職業としての科学 マックス・ウェーバー

科学の宿命


科学と芸術がわかちあうこれらの前提条件とは対照的に、科学は芸術作品とは大いに異なる宿命をもちます。科学的な成果は進歩の過程に縛られるのに対し、芸術の世界では同じ意味での進歩は存在しません。もし形式が素材に対して正当であるならば、あるいは、条件や手法のいかんにかかわらず、もし対象が芸術的に仕上がるよう選ばれ、形づくられているのであれば、たとえば遠近法のように、新たな技術的手法によって成し遂げられた、ある時代の芸術作品が、これらの手法や規則に関する知識を欠いた芸術作品に比べて芸術的に高度であるなどと言うことはできません。正真正銘の「成果」である芸術作品は決して凌駕されませんし、古びることもありません。芸術作品の重要性は個々人によって異なるでしょうが、ひとつの作品が、同じく「成果」である「別の作品を凌駕する」などということは、誰にもいえません。

知っての通り、科学の世界では、科学者が成し得たことは、10年、20年、50年で古びてしまいます。これは科学に課せられた宿命です。まさしくこれは科学的業績の意味するところであり、おおむね同じことが成り立つほかの文化領域と比較しても、極めて独特な意味で注意が向けられます。どの科学的「成果」も新たな「問題」を生み、「越えられる」ことを求め、時代遅れになります。科学に仕える者はだれでも、この事実に身を任せねばなりません。もちろん、科学的業績はその芸術的特質のゆえに「充足感」として永続しますし、あるいは鍛錬の道具として重要であり続けます。にもかかわらず、科学的には乗り越えられるのです。何度も何度も。まったくよくある宿命であり、よくある末路です。他人が自分より先へ進むことを望まずに、仕事をすることはできません。原理として、このような進歩は果てしなく続きます。そうして、これをもって、わたしたちは科学の意味を探求するようになります。というのも、結局のところ、そのような法則の支配下にあるなにものかが、それ自身、もっともらしく意味があるかどうかは、そもそも自明ではないからです。

ではなぜひとは、現実に決して終らない、そして終れないものにたずさわるのでしょうか?ひとつには純粋に現実的な、広い意味での技術的な目的のためです。実用的な活動を、科学的経験がひもといた予想へ向けられるようにするためです。よろしい。しかしこれは現実主義者にとってのみ意味をもちます。もし学者が、そもそも個人的な態度を追い求めるとすれば、彼が職業へ向ける態度とは何でしょうか?彼はいいます。ただ単に、科学を活用することで、ほかの誰かによって商業的、技術的な成功がもたらされ、よりよい食や衣料、啓蒙、統治を可能とするためだけではありません。「科学のために科学に」たずさわるのです。しかし、廃れることを永遠に運命づけられたこれら作品群の中で、終りなくつづく専門化した組織体に組み込まれるに身をまかせる彼は、意義ある何を遂げたいと望むのでしょうか。この質問には一般的な考察をいくらか要します。

科学の進歩は、人類が数千年にわたり経験してきた、今日では極端に否定的に判断されることの多い、知性化の過程の一部分、それも最も重要な一部分にすぎません。まずなにより、科学や科学技術が創りだした主知的合理化が実際に意味するところについて明確にしておきましょう。

それはわたしたちが、たとえば、いまこの会場に座っているみなさんが、アメリカインディアンやホッテントット族以上に、わたしたちの存在基盤としての生の条件に関する知識を多くもつことを意味するのでしょうか。路面電車の乗客は、それがどのようにして動きだすのか、物理学者でもない限り、まったく理解できないでしょう。実際、そんなことは知る必要ありません。路面電車のふるまいを「たより」に、望みどおりに自分の体を運べれば、それで十分です。どういった具合に車両が動くよう作られているかについては、何も知る必要はありません。未開人は自分の道具について、比較にならないほどよく知っています。たとえ政治経済分野の同僚がこの会場にいたとしても、今日、わたしたちがお金を使うときには、きっとほとんどすべてのひとが、次の質問に対して、あらかじめ準備された、それぞれ異なる解答をもつことでしょう。どうしてお金によって、ときにはたくさんの、ときにはわずかだけの、ものが買えるようになったのでしょうか。未開人は、日常的な食糧を得るためにするべきことを、そしてこのためには、なにが役立つかを知っています。このように、増大する知性化と合理化は、生活上の条件に関する、一般的な知識の増加をしめすわけではありません。

それは別のことを意味します。つまり、望みさえすればいつでも学べるという知識と確信です。したがってそれは第一に、神秘的で測りがたい力などはなにもはたらいておらず、それどころか原理的には、あらゆることがらが計算により支配されるということを意味します。これは世界が魔法から解き放たれたことを意味します。もはや、魔力を信じる未開人がするように。魂を支配し請い願うために、魔術的な手段にたよる必要はありません。技術的な手段と計算がそのかわりの役割を果たします。なによりも、これこそが知性化の意味です。数千年来、西洋文化にはびこりつづけた魔術からの解放の過程こそが、そして一般的に、科学が結び目として、そして原動力として一部をなす、この「進歩」こそがその意味です。

それでは、科学には純粋に実践的で技術的である以上の意味はあるのでしょうか。この疑問はレオ・トルストイの著作の中に最も根本的な形で見出すことができます。彼はこの疑問を独特なしかたで投げかけるようになりました。あらゆる彼の苦悩は、死ははたして意味ある現象かという問題をめぐりつづけるものでした。彼は次のように答えます。文明化したひとにとって、死とは意味のないものである。意味はない。なぜなら、無限の「進化」の中におかれた文明人の個々の生は、まさしくその内在的な意味により、決して終ることがないから。なぜなら、進化の過程に連なる者にとって、彼の前には常に次の一歩が存在しつづけるから。死をむかえる者は、無限のかなたにある頂点に立つことはできないから。アブラハムは、あるいは昔の名もなき農民は、「年老い人生に満足して」死をむかえた。なぜなら、彼らは生の有機的輪廻のうちに組み込まれていたから。なぜなら、彼の生は、その意味と彼の時代の目からみて、彼に与えるべきものを与えていたから。なぜなら、彼には解きたいと望む謎など残されてはおらず、生は「十分」であったから。これに対して、思想、知識、問題によって絶えまなく文化が豊かさを増しゆく中で、文明人は「生に飽きる」ことはあっても、「生に満足する」ことはない。彼は魂の生が産みつづけるものの最も些細な部分をとらえるにすぎず、彼がつかまえるものはいつも一時的であり確たるものではない。したがって、彼にとって死は意味のない出来事にすぎない。死が無意味である以上、文明化した生活そのものも、また無意味である。まさにその「進歩性」のゆえに、文明は死に無意味のらく印を押す。こうした思想はトルストイ芸術の基調をなすものとして、彼の晩年の作品のいたるところに見出すことができます。

これに対しては、どういう態度をとればよいでしょうか。はたして「進歩」そのものは、技術的以上のはっきりと認識できる意味をもつのでしょうか。科学に仕えることは意味ある職業だといえるでしょうか。こういう疑問は、当然提起されねばなりません。しかしこれは、単に科学にとっての職業の問題ではなく、したがって、科学に身を捧げる者にとって、職業としての科学が何を意味するかという問題ではありません。そうではなく、それは人類すべての生の中で、職業としての科学とはいかなるものであり、いかなる価値をもつものなのか、という問題になります。


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