メイカーズ コリイ・ドクトロウ 第三部

第十三章


サミーは記者と自分のオフィスで会いたくなかった。彼の組織には昔のゴス系パークや果てはデス・ウェイツなんぞを信奉する者が多くいる。彼らは彼に対抗するための計画を画策していた。くそったれなインターネット上に彼のことを書き込んでいるのだ。彼が昼食になにを食べたかだとか、彼のオフィスで誰それが叫び声を上げただとか、客の数がどんな具合に減っていってるかだとか、デザインチームの者は誰一人新しいライドの仕事をしたがらないだとかそんなことをだ。

記者をオフィスに招くわけにはいかない……パークの一マイル以内でさえ無理だ。実のところ、サミーのいつものやり方であればことは全て電話で済む。だが彼が記者にメールをした時に相手はもうフロリダにいて会えることを楽しみにしていると言ったのだ。

フロリダにいるのは不思議ではない……相手はあのライドのことを取材しているのだ。

問題は誰も行かない場所、職場の人間が行かない場所を見つけることだった。要はできるだけ観光名所になっている場所……やたら値段が高くてごてごてと飾り立てられた場所だ。

キャメロットこそそれにふさわしい場所だった。以前は解体された競馬場だったがその後、スケートパーク、ダンスクラブ、安売りの籐家具のアウトレット店へと変わっていき、今ではオーランドで二番目に大きいアーサー王をテーマとしたレストランになっていた。バスいっぱいの飢えた胃袋をどこかで満たさなければならないパック旅行業者御用達の場所だ。退役馬の処分場で鎧を着込んだ男たちがゆっくりとした動作で一騎打ちするのを見ながら口やかましい女給に楽しい夕食の世話を焼いてもらうというわけだ。

サミーは二台の巨大なエアコン付き長距離ツアーバスの間に車を停めると入り口へと向かった。相手の男には自分がどんな風体かは教えてあった。その返信に男は明らかに宣伝用とわかる写真を添付してきたがその写真に写っているのは子供の学芸会で行われる真夏の夜の夢に登場する妖精パックのような姿だった……ぼさぼさの頭にいたずら好きそうな笑顔。

しかし現れた男は十歳も歳を取っていて黄ばんだ、歯並びの悪い歯が並ぶ口にはたばこを加えていた。何日も風呂に入っていないのは明らかでデニムジャケットの胸元には卵のかけらがこびりついている。

「サミーだ」サミーは言った。「君がフレディだろう」

フレディは顔を背けてたばこを吐き捨てると彼と握手をした。その手はべとべとと湿っていた。

「会えて嬉しいです」フレディが言った。「キャメロットねえ?」

「君のおふくろの味だと思ったんだが」サミーは言った。「タリホー、ピッピってな」

フレディが顔を歪めて嘲るような表情を作った。「冗談でしょう?」

「冗談さ。もし君におふくろの味を味あわせたかったらエプコットにあるローズ・アンド・クラウン・パブに招待している。古き良き宴をローズ・アンド・クラウンでどうぞ!」

「また冗談ですかね?」

「また冗談だ」サミーは言った。「ここはとびきりのローストビーフを出すし、プライベートな話にはうってつけなんだ」

「プライベートってのは叫びまわる大勢の頭の悪い観光客の面を嫌というほど拝がむって意味ですか?」

「その通り」サミーは自動ドアに向かって歩みを進みた。

「ところで入る前にいいですか」フレディが言った。「入る前に聞きたいんです。なぜあなたは私と話がしたいと思ったんです。ディズニーパークス重役殿?」

予測通りの質問だ。「遅かれ早かれ君が取材中のこのねたの行き着く先を知りたいと思うようになるのはわかっている。君が僕から話を聞き出すっていう形が僕の雇い主にとっては一番の利益になると思ったんだ」

記者の笑顔は陰湿で意地悪そうだった。「そんなとこじゃないかと思ってましたよ。私はあなたが喋ったことじゃなく私が見たものについて書くつもりです。そこは理解いただいてますよね?」

サミーは手を自分の胸にあてた。「もちろん。君に何かを頼むつもりは全くない」

記者は頷くとエアコンが効いて馬の匂いが漂うキャメロットの奥へと踏み込んでいった。出迎えたニキビ面の従業員はタイツを履いていてそのひょろ長いX脚がやけに目立った。長い鳥の羽がついた大きな先の尖った帽子を脱ぐと従業員はぎこちなく小さな会釈をした。「ようこそキャメロットへ。旦那様方。宴の準備は整い、我らが勇猛なる騎士たちはその名誉とあなた様方の慰みのために戦う準備が整ってございます」

フレディが目を剥いてサミーを見たがサミーは小さく前へ進む身振りをして出迎え係に二人分のチケットを渡した。リングサイドのチケットだ。彼はキャメロットのような所に行く時にはできるだけ店で一番いい席をとるようにしていた。

給仕の女中……女中の風変わりなコンタクトレンズとピアス、エレクトリックブルーのポニーテールは完全に場違いだった……に案内されて二人は席に落ち着いた。ローストビーフの注文が済むとピューター製の大ジョッキにはいった「エール」が出される。中身はバドライトだ。大ジョッキの腹にバドライトのロゴが浮き彫りにされている。

「それじゃあ、ねたを教えてください」フレディが言った。周りのテーブルの観光客たちは騒がしく、既に少し酔っ払っているようだ。ループするルネサンス調のフェスティバルのポルカ音楽のBGMにかき消されないように二人の声は大きくなった。

「そうだな。まず君が新しいディズニーパークスの組織についてどれくらい詳しいか僕は知らないんだが。多くの人が僕らのことをディズニーの子会社の一つだと思っているがそれは昔の話だ。IPO後は独立した会社になっている。たしかにディズニーが持つ商標のいくつかのライセンス事業とそれに基づいたライドの運営はおこなっている。だが実のところを言えば他の会社の商標ライセンスも積極的にやっているんだ……ワーナー、ユニバーサル、ニンテンドーといった会社だ。アステリックスの版権管理をやってるフランスのコミック出版社のような会社だって相手にしている。つまり組織には色々な人間の出入りがあるんだ。彼らは受託業者やコンサルタントといった人間でたった一つのライドやショーの設計のために働いている。

そのせいで企業スパイの機会はごまんとある。僕らが何の使用権をライセンスしようと考えているかわかれば競合は僕らに先んじたり、僕らをふりだしに戻すために排他的な契約を締結するチャンスを手に入れられる。ひどい話さ……やつらは『競合他社情報』なんて呼んでるが要はスパイ行為、ありきたりで古臭いスパイ行為なんだ。

僕らのところの従業員はみんな一度はどこぞの誰かに話を持ちかけられている……制服をくれ、デザインラフの写真をくれ、BGMを録音してくれ、契約書の写しをくれ、礼ははずむからってね。対象は通りの掃除人から上級管理職までいろいろ。目の前に金が転がっていて拾われるのを待っているんだ」

女中がローストビーフの乗った巨大なピューター製の皿を持ってきた。ヨークシャープディング、パースニップ、フレンチフライの山。アメリカ人中年の食欲を満たす危なげない取り合わせなのだろう。

フレディは喉に詰まるのではないかというほど大きくビーフを一切れ切り取るとフォークで突き刺した。

「その誘惑の毒気にあてられたあなたのとこの従業員について話をしたいと言うわけですか?」彼は肉の塊を口に押し込むと頬を膨らませたまま咀嚼を始めた。まるで口いっぱいの風船ガムを噛む子供のようだ。

「まさにその通り。僕らの競合は同じ土俵で僕らと競争したくはないというんです。やつらは模倣者以外の何物でもない。僕らが入念な調査とデザインとテストに基いて慎重に作り上げたものをやつらは横取りして、駐車場脇の娯楽ライド用にその模造品を作っている。粗雑で、安全性に注意を払いもしない! カウボーイとジプシーの所業だ」

フレディは咀嚼を続けたまま自分のスポーツコートのポケットを探り小さくて分厚いメモ帳とボールペンを取り出した。彼は体で隠すようにしながらいくつかメモを書き留めた。

「それでその愚鈍な模倣者どもがどう話に絡んでくるんです?」フレディはビーフの上に乗り出して尋ねた。

「あのニューワーク関係者のことは知っているでしょう……やつらは自分たちのことを『リミキサー』と称しているがそんなのはただの煙幕だ。やつらはポストモダンな『クリエイティブ・コモンズ』の申し子という衣装に身を隠すのがお気に入りだがひと皮むいてみれば他人の知的財産、他人が苦労して作り上げたデザインや技術を無償で使って富を収奪してるだけだ。

だからやつらがライドを作り始めた時にはそいつはぜんぜんたいしたものじゃなかった。埃が積もった共産主義者の博物館や、やつらの最後のムーブメントの古いトロフィーみたいなものだったんだ。だがいつからか機密情報をパークから盗み出して僕らの競合に手渡すことに長けたブローカーの一人とかかわり合いを持つようになった。それからは瞬く間に利益を出すようになって……ついには全国にフランチャイズ展開だ」そこで言葉を切ると彼はバドライトを一息に飲み干し、自分の話をこのジャーナリストがどれくらい信じているか密かに確認した。なんとも言えない。相手はまだレアローストで口をいっぱいにして咀嚼を続けていた。口の端からは肉汁が垂れている。だがその手はメモ帳の上を動きまわり、口の中の物を飲み込みながら話の先を続けるようじれったそうに頭を振って彼に促していた。

「何人かは侵害行為のかどでくびにしたがこれからももっと増えるだろう。キャストメンバーは五万人も……」記者がそのディズニー語法を鼻で笑って、喉を詰まらせ、ビールを一息に飲んで口の中に残っていたものを洗い流した。「……従業員は五万もいるんだ。やつらの協力者が増えるのは避けられない。一方でこいつに関わった従業員たちは悪党どもの最後の砦へ移住している。インターネットのメッセージボード、不機嫌なツイート、愚痴っぽいブログ。そういうところでせっせと僕らの悪口を言い合っている。僕らに勝ち目はないが少なくとも出血を止めることはできる。僕らが訴訟を起こして戦い続けるのはこういう理由からなんだ」

ジャーナリストの手がさらに動きまわり、新しいページに移った。「なるほど、なるほど。非常に興味深い。ですが対抗訴訟の件についてはいかがですか」

「あんなのはポーズだけだ。海賊どもは被害者ぶるのが大好きだからな。やつらは僕らのものをくすねて真似してきた。今度は自分たちの抱えた問題のために僕らを訴えたいんだろう。対抗訴訟の方法について知ってるか? 早々に和解に持ち込むだけでいい。『確かにこっちも悪かったがそっちも同じだ。この辺で握手して終わりにしないか?』」

「ふむふむ。それではあの知的財産海賊はラッキーパンチであなた方のライドを打ち負かし、さらに対抗訴訟で和解を引き出そうとしているというわけですか?」

「簡単に言えば。事件の背景や僕らの側の言い分を君に話したかったんだ。プレスリリースでは明かせないような話をね。やつらの話の背後にあるものを本気で調べているのは君だけだ」

フレディはローストビーフをたいらげた後はフライとしなびたヨークシャープディングに狙いを移していた。勢いよく給仕の女中に手を振ると彼は大声で叫んだ。「追加だ。我が恋人!」それからビールを一気に飲み干した。

サミーは冷めたディナーをいじりまわしたりフォークで突き刺したりしながらフレディが口の中のものを飲み込むのを待った。

「まあずいぶんときれいにまとまった小話ですな。ディズニー重役殿がオフレコで語るものとしては」不安の強いうずきをサミーは感じた。フレディの目が松明のように輝く。「ずいぶんときれいにまとまっている。

一つ私にも話をさせてください。まだ私が若くて記事を書くようになる前のことです。私は本当に取るに足らない仕事をずっとしていました。トイレ掃除夫、タクシー運転手、食料品店の品出し。どうして私のテクノロジー産業の記事が認められるようになったのかと思うでしょう。実際、大勢の人に聞かれる。

なぜそうなったか教えましょう。私が象牙の塔に住むブロガーどもや金を持った裕福なギークどもとは違うからです。保証を履行する気のないAppleに向かって彼らが上げる自慰的なわめき声がオンラインで企業批判と称してまかり通っているのを何度も目にしました。私は裕福な家庭の出じゃないし、いい学校にも通っていない。六歳の時にベッドルームにパソコンを置いてくれるような者は誰もいなかった。物書きとして誠実に働くことを諦める前は私も誠実な生活のために働いていたんです。

ともかくインターネットでの自慰大会には吐き気がする。ちゃんとしたビジネスとは比べ物にならない。あなた方ディズニーの人間は最低賃金やセクシャルハラスメントの問題を抱えてもちゃんとした労働権の州の労働政策をなし崩しにできる。殺人からだって逃げ出せる。あなた方を批判する者はみんなこんなふうに言う。ディズニーは労働者をそんなに搾取しているのか? 知的財産の侵害を取り締まるにしてはやり過ぎじゃないのか? そいつは本当に適切なやり方なのか?

私は記者です。あなたの会社があなたの言葉通りかどうかは確認していません。他の事業があなた方の事業に対して不公正な競争を仕掛けようが知ったことではない。私が気にかけるのはあなた方の事業が世界に対して公正かどうかどうかです。つまり金のない子供たちが両親にねだって必要もないがらくたに金を浪費させるように過度に仕向けてはいないかということです。私が気にかけているのはあなたのところの労働者が組合を作れず、くそみたいな賃金しか得られず、不平を言ったりあなたが事業を縮小する必要がある時にくびにされるという事実についてなんです。

私は権力とは無縁に育ちました。生活のために働いていた時、自分の運命については何の発言権も無かった。上司がどれだけの糞を私の前に積み上げたいと思っていようが関係なかった。私にできることは我慢して受け入れることだけだった。今では多少の力を手に入れました。私はそれを物事をあるべき姿にするために使おうと考えています」

サミーは飲み込むタイミングを逃したまま自分のローストビーフを咀嚼し続けた。自分が間違いを犯したという事実はフレディのちょっとした演説が始まった瞬間に明らかになっていたが、時とともにその間違いの深刻さはひどくなっていった。完全に失敗だ。吐き気が彼を襲った。この男は自分を攻撃するつもりだったのだということが彼にもわかった。

フレディは笑みを浮かべるとビールを飲み干して刺しゅうのはいったナプキンで顎ひげをぬぐった。「おや、見てくださいよ……馬上の槍試合が始まる」彼が言った。鎧を着て馬にまたがった騎士たちが槍を掲げて舞台を周っていた。観客は盛んに拍手を送り、マイクを通してアナウンサーがそれぞれの騎士の名前を告げてさらにテーブルの上のマットにプログラムが印刷されていることを言いそえた。

騎士がリングの縁に整列するとにきび面の従者が入場ゲートから飛び出して騎士の横についた。二人の目の前にも従者と騎士がいた。従者が二人に帽子を持ち上げて見せる。フレディはその少年に十ドル紙幣を手渡した。サミーはライブパフォーマンスにチップを払ったことは一度もなかった。ストリートミュージシャンや物乞いは大嫌いだった。ストリッパーのパンツに紙幣を挟んでやる行為を思い出してしまうのだ。彼が好むのはもう少し間接的な伝達手段だった。だがフレディがかすかな笑みを浮かべながら促すように彼の方を見たので彼はその従者に財布の中で一番額の小さな紙幣を手渡した……二十ドル紙幣だ。

馬上の槍試合が始まった。ひどいものだった。「騎士」の乗馬はぜんぜんなっていないし、その「槍」は茶番としかいいようのないほど大きくそれ、「敗北」は明らかに台本通りで彼の横にいた太った十歳児さえ驚かせはしていなかった。

「トイレに行ってくる」彼はフレディの耳元で叫んだ。身を乗り出した時に彼は密かに記者のメモ帳を覗き見た。卑猥な落書きで埋め尽くされていた。ミッキーマウスの股ぐらからそそり立つ勃起とそこで首を吊っているミニーだ。そこには文字は一つも書かれていなかった。サミーの頭から血の気が引いて足の方へと流れていった。彼は鉛のように重い足取りでよろめきながら汚れたトイレに向かって足を引きずっていった。

洗面台で冷たいを水を顔に浴びせかけると彼は自分の席へと戻っていった。今までこんなことはしたことがなかった。階段の一番上からリングサイドを見下ろすとエールを飲むフレディが女中といちゃついているのが見えた。馬の蹄が鳴らす轟音と映画音楽のサウンドトラックが他の全ての音を飲み込んでいたが馬が排泄する馬糞の悪臭があたりに立ち込めていた。馬の半分はパニック状態だ(もう半分は薬でも打たれてぶっ飛んでいるように見える)。

判断ミスだった。フレディは旨みのあるねたを好むゴシップ記者なのだ、そう彼は思った。同時にあの手のうんざりするような反企業タイプは喜んでサミーを晒し者にするだろうこともわかっていた。損切りのタイミングだ。

彼はきびすを返すとドアに向かって進んでいった。ドアマンはスポーツコートを着た男と一緒にたばこを吸っていた。男の襟の折り返しには支配人を表すバッジが付いている。

「もうお帰りですか? ショーはまだ始まったばかりですよ!」スポーツコートを着込んだ支配人は汗をかいていた。痩せた筋肉質で汚く栗色に染めた髪をまるでレゴの人形のように切り揃えていた。

「つまらんね」サミーは言った。「テーマから外れたスタッフのせいでのめり込めない。鼻ピアスに青い髪にたばこときたもんだ」ドアマンは気まずそうにたばこを駐車場の方に捨てた。サミーは少し気分が楽になった。

「それはまことにすみませんでした。お客様」支配人が言った。染めた髪の下に若白髪が見える。どう見ても三十五歳より上ということはないはずだ。三十五歳でこんな将来性のない仕事をしているのだ……サミーは今、三十五歳だった。自分の失敗の報いを受けることになれば最後にはこういう場所にたどり着くのだ。「コメントカードをご希望ですか?」

「いいや」サミーは言った。「トイレの清潔さと自分のところのテーマ設定の重要性を理解できないような人間には僕がアドバイスしたところで無駄だからな」ドアマンは顔を真赤にしてそっぽを向いたが支配人の顔は穏やかな笑顔のままだった。たぶん馬と同様、薬でもやっているのだろう。それがサミーを苛立たせた。「まったく。いったいいつまで待てばこの場所はもう一度ローラーゲーム場に戻るんだ?」

「払い戻しをご希望ですか? お客様」支配人が尋ねて駐車場の方に目をやった。サミーは相手の目線を追い、停まっている車の上を見てそこで突然、自分が熱帯の涼しい夕べに居合わせていることに気がついた。空は熟れたプラムのような色に変わり、それを背景に立派な椰子のシルエットがそそり立っている。風がその椰子のシルエットをゆっくりと揺すっていた。雲がいくつか明るい月の表面を走っていき、柑橘系の香りと虫の羽音、それに夜鳥のさえずりが夕べの空気に満ちていた。

彼は支配人に何か辛辣なことを言おうとしていた。この男を惨めな気持ちにさせようと最後の試みを企てていた。しかしもうどうでも良かった。彼の家の裏手にはネットの張られたすてきなポーチがある。そこにはハンモックがかかっているのだ。ちょうど今日のような夜はそこで過ごしたものだ。もう何年も前の話だ。今、彼は無性にそうしたかった。

「おやすみ」彼はそう言うと自分の車へと歩いていった。


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