菊の薫り デーヴィッド・ハーバート・ローレンス

第一章


小型機関車第四号が、荒く身を揺すぶり、鋭く軋みながら、荷を満載した七輛の貨車を引いて、セルストンから下ってきた。威嚇するような轟きをともなう速度で、曲り角から出現したそれに驚き、子馬が、底冷えのする午後の風色のなかで朧ろに明滅する、ハリエニシダの茂みから跳び出して、諾足で機関車を引き離して行った。アンダーウッドの方へ線路を歩いていた一人の婦人は、生垣のなかへ身を避け、手籠を脇に抱え、機関車の踏み板が近づいて来るのを見つめた。緩慢な、強いられたような動きで、貨車が一輛ずつ鉄の重々しい響きを立てて過ぎる間、その婦人は、震えながら進む黒い車輛と、生垣とに挟まれ、身動きできず、小さくなって佇んでいた。やがて機関車は、線路の弧に沿って、樫の枯れ葉が音もなく落ち重なる雑木林の方へ、段々と消えて行き、線路の脇の紅い茨の実を啄んでいた鳥たちも、木立を静かに包みはじめた黄昏を目ざして、飛び去った。機関車が吐き出した煙りは平原に沈み、荒草にこびり付いた。野原は暗澹とし、寂然として、岸に葦の生い茂った、炭鉱用の溜め池につづく、狭い沼地の上、榛の木立を走り回っていた鶏たちも、すでに黒塗りの鳥小屋で眠りについている。その溜め池の向こうには、竪坑口がぼうっと浮かび上がり、午後の淀んだ薄明のなかで、赤い創痍のような焔がその灰色の片陰を舐めていた。さらにその直ぐ背後には、ブリンズリー炭鉱の先細の煙突と、不格好な二本の滑車塔が突き立ち、その二つの滑車が、天に向かって勢いよく捲き上げられると、昇降機が小刻みに喚いて震えだす。そして坑夫たちが引き上げられて来るのだった。

機関車は汽笛を鳴らしながら、炭鉱の片辺りの、貨車が幾列にも連なって待機している、広い線路だまりへ向かう引き込み線に、入って行った。

坑夫たちはくたびれて足を引き摺りながら、独りで、或いは群れになって、影のように歩み去り、家へつづく小径へと折れて行く。──待避線が畝のように並んだ平ら地の端、石炭殻を敷いた路から幾つか段差を下りたところに、一軒の粗末な家がうずくまっていた。太く節くれ立った蔦が、あたかも瓦の屋根を引き剥がすかのように、その家に絡み付いている。煉瓦敷きの庭の周りには、冷たい桜草が咲いていた。そしてその先には、庭が坂になって、薮に覆われた小川の湾曲までつづいている。その斜面には痩せた林檎の樹や、冬に凍えて裂けた樹々や、屑のように散らばるキャベツの骸があった。庭を通る小径の傍らには、薮に引っかかった桃色の襤褸布のような、醜く、見境なく蔓延った桃色の菊が漂っていた。その庭の中程にある、フェルトの屋根を被った鶏小屋から、一人の女性が、身を屈めて出て来た。彼女は扉をしめて錠を掛けると、白いエプロンの羽毛を払って、毅然と姿勢を正した。

彼女は鮮やかな黒い眉を持ち、見目に美しさをとどめた、高慢な物腰の婦人だった。そのなめらかな黒髪には、綺麗な分け目がつけられていた。線路に沿って過ぎ去って行く坑夫たちを、彼女はしばらく身じろぎせず、佇んで眺めていて、それから、向き変えて小川の方を見やった。固く、静かな表情をした彼女の口許は、なにか気落ちしたように結ばれていた。やがて彼女は声を上げた。

「ジョン!」応えはなかった。待ってみて、ふたたび彼女は声を張り上げた。

「どこにいるの?」

「ここだよ!」と、不貞腐れた子供の声が、薮から聞こえて来た。婦人は黄昏の奥に目を澄ませた。

「どこ? 川の側にいるの?」彼女は厳しく訊ねた。

それに応える代りに、子供は鞭のようにしなるラズベリーの灌木の前に、姿を現した。小柄で、健康そうな五歳の少年だった。彼は冷静に、利かん気を見せて立っていた。

「おやまあ!」と、母親は苛立ちを解いて言った。「小川の縁まで降りてったかと思ったわよ。いいこと、前にも言ったとおり──」

少年は静かに立って、何も応えずにいた。

「まあいいわ、こっちへおいで、」と、彼女は優しげに言った、「もう真っ暗よ。それにお祖父さんの機関車ももうすぐ来るわ!」

男の子は剥れた顔で、渋々と、のろくさした足取りで従った。少年は、子供の服にしては厚くてごわごわした生地の、スボンとベストを着ていた。それは明らかに大人の服を仕立て直したものだった。

二人がゆっくりと家に向かって歩いて行く途中、少年は伸び盛った菊を幾本か摘み取り、手でもいだその花びらを、小径に落として行った。

「そんなことしないの──ひどく意地悪いことよ、それは、」と母親は言った。少年が悪さを止めると、彼女はふっと可哀想に思って、三、四の青白い花の咲いた小枝を折り取り、目の前にかざして見た。二人が家の内庭まで来た時、彼女の手は少しためらったが、その花を脇に放っておく代わりに、自分のエプロンの帯に差し込んだ。母親と息子は、段差の上がり口に佇み、鉄道の引き込み線の向こうを歩き過ぎてゆく、坑夫たちの帰り姿を眺めていた。やがて小編成列車の低く喚く音が迫って来た。そして突然機関車が、家の先に不気味に姿を現わし、門口の向かい側に止まった。

機関車を運転していた、柔らかい灰色の髭を持つ背丈の低い男は、婦人の頭上高く、運転台から身を乗り出した。

「紅茶を一杯もらえるかね?」と彼は陽気な、かくしゃくとした声で言った。

彼は婦人の父親だった。今淹れます、と言って彼女は家の中へ入った。それから直ぐに戻って来た。

「日曜には寄れなくて済まなかったね、」と、灰色の髭をした小男が、口を開いた。

「多分来ないと思ってたわ、」と娘は言った。

運転台の男は、少したじろいで、それから、ふたたび快活で軽妙な態度を取り戻して言った。

「それじゃ、もう聞いているのかい? ──で、おまえはどう思うかね?」

「まだ早すぎると思うわ。」彼女は応えた。

この素気ない非難に対して、小男はきまり悪げな仕種をして見せ、それから、宥めすかすように、しかし険しい冷やかさを含んだ声で、言った。

「そうかい? といって、他にどうしろって言うんだ? 自分の家の炉端に、独りで不具みたいに坐ってるなんて、俺くらいの年頃の男にとっちゃ、生きているとは言えんような様だよ。俺が再婚するとしても、むしろ遅すぎたというもんさ。それに、それで誰に迷惑がかかるというんだね?」

婦人は返事をせずに、背を向けて家の中へ入って行った。彼女が一杯の紅茶と、一切れのパンとバターを載せた皿を持って出て来ても、運転台の男は、強面をつづけて立っていた。彼女は段差をのぼり、蒸気に軋る機関車の踏み板の側に立った。

「パンとバターまで付けてくれる必要はなかったんだがな、」と父親は言った。「だが紅茶はありがたく頂こう、」──彼はゆっくりと紅茶を啜った──「こいつは美味い。」彼はしばらく紅茶を味わってたが、その後、「今夜もまたウォルターは、酒場で飲み惚けてるみたいだな、」と言った。

「そうじゃなかった日がありますか?」と婦人は苦々しげに言った。

「聞いたところじゃ、奴は持ち金をあらかた飲むまでは帰らねぇと、《ネルソン提督亭》で息巻いてたそうじゃないか。握ってたのは、半ポンド金貨だったらしいがな。」

「いつの話?」

「土曜の夜さ──確かな噂だぜ。」

「ありそうな事だわ、」と、彼女は憎さげに笑った。「ウォルターは、二十三シリングしか私に手渡さないもの。」

「まったく! 大の男が獣みたく呑んだくれるほか、金の遣い道を知らんとは、結構なことだな、」と、灰色の頬髭をした男は言った。婦人は顔を脇へそむけた。彼女の父親は、紅茶の最後のひと滴まで飲みほしてから、彼女にカップを返した。

「まったくな──、」と、彼は口を拭って、溜め息をついた。「見下げ果てたもんだな。」

彼はレバーに手を添えた。小型機関車は軋み、唸り出し、踏切に向かってよろめき進み始めた。婦人はふたたび、線路の向こうを眺めやった。鉄道と貨車の並び連なった土地に夕闇が降りて来ている。家路を帰ってゆく、灰色にくすんで群れる坑夫たちの姿は、まだあった。捲き上げ機は小止みを挟んでは、急くように小刻みに鼓動していた。婦人は──エリザベス・ベイツは、陰鬱に歩く男たちの連なりを、しばらく眺めていてから、家の内へ戻った。彼の夫はまだ帰らなかった。

小さい台所は暖炉の火明りに充ちており、積み上げられた赤い熾は、熱のゆらめきを煙突口まで重ねていた。その部屋の生気は、すべて、仄白い暖かな炉辺と、鉄の前囲いに映える赤い焔に集まっているかのようだった。お茶のためにテーブルクロスが広げられ、影ろいのなかにカップが煌めいていた。その奥、ちょうど階段の最下段が部屋に突き出たところには、ナイフを片手に、シナノキの木切れを一心に細工している少年が腰掛けていた。彼の居る場所はほとんど火明りの陰になっていた。時間は、すでに四時半だった。それでも父親が帰って来るまでは、お茶を始めるわけにはいかない。木端を相手に手こずっている息子を眺めていた母親は、その息子の無口で、根気強いところに、彼女自身の面影を見出した。そして自分の事より外にはまるで無関心な、息子の様子に、父親の面影を見た。彼女は夫の事に思いを馳せた。おそらく彼は家庭のことを見ぬ振りして、こそこそと我が家の戸を素通りして、ないがしろにされた彼の夕飯が冷め、台無しになるのも構わずに、帰る前に酒を飲みに行ったのだろう。彼女は時計を一瞥し、ジャガイモのゆで汁を内庭に捨てにゆくため、鍋を手に取った。庭と、小川の先の野原は、不確かな暗闇に閉ざされていた。背後の闇夜に、湯気の立つゆで汁を捨て去って、鍋を持って胸を起した彼女の眼に、丘を這い上がり、平野と鉄道の敷地を越えて伸びてゆく街道に沿って灯る、黄色い明りが映った。

そして彼女は、列をなして家路を歩く男たちの、ますます疎らになってゆくのを、もう一度見つめた。

家の中では暖炉の火が衰えつつあり、部屋は臙脂色に薄暗くなっていた。婦人は鍋を暖炉の横棚に置き、バタープディングをオーブンの入り口近くに据えた。そうして、じっと身じろぎせずに立っていた。──間もなく、婦人の不安を打ち消すように、敏捷で元気一杯の足音が戸口から聞こえて来た。しばらく戸の掛け金を弄る音がして、それから直ぐ、帽子の下、金色から茶褐色へと色づきつつある豊かな巻毛を、眼に掛かるように垂らした、小さな女の子が、上衣を脱ぎかかりながら部屋へ入って来た。

学校からの帰りが遅くなったことで、婦人は女の子を叱り、冬の暮れ方には家に居なければなりませんよ、と言った。

「でも、なんで、お母さん? 外はまだ少しも暗くないし、ランプだってまだついてないじゃない。それに、お父さんもまだ帰ってないし。」

「そう、お父さんは帰って来てないわね。でももう五時十五分前よ! おまえ、どこかでお父さんを見掛けなかった?」

娘は真面目な顔つきになった。娘は不安げな大きい青い眼で、母親を見つめた。

「ううん、どこでも見なかったわ。どうして? お父さん、家に寄らないで、オールド・ブリンズリーの方へ行ったの? でも私、お父さんを見掛けなかったし、別のところへ行ったのかしら?」

「いや、お父さんはおまえが帰ってゆく姿を目にしたんだろうね、」と母は苦々しげに言った、「それでおまえに見つからないよう、こそこそ隠れたんだよ。まあ、安心しなさい、お父さんは《プリンス・オブ・ウェールズ亭》に居座ってるんでしょう。そうでなければ、こんなに遅れるはずないもの。」

娘は悲しげな顔で、母を見上げた。

「それじゃ、もうお茶にしましょう、ね、お母さん?」と彼女は言った。

母親はジョンをテーブルに呼んだ。彼女はもう一度戸を開けて、家の外、線路の上に立ちこめた夕闇の彼方を見やった。あたりの一切が荒涼としており、捲き上げ機の音も、もう彼女の耳には聞こえなかった。

「多分、──」と、彼女は自分自身に言い聞かせた、「あの人は、幾らか酔いが廻って頭がぼんやりするまで、帰って来ないつもりなんだろう。」

彼らはお茶のために席についた。テーブルの片隅、戸口に近いところに坐っているジョンは、火明りの届かない暗がりに消え入りそうになっていた。お互いの顔が薄闇に没して見えなかった。女の子は炉の前囲いに身を屈めて、パンの厚い一切れをゆっくりと焔に翳していた。陰のなかに顔をぼんやりと揺らめかせている男の子は、焔の輝きを受けて、いつになく生き生きとしている女の子を、坐ったまま眺めていた。

「焔って美しいのね! 見てて飽きないわ、」と娘は言った。

「そう?」と母親は言った。「どうして?」

「とっても赤くて、小さな裂け目がいっぱいあって──側に居れば暖かいし、それに匂いも素敵だわ。」

「けれど、いつでも火の気が絶えないよう気を配るのは、大変ですよ、」と母親は応えた、「それなのにお父さんは、家に帰って来れば来るで、炭鉱で必死に働いて帰った亭主を迎えるのに、ついぞ火の気があったためしがないって、喚き散らすんだからね。──居酒屋で十分暖まって来たくせにね。」

しばらく三人とも黙りこくっていた──少年が不満げに口を開くまで。「アニー、早くしてよ。」

「ええ、今やってるわよ! でも、焔に早く仕事させようったって無理でしょ?」

「何言ってんのさ、わざとぐずぐずしてるんだろ、」と男の子は不平がましく言った。

「ジョン、そんな捻くれたこと言うんじゃありません、」と母親が口を挟んだ。

やがて、パンを噛みこなす乾いた忙しげな音が、薄暗い部屋に充ちた。しかし、母親は少ししか食べなかった。彼女は端然と紅茶を飲み、椅子に腰掛けた姿勢で考えつづけていた。それから、彼女が立ち上がった時の、真直ぐに保たれた彼女の頸筋の険しさには、はっきりと怒りが表われていた。炉の前囲いの側にあるプディングに目をやって、彼女はわだかまりを破裂させた。

「一家の主人とあろうものが、夕食のために家に帰って来ることさえ出来ないなんて、情けないったらありゃしない! プディングが焦げて消し炭になろうと、もうあたしの知ったことじゃない! あの人は自分の家の戸口を無視して、居酒屋へもぐり込みに行く、それであたしは、夫の夕食を前に坐って、家で大人しく待っているのだ──」

彼女は一旦部屋の外に出た。それから戻って来た彼女が、石炭のかけらを一つひとつ炉の赤い火にくべると、影が壁にゆらめき、部屋はほとんど真暗闇になった。

「これじゃ何にも見えないよ、」と、闇に紛れてしまったジョンが文句を言った。胸の内の苛立ちに反して、母親は思わず笑みをこぼした。

「口のありかくらい分るでしょ、」と彼女は言った。彼女は塵取りを戸の外へ出した。そして炉床を這う影のように、彼女が部屋に戻って来ると、男の子はまたも不満げに、不貞腐れて言った。

「何も見えないったら。」

「まあまあ!」と母親は棘立った声で言った、「ちょっと暗いからって、もうそんなお父さんみたいに拗ねるのね!」

しかしそう言いながらも、彼女はマントルピースに載せてある紙縒りを一つ取り、部屋の天井の真中からつり下げられたランプに、灯りをともそうと近づいた。ランプに手を伸ばした彼女の姿は、にわかに、身籠っている女を思わせる円みを帯びた。

「あ、お母さん──!」と、少女が声をあげた。

「何?」と、炎にランプの火屋をかざそうとする手を止めて、母親は言った。銅の部分に閃く焔の反映が、手を伸ばしながら娘の方を振り向いた彼女の立ち姿を、綺麗に照らした。

「お母さん、エプロンにお花が差してあるじゃない!」と、思い掛けない発見に、子供は少しはしゃいで言った。

「おやまあ!」と、緊張を解いて、婦人は甲高く言った。「そんな声出したら、ご近所がうちから火が出たかとでも思うじゃないの。」彼女は火屋を元どおりに被せ、ランプの芯の明りをより強くする頃合いを見はからって、しばらく待った。淡い影が、部屋の床の上を漂うかのように朧ろに見えた。

「匂いを嗅がせてよ!」と、少女はまだはしゃいで、近寄って顔先を母親の腰に触れさせようとしながら、言った。

「ちょっと、馬鹿な真似しないで、あっちへ行って!」と、母親はランプの火を強めようとしながら、言った。火明りに彼らの縺れた姿がひらめき、母親はいよいよ我慢ならなくなった。アニーはなおも彼女の腰にくっつきつづける。癇が弾けて、彼女はエプロンの帯から花を抜き取ってしまった。

「あ、お母さん──抜き取っちゃ駄目だよ!」と叫んだアニーは、母の手を掴み、若枝を再び元の場所に差そうとした。

「何やってるのよ!」と、母親は子供を追いやった。娘は青白い菊の花を唇に押し当て、呟いた。

「なんていい匂い!」

母親は短く笑った。

「そうかしらね──お母さんにはそうは思えないけど、」と彼女は言った、「お父さんとお母さんが結婚したのも菊の季節、おまえが生まれたのも菊の咲く頃で、それからまた、酔っぱらったお父さんがはじめて人に担がれて家に帰って来た時も、お父さんは茶色い菊の花をボタンの穴に差していたものよ。」

彼女は息子と娘とを見据えた。子供たちは怪訝そうに口を空けて、視線を返した。母親はしばらく静かに、身体を微かに揺すりながら坐っていた。それから時計を見やった。

「もう六時二十分前!」彼女は痛烈な、投げ遣りな口調でつづけた、「ああ、こうなりゃ誰かに担ぎこまれないかぎり帰って来ないわ。酒場にへばり付いてるんだ! もう塵に汚れた格好で、家に千鳥足で帰って来たって許すもんか、誰が身体を洗ってやるもんか! どこか適当に床で寝ればいい!──ああ、なんて無駄な苦労をして来たんだろう、なんて馬鹿だったんだろう! 自分の家の戸をこそこそ避けるような男のために、鼠だの何だのの湧く、薄汚れた穴ぐらに、わざわざ結婚して生活しにやって来たってわけね、あたしは! 先週だって二度も──、こんなこと、こんなことばっかりだ──」

ようやく彼女は気を鎮めると、テーブルを片付けるために立ち上がった。

さらに一時間もの時が過ぎる間、子供たちは、声をひそめて遊びに没頭しながらも、鋭敏な想像をめぐらして、母親の鬱勃とした怒りに対する怖れと、父親が帰って来ないことへの不安とで、一つの気持ちに寄り添っており、一方、ベイツ夫人は、肘掛け椅子に坐りながら、クリーム色の厚地のフランネルで、男の子のための下着を縫っていたが、彼女がその灰色の端を裂いて引っ切るたびに、鈍い痛々しい音が響いた。そうして彼女が、熱心に手元の縫い物仕事に取り組みながら、子供たちの動息に耳を立てているうちに、やがて、彼女の怒りも萎れて、沈んで落ち着き、もう時折目を配って見澄ましたり、やや耳を傾けたりする程度になった。そして何時しか、怒りは弱々しくなり、怯んだように弊え、彼女もふと、着物を縫う手を止めて、戸外の、線路の枕木に沿って移る重い足音の行き先を、耳で追う──それから咄嗟に、鋭く頭をもたげ、子供たちに「静かに!」と言いつけそうになるが、しかし間もなく我に返り、足音も戸口を通り過ぎてゆき、そして、子供たちも遊戯の世界から引き出されずに済むのだった。

しかしとうとうアニーは溜め息をついて、不安に堪えきれなくなった。室内穿きを積んだ籠に目をくれた彼女は、もう遊びを続けるのが嫌になっていた。女の子は物悲しげに母親の方を振り向いた。

「お母さん!」──と、しかし彼女の声はくぐもって響いた。

ジョンは蛙みたいにソファーの下から這い出て来た。母親は目を上げてちらりと見た。

「ジョン、」と彼女は言った、「ほら、このシャツの袖を見てごらん!」

男の子はもの言わず、そのシャツを持ち上げてと見こう見した。そのとき線路向こうの下方から、誰かが嗄れた声でなにか呼び立てるのが聞こえて、その声の主の二人の男が、話し声を交わしながら外を通り過ぎてゆくまで、部屋には、不穏な切迫が充ちた。

「もう寝る時間ですよ、」と母親は言った。

「でも、お父さんが帰って来てないわ、」と、アニーは辛く、悲しげに言った。しかし母親の方は、この事態に対して心構えができていた。

「気にすることないわ。いざとなったら、みんながお父さんを担いで連れて来てくれるわよ──丸太みたいにね。」と、彼女は、何も大事など起こりはしないのだ、と諭した。「それで、目が覚めたら床で寝ていたってことになるでしょうよ。まあ、こんな様子じゃ、お父さん、明日は仕事には出られそうもないね!」

子供たちは手と顔をとタオルで拭いた。彼らはとても静かにしていた。そして寝間着に着替えてから、彼らは就寝の前のお祈りを呟いたが、とりわけ男の子の方はもぐもぐと曖昧な声音だった。娘のうなじにかかる、豊かに絡み合った、すべやかな褐色の巻毛を、そして男の子の小さな黒髪の頭を見下ろしていた母親は、自分を含めた三人を、こんな風に気落ちさせている父親への怒りで、胸が裂けそうになった。子供たちは寝る前に、彼女のスカートに顔を押し付けて甘えた。

階下におりて来たベイツ夫人には、部屋は、一段と人気が無く、差し迫った予感に充ちているように見えた。彼女は縫い物仕事を取り上げると、しばらく、顔を上げずに丁寧にそれを仕上げていた。そのうちに彼女の怒りは、段々に不安の色を帯びていった。


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©2006 稲富裕介. この版権表示を残す限りにおいてこの翻訳は商業利用を含む複製、再配布が自由に認められる。プロジェクト杉田玄白 (http://www.genpaku.org/) 正式参加作品。