職業としての科学 マックス・ウェーバー

科学の役割


最後に、あなたがたは次のように質問するでしょう。「もしそうであれば、現実の個人的な『生』に対して、科学は実際に積極的になにができるのか。」こうしてふたたび、「職業」としての科学の問題へと立ち帰ることになります。

まず第1に、科学は当然ながら、人間の行動とともに外的対象物を計算により技術的に管理する上で貢献します。しかし、あなたがたはこういうでしょう。そうですけど、それは結局、アメリカ人少年がいう八百屋以上のものではない。いやまったく、わたしも同意します。

第2に、科学は八百屋にはできないことにも寄与します。思考方法、考察の道具と訓練といったものです。あなたがたはおそらくこういうでしょう。それは野菜ではないが、野菜を調達する手段にすぎないだろう。まぁよいでしょう。今日のところはこの点も置いておきましょう。

しかしながら、幸いなことに、科学の寄与は以上で終りではありません。ようやく、あなたがたを第3の目的へと手助けできる点にたどりつきました。それは明晰さを得るということです。もちろん、わたしたちには明晰さをもつことが前提とされています。とするなら、あなたがたに次のことを明らかにできます。

現実には、価値に関する問題を考えるときには、様々な見方ができます。単純には、社会的現象を例として考えてみて下さい。科学的経験によると、これこれの立場をとるとき、現実的に自分の信念をとげるには、これこれの手段を選ばねばならないということがあります。さて。これらの手段は、ひょっとすると、あなたには拒否すべきと思われるものかもしれません。そのときあなたは、目的と避け難い手段との間で、究極の選択をせねばなりません。目的は手段を「正当化」するでしょうか。あるいは、そうではないでしょうか。教師はあなたにこの選択の必要性を突きつけます。しかし、煽動家ではなく教師に留まりたいのであれば、彼ができることはここまでです。もちろん、経験にてらして、こういう目的を望むのであれば、おまけにこういう副次的な結果をもたらすことを伝えることは可能です。ここで再び、前と同じ状況にでくわします。これらは技術専門家にとって生じる問題でもあります。極めて多くの場合に、最小悪または相対的善のいずれかの原理にしたがい決意せねばなりません。技術者にとって、ただひとつ主要な目的そのものは、通常あらかじめ与えられています。しかし、真に「究極的な」問題が問われている場合には、こうはいきません。こうしてようやくわたしたちは、明晰さのために役立つという、科学本来の最終任務にたどりつくと同時に、科学の限界にもたどりついたことになります。

さらにくわえて、次のように言えますし、またそう言うべきです。それがもつ意味により、おのおのの現実的立場は、様々な究極の価値見解から、内的整合性と完全性をもって導くことができます。おそらくそれはただ1つの、あるいはいくつかの、基本的立場から導かれるでしょうが、ほかのどれからも導かれるというわけではありません。比喩的にいうと、ある立場に執着するとき、あなたはその神に仕え、ほかの神には背くことになります。そしてもし自分に誠実であれば、あなたは必ず、主観的に意味のある、なにがしかの最終結論にたどりつくでしょう。すくなくとも原理的には、ここまでは達成できることです。特殊な訓練としての哲学や、他の科学分野の原理に関する本質的に哲学的な議論は、これを遂げようと試みます。したがって、わたしたちが仕事の追求において、(ここで想定されねばならない)資質を有するのであれば、わたしたちは、個々人に対して、それぞれの行動の究極的意味を明らかにするよう彼に強いるか、あるいは少なくともそれを手助けすることができることになります。個々の私的生活に関するものとはいえ、わたしにとって、このことはつまらないことではありません。ここでふたたび、これに成功した教師について話したくなります。彼は「倫理的な」力に仕えることで、自己明晰化と責任感をもたらす義務を遂げます。自身の立場を聴衆に押しつけたり提唱したりする個人的な欲求をより忠実に避けるほど、教師はこのことをうまく成し遂げられるだろうと、わたしは信じています。

ここで想定されることがらは、常にひとつの基本的事実を出発点とします。生が内在し、それ自身により解釈される限りにおいて、生とは神々の終りなき闘争だということです。率直にいうと、生に対して可能な究極的な態度は、互いに相容れないものであり、したがってそれらの間の闘争は決して最終結論には到達できません。このために、決定的な選択をする必要が生じます。

そのような条件のもとで、科学があるひとの「職業」として価値あるものか、科学それ自身が客観的に価値ある「職業」たりうるかということは、やはり講義室で判断のつく問題ではありません。それは、科学の価値を肯定することが教育の前提条件だからです。わたしにしても、自分の仕事を通じて、その質問に対して個人的には肯定的に答えますし、今日若者がとるような、あるいはただそう思いこんでいるだけのような、まさに知性主義を最邪悪だとして嫌悪する態度からもそうします。この場合、そういう若者に対しては次の言葉があてはまります。「気をつけなさい、悪魔は年をとっている。だから理解するにはもっと年をとりなさい。」これは出生証明書の意味での年齢についていっているわけではありません。この悪魔を片付けたいのであれば、最近の多くの者がそうしたがるように、逃げ去るべきではなく、その力と限界を知るには、悪魔の行く末を最後まで見とどけねばならないという意味です。

今日の科学は専門的な規律により組織化された「職業」であり、互いに関連しあう事実の自己明晰化と知識に仕えるものであって、幸運や啓示をもたらす占い師や預言者による恩恵とは異なりますし、また宇宙の意味に関する賢人や哲人の黙想とも違うものです。これはまさに歴史による避けがたい状況であって、わたしたちが自己に忠実であるかぎり、そこから逃れることはできません。

そしてもし、あなたの中にトルストイの疑問が再び浮かび、こう尋ねるとき「科学に答えられない疑問に対して、誰が答を与えるのか。わたしたちはなにをなすべきで、生をどう方向づけるべきなのか。」あるいは、今晩ここで話した言葉を用いますと「わたしたちは、互いに争いあう、どの神に仕えればよいのか。あるいはそのどれでもないとすると、それは一体何なのか。」この問いにはこう答えねばなりません。それはただ、預言者か救世主だけです。もしそのような者など存在せず、もしお告げなど信用できないとしても、あなたたちは、国に雇われ権限をもつ幾千の教授らに、講義室の小預言者として、その代りをつとめさせてはなりません。預言者を無理やり地上によみがえらせるなど、絶対してはならないのです。彼らがなし得ることといえば、かくも多くの若い世代が求める預言者など単純に存在などしないのだという、ただこの決定的事態を知らせることのみですが、それが致命的に重要なことだと彼らに伝わることは決してありません。神も預言者もない時代に生きることを運命づけられているという、この基本的事実を高座の預言で覆いかくしたとしても、真に宗教的に「音楽的な」ひとの内的関心事につくすことには、決してなりません。むしろ、そういうひとは宗教的感覚の誠実さゆえに、これに抵抗するに違いありません。わたしはそう思います。


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