職業としての科学 マックス・ウェーバー

教師と指導者


これでこの問題はもう十分でしょう。これらすべてに対し、最近の若者は思い違いをして、こう言い返します。「そうなんだけど、ぼくらは単なる分析とか事実の記述とか、そんなことよりもっと、すごいことを体験したくて講義をききにくるわけですよ。」思い違いというのは、彼らは目の前の大学教授に対して、実体とは違うものを求めています。そういう彼らは教師ではなく指導者を切望しています。しかし、わたしたちは単に教師として教壇に立つわけです。そして、すぐわかることですが、この2つは別のことがらです。そこで是非もう一度、アメリカの話をさせてください。ここには最もはっきりとした形で、問題の原型をみることができます。

アメリカの少年がドイツの少年に比べて勉強しないことといったら、言語に絶するほどです。膨大な試験の数にもかかわらず、学生生活は、ドイツのように、彼らを試験の虫と化すほどの重要性をもっていません。というのも、アメリカでは、卒業試験が官僚世界への入場許可書となる官僚制度が、いまだ成熟していないためです。アメリカの若者は、なにに対しても、誰に対しても、伝統に対しても、役所に対しても、個々人の個人的成果でもない限り、いっさい敬意をしめしません。これがアメリカ人のいう「民主主義」です。実際にいかに歪められた形とはいえ、これが民主主義の意味であり、ここで問題にしたいことです。アメリカ人がいだく教師の概念とは次のようなものです。八百屋が母さんにキャベツを売るみたいに、教師はぼくに、父さんのお金で知識や手段を売ってくれます。それだけのことです。もちろん、ここでいう教師がサッカーの監督ということでしたら、この場合には彼は指導者となります。しかしそうではなく、スポーツの他の分野の似たようなものでもないのであれば、彼は単純に教師なのであって、それ以上のものではありません。アメリカの若者は、教師が世界観や行動規範を売るとは考えないでしょう。さぁ、こう整理すると全部却下せざるをえません。わたしは意図的に少し極端に誇張して述べました。問題はこの中に、なにか汲み取れるものはないかということです。

学生のみなさん。あなたがたは講義に出席し、わたしたちに指導者の資質を求めます。そしてあなたがたは、100人の教授のうち少なくとも99までは、生の根本的問題におけるサッカー教師だとは、いわんや行為の「指導者」だとは、言いきれないし、そうすべきでもないということに、もとより気づいていません。個人の価値は指導者の資質の有無にはよらないことをよく考えてみてください。なにはともあれ、優秀な学者や学校教師の資質は、実生活や、あるいはより具体的に、政治を指揮する指導者たる資質とは一致しません。教師がこの資質をも持つとすれば、それは純粋に偶然であって、もし教壇に立つすべての先生が、教師は指導者の資質をもつべきだという学生らの期待を突きつけられるよう感じるのであれば、これは危機に瀕した状況です。あらゆる先生が講義室で指導者たるべく任されたならば、なおいっそう危機的です。たえず自分のことを指導者だと思うような者は、たいてい指導者の資質を最も欠いています。しかし、そうかどうかにかかわらず、単純に教壇は指導者の証明をする場ではありえません。若者の助言者としてふるまうことが自分に向いていると思い、彼らの信用を集める大学教授であれば、彼らとの個人的な人間関係の中でそれを示せばよいのです。世界観や政党見解の抗争に首を突っ込みたいのであれば、市場や新聞、集会や組合、どこでもよいですが、どこか外ですればよいのです。ともあれ、聴衆やありうる敵対者が沈黙をしいられる場所で勇気を奮うというのは、ちょっと都合がよすぎます。


<< 前へ 目次 次へ >>
©2002 岡部拓也. この版権表示を残す限りにおいてこの翻訳は商業利用を含む複製、再配布が自由に認められる。プロジェクト杉田玄白 (http://www.genpaku.org/) 正式参加作品。