑わないように我慢した。「とにかくその意見にはたくさんの人が同意した。私はそうは思わないけどね。気を悪くしないでちょうだい。だけどこれはたんなるいたずらか何かじゃないかって私は思うの」

「何か、か」ペリーは言った。だが彼女はその日さらに二回ライドに乗った。そしてそれは彼女だけではなかった。何人もの客が繰り返しライドに乗った。露店の店主たちはわざわざこちらに来てときどきアイスクリームや豚肉のフライを買う他には客が買い物をしないと不平を言った。

ペリーは肩をすくめて何か人が買いたいと思うものを探せと言うしかなかった。その後、一人、二人の少年たちが目を光らせながらライドのチケットを買っていき(ペリーは値段を半額にしてやった)、これは店じまいの時間までにライドのレプリカの土産物が用意されることは間違いないなとペリーは思った。

レスターとスザンヌは昼を過ぎた頃に戻ってきてレスターが彼と交代してくれた。それでようやく彼はスザンヌを連れてバラック街のケトルウェル一家の所に行けるようになった。

「二人とも元気そうでなによりだ」ときどきレスターの方を振り返りながら市場の中を歩いていく途中、ペリーは言った。

スザンヌはあらぬ方に目をやっていた。「すばらしいわ、ペリー」露店の方を手で指し示しながら彼女は言った。その指し示す先にはバラック街の尖塔の群れやライドも含まれている。「あなたたちが成し遂げたことは……途方もない。そうじゃない? もしあなたたちの気質が少しでも今と違っていたらこれはカルトだわ。だけどあなたたちが何かを管理しているようには見えない……」

「それはそうだ!」

「……だけどどちらに進むかを指し示しているのは確かにあなたたちだわ」

「まさか……俺はただ言われた場所に行っているだけさ。方向を指し示しているのはティジャンだ」

「ここに来る前にティジャンとも話したけど、彼はそれはあなただと言っていた。『私がやっているのはただ帳簿を付けて契約を結ぶことだけです』って。一字一句違わずそう言ったわ」

「それじゃあ誰も方向を指し示したりしていないんだ。全ての物事にリーダーが必要なわけじゃない。そうだろう?」

スザンヌは彼に頭を振ってみせた。「リーダーはいる。それはあなた。周りを見て。私が最後にチェックした時、今週中にさらに三ヶ所でライドが営業を始めることになっていた。来月にはさらに五ヶ所。あなたの講演スケジュールを見るだけで頭痛がするわ……」

「俺の講演スケジュールだって?」

「そうよ。大忙しじゃない。自分でわかっているでしょう?」

ティジャンはしょっちゅう彼にメールで連絡をして来ていた。このグループだのあのグループだののところに行って話をしてくれと言うのだ。しかしスケジュール表を見せてくれたことは今まで一度もなかった。だいたいこれ以上、ウェブサイトを見るための時間をとれる人間がどこにいるのだ?

「まあそうだな。ここ一、二週間でもまた飛行機で飛ぶ予定だったはずだ」

「それがリーダーなのよ……人々を結集させて動かす人間だわ」

「ウィスコンシン州のマディソンで会った女の子がいるんだがきっとあんたと気が合うよ」ヒルダのことを考えると自然と笑みが浮かび、興奮と寂しさがわずかに頭をもたげた。あんな風に心と体を交わらせたのは二十代以来だった。

「いずれその彼女とも会うことになるでしょうね。そこのライドで働いているんでしょう?」

「他のライドにも行くつもりなのか?」

「私は何かを書かなくちゃならないのよ、ペリー。さもないとページビューが落ちて家賃も払えない。これは特ダネだわ……それも大物で、まだ他の人間は誰も気がついていない。こういうねたはお金になるのよ。家が買えるくらいのね。ここでの経験から言ってるのよ」

「そう思うかい?」

彼女は自分の心臓の上に手を置いた。「目利きには自信がある。あなたはここで信奉者を手に入れている」

「何だって?」

「物語を紡いでいる人たちのことよ。私はメッセージボードとブログをずっと読んでいる。いつだって最高のヒントが手に入れられるから」

ペリーは頭を振った。みんな彼よりそいつの言うことを信じているのだ。ライドをいじる時間を減らしてもっとインターウェブを読むことに時間を割かなければならないようだった。

「とにかくそれは全部、レスターのアイデアなんだよ」彼は言った。

表情を消して彼女は下を向いた。それが何を意味するのか、彼は不安になった。

「二人の絆はずいぶん固くなってるようじゃないか?」

「やれやれね。見たままよ?」

「そうだな」彼はごまかした。「ただレスターの言っていることが全てだってだけさ」

「彼のことは関係ない」彼女は答えた。

彼女がいくつか雑貨用品を必要としていたので彼は立ち並ぶ家々の奥に立つ小さな雑貨屋の場所を彼女に教えた。先にゲストハウスに行ってロビーで席をとっておくと彼は告げた。まだ抜けない風邪と時差ぼけ、それに仕事と極度の疲労に打ちのめされていたのだ。

旅先では勢いに任せて先へ先へと進んでいっていた。飛行機に飛び乗っては講演をこなしていった。家に戻ってみると目の前には日々の仕事が立ちはだかり、まるでこれまでの勢いを失ったようになる。

エヴァ・ケトルウェルはまるで何とか転げ落ちることを免れていると言うような音をたてて三段飛ばしで階段を駆け下り、ロビーに駆け込むと扉へ突進した。その背筋は強張り、腕を振り回し、顔には怒りの表情が浮かんでいた。

閃光のような速さで扉から飛び出すと通りに立ち尽くしてあたりを見回してから彼に向かって突進してきた。

やばい、ペリーは思った。


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