職業としての科学 マックス・ウェーバー

神々の争い―価値判断


ここまでわたしは、個人的見解を強いることのないよう、現実的な根拠をもとに話してきました。しかし理由はそれだけではありません。確たるものとして与えられ、前提とされる目的に至るための手段を論じる場合は例外となりますが、実際上の立場は「科学的に」は主張しえないということは、もっとずっと深い理由によります。異なる世界秩序は互いに解きがたく争いあうため、そうすることは根本的に無意味だからです。わたしは老ミルの哲学を称賛しはしませんが、この点で彼はかつて正しいことを言っています:純粋な経験から出発するとしたら、ひとは多神論にたどりつくでしょう。これは皮相的な表現で、そのうえ逆説的に聞えますが、それでもなお、ここには真理が含まれています。それどころかわたしたちは、こんにち再び次のことに気づいています。あるものは美しくないにもかかわらず、いやむしろ、美しくないがために、そして美しくない限りにおいて神聖なものとなる。その証拠は、イザヤ書第53章や詩篇第21篇に見出すことができます。また、あるものは善ではないにもかかわらず、いやむしろ、善ではないがために美しくなりうる。これはニーチェ以来知られており、またそれ以前にも、ボードレールが『悪の華』とよんだ詩集のうちにも示されています。美しくなく、神聖でもなく、善ではないにもかかわらず、そして、そうではないためにこそ、真ではありうる。これもまたありふれたことです。しかしこれらは、価値や秩序に関する個々の神々の争いのなかでも、もっとも基本的な場合にすぎません。どうして、フランスとドイツの文化の価値に雌雄を決することができるでしょうか、わたしにはわかりません。ここでも神々はたがいに争っており、しかもそれは永遠につづきます。かつて、まだ世界が神々や霊力の支配を脱していなかったころ、古代ギリシャの人々はアフロディーテに、アポロに、そしてなにより、それぞれ自分の都市の神に対して供物を捧げていました。神秘の魔術から解放され、裸にされたとしても、個々の内部には、態度を決する真の彫像が、いまなお存在します。そして、これらの神々を支配し、その争いをつかさどるものは運命であり、断じて「科学」ではありません。それはただ、ある秩序にとっての、または別の秩序にとっての神とはなにかについて理解させるだけです。ここまでで、教授による講堂における議論は完全に終りとなります。当然ながら、その中に含まれる重大なる人生上の問題は、まったく片づいたわけではありません。しかしそれは、大学の教壇ではなく、別の力が語ることです。

だれが山上の垂訓の倫理を、たとえば「悪に手向かうな」という教義や、一方のほおともう一方のほおの比喩を、あえて「科学的に反駁」しようとするでしょうか。ただ明らかなのは、世俗的にみると、ここで説かれていることは尊厳を失った行動倫理といえます。ひとはこの倫理がもたらす宗教的威厳を保つか、あるいはこれとは少し異なる教え「悪には手向かえ。さもなくば、力を貸したおまえも悪の共犯者だ」を諭す男の尊厳のいずれかを選ばねばなりません。究極的な立場のいかんにより、一方は悪魔、もう一方は神となり、個々人は自分にとってどちらが神でどちらが悪魔かを決しなくてはなりません。そしてこういうことは、人生のあらゆる規範に対してあてはまることです。

あらゆる宗教的預言から流れ出る倫理的規律的な生活規範、その規範を礎とする壮大なる合理主義は、多神教の権威を「必要なひとつのもの」へとゆずりわたしました。その上で、わたしたちが歴史に知るように、外的にも内的にも生活の現実に直面するに及んで、キリスト教は妥協と相対化の必要にせまられてきました。しかし今日では、このことは宗教的「日常」となっています。多くの古き神々が、魔力を解かれたことで超人的な力と化し、それぞれの墓からはい上がり、わたしたちの生活を支配すべく、ふたたび互いに永遠の争いをはじめています。現代人にとって難しく、ことさら若い世代にとって最も困難なことは、このような日常に立ち向かうことです。かの「体験」を求める衝動はすべて、この弱さから生じています。なぜなら弱さとは、時代の宿命を厳粛なる面持ちで直視できないことにほかならないからです。

排他的と言われ、あるいは思われてきた、キリスト教倫理の壮大なる情熱的道徳指向により千年にわたり目をふさがれてきたその後に、わたしたちは文明化によって、この闘争をふたたび、よりはっきりと認識するよう運命づけられています。


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©2002 岡部拓也. この版権表示を残す限りにおいてこの翻訳は商業利用を含む複製、再配布が自由に認められる。プロジェクト杉田玄白 (http://www.genpaku.org/) 正式参加作品。