地下室の手記 第一部 地下室, フョードル・ドストエフスキー

第五章


いやどうしてできる、どうしてできるものか、快楽を探して自らの屈辱感の中にまで踏み入った人間にいくらかでも自分を尊敬するなんてことが? 僕が今こんな事を言うのは甘い甘い後悔のようなものからではない。それに、だいたい僕は耐えられないんだ、「ごめんなさい、とうさん、これからはしません」なんて言うのは。というのもそんなことは僕には言えないからではなく、その反対で、たぶん、そんなことはいくらでも言ってのけられるからであり、それもどうだろう、僕はよりによって自分が悪いとは夢にも思わない、そんな場合に厄介を背負い込んだものだった。これがもう何よりたちの悪いところだった。それにまたその際僕は心から感動し、後悔し、涙を流し、そしてもちろん自分自身をだまし、といっても演技でもなんでもないのだ。これはもう心の垂れ流しであって・・・これではもう実際自然法則を責めるわけにはいかないが、それでもやはり生涯を通じていつも、何よりも僕を傷つけたのは自然法則なのだ。こんなことは皆思い返すのも不快だし、その当時だって不快なことだった。なにしろ一分かそこらのうちに、もう僕は腹を立てつつ、これはみんな嘘だ、嘘、胸の悪くなるようなわざとらしい嘘だ、この後悔も皆、この感動も皆、この再生の誓いもみんな嘘だと考えたものだ。だが訊いてくれたまえ、何のために僕がこのように自分自身を損ない、苦しめたのか? 答え。それは、何もせずにぶらぶらしているのがもうすっかり退屈だったから、そこで酔狂を始めもしたんだ。本当にそうなんだ。もうちょっとよく自分を観察してみたまえ、諸君、そうすればそれはそうだとわかる。せめて何とか生きていけるように、と自分自身で冒険を考え出し、人生を創作したんだ。僕には何度そんなことがあったろう―つまり、ただ、たとえば、腹を立てるのだ、そんなふうに、何のわけもなく、わざと。それにまあ自分でも理由もなく腹を立て、そのふりをしたのだとわかっていながら、最後には実際、本当に腹を立てるまで自分を駆り立てることがよくあった。何か僕は生涯、そういう悪ふざけをしたくてたまらず、それでとうとう、もう自分を抑えられなくなってしまった。それから無理やり恋をしてやろうと思ったことが二度もある。それで苦しんだのも、諸君、本当だ。心の奥では、お前は苦しんでやしないぞと思い、あざけりが沸き起こる、だがそれでもやはり苦しむのだし、それも本物、型通りにだ。すなわち、嫉妬をして、我を忘れて・・・それもみんな、諸君、退屈から、みんな退屈からなのだ。惰性にやられたのだ。なにしろ意識の直系、嫡出、直接の胎児はこの惰性、すなわち意識的に何もしないことだから。僕はこれについては前にもう触れた。繰り返すと、しつこく繰り返すと、猪突猛進の実務家が例外なく行動的なのは、彼らが鈍感で偏狭だからだ。これをどう説明するか? こういうことだ。彼らは愚鈍だから、目前の二次的な原因を根本的なものと思い込み、それゆえ、そうでない人たちよりすみやかに、簡単に自分の行為の不変の根拠を見つけたと確信し、それで落ち着きを得る。そう、とにかくこれが重要なのだ。とにかく活動を始めるためには、いかなる疑念も残さぬためにも、それに先立って完全に不安をなくすことが必要だ、さてさて、では僕などはどうやって不安をなくそう? 僕が納得する根本的な動機はどこにある、根拠はどこにある? どこから僕はそれを持ってくる? 僕は考える訓練をしている、従って、僕の場合どのような根本的動機も、直ちにその後ろから別のいっそう根本的なものを引き連れてきて、そうやって終わることがない。そういうことがまさしく、あらゆる意識と思考の本質である。これがやはり、またしても、自然法則ということになる。結局のところいったい結果はどうなる? そう、同じだ。思い出してくれたまえ。さっきほら、僕が復讐について話したろう(君たちはきっと深く考えもしなかったろう)。こう言った――人はそこに正義を見出すから復讐する。つまり、彼は根本的動機を見つけた、根拠を見つけた、それはすなわち、正義。従って彼はあらゆる面で安心を得て、その結果、公正な正義の行為をすることを確信しながら、心穏やかに、見事に復讐する。だが何しろ僕にはそこに正義が見えない、美徳もまた見出すことはない、従って復讐を始めるとしたら、悪意からというよりない。悪意、もちろんこれはあらゆるものを、僕のあらゆる疑念を圧倒しうる、そして、それゆえに、それが動機ではないからこそ、根本的動機の代役をこの上なく見事に務められるかもしれない。しかしいったいどうしたらいいいんだ、僕に悪意もなかったら(僕はさっきここから始めたんじゃないか)僕の敵意はまたもやあの呪わしい意識の法則により化学分解にさらされる。見れば、対象は雲散霧消し、動機は蒸発し、罪人は見つからず、侮辱は侮辱でなくて運命、つまり何か歯痛のような誰の罪でもないものとなり、従って、またしても同じ出口、すなわち壁を厭ってほど殴りつけること、が残される。なに、どうしようもないさ、根本的動機が見つからなかったのだから。そしてせめて当座は意識を追い出し、議論ぬき、根本的動機ぬきで、盲目的に自分の感情に溺れてみるがいい。憎しみを抱くなり、恋をするなり、ただぶらぶらしていないことだ。どんなに遅くても翌々日には、わかっていながら自分で自分をだましたことで自分で自分を軽蔑し始める。結果は、シャボン玉と惰性。ああ、諸君、僕がね、自分を知的人間とみなしているのは、ただ生涯を通じて何一つ始めることも、終えることもできなかったからかもしれない。上等、上等だ、僕はおしゃべりだ、みんなと同じ無害で煩わしいおしゃべりだ。だがじゃあどうするんだ、あらゆる知的人間に直接かつ唯一割り当てられたものがおしゃべり、すなわち空から空っぽへわざわざ移し変えること、だとしたら。


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