メイカーズ コリイ・ドクトロウ 第三部

第三十九章


子供たちとともにフロリダを去って以来、ケトルウェルとエヴァの間では何かが変わってしまった。法廷での言い争いとまでは言わないが口論はしょっちゅうだった。フロリダに向かった時、二人は二つのチャンスを手にしていた……彼にとっての再び活動的になるチャンスと彼女にとっての再び幸福な暮らしを送る夫を持つチャンスだ。

気がつくと今では彼はエヴァがリビングルームにいるときにはこそこそとその後ろを通り過ぎ、ベッドで眠る時にはできる限り二人の間に距離を取るようになっていた。

エイダはレニチカのことを恋しがってずっと自分のベッドルームにこもり、その友達とインスタントメッセンジャーで話し込んだり、二人のお気にいりのゲームで冒険に出かけていたりしていた。ゲームでバービー人形や怪物と戯れたり衣装を買ったりするのだ。パスカルは二人の少女ご指名のマスコットだった時に集めていた注目を恋しがっていた。

これはケトルウェル一家の歴史上、決して好ましいことではなかった。

「もしもし」

「ランドン・ケトルウェルさんですか?」

「やあ、フレディ」彼は答えた。

「私もずいぶん有名になったものです」記者は言った。声を聞けば相手がにやにや笑っていることは明らかだった。その声を聞き間違えるはずもない……ケトルウェルはときどきスザンヌから転送されてくる嫌がらせのボイスメールでその声を聞いていた。

「調子はどうだい?」

「それはもう絶好調ですとも。ご丁寧にどうも。あなたはあまり調子が良くないと聞いていますが?」

「文句なしの絶好調だよ」

「それはよかった」よく言う。フレディは自分のことをユーモアを解す洒脱な人間だと思っているのだ。「本題ですがケトルウェルさん。電話したのはペリー・ギボンズとレスター・バンクスが直面している訴訟について取材するためなんです。訴訟費用をあなたが工面するという合意を一方的に破棄したせいで彼らは追い詰められています。あなたからこの事件のあらましををうかがえればと思って。弁護士はいないんですか? ギボンズとバンクスは訴えられるんでしょうか? あなたとそのスーツたちは仲間なんですか?」

「フレディ?」

「はい。ケトルウェルさん」

「私は子供でも馬鹿でも騙されやすいカモでもない。それから付け加えておくと気は長いほうだ。私を煽って何か言わせようとしても無駄だ。ひっかけで何か言わせることもできない。私はまだ電話を切ってはいない。だが君と話していて何かいいことが一つでもあると私に思わせないとそうするぞ」

「この記事は今日中に書き上げて発表するつもりです。あなたがコメントを拒否したと書くこともできますし、この問題に関するあなたがお持ちの何がしかの意見を書くこともできる。どちらがいいですか?」

「さようなら。フレディ」

「待って。ちょっと待って! 待ってください」

フレディの声の懇願するような響きをケトルウェルは楽しんだ。

「何かな。フレディ?」

「訴訟投資についての一般的な意見をお聞かせ願えないですか? 大勢の人間があなたに影響されて訴訟投資の機会を探しています。最近では巨額の金がそれを目当てに動き回っている。フロリダでの一件は訴訟投資が出口のない戦略だったことを意味しているのでしょうか?」

「もちろんそんなことはない」おもわずケトルウェルは答えた。これ以上この男と話をするべきではなかった。しかしこの質問には飛びつかざるを得ない。訴訟投資を思いついたのは他ならぬ自分なのだ。「ああいう大きくて古い会社には一般的に二つの特徴がある。まず何に使ったらいいかわからないほどの資産を溜め込んでいること。それから会社の金儲けのためなら法を破ることも厭わない役員に報いるという有害で独占的な企業文化があることだ。そしてそれは改善不可能なものなんだ。もしそうであれば死に体のフォーチュン一〇〇企業の資本を解き放って投資で働かせるべきだ。そのために必要な、大企業に対抗する合法的運営の小企業群は必ずみつかる」

「しかしフォーチュン一〇〇企業が訴訟ファンドに投資しませんか?」

ケトルウェルは嘲り笑いを押し殺した。「するだろうね。それで?」

「その、もしフォーチュン一〇〇企業を叩きのめすのが目的なら……」

「目的は有益な社会的価値を法廷と投資から引き出すことだ。今までは巨大企業が何か不正を行っている時には二つの結末しかあり得なかった。無罪放免されるか弁護士どもをとんでもない大金持ちにしてやるかのどちらかだ。訴訟ファンドはこの問題を解決する。巨大企業が逃げ出すためのコストを適正化し、そういう巨大企業がかき集めた資本を解放するんだ」

「しかしもし巨大企業の一つが他の巨大企業を叩きのめそうと投資したら……」

「数本の木々だけに寡占された森を見たことがあるだろう。わずかな数の木々の枝葉に全ての日光が遮られて光が地面に届かなくなっているような森だ。これは森の安定にはいい。だが安定性というのはマーケットで最も必要のないものだ。その巨大な木々の一本が倒れた時に何が起きるか考えてくれ。ばたーん! その場所には百万もの命が芽吹き、その木が独占していた光を求めて競争するだろう。マーケットではエコシステムの一部をのん気に支配している一企業を倒せばそこを新しい革新者のためのニッチとして解放することができるんだ」

「いったい何でそれが安定よりもいいんです? 雇用主の生存競争の結果がどうなろうがその企業の労働者には関係ないんじゃないですか?」

「おいおい。フレディ。そういきり立たないでくれ。もし君が被雇用者で雇用主と有利な取引をしたいと思っているなら働くことのできる企業が一つより五十あった方がいいに決まっている」

「それではもし訴訟でディズニーを叩きのめせばウォルトディズニーワールドで働く五万人の人々はあなたのお友達が作ったような小さなライドで働くことができるようになるとそう言うんですね?」

「仕事はいくらでも見つかるさ。フレディ。巨大な年老いた独占主義者に殴りつけられることを心配せずに誰もが革新的で小さなライドをオープンできるようにすればね。君はそんなに大企業が好きなのか?」

「ええ。だがそういうファンドに投資するのは小さな革新的なスタートアップではないでしょう?」

「ファンドが彼らの理念を支援すれば彼らも利益を得る」

「それであなたが手助けしようとしていたライドの人たちに対してはそいつはうまくいきましたか? 彼らはあなたと縁を切ったんですよね?」

自分が心の底からフレディを憎んでいることに彼は気がついた。生半可なものではない……心の奥深くから嘘偽りなしに憎んでいた。「ああ。くだらん理由でな。君は小さな会社は嫌いと見える。でかい会社も嫌いだ。労働者協同組合も嫌いだ。いったい私たちにどうしろというんだね? 身を隠して縮こまって死ねというのか? 君はそこに座って人に面白おかしいあだ名をつけたり、当てこすりの評論をしているがそういう君はいったいどれだけこの世界にいい影響を与えているっていうんだ。不平や中傷を言うだけのつまらんやじ馬じゃないか?」

電話の向こうは水を打ったように静かになった。「その言葉を記事にしても?」

「ああ。構わんよ」ケトルウェルは怒鳴った。毒食らわば皿までだ。「書けばいい。ついでに私の尻にキスしてもいいぞ」

「ありがとうざいます。ケトルウェルさん」フレディが言った。「ご提案、よく検討しましょう」

ケトルウェルは自宅の仕事部屋の中央で仁王立ちして四方の壁をじろじろと見回した。上の階ではパスカルが泣きわめいている。最近はこんなことばかりだ。深呼吸するとケトルウェルは頭を冷やそうとした。

その時、誰かが家のドアをノックした。とりあえず出てみるとそこに立っていたのは愛想のいい笑顔を浮かべ、こざっぱりとした身なりの二十代の黒人青年だった。

「ランドン・ケトルウェルさん?」

「誰が私を訴えているんだ?」ケトルウェルは一マイル向こうからでも被告召喚令状の送達者を言い当てることができた。

男は肩をすくめるとばれたことを恥じるかのように少し笑った。「私からはなんとも」彼は言うとケトルウェルに封筒を手渡した。差し出す時には襟につけたカメラにその宛名がはっきりと写るようにしていた。

「何かサインが必要かな?」ケトルウェルは言った。

「いりません」青年は言ってカメラを指さした。「全部ビデオに写っていますから」

「なるほど」ケトルウェルは答えた。「水でも飲むかね? それともコーヒー?」

「もてなしていただくわけにはいきません。これから忙しくなるでしょうから」若者は言って軽く額の前で敬礼をした。「ですがあなたはいい人のようだ。万事うまくいくことをお祈りしています」

彼が立ち去るのを見送ってからケトルウェルは扉を閉め、仕事部屋へと歩いて戻った。封筒の封を切ってその中身に目を通す。驚くようなことは何も書かれていなかった……レスターとペリーを支援していた投資組合の株主たちが彼を訴えたのだ。自分たちの代弁者たることに失敗したというのがその理由だった。

一分後にはティジャンから電話がかかってきた。

「やつら君も訴えたのか?」ケトルウェルは聞いた。

「たった今ね。予想外だったと言えればよかったんですがね」

「彼らのせいにできればよかったんだがな」ケトルウェルが答える。

「それはそうとフロリダがダウンして以来、ライドがどうなっているのか今週の状況を見ておくべきですよ」ティジャンが言った。「完全に変わってしまった。原因のほとんどは中西部だと思います。まあブラジル人たちもどうにか健闘を続けているようですがね」

「南米にはどれだけライドがあるんだ」

「ブラジルです!」陰気な含み笑いをしながらティジャンが答える。「確かな所は誰にもわかりません。彼らはプロトコルに改変を加えてみんなで一つのネットワークアドレスを共有しているんです。一部のライドは物理的な実体さえなくて単なる3Dバーチャルなものだと私は考えていますがね。直接リンクされているものもあります。現在の自分たちの状態と他のライドの状態をミックスしている連中もいる。かなり混沌とした状態です」

ケトルウェルは行ったり来たりして歩きまわった。「それじゃあ少なくともうまくやっている者はいるわけだ」

「訴訟の件ですがやつらは私たちをさらし首するつもりですよ」ティジャンが言った。「私たち二人ともをです。たぶん個人のライド運営者もそうするつもりでしょう。血に飢えている」

「大した金を失ったわけでもないだろう」

「そんなことはやつらには関係ないんですよ……ディズニーからむしり取れただろう金をみすみす失ったと感じているんだ」

「だがそれは二十年も後の、しかも高度に投機的な金だ」

電話の向こうでティジャンがため息をついた。「ランドン。あなたはとてもとても優秀な経営者です。今まで私が出会ったなかでは一番だ。だがあなたはちゃんと理解しておく必要がある。もっとも投機的な投資家だってたいていはあなたが自分のために稼ごうという金をどうやって使うかの心積りはあるんです。卵を抱える前に何羽の鶏が孵るか数えない投資家ばかりだったらあなたは一セントだって集めることはできないでしょう」

「ああ」ケトルウェルは答えた。そんなことは彼も知っていたが納得することはできなかった。彼は今までものすごい量の金……自分自身の金だったことも他人の金だったこともある……を勝ち取ったり失ったりしてきた。そしてそれを冷静に受け止める方法を学んできたのだ。みんながみんな楽天的なわけではないのだ。

「それでこれからどうします? 全てを失うというのは願い下げたいんですが」

「君はいつだってロシアに戻れるだろう」不意に怒りの感情がこみ上げてきてケトルウェルは言った。なんだっていつも自分が計画を考えださなきゃならないんだ? 「いや、すまない。弁護士どもが私たちになんと言ってくるかわかるだろう」

「ええ。ペリーとレスターを訴えろ、でしょうね」

「そして私たちはそれはしないとレスターに言った。まったく。この計画はたぶん大間違いだったんだろうな」

「まさか。そんなことありませんよ。あれは本当にいいアイデアだった。もし彼らとうまくやっていけたらあなたは彼らの面倒をみてやれたでしょう」

「それともし私が弁護士どもの手綱をしっかり握っていられたらの話だな」

二人とも不機嫌に黙り込んだまま座り込んでいた。

「私たちが誠実におこなってきた取引を彼らが一方的に打ち切ったのだという証拠を用意して弁解してはどうでしょう。そうすればあのろくでなしどもはペリーとレスターを訴えるし、私たちは約束を守ったままでいられる」

ケトルウェルは法廷に立つペリーの姿を想像してみようとした。銃撃され、腕を骨折し、催涙ガスを浴びせかけられてからこの方、あの男が神妙にしているところなど見たことがない。あれはほとんど病気だ。

「もっといいアイデアを思いついた」まるで頭の中で考えていることが漏れ出すように次第に声に興奮をにじませながら彼は言った。これまで何度か本当にすごいことを思いついた時に感じたあの燃えるような感覚が彼を満たしていた。「それぞれのライド運営団体に連絡をとって統括組織とは別に訴訟に参加しないか聞くのはどうだ? うまくいけば訴訟を続けられる。私たちも破滅せずに済むし、ペリーやレスターを犠牲にする必要もなくなる!」

ティジャンが声を上げて笑った。「そいつは……そいつは……すごい! 天才だ。ああ。それで問題なしだ! ボストンのグループはその話に乗りますよ。保証します。他にも五、六団体は乗ってくるでしょう。ペリーに邪魔立てをしないと約束させられれば間違いなしだ。少し話し合えば彼は確実に約束してくれるでしょう。これならうまくいく!」

「裁判で破滅するという危機感も時には頭を研ぎ澄ませるすばらしい影響を与えるものだ」皮肉めいた声でケトルウェルが言った。「子供たちはどうだい?」

「レニチカは不機嫌です。フロリダに戻ってエイダに会いたがっています。それからディズニーワールドに一度もいかなかったことも不満なようだ」

ケトルウェルは長いすに寝そべった。「最近、スザンヌのブログを見ているかね?」

ティジャンが笑った。「ええ。もちろん。ずいぶん盛大にディズニーを批判していますね。彼らには同情しますよ」

「おいおい。私たちが彼らの懐にあるものを全て奪い取るために訴訟を起こそうとしているってことはちゃんとわかっているんだろうな?」

「まあ、そうですね。だがそれは金だけの話です。スザンヌは彼らの命まで奪い取るつもりですよ」

それから二人で細かい点をもう少し打ち合わせ、近いうちに直接会うことを約束してからケトルウェルは電話を切った。そこで背後で誰かが動く気配がした。

「少年少女諸君。仕事部屋には入ってはいけない約束だろう」

「また何か始まるようね」子供たちではなくエヴァだった。彼は上半身を起こした。ドアの所に立った彼女は腕を組んだまま彼を見つめていた。

「ああ」少し口ごもりながら彼は答えた。彼女はとても美しい彼の妻でこれまでたくさんのひどいことに耐えてきていた。彼女に対する自分の態度を彼は密かに恥じた。立ち上がって彼女を抱きしめたかったが彼にはできなかった。

代わりに彼女が彼の横に座った。「あなた、忙しくなりそうだけど」

「いやいや。それぞれの運営団体全部のところに飛行機で行って、弁護士どもと打ち合わせをして、後ろ盾になる投資家を探すだけだ。そうだ。それから株主総会を開かなきゃならないな。うまくいくさ」

彼女の笑みは固く悲しげだった。「私、出て行くわ。ランドン」彼女が言った。

彼の顔から血の気が引いた。何年もの間、彼女は何度も彼の元を立ち去った。非は彼にある。だがこれまではいつだって白熱した半ばけんかに近い形でそれは起き、最後は仲直りのようにして終わった。今回は慎重に計画し、冷徹に実行に移された雰囲気が感じ取れた。

彼は姿勢を正して手を膝の上に置いた。他にどうしたらいいのか彼にはわからなかった。

彼女の笑みがしおれるように消えた。「あなたと私はうまくいかないわ。次から次へ問題が起きるこんな生活は私には耐えられない。あなたを愛しているからこそあなたが危ない目に会うのを見てられない。もう巻き込まれたくないのよ。あなたは自分が窮地に立っている時しか幸福を感じられないのよ。自分でわかっている? これから先ずっとこれが続くなんて私には耐えられない。互いの伴侶としてならずっとやっていけるけれど、ずっとストレス愛好家の妻でいることは私には無理だわ」

目新しい言葉は一つもなかった。二人の付き合いの中で彼女は同じことを手を変え品を変え何度も彼に叫んできた。今までと違うのは今回は叫んでいないということだ。落ちつき払い毅然として悲しげだったが涙は流していなかった。玄関ホールに立つ彼女の後ろで彼は彼女が自分のスーツケースと子供たちの旅行用の小さなスーツケースを荷造りするのを見守った。

「どこへ行こうっていうんだ」

「大学時代の友達のルーシーのところにお世話になるつもり。マウンテンビューの先の半島に住んでいるの。子供たちの部屋も用意してくれた」

彼女に怒鳴り散らしてひどい離婚劇を演じ、養育権を巡って裁判を起こしたかったが彼にはできなかった。彼女の言い分はまったくもって正しかった。反射的に反論しようにも彼にはそれができなかった。

そして彼女は立ち去り、ケトルウェルは豪勢なマンションに一人取り残された。手元に残ったものは電話とパソコンと訴訟とアイデアのあふれる頭脳だけだった。


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