自由について ジョン・スチュアート・ミル

第五章 応用


以上に主張してきた原理は、詳細にわたる議論の基礎としてもっと一般に受け入れらなければ、統治や道徳のさまざまな分野で、なにか利点が見込めるものとして、一貫した応用が試みられることにはならないでしょう。私が詳細な問題についてなそうと提案する二三の考察は、原理を説明するためのもので、この原理から帰結を導き出そうというつもりはありません。私は多くの応用でなく、応用の見本を提供するのです。この見本は、この論考の学説全体を構成している二つの原則の意味と限界をもっと明確にしてくれるし、またこの原則のどちらを適応したらよいか疑わしい場合には、その間の均衡をとるための判断の助けになると思います。

原則の第一は、個々人は、その行動が自分自身以外のだれの利害とも関わらないかぎり、自分の行動について社会にたいし責任がないということです。他の人たちが自分の利益のためには必要と考えてなす、忠告、指図、説得、忌避は、社会が彼の行為にたいする嫌悪や非難を正当に表現できる唯一の手段なのです。第二には、他人の利害を侵害するような行為については、個人に責任があり、もし社会がその防衛のためには社会的処罰や法的処罰が必要だという見解をもつなら、そのどちらかの処罰に服すだろうということです。

まず最初に、他人の利害にたいして損害を与え、あるいは与える見込みあるということだけが、社会の干渉を正当化するからといって、いつもこうした干渉が正当化されると決して仮定してはならないのです。多くの場合、個人は、合法的な目的を追求する上で、必然的に、だからまた合法的に、他人に苦痛や損失を与えたり、他人が獲得できると理にかなった希望を抱いている利益を横取りすることがあります。こうした個人間の利害の相反は、悪い社会制度から生じることが多いのですが、こうした制度が存続するかぎり不可避なのです。それに利害相反の中には、どんな制度のもとでも不可避のものもあるのです。従事者が多すぎる職業とか、競争的な試験とかで成功を収める人や、両者が求める目的を得ようとする競争で優位に立つ人はだれでも、他人の損失、他人の無駄に終った努力や失意から、利益を得るのです。人々がこうした結果にくじけることなく、その目的を追求することは、一般に認められているように、人類全体の利益にはより良いことなのです。言いかえると、社会は、法的にも道徳的にも、失意の競争者に、こういう被害から免れる権利をまったく認めず、成功の手段に、許容すれば全体の利害に反すること、つまり詐欺や背信や暴力が使われたときだけ、介入を求められたと思うのです。

さらに言うと、商業は社会的行為です。なんらかの財貨を公衆に売ることに従事する人はだれであれ、他人のや社会一般の利害に影響を与える行為をしているのです。こうしてその行為は、原理上は、社会の統轄権の内にあることになり、したがって、かつては、重要だと考えられるすべての場合において、価格を固定したり、製造過程を規制することは、政府の義務だとされてきました。しかし、長い闘争を経たのち、今では、購買者がどこで入手しようが同じように自由だということだけを唯一の歯止めとして、生産者と販売者を完全に自由にしておくことが、商品が安価であることと品質が良いことの両方とも最もうまく実現できるということが認められています。これがいわゆる自由交易説なのですが、これはこの論考で主張されている個人の自由とは異りますが、同じように確固とした論拠のうえに成り立っているのです。商業あるいは商業目的の生産の制限は、確かに制約であり、あらゆる制約は、制約として害悪なのです。しかし、問題となっている制約は、社会が制約する権限を持つ行為の分野にだけ影響を及ぼすのであって、その制約によって生み出そうと望んだ結果が実際には生じないという理由だけから誤っているのです。個人の自由の原理は自由交易説には関与していないのだから、その学説の限界に関して持ち出される問題にはほとんど関係がありません。そういう問題とは、例えば、粗悪品による詐欺行為を防止するには、どの程度の公的統制が許容されるのかとか、危険な職業に雇用されている労働者を保護するためには、衛生上の予防策や段取りをどの程度まで雇用者に強制すべきかといったことです。こうした問題は、他の事情が同じなら、人々を統制するより放任するほうがましだというかぎりでだけ、自由の考察に関わるものです。しかしこうした目的のために人々を適法に統制できるかという問題は、原理上は否定できません。一方では、商業への干渉ということに関連して、自由についての本質的問題であるものも存在します。もう言及したメーン法だとか、中国へのアヘンの輸入禁止だとか、毒物販売の制限だとかという問題です。どの場合も、簡単に言うと、干渉の目的は、特定の商品を入手不可にするか入手困難にすることにあります。こういう干渉は、生産者や販売者のではなく、購買者の自由の侵害として、異論のあるところです。

こうした事例の一つである、毒物販売という事例は、新しい問題を提起します。それは警察の機能というものの本来の限界はどこなのか、犯罪や事故の防止のために、自由はどこまで侵害するのが妥当なのかという問題です。犯罪が行われる前に予防策を講じるのは、犯罪の後でそれを捜査し処罰するのと同じく、政府の当然の機能の一つなのですが、処罰機能よりも、濫用して自由を侵害しやすいものなのです。というのも、人間の行動についての正当な自由には、どこをとっても、どんな形態の非行にも好都合だと思わせるものばかりなのですから。それにもかかわらず、公権力やあるいは一私人でさえ、だれかが明かに犯罪を犯す準備をしていることを知ると、犯罪が犯されるまで手をこまねいて見ているわけはなく、それを防ごうと干渉するでしょう。毒物が殺人を犯すという目的以外で購入したり使用することがないのなら、毒物の製造や販売を禁止するのは正当なことです。しかし、毒物は、合法的というだけでなく、有用である目的のために、必要とされることもあり、犯罪目的の場合に課した制限は、合法的な場合にも影響を及ぼさざるをえないのです。さらに言うと、事故を防ぐのは、公権力の妥当な職務です。官吏であれだれであれ、もし不安全だということがはっきりしている橋を渡ろうとしている人を見かけて、しかも危険を警告する余裕がなければ、その人を捕まえて引き戻したとしても、その人の自由を本当の意味で侵害したわけではありません。というのは、自由というのは自分の望むことをすることにあるのであって、その人は川に転落したいわけではないのですから。けれど、危害の脅威があるだけで、確実ではないときには、危険を背負いこむだけにたる動機があるかどうかは、当人だけが判断できることです。こうした場合には、だから、(その人が子供だったり、錯乱していたり、興奮したり上の空で、よく思案する能力が十分使えないというのでなければ)危険の警告を受ければ十分で、危険に身を曝すことを無理矢理防ぐ必要はないと思います。同じような考え方を、毒物販売みたいな問題にも応用すると、私たちは、可能な規制方法のなかでどれが自由の原理に反し、また反しないかを決定できるでしょう。例えば、薬品に危険なものだというラベルを貼るといった予防策は、自由を侵害することなく実施できるでしょう。購買者は、自分が手に入れたものが有毒なものだということを、知りたくないはずがありません。しかし、どんな場合にも開業医の証明書が必要とするのは、合法的目的のために品物を手に入れるのを、ときに不可能とし、いつも高くつくものにします。毒物を使って行なわれる犯罪を困難にし、他の目的のために毒物を求める人の自由にたいしては、気にするほどの侵害を加えないことが、私には確かだといえる唯一の方法というのは、ベンサムの適切な言葉を借りると「予示証憑」といわれるものを提出させることです。この規約は契約の際にはよく知られているものです。契約が締結されるときに、法が、その契約の履行強制の条件として、署名や立会人の証明等々のある形式を守ることを要求し、後に係争が起った場合、契約がほんとうに締結され、契約を法的に無効にするような状況になかったことを証明する証拠とするのは、当たり前の正当なことです。その効果は、架空の契約や、知られれば契約の妥当性を失しなわせるような状況下での契約を結ぶことに、大きな障害を置くことにあります。犯罪の道具に使われる品物の販売に、同じような性質の予防策を強制してもよいと思います。例えば、販売者に、取引の正確な日時、購入者の氏名、住所、販売したものの正確な性質と量を記帳させ、また必要とする目的を尋ね、その返答を記録させてもよいでしょう。処方箋がなければ、第三者の立合を求め、後にその品物が犯罪目的に使われた信じるだけのことが生じた場合、購買の事実を強く印象づけるようにしてもよいでしょう。こうした規制は、一般に品物を得るときには実質的な障害とはなりませんが、発覚しないように不適当な使いかたをするには、かなりの障害となります。

事前の予防策で社会を犯罪から守るという、社会の固有の権利は、純粋に自己に関わる不行跡は本来予防や処罰で干渉できないという原則には明かな限界があることを示しています。例えば、酔っぱらうのは法的干渉に相応しい事ではありませんが、飲酒の影響で他人に暴力行為を振るった前科のある人が彼自身だけの特別の法的制限のもとに置かれるのは、完全に適法のことだと思います。もし後日飲酒しているところを見つかれば、罰金を科せられるし、酔った状態で別の違反があれば、他の違反で科せられる処罰より厳しくてしかるべきです。飲酒で他人に危害を加えるほど興奮する人が飲酒するのは、他人にたいする犯罪です。さらに言えば、公的扶助を受けている人や怠惰が契約違反となる場合を除いて、怠惰であることも、法的処罰の対象とするのは、暴政と言わざるをえませんが、しかし、怠惰だとか、その他の避けることのできる原因で、例えば子供の養育といった他人への法的義務を果せないなら、他に有効な手段がなければ、強制労働によって、その人に義務を果すよう強制するのは、暴政ではありません。

さらに、直接には自分だけを傷つける行為であって、法的に禁じるべきではないが、公然と行なわれると、良俗に違反し、それで他人への犯罪の範疇に入れられ、当然禁止されるという行為が、多々あります。この種の行為は良識にたいする犯罪ですが、それについては詳述する必要はないでしょう。これは私たちの主題とは間接的にしか関係がないのでなおさらですが、それ自体では非難されるべきではないし、非難されるべきと思われているわけではない多くの行為は、公然と行うと同じように強い異議を受けるものなのです。

これまで主張してきた原理と一貫した答をみつけなければならない問題がもう一つあります。非難されるべきだと思われているけれど、それから直接生じる害悪が完全に行為者に振り掛かるので、自由の観点から社会が予防したり処罰したりできない個人的行為の場合、行為者が自由に行なうことを、他人が同じように自由に勧めたり煽ったりしてよいのでしょうか。この問題は困難なものです。他人にある行為をするよう勧誘する人の場合は、厳密には自己に関る行為という問題とはちがいます。だれかに忠告したり勧誘したりすることは、社会的行為であって、それだから、他人に影響を及ぼす一般の行為と同じように、社会的統制に従うべきものと考えられるかもしれません。しかし、ちょっとよく考えると、こういう場合が厳密には個人に自由の定義には含まれていないにしろ、個人の自由という原理が基づいている根拠はこの場合にも当てはまることが示されることで、第一印象は訂正を受けるのです。もし人々が、自分にだけ関することでは、危険覚悟で自分に最善と思われる行動をするのが許されるべきだとすると、そうするのに何が適切かをたがいに相談すること、意見を取り交し、示唆を与えたり受けたりすることも、同じように自由であるべきです。行なってもよいと許容されていることなら、それを行うよう忠告することも許容されるべきなのです。問題があやふやになるのは、けしかける人がその助言から個人的利益を引出す場合、つまり生活の糧や金銭的稼ぎのために、社会や国家が悪だと考えるものを奨励するのを生業としている場合です。そのときは、確かに、問題を複雑にする新しい要素が持ち込まれることになります。それはつまり、公的安寧と考えられるものと相反する利害を持ち、それを阻害することに基盤を置く生活様式を営む人たちの階級が存在するということです。これには干渉すべきでしょうか、すべきでないのでしょうか。例えば、密通は大目に見るべきだし、賭博もそうでしょう。しかしポン引きになったり、賭博場を経営するのは自由なのでしょうか。これは二つの原理のまさしく境界線上にある問題で、本来どちらの原理に属するのか、にわかには判断がつきかねえる問題です。どちらの側にも言い分があります。大目に見ようという側では次のように言うでしょう。なんであれ職業につき、それを業とすることで生計を立てたり利潤を上げるという事実が、他の場合は許させるのに、犯罪扱いにはできない。また、行動は一貫して許容されるか、一貫して禁止されるかのどちらかであるべきだ。それに、私たちがこれまで弁護してきた原理が真実だとすると、社会には、社会として、なんであれ個人にだけ関ることを悪いと決めつける権利はないのだ。さらに、思いとどませる以上のことはできないし、ある人が勧めるのが自由なら、別の人が思いとどませるのも自由なのだ、と。これに反対する側では、次のように主張するでしょう。公衆や国家は、抑圧や処罰の目的で、個人の利害だけに影響するこれこれの行為が良いだの悪いだのということを権威をもって決定することを許されているわけではないが、もし彼らが悪だとみなすなら、その善し悪しは少くとも議論の余地のある問題なのだと決め込むのは正当なのだ。それに、こう仮定すると、私欲に関わっていないはずのない勧誘の、到底公平ではありえない教唆者の影響を排除しようと努めるのは誤った行動ではない。こうした教唆者は、一方の側、しかも国家が間違っていると信じている側に直接の個人的利害があり、自ら認めるとおり、個人的目的だけのためにそれを促進しようとしているのだ。さらに言えば、自分の利害目的のために人の性癖を刺激するような輩の術策に極力はまらないようにして、賢明だろうが愚かだろうが、自分の思うところにしたがって、個人が選択できるよう、万事を整えることで、なにも失われず、幸福をまったく犠牲にしないのは確かではないか。こうして(こう言ってもよいだろう)、違法の賭博についての法的規制はまったく弁明の余地がなく、だれでも自宅やおたがいの家で、あるいは会員制でメンバーとヴィジターだけが利用できる集会所で賭事をするのは自由だとしても、公設賭博場は許可されるべきではない。賭博禁止は決して効果的でなく、警察にどれほど専制権力をもたせても、賭博場はいつでも偽装して維持されることは確かだが、賭博場はなにがしかの秘密と謎のうちに運営せざるえなくなり、賭博場を探し求める人以外はだれもそれについてまったく知らなくなるだろうし、それ以上のことを社会は意図してはならないのだ、と。こういう議論はかなりの説得力があります。私はこの議論が、正犯は無罪放免なのに(あるいは無罪放免せざるをえないのに)従犯は処罰する、例えば密通者や賭博者は処罰しないのに、周旋人や賭博場経営者は罰金刑か収監刑だという、道徳的な変則性を正当化するほどのものかどうか、判断する冒険はいたしすまい。通常の売買取引は、類似に根拠に基いて干渉を受けることは、なおのこと、あってはならないことです。売り買いされているほとんどすべての品物が、過度に使われることもあり、販売者は過度の使用を助長することで金銭上の利益を得ます。しかし、このことに基づいて、例えば、メーン法に与する議論を立てることはできません。なぜなら、強い酒の取り扱い業者は、その濫用に利害があるとはいっても、酒類の妥当な使用のためには、必要不可欠なのですから。しかし、これらの業者が大酒を食らうことを助長することで得る利益は、ほんとうに悪いものであり、国家が制限を課したり保証を求めたりするのを正当化します。こうしたことは、そういう正当化がなければ、適法な自由にたいする侵害になるのでしょうが。

さらに問題となるのは、国家は、行為者の最善の利益に反すると思われる行為を、一方では許容しながら、にもかかわらず、間接的に思いとどまらせるべきか、ということです。つまり、例えば、飲酒の手段をもっと高くつくようにするような方策をとったり、販売個所の数を制限して酒類の入手を困難にしたりすべきか、という問題です。この問題については、ほとんどの他の実際的問題と同様、多くの区別立てが必要でしょう。酒類の入手をより困難にするという目的だけのために酒類に課税することは、完全な禁止と程度が違うというだけの方策であって、禁止が正当化できるときだけしか、正当化できません。どの価格上昇も、資力が増大した価格に追いつかない人には禁止に等しく、また支払える人にも、特定の嗜好を満足するために課せられた罰金なのです。国家や個人にたいする法的、道徳的な義務を果した後では、どういう楽しみを選ぼうが、どんなふうに収入を使おうが、自分にしか関わりのないことで、自分の判断によるしかないのです。こういう考察は、一見したところ、税収目的での課税の特別な対象として酒類を選ぶのを非難しているように見えます。しかし、財政目的の課税は絶対に不可欠であり、ほとんどの国では、課税のかなりの部分が間接税にならざるをえないこと、したがって国家はなんらかの消費物品の使用にたいして、それで使用禁止になる人がいようとも、科料を課すよりほかはないのだというとを、思い起すべきです。だから、課税において、消費者がもっともうまく倹約できるのは何かを考え、なににもまして、適量を越えて使用するのが明かに有害だと思われるものを優先的に選択するのは、国家の義務なのです。ですから、酒類にたいする課税が(それで生まれる収入全額を国家が必要としていると仮定して)最大の財政収入になるのは、認められるだけでなく、是認されるべきことなのです。

こうした商品の販売を多少なりとも専売特権にする問題は、実際に制限が寄与する目的にしたがって、異なる回答が必要でしょう。すべての盛り場は警察の取締りを必要としますが、社会犯罪はこうした場所から始まるものなので、この種の場所は特に取締りが必要なのです。だから、こうした商品(少なくともその場で消費される商品)の販売権を、品行方正なのがはっきりしているか保証された人に限定すること、公的監督の必要に応じた、開店閉店の時刻についての規定を定めること、支配人の黙認や無能から治安が繰り返し破られたり、犯罪の計画や準備のための集合場所となったりすれば、営業許可を取り消すことは、まっとうなことです。それ以上の制限は、原理上、妥当なものとは思えません。例えば、居酒屋へ通うのを難しくし、誘惑の機会を減らすというはっきりした目的のために、居酒屋の数を制限するのは、居酒屋の便益を濫用する人がいるために、全員を不便にするだけでなく、労働階級が公然と子供か未開人のように扱われ、将来自由の特権を許されるように、自制を教育されているといった社会状態にふさわしいことなのです。これは、自由な国ならどこでも労働階級が公然と統治されている原理ではありません。自由に正当な価値を認める人はだれも、労働階級を自由について教育し、自由人として統治する努力が結局のところ尽きてしまい、彼らは子供として統治するしかないことが、はっきり証明されないかぎり、彼らがこんなふうに統治されることを支持しません。この選択肢をあからさまに言うと、ここで考察する必要のあるどんな場合にも、こうした努力がなされてきたと想定するのは馬鹿げていることがわかります。専制的、あるいはいわゆる家父長的統治という体制に属するような事物が、私たちの習慣に入り込んでおり、その一方で、私たちの諸制度の一般的自由が、抑制を道徳教育として本当に効力があるものにするために必要なだけの統制を行使することを妨げているのは、この国の諸制度が矛盾の塊だというだけのことなのです。

この論考の初めのところで指摘したように、個人に関係しているだけのものごとでの個人の自由には、数人の個人のあいだで、彼らが共同して関係しているが、それ以外の人は関係のないものごとを、たがいに合意することで調整するという、それに見合った自由も含まれます。この問題は、それに関る全員の意志が変らないかぎり、なんの困難もありません。しかし意志は変りうるものなので、自分たちだけが関るものごとでさえ、たがいに契約を結ばなければならない場合が多いのです。そして、契約を結んだら、一般的な規則としては、その契約を守るのが妥当なのです。しかし、おそらくどの国の法でも、この規則には例外があります。第三者の権利を侵害するような契約には縛られないというだけでなく、契約が契約者自身に有害だということが、彼らを契約から解き放つ十分な理由だと考えられることもあるのです。例えば、この国でも他の大多数の文明国でも、自分を奴隷として売却するとか、売却してかまわないとする契約は無効とされ、法によっても世論によっても履行を強制されることはありません。自分の人生の運を自由に裁量する権利をこのように制限する論拠は明白ですし、この極端な事例では明瞭にわかるでしょう。他人に関るのでなければ、個人の自発的行動に干渉しないという理由は、その人の自由を配慮してのことです。彼の自発的選択というのは、彼がそう選んだことが彼にとっては望ましいか、少なくとも我慢できるものであり、彼の幸福は全体として、それを追求するのに自分の持てる手段をつぎこめることで、最大のものになるのだということの証拠なのです。しかし我が身を奴隷として売ることで、彼は自分の自由を放棄するのであり、一回だけの行為で以降の将来にわたる自由の使用をあきらめることになります。したがって彼は、自分自身のことについては、自らを裁量してよしとする正当化のまさに目的をくつがえしています。彼はもはや自由ではありません。しかしこの後もそういう立場にあるからといって、彼が自発的にその立場に留まっていることで通用していたような、都合のよい仮定はもはや成り立ちません。自由の原理は、彼が自由でなくなる自由を持つべきだということを、要請できないのです。自分の自由を売り渡すのを認めることは、自由ではないのです。この理由は、この特殊な場合に特にその力が発揮されるのですが、どうやらもっと応用範囲が広いもののようです。とはいえ、それにはいたるところで、人生の必要によって制限が置かれています。人生は、自由をあきらめろとまでは言わないが、自由にたいするあれこれの制限に同意するよう、絶えず求めてくるのです。しかし、行為者だけに関るあらゆることで、統制の及ばない行動の自由を要求する原理は、第三者には全く関わりのないことがらで、たがいに結び付いている人々が、契約からたがいに解放されうることを求めます。それに、自発的契約解除がなくても、金銭や金銭的価値に関する以外で、いかなる撤回の自由もあってはならないと敢て主張しうるような契約は、おそらく全くないでしょう。ウィルヘルム・フォン・フンボルト男爵は、私がもうすでに引用した優れた論考で、個人的人間関係やサービスを含んだ契約は、一定期間を越えた法的拘束力を絶対持ってはならないこと、またそうした関係で最も重要なものである結婚は、当事者双方の感情がその結婚に調和していなければ、その目的が達成されないという特質を持っているので、それを解消するにはどちらか一方の意志表明で十分であることを、信念として主張しています。この問題は、余談として語るには、あまりに重大で、またあまりに複雑です。そこで私は、説明の目的に必要なかぎりで、これにふれることにします。フンボルト男爵の論述が簡潔で概論的であるために、この事例では、前提の議論もなしに結論だけを述べるだけで満足せざるをえなかったが、そうでなければ、うたがいもなく彼は、この問題が自分が限定したような単純な根拠に基づいて決定できないことを認めたことでしょう。ある人が、約束の表明とか行為によって、別の人に、あるやり方で自分が行動をし続けることに信頼させ、期待や打算を作り出し、その推測に人生計画のなにがしかを賭けさせたなら、その人にはその他人にたいして新しい一連の道徳的義務が生じるのであり、その義務を踏みにじることはできても、無視することはできません。さらに言うと、二人の契約当事者間の関係が他人に影響を与え、第三者を特殊な立場に置き、結婚の場合には、第三者を誕生させることになれば、契約当事者双方の側に第三者にたいする義務が生じ、その義務の履行、あるいは、どうであれ履行のやり方が、そもそもの契約当事者の関係が継続するのか破棄されるかで、大きく影響を受けざるをえません。だからといって、こうした義務が不本意な当事者の幸福をなにがなんでも犠牲にしてまで契約の履行を求めることにはならないし、また私もそういうことは承諾できません。しかし、これらは問題の不可避の要素です。また、フォン・フンボルトが主張するように、たとえこれらの義務が当事者の契約を解除しようとする法的な自由になんの相違ももたらさないとしても(私も大きな相違をもたらすべきでないと思いますが)、必然的に道徳的自由には大きな相違をもたらさざるをえないのです。人は、他人のこうした重大な利害に影響を及ぼす措置をとろうとする前に、こうした事情をすべて考慮しなくてはなりません。もしこうした利害に適切な重要性を認めないなら、彼はその過失に道徳的責任を負うのです。私がこうした分りきった意見を述べたのは、自由の一般的原理をうまく説明するためであって、結婚という特殊問題にそうしたことを言う必要があったからではないのです。この問題は、反対に、普通は、子供の利害がすべてで、大人の利害は無に等しいかのように、議論されているのです。

もうすでに見てきたように、世間に受けいれられた一般的原理がないために、自由が抑制されるべきところで認められ、認められるべきところで抑制されることがよく起ります。それに、近代のユーロッパ世界で、自由の感情がもっとも強い情況の一つは、私の見るところ、まるで場違いな情況なのです。人は自分に関わることでは望むままにふるまう自由があるべきです。しかし彼が他人にかかわって行動するときには、他人の諸事情が自分の諸事情でもあるという口実のもとに、望むまま自由にふるまうべきではありません。国家は、一方では各人の自由を、とくにその人自身に関することでは、尊重しながら、彼が持つことを許されている他人にたいする権力の行使については用心深く統制しておかなければなりません。この義務は、家族関係の場合、つまり人間の幸福に直接影響する他のなによりも重要な場合なのですが、その場合にはほとんど完全に無視されています。夫の妻にたいするほとんど専制的な権力についてここで詳述する必要はないでしょう。なぜなら、害悪を完全に除去するには、妻が他の人たちと同じ権利を持ち、同じ法的保護を受ければすむのですから。また、この問題について、築きあげられた不公平の擁護者たちは、自由の嘆願を利用するのではなく、権力の擁護者として公然と立ちはだかるのですから。子供の場合は、誤って使われた自由の概念は、国家がその義務を果すことの本当の障害物となります。ある人の子供は、比喩ではなく文字通り、その人の一部だと考えられがちです。それで、子供にたいする絶対的で排他的な統制に法が多少でも干渉すべしという意見には非常に用心深いのです。それは彼自身の行動の自由への干渉以上に用心深いのです。人類の大多数はそれだけ自由よりも権力を尊重しているのです。例えば、教育の場合を考えてみましょう。国家が、その市民として生まれたすべての人間に、一定水準以上の教育を求め強制するのは、自明の理ではないでしょうか。にもかかわらず、この真理を認め主張するのをいやがらない人がいるでしょうか。一人の人間に生を授けたからには、彼が人生で他人や自分にたいしちゃんとした役割を果せるような教育を施すのは、親の(あるいは今の法と慣例では父親の)もっとも神聖な義務の一つだということを、ほとんどの人は否定しません。しかし、これが父親の義務であることは満場一致で宣言されながら、一方では、この国でそれを実行するのを父親に義務づけることに、耳を傾ける人はほとんどいないのです。子供の教育を確保するために尽力し犠牲を払うよう父親に要求するかわりに、教育が無償で与えられるときでも、それを受け取るか否かは、父親の選択に委ねられているのです。子供に肉体に必要な食事を与えるだけでなく、精神に必要な教育と訓練を与えられるかどうかのちゃんとした見通しもなく、子供をつくるのは、不幸な子孫にたいしても、また社会にたいしても、道徳的犯罪であり、親がこの義務を果せなければ、できるかぎり親の負担で、その義務が果されるよう取り計らうのが国家のやるべきことだということは、まだ認められてはいないのです。

万民教育を強制する義務が一旦認められると、国家が何を教えるべきか、どのように教えるべきか、という難題は終ることでしょう。この難題のために、現在、この問題は宗派や党派の単なる戦場となり、教育に費やすべき時間と労力が教育論争に浪費される原因となっているのです。もし政府がどの子供にもよい教育を受けさせるよう求めることを決断すれば、政府はその教育を授ける面倒から免れることになるでしょう。教育をどこでどう受けさせるかは、親の望むままにまかせ、政府は、貧困階級の子供の学費の支払いを補助し、だれも学費を支払わない子供の全学費を負担することで、満足していればよいのです。国家教育にたいするもっともな反論は、国家による教育の強制にはあてはまりませんが、国家が教育の監督を引き受けることにはあてはまります。それは全く異ることなのです。人々の教育の全部ないし大部分を国家の手に委ねることには、私はだれにもまして反対です。個性および意見や行動様式の多様性の重要性について、これまで述べてきたすべてのことは、同じく言い表わしようのないほど重要なものとして、教育の多様性を含んでいるのです。総合的な国家教育は、人々を鋳型にはめて、お互いをまったくそっくりにしてしまう、装置にすぎません。どんな型にはめるかは、政府に支配勢力が君主だろうが聖職者だろうが貴族層だろうが、あるいは現世代の多数派だろうが、その望むままなので、それが効果的でうまくいくにしたがって、精神にたいする専制主義を確立し、それは自然の流れとして、肉体にたいする専制につながっていくのです。国家が構築し統制する教育というのは、もし存在するとすれば、多くの競合する実験のなかの一つとしてだけ存在するべきもので、他のものを一定水準の優秀さに引き上げるための、模範と奨励という目的で実施されるべきものです。確かに、社会全般が遅れていて、政府がその仕事を引き受けなければ、適当な教育機関を提供できないときは別です。その時は、二つの大きな害悪のうちのましな方として、政府が学校や大学の経営に乗り出すこともあるでしょう。それは、大規模な工場を運営するに適した形態の私企業が国内に存在しないときに、政府が合弁株式会社の経営に乗り出すのと同じことです。しかし一般的に言えば、国内に政府の主催のもとで教育を施す資格を持った人が十分いるなら、義務教育法と、それに結びついた費用が賄えない人への国家援助がもたらす報酬の保証のもとで、同じ人たちが自発の原理に基いて、喜んで同じように良質の教育を施すことでしょう。

法を実施する手段は、全児童を対象にした、幼年期から開始される、公的試験しかありません。一定年齢でどの子供も受験しなければならず、そこでその子が読むことができるか試されます。もし子供ができないとわかると、弁解の余地がなければ、父親には、必要とあれば労働納付も可能な、適切な罰金が課せられ、子供を父親の費用で就学させるのです。毎年一回、試験を更新し、問題の範囲をだんだん拡げて、その結果、事実上は必須の、最低限の一般知識を万民に獲得させ、そのうえ記憶させてるようにすべきです。この最小限の知識以上のものは、全科目にわたって任意の試験が実施され、一定の水準以上の成績を収めた者全員は証明書を請求できるようにします。国家がこうした計画を通して世論に不適当な影響を及ぼさないようにするため、(言語やその使い方といった用具的知識以上の)試験に合格するのに必要な知識は、高等試験でも、事実と実証科学だけに限定すべきです。宗教や政治、その他論議をよぶような話題についての試験は、意見の真偽ではなく、しかじかの意見が、かくかくの論拠で、これこれの著者や学派や教会で信じられているという事実に向けられるべきです。こうした制度のもとで、次の世代はあらゆる論争されている真理について、今よりも悪くなるということはないでしょう。彼らは、今そうであるように、国教徒か非国教徒のどちらかとして育てられ、国家はただ、教育のある国教徒か教育のある非国教徒になるよう、面倒を見るだけなのです。もし親が選択すれば、他のことを教えている学校で、子供たちに宗教を教えるのを妨げるものは、なにもありません。市民が論争中の問題について持つ結論を偏らせようと国家が試みることはすべて害悪です。しかし、身を入れるに値する所与の問題について、ある人が結論を下すのに必要な知識を持っていることを、国家が確かめ認証することを申し出るのは、もっともなことです。哲学の学生にとっては、ロックとヒュームのどちらかに興味があろうが、あるいはどちらにも興味がなくても、その両方についての試験に挑戦できるのは都合がよいでしょう。また、信仰告白を要求されないかぎりは、キリスト教の明証について無神論者を試験することに、異議を唱える道理はありません。しかし、高等学科の試験は完全に任意なものであるべきだと、私は思います。政府が、資格に欠けるところがあるという口実で、だれかを専門職から、教職からさえ排除することを許すなら、政府にあまりに危険な権力を与えることになります。そこで私は、ウィルヘルム・フォン・フンボルトとともに、次のように考えます。それは、科学的な、あるいは専門的な学力についての学位やその他の公的証明書は、試験を受けて合格したすべての人に授与されるべきですが、世論がその証拠に認める重要性よりほかに、こうした証明書が競争相手以上の利点を与えるべきではない、ということなのです。

自由についての見当違いな考えのせいで、親の側の道徳的義務が認識されなかったり、法的義務が課されなかったりするのは、なにも教育にかぎったわけではありません。道徳的義務ではいつだって、法的義務でもたいていの場合、最強の根拠があるというのに、そうなのです。人間を産むという事実そのものが、人生における最大の責任を伴う行為の一つなのです。生まれる子が望ましい存在になるための普通のチャンスをもたないままに、この責任を負うこと、禍福いずれともわからない人生を授けることは、その子にたいする犯罪です。それに、人口過剰の国やそうなりそうな恐れのある国では、ごく少数以上に子供をつくることは、競争によって労働の報酬を下落させる効果があり、労働の報酬で生活している人全員にたいする、重大な罪なのです。大陸の多くの国で採用されている、当事者が家族を養っていく収入があると証明できなければ、結婚を許可しないという法律は、国家の適法な権力を逸脱するものではありません。それにこういう法律が当を得たものであってもなくても(これは主にその地方の事情や感情によるのですが)、それは自由の侵害として異議をはさむ余地はないのです。こうした法は、有害な行為、つまり、法的刑罰を加えるのが適切とは思われなくても、非難や社会的汚名を対象となるべき、他人を害する行為を禁じるための国家の干渉なのです。しかしながら、自由について今流布している考えは、自分にだけ関わることがらでの個人の自由にたいする現実の侵害には、容易に屈伏するのに、耽溺した結果、その行動の影響が多少なりとも及ぶ範囲の人たちに様々な害悪をなして、子孫の生活が悲惨で堕落したものとなるときに、その性癖に制限を加えようという試みには反発するのです。人類が自由にたいして異様なほど尊重しながら、人類への尊重は異様なほど欠いているのを比べてみると、人間は他人に害をなす不可欠の権利をもち、だれかに苦痛を与えずには、自ら楽しむ権利がまるでないかのように、私には思えるほどです。

私は、政府の干渉の限界に関する大きな問題領域を、最後まで残してきました。この問題は、この論考の課題と密接に関連してはいますが、厳密に言えば、それには属さないものです。それは、干渉に反対する理由が自由の原理に依拠しているものではありません。その問題は個人の行動の制限についてのものではなく、それを支援することについてのものです。人々が個人的に、あるいは自発的に共同して、行なうにまかせるかわりに、彼らの利益のために、政府がなにかを行なったり、行わせたりすべきか否かが、問題なのです。

自由の侵害を含んでいないような政府の干渉にたいする反対論には、三種類あります。

第一のものは、なすべきことが、政府がやるより、個人がやったほうがうまくいくようなときです。一般的に言って、ある業務を行なったり、その方法やだれにやらせるべきかを決定したりするのに、それに個人的利害を持つ人ほど、適した人はいません。この原理は、かつては一般的だった、通常の産業過程にたいする立法府なり政府官僚による干渉を糾弾します。しかし、この問題は政治経済学者が十分に敷衍してきたものであり、この論考の原理には、特に関連しているわけでもありません。

第二の反対論は私たちの課題にもっと密接に関連しています。多くの場合、個々人は特定のことがらを、平均すると、政府官僚ほどうまくやれないかもしれないが、それにもかかわらず、自分の精神的教育の手段として、つまり、その行動能力を強化し、判断を訓練し、彼らに委ねることでその課題の一般的知識を習得させるやり方として、政府が行なうより、個人が行なうほうが望ましいのです。これが、(政治事件でないときの)陪審員制度や、自由で民衆による地方制度や都市制度、任意団体による企業や慈善事業の運営がもつ、唯一ではないにしろ、主要な長所なのです。これは自由についての問題ではなく、関係はないけれど傾向が同じということでだけ、この問題に関連してるのですが、それはともに発達についての問題なのです。国民教育の一部としてこれらのことを詳しく論じるのは、別の機会に譲らなければなりませんが、これらは、実のところ、市民の独特の訓練、自由な人々の政治的教育の実践的部分であって、彼らを個人的、家族的な利己主義の狭い世界から抜け出させ、共同の利害を認識し共同の関心事を管理することに順応させ、公的、半公的な動機から行動することに慣れさせ、互いに孤立させるのではなく合同させる目的によって行動を誘導するのです。こういう習慣や能力がなければ、自由な政体を機能させることも維持することもできません。それは、地方の自由というしっかりした基盤に依拠していない国々では、政治的自由が極めて移ろいやすいものだということが、例証しているとおりです。純粋に地方的な事業はその地方の人で運営し、大規模な企業は自発的に資金を提供する人たちの団体で運営することは、発達の個別性や行動様式の多様性に伴うものとして、この論考で述べてきた利点からも、さらに推奨されるものです。政府の業務はどこでも似たものとなりがちです。それとは反対に、個人や任意の共同団体による業務には、様々な実験や無限に多様な経験があるのです。国家が有益になしうることは、多くの試行から得られた経験の中央貯蔵庫、活発な伝播者にして普及者となることです。国家の仕事は、個々の実験者が他の実験から利益を得られるようにすることであって、国家自身の実験以外の実験を許容しないということではないのです。

第三の反対論であり、政府の干渉を制限することの最も説得力のある理由は、その権力を不必要に増大させるという、大きな害悪なのです。政府がすでに行使している機能にさらに機能を付け加えるたびに、希望と恐怖にたいする政府の影響力は、ますます広範囲にまき散らされ、公衆のなかの活動的で覇気のある人たちを、政府ないしは政権をねらっている政党の取り巻き連中へと、ますます変えてしまうのです。道路、鉄道、銀行、保険事務所、大株式会社、公共慈善事業がすべて政府の一部門となり、さらに都市自治体や地方評議会も、その上に今まで発展してきたものまるごと、中央行政の一部局となって、こうした様々な事業の被雇用者が政府から任命され給与を支給され、出世のために政府にばかり目を向けるようになれば、出版の自由や民主的立法機構があったにせよ、この国だろうがどこだろうが、自由は名ばかりのものとなるでしょう。そして、行政機構が効率的で科学的になればなるほど、それを動かすのに最も有能な手と頭脳を獲得するための機構が巧妙になればなるほど、害悪はひどくなっていくのです。イギリスでは最近、政府の民政業務の全職員を競争的試験で選抜し、その雇用に入手できるかぎり最も知力があり教育のある人を獲得すべきだという提案があり、この提案に賛否両論さまざまなことが言われまた書かれました。その反対者が力説した議論の一つは、国家の終身官僚という職業は最も有能な人たちを惹きつけるだけの俸給や地位の期待を提供できず、そういう人たちはもっと魅力的な職業を専門職とか会社や他の公共団体の仕事にいつでも見つけだすことができるというものでした。この議論が、提案の基本的難点にたいする答として、提案の支持者に使われても、だれも驚きはしないでしょう。これが反対派から出されるとは、またくおかしなことです。反対論として主張されているものは、提案された制度の安全弁なのです。もし実際に国中のもっとも有能な人材が全員政府の仕事に惹きつけられるなら、そんな結果を招きかねない提案は、不安を呼び起こすことでしょう。組織だった協力や大規模で包括的な見通しを必要とする社会的業務のあらゆる分野が政府の手中にあり、政府官庁がいたるところもっとも有能な人で満たされるなら、純粋に思弁的なものを除き、国中の広汎な文化と実際的知性は、巨大な官僚制度に集中して、共同体の残りの人たちは、なにを探すにもそこを頼るしかなくなります。群衆は万事なすべきことの指示命令をそこに仰ぎ、有能で野心のある者は個人的昇進をそこに求めるのです。この官僚制の位階に加わること、それに加われば、そこで昇進することが、野心の唯一の目的となります。この体制の下では、部外の公衆は、実践上の経験を欠いているため、官僚制の業務運営の様式を批判したりチェックしたりする資格がないというだけでなく、専制制度の気まぐれか民主制度の自然な働きで、改革志向の支配者が頂点に立ったとしても、官僚制の利害に反する改革は達成できないのです。こうしたことがロシア帝国の憂鬱な情況であるのは、十分観察の機会に恵まれた人たちの記事にみられるとおりです。ツァー自身が官僚組織にたいして無力であり、官僚のだれでもシベリア送りにはできても、官僚なしには、また官僚の意に反しては統治できないのです。ツァーのどんな命令にたいしても、官僚は、その実行を単に見送ることで、暗黙の拒否権を持っているのです。もっと文明が発展し反抗精神も旺盛な国では、公衆は国家が自分たちのために万事をやってくれると期待するのに慣れ、あるいは少なくとも、国家から許可を得るばかりかやり方まで教えてもらわないと自分のためになにもしないことに慣れているのですが、当然ながら自分たちに降りかかる災厄すべては国家に責任があると考え、災厄が我慢の限界を越えると、政府に反抗して、いわゆる革命を起すのです。その結果、ある別のだれかが、国民の合法的権威を授かろうがなかろうが、支配者の地位にのし上り、官僚に命令を下し、こうして万事が以前のとおりに進行するのです。官僚制は不変のままで、だれもその地位を奪うことはできないのです。

自分の用件は自分で処理するのに慣れている国民では、まったく異なる光景が見られます。フランスでは、国民の大部分が軍務に就いたことがあり、その多くが下士官階級になったことがあるので、民衆暴動が起こるたびに、指揮をとる能力があり、まあまあ悪くはない行動計画を間に合わせで立てることのできる人物がなん人かはいるのです。軍事ではフランス人なら、なんであれ民生業務ではアメリカ人です。政府なしにほおっておいても、アメリカ人ならだれでも、即席で政府を作り、政府でもその他の公共事業でも、十分な知力と秩序と決断力をもって運営できるのです。これこそ、どの自由な国民もやらなければならないことであり、またそういう能力のある国民こそが確かに自由だといえるのです。どんな人も団体も、中央行政府の手綱をとったからといって、そういう国民を奴隷状態にはすることは決っしてないでしょう。どんな官僚制も、このような人々に嫌なことを行わせたり耐え忍ばせたりはできません。しかし、万事が官僚制を通して行なわれるところでは、官僚制が本当に反対することはなんであれ、実施できないのです。そういう国の政体とは、国民の経験があり実践能力を持った人たちを組織化して、残りの人々を統治するための統制のとれた集団にしたものなのです。組織化がそれ自体で完成すればするほど、共同体のあらゆる階層からもっとも有能な人たちは、その組織自体に引き入れ、その組織自体のために教育することはますます成功し、官僚制の構成員を含めた、全員の束縛も完璧なものとなります。というのも、被統治者が統治者の奴隷であるのと同じように、統治者もその組織と規律の奴隷なのですから。中国の役人は、卑しい農夫と同じように、専制政治の道具であり産物なのです。イエズス教団自体は、その会員の集団としての力と重要性のために存在しているのに、個々のイエズス会員は教団の奴隷という、権威失墜の極みにいるのです。

国中の主だった才能をすべて統治集団に吸収すると、遅かれ早かれ、その集団そのものの精神的な活動や進取の気風に致命的影響がでる、ということも忘れてはなりません。彼らは一団となって、組織体を運営しているのですが、他のあらゆる組織体と同様、必然的に大部分は決りきった規則によって処理していくので、公的機関は怠惰なお定まりの仕事に堕すという誘惑に、絶えずさらされています。さもなくば、時おり、粉挽き馬の回転運動から逃れたとしても、集団の数人の指導者が気まぐれで思いついた検討半ばのお粗末な計画に突進しようとするのです。一見すると反対のものに見えるけれど、密接に結びついているこうした傾向の唯一の歯止めであり、組織体そのものの能力を高い水準に保つ唯一の刺激となることは、外部の同じような才能による注意深い批評の責務なのです。だから、政府とは独立に、そうした才能を形成し、重大な実践上の問題について間違いのない判断を下すために必要な機会と経験をその才能に与える手段が存在することは、必要不可欠なのです。熟練し効率的な職員集団、なによりも、改良を考案し率先して採用できるような集団を永久に手にしたいなら、また我が官僚制を衒学者支配に堕落させたくないなら、人類の統治に必要な能力を作り養う業務をすべてこの統治集団に独占させてはならないのです。

人間の自由や進歩にたいするこのような恐るべき害悪が始まる点はどこか、というよりも、人類の福祉の前に立ちはだかる障害を取り除くため、承認された指導者の下で、社会の諸力を集合的に使って得られる利益を、こうした害悪が凌駕するのはどの点なのかを、見定めること。社会全般の活動の大きすぎる部分を政府の経路へと振り向けることなく、集中化された力と知性のもつ利点をできるだけ多く確保すること。これは、統治の技術の中でも、もっとも困難で複雑な問題の一つです。これは、総じて、精細な問題で、多くの様々な考察を視野にいれておかねばならないし、また絶対的法則を立てることもできないのです。しかし私は、安全である実際的原理、念頭におくべき理念、この困難を克服しようとするあらゆる計画を検証する規準というのは、次の言葉で伝わるものと信じています。それは、効率性とは矛盾しない権力の分散、但し、可能なかぎり最大の情報の集中化と情報の中央からの拡散、ということです。こうして、都市行政では、ニュー・イングランド諸州と同じように、地方の人たちに選ばれた、個々別々の官吏のあいだに極めて小さな部署があって、直接利害のある個人に任せないほうがよい業務をすべて行うでしょう。その一方で、地方の業務の各部署には、中央政府の出先として作られた中央監督機関があることになるでしょう。この監督機関の組織は、国内全土の公的業務部門の処理から、また諸外国でなされた同様のこと一切から、政治学の一般原理から得られた情報と経験を、焦点のように、集約するのです。この中央組織は、行なわれたことすべてを知る権限をもつべきであり、その特別の責務は、ある場所で得られた知識を他の場所でも利用可能なものにすることとすべきです。その高い位置づけと包括的な観察領域によって、地方のつまらない先入見と視野の狭さに捕われないので、その助言は当然にも大きな権威をもつことになります。しかし、永続機関としての、その実際上の権力は、私の思うところ、地方官吏の手引として制定された法に従うよう、地方官吏に強制することに限るべきです。一般規則で規定しているすべての事では、こうした官吏は、選挙民にたいする責任のもとで、自分の判断で行なうにまかせるべきです。規則を破ることにたいしては、法に責任を負うべきであり、規則そのものは立法府によって制定されなければなりません。中央行政当局はその施行を監視するだけで、もし適切に施行されていなければ、事態の本質にしたがって、法を守るよう訴追したり、法の精神にしたがってその施行をしなかった役人の罷免を選挙民に求めたりすべきなのです。救貧法委員会が全国で救貧税管理官にたいして執行しようとした中央監督権は、一般概念でいえば、こうしたものなのです。委員会がこの制限以上にどんな権力を行使しても、単に地方だけでなく全国的に深い影響を及ぼす事柄での根深い腐敗した慣習を矯正するためという特殊な情況では、正当で必要なものでした。なぜなら、どんな地方も、誤った管理によって貧民の巣窟となり、必然的に他の地方に貧民をあふれさせ、労働社会全体の道徳的また肉体的状態を損うだけの道徳的権利はないのですから。救貧法委員会のもつ行政的強制権と副次的立法権(ただし、それは世論の状態に負うていて、めったには行使されないのですが)は、第一級の国民的利害の場合は完全に正当化できるにもかかわらず、純粋に地方的な利害の監督では、全く場違いなものなのです。しかし、全地方に情報と指示を提供する中央機関は、どの行政部署でも同じように貴重なものとなるでしょう。政府は、個人の努力や発達を邪魔するのではなく、支援し刺激するような種類の活動を、やりすぎるということはありません。悪影響が出はじめるのは、個人や団体の活動や能力を引出すかわりに、政府が彼らにとって替って自分が活動するとき、つまり情報を与え忠告し、場合によっては弾劾するかわりに、彼らに足枷をかけ作業させ、あるいは傍観するよう命じて、彼らのかわりに彼らの作業を行うときなのです。国家の価値とは、長い目でみれば、それを構成する個人の価値なのです。そして個人の精神的拡大と向上を後回しにして、瑣末な業務で実務で得られる行政技巧だのその類似物をちょっとばかり多く手に入れようとする国家、つまり有益な目的のためにせよ、国民をその手中でもっと御しやすい道具にするため、国民を矮小化する国家は、小人によっては真に偉大な事は成しえないこと、そしてすべてを犠牲にした機械が完成しても、この機械をより円滑に動かすためには排除したほうがよいと思った活力が欠けているため、結局はなんの役にも立たないことを、悟ることになるでしょう。


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