トロイア物語:都市の略奪者ユリシーズ, アンドリュー・ラング

アマゾーン族やメムノーンとの戦い――アキレウスの死


ユリシーズはヘレネーのことをたいしたものだと、しばしば思い起こした。ヘレネーが親切にしてくれなかったら、ユリシーズはトロイアの幸運の宝を盗み出して、ギリシア軍を救うことはできなかった。ヘレネーは王候たちが求婚した頃とかわらず美しいけれど、自分が多くの悲惨なことの原因だと知り、また将来何が起きるかと恐れて、非常に不幸だということが、ユリシーズにはわかった。アマゾーン族が来るという、ヘレネーがうっかり洩らした秘密のことは、ユリシーズは誰にも言わなかった。

アマゾーン族は好戦的な女の種族で、テルモードーン河の岸のはるかかなたに住んでいた。以前はトロイアと戦ったこともあり、トロイアの平原の大きな墳丘のひとつはアマゾーンの速足のミュリネーの遺灰をおおっているのだ。アマゾーン族は戦争の神の娘たちだと信じられていたし、戦闘では最も勇敢な男に等しいと考えられていた。その若い女王ペンテシレイアには、トロイアに戦いに来る理由が二つあった。ひとつは名声を勝ち得たいという野心であり、もうひとつは狩で誤って妹ヒッポリュテーを殺したことで、眠れない程哀しんでいたためなのだ。ペンテシレイアが牡鹿めがけて投げた槍はヒッポリュテーにあたり、殺してしまった。それでペンテシレイアはもう自分の生活にかまわず、戦いで華々しく倒れることを望んでいた。そこでペンテシレイアと護衛の十二人のアマゾーンはテルモードーンの広い流れから出発し、トロイアへと馬で乗り込んだのだ。物語では、彼女達はギリシアやトロイアの将軍たちのように戦車を駆ったのではなくて、馬に乗ってきたと言うことだ。きっとそれがアマゾーンの国の流儀だったのにちがいない。

ペンテシレイアはアマゾーン族のなかでも一番背が高く一番美しく、部下の十二人の乙女の中で輝いており、星の中の月のよう、あるいは明るい暁の女神がその戦車の車輪のあとにしたがえている時の神々の中にいるかのようだった。彼女を見てトロイア軍は喜んだ。というのは、彼女は眉をひそめ、美しく輝く目をして、頬を染めて、恐ろしいと同時に美しく見えたからだ。トロイア軍のところへ、彼女は嵐のあとに現れる虹の女神イーリスのようにやって来た。それでトロイア軍は彼女のまわりに集まって、歓呼し、花を投げ、鐙に口づけをした。それはジャンヌ・ダルクがオルレアンを救いにきたとき、オルレアンの人々が彼女を歓迎したのと同じであった。プリアモスでさえ、長い間目が見えなかったのに目が治ってもう一度日の光を見た男のように喜んだ。プリアモスは盛大な祝宴を開き、ペンテシレイアに金の杯、刺繍、銀の柄の剣といったたくさんの美しい贈物をした。それでペンテシレイアはアキレウスを殺してみせると誓った。だが、ヘクトールの妻アンドロマケーはそれを聞きつけ、内心でこう言った。「あゝ、不幸な女。それはお前の慢心というもの。お前にペーレウスの不屈の息子と戦う強さはない。だって、ヘクトールがアキレウスを殺せなかったのに、お前にどんな見込みがあるというの。ただお前の墓の積み上げた土がヘクトールを覆うだけ。」

朝になるとペンテシレイアは眠りから飛び起きると、すばらしい武具を着け、手に槍を持ち、脇に剣を付け、背中に弓と矢筒をさげ、脇を覆う大盾を首から吊し、馬に乗ると、早足で平原へと向かった。その傍らで、護衛の十二人の処女、それからヘクトールの兄弟や縁者全員が突撃した。この一団がトロイア軍の隊列を率い、ギリシア軍の船に向かって殺到した。

その時、ギリシア軍はお互いに尋ねあった。「ヘクトールが率いたように、トロイア軍を率いるのは誰なんだろう。まさかどこかの神が馭者の先頭にたって馬に乗っているのではあるまいな。」ユリシーズはトロイア軍の新しい指揮者が誰かはギリシア軍に教えていなかったが、女と戦おうという気にはならなかった。というのも、この日の戦いには彼の名が揚がっていないのだ。こうして双方の戦線はぶつかりあい、トロイアの平原は血で赤く染まった。それはペンテシレイアがモリオース、ペルシノース、エイリソッス、アンティパテース、高邁な心のレルノス、大きな鬨の声のヒッパルモス、ハエモニデース、力の強いエラシッポスを殺し、またその部下の乙女デリノエとクロニエもそれぞれギリシア軍の武将を殺したからなのだ。だがクロニエはポダルケースの槍に倒れ、ペンテシレイアはポダルケースの腕を切り落とした。その一方では、イードメネウスがアマゾーン族のブレモウサを槍で刺し、クレータのメーリオネースがエウアドレを殺し、ディオメーデースは剣で互角の戦いの末アルキビエーとデーリマケイアを殺した。こうしてペンテシレイアの護衛の十二人の一団はまばらとなっていった。

トロイア軍とギリシア軍は互いに殺しあったが、ペンテシレイアは部下の乙女たちの復讐をして、丘の上で牛の群を追い立てる雌獅子のごとく、ギリシア軍の隊列を追い立てていった。そうして彼女は叫んだ。「犬め!今日こそお前たちにプリアモスの悲しみの償をしてもらおう!お前たちのなかでもっとも勇敢と言われているディオメーデースはどこだ、アキレウスはどこなのだ、アイアースはどこにいるのだ。そやつらの誰も私の槍の前に立とうとはせぬのか。」それから彼女はプリアモスの一族、ヘクトールの兄弟縁者の先頭にたって、再び突撃した。彼らの行くところ、ギリシア軍は秋風の前の黄色く色づいた葉のように倒れた。ペンテシレイアが乗っている、北風の妻から贈られた白馬は、ギリシア軍の隊列の間を、暗雲を貫く雷光のようにひらめいた。そしてアマゾーンの突撃の後につづく戦車は戦死者の屍体を乗り越えるとき、揺れ動いた。そこで城壁から眺めていたトロイアの老人たちは叫んだ。「あれは人間の娘ではなくて、女神じゃ。今日、彼女はギリシア軍の船を焼き払い、ギリシア軍はトロイアの国で全員命を落し、二度と見ることもないだろう。」

さて、アイアースとアキレウスは戦いの物音や叫びを聞いていなかった。というのも二人ともパトロクロスの大きな新しい墓へ行って泣いていたからなのだ。ペンテシレイアとトロイア軍はギリシア軍を塹壕の内側にまで追い戻し、ギリシア軍は船の間のあちらこちらに身を潜めた。ヘクトールの武勲の日と同じように、トロイア兵の手には船を焼き払うため松明が燃えていた。そのときアイアースが戦いの物音を聞きつけ、急いで船の方へ戻るようアキレウスを呼んだのだ。

そこで二人は急いで小屋に走り、武具を着けた。アイアースはトロイア軍に打ちかかっては殺してまわり、一方アキレウスはペンテシレイアの護衛を五人殺した。ペンテシレイアは、部下の乙女が倒れるのを見ると、二羽の隼に立ち向かう鳩のように、まっすぐアイアースとアキレウスに向かって駆けて来て、槍を投げた。だが、槍は神がペーレウスの息子のために作った見事な盾にはねかえされて鈍って落ちた。そこでペンテシレイアはもう一本の槍をアイアースに投げ、「私は戦の神の娘だ。」と叫んだが、アイアースの武具に槍はささらなかった。そこでアイアースとアキレウスは大声をたてて笑った。アイアースはそれ以上はアマゾーンには注意を払わず、トロイア軍の兵にむかって突進していった。一方アキレウスは、自分しか投げることのできない重い槍を持ち上げ、ペンテシレイアの胸当てを貫いてその胸を突き刺した。それでもまだ彼女の手は剣の柄をつかんでいた。だが、剣を抜くより前に、アキレウスは彼女の馬を槍で刺したので、馬も乗り手も倒れ死んだ。

風に倒された高いポプラの木のように、美しいペンテシレイアは塵の中に倒れ、その兜はころがり落ちていた。そのまわりに集まったギリシア兵は、死んでいるペンテシレイアがあまりに美しいのを見て驚いた。それは丘の上で狩に疲れてひとり眠っている森の女神アルテミスのようだった。その時、アキレウスは彼女の命を助け、自分の国で妻にしたならどうであったかと考え、哀れみと悲しみで心がいっぱいになった。しかし、アキレウスはもう二度とその故国、心地よいプティーアを見ることはなかったのだ。こうしてアキレウスは立ちつくしてペンテシレイアの骸のうえに涙した。

さて、ギリシア軍は、哀れみと悲しみにつつまれて、攻撃を差し控え、逃げるトロイア軍を追跡しなかったし、またペンテシレイアとその部下の十二人の乙女から武具をはぎ取ることもせず、死骸を棺台に乗せ、平穏のうちにプリアモスのもとへ送り届けた。それから、トロイア人は大きく積み上げた乾いた薪の上で、死んだ乙女たちの真中にペンテシレイアを置いて焼いた。それからその灰を金の棺に納め、大昔のトロイアの王ラーオメドーンの大きな墳丘に埋葬した。一方、ギリシア軍は悲しみにくれながらアマゾーンに殺された者たちを埋葬した。

トロイアの古老と将軍はそこで会議を開いたが、プリアモスは、まだ絶望すべきではない、というのもトロイア軍が多くの勇者を失ったとはいえ、ギリシア軍も多くが戦死しているのだから、と言った。トロイア軍の最良の作戦は、メムノーン王がエティオピアの大軍を率いて救援に来るまで、城壁と塔から矢だけで戦うことだった。さてメムノーンは、命に限りある人間のティートーノスに恋をして結婚した美しい曙の女神の息子だった。彼女は恋人を不死にしてくれるよう神々の頭ゼウスに願い、その祈願はかなえられた。ティートーノスは死ぬことはなかったが、髪が灰色になりはじめ、やがて白髪となり長い白ひげが生え、非常に弱々しくなり、声を残すばかりとなり、いつも夏の日の飛蝗のようにかすかにしゃべるのだった。

メムノーンは、パリスとアキレウスをべつにすれば、一番美しい男だった。その故郷は日の昇る土地に堺を接した国だった。そこでメムノーンは十分強くなって、エティオピア全軍を指揮できるようになるまで、ヘスペリデスと呼ばれる百合の乙女たちに育てられた。プリアモスはメムノーンとエティオピア軍が到着するまで待ちたかったが、ポリュダマースは、トロイア人はヘレネーがメネラーオスの家から持ってきた宝石の二倍の価値の宝石を付けて、ヘレネーをギリシア人に返すべきだと助言した。するとパリスは非常に怒り、ポリュダマースは臆病者だと言った。というのも、パリスが一ヶ月でも美しい手のヘレネーを自分のものにできないなら、トロイアが占領され一ヶ月にわたって燃えようともパリスにとっては大したことではなかったのだ。

ようやくメムノーンが大軍を率いて到着したが、その故郷では太陽が強烈に照りつけるので、その軍隊の男達は歯以外に白いところなどなかった。トロイア軍は皆メムノーンに大いに期待した。というのも、日の昇る土地、そして丸く世界を取り囲むオーケアノスの河からの長旅の途中で、メムノーンはソリュモイ人の国を通らなければならなかったが、ソリュモイ人は獰猛な人たちで、メムノーンに立ち向かったのだが、メムノーンとその軍隊は丸一日戦ったあと、彼らを打ち破り、山へと追い込んだのだ。メムノーンが到着すると、プリアモスは、葡萄酒をなみなみと注いだ金の大杯を彼に与え、メムノーンは葡萄酒を一息で飲み干した。しかしメムノーンは、あわれなペンテシレイアとは違い、何ができるかを自慢することはなかった。「というのは」とメムノーンは言った。「私が戦に優れているかどうかは戦場でわかるというもの。そこで男の強さが試されるのですから。それでは寝かせてもらいましょう。というのは夜通し起きていて酒を飲むのは、戦の始め方としてはまずいことですから。」

そこでプリアモスはメムノーンの賢さを褒め、皆は彼らを寝床へと連れて行った。翌朝、明るい暁の女神はいやいや起き上がり、息子が命の危険を冒す戦場に光を投げかけた。それからメムノーンは部下達を暗い雲から平原へと連れ出した。ギリシア軍は着いたばかりで疲れていない戦士たちの新しい大軍を見て、悪い予感がした。しかし、アキレウスは輝かしい武具に身をつつんで彼らを率い、勇気を奮い立たせた。メムノーンはギリシア軍の左翼に襲いかかって、ネストールの配下を襲い、まずエレウトスを殺し、それからネストールの若い息子アンティロコスに攻めかかった。アンティロコスは、パトロクロスが倒れた今では、アキレウスの一番の親友だった。メムノーンは、子山羊にとびかかる獅子のように、アンティロコスにとびかかった。しかしアンティロコスは平原から大石を、大昔の偉大な戦士の墓に据えられていた柱を持ち上げ、石はメムノーンの兜にまともにぶつかり、メムノーンはその一撃でよろめいた。しかしメムノーンは自分の重い槍をつかみ、アンティロコスの盾と胴鎧を貫いて、その心臓まで突き刺した。アンティロコスは倒れ、父親の目の前で死んだ。それで大いに悲しみ怒ったネストールは、アンティロコスの骸をまたいで、もう一人の息子トラシュメーデースに呼びかけた。「こっちへきて、お前の兄弟を殺したこの男を追え。お前の心に恐れがあるのなら、お前は我が息子でもなければ、ペリクリュメノスの一族のものでもない。ペリクリュメノスは戦場で強者ヘーラクレースにさえ立ち向かった者なのだぞ。」

しかしメムノーンはトラシュメーデースには強すぎて、トラシュメーデースは追い払われた。その一方で老ネストールは手に剣を構えたが、メムノーンは立ち去れと言った。というのはメムノーンは年老いた者に撃ちかかる気はなかったからなのだ。それでネストールは年のせいで弱っていたので、退いた。それからメムノーンとその軍隊はギリシア軍に突撃し、殺しては死体から武具をはぎ取った。しかしネストールは戦車に乗って、アキレウスのところに行き、泣きながら、すぐに行ってアンティロコスの骸を取り戻してほしいと懇願した。それでアキレウスが急ぎメムノーンと対戦した。メムノーンは畑の目印の大きな石を持ち上げ、ペーレウスの息子の盾に投げつけた。しかしアキレウスはその一撃に怯むことなく、前へと走りでて、盾の縁でメムノーンを傷つけた。傷つきながらもメムノーンは戦いつづけ、槍でアキレウスの腕を刺した。というのはギリシア人は腕を保護する青銅の袖をつけずに戦っていたのだ。

そこでアキレウスは大剣を抜き、メムノーンにかけ寄った。そして剣を振り回して、互いに盾や兜を撃ち合い、長い馬毛の兜の前立ては短く切り落とされ、風が巻き起こり、剣の打撃で盾はすさまじい音をたてた。お互いに盾と兜の面頬の間で喉を突き、脛を打ち、胸を叩き、体中で武具は鳴り響き、足元では埃が舞い立ち、大河の流れ落ちる瀑のまわりの霧のように、まわりで雲となった。彼らはこんなふうに戦い、どちらも一歩もひけをとらなかったが、ついにアキレウスの加えた素早い一撃をメムノーンがかわせず、青銅の剣は胸骨の下でメムノーンの体を貫き通し、メムノーンは倒れた。倒れるとき、その武具は砕けた。

傷つき、失血して弱っていたアキレウスは、メムノーンの黄金の武具をはぎ取ろうと留まったりせず、鬨の声をあげると、押し進んだ。それは逃げるトロイア軍といっしょにトロイアの城門から入ろうと思ったからだ。そしてギリシア全軍が彼の後につづいた。こうしてギリシア軍は追撃し、殺しながら進んだ。そしてスカイアイ門は追い、追われる人の群でふさがっていた。まさにその時、ギリシア軍がトロイアに入城し、町を焼き払い、女たちを捕虜にするかに思われた。だがパリスが城門の上の塔にたち、胸のうちには兄ヘクトールの死にたいする怒りがこみ上げていた。パリスは弓の弦を試してみて、それが擦り切れているのに気がついた。それというのも、一日中ギリシア軍に矢を雨のようにあびせていたからなのだ。そこで新しい弦を選んで、それを合わせると、弓に張った。それから矢筒から矢を一本選ぶと、アキレウスの踵に狙いを定めた。そこは神がアキレウスに合わせて作ったすね当てあるいは金属の脚覆いの下にむきだしとなっていた。矢は踝を貫き、アキレウスは振り向き、力を失い、よろめいて倒れた。神の作った武具は埃と血にまみれた。

それからアキレウスはもう一度起き上がり、叫んだ。「彼方より隠した矢で私を射たのは、どの臆病者だ。前に出て剣と槍で私に立ち向かえ。」そう言うと、アキレウスは力強い手で矢の柄をつかみ、傷から引き抜いくと、たくさんの血か噴き出し、目の前が暗くなった。けれどアキレウスはよろよろと前に進み、やみくもに剣で突き刺し、兜を貫いてヘクトールの親友だったオリュタオンを殺し、その他にも何人か殺したが、もはや自分の力を失い、槍に寄りかかり、鬨の声をあげて、言った。「トロイアの臆病者たちよ。このとおり私は死にゆくが、お前たちは皆我が槍から逃れられないだろう。」しかし、そう言うとアキレウスは倒れ、その武具は彼のまわりで鳴り響いた。しかしトロイア人は離れたところに立って見ていた。狩人が自分に近寄って来そうにもない死にゆく獅子を眺めるのと同様に、アキレウスが最後の息を引き取るまで、おびえていた。そのあと城壁からトロイアの女たちが、気高いヘクトールを殺したアキレウスの死に歓びの声をあげた。こうしてアキレウスはスカイアイ門でパリスの手にかかって倒れるだろうという、ヘクトールの予言は成就した。

それからトロイア軍の精鋭がアキレウスの骸と光り輝く武具をとろうと城門から殺到してきた。だがギリシア軍はしかるべき埋葬をしようと、必死で船に遺骸を運ぼうとした。アキレウスの死骸のまわりで、長く激しい戦いが行われ、ギリシア軍とトロイア軍の双方が入り乱れたので、味方を殺さないように、トロイアの城壁からは誰も矢を射ようとはしなかった。パリスとアイネアースそれにサルペードーンの友人だったグラウコスがトロイア軍を率い、アイアースとユリシーズがギリシア軍を率いた。というのもアガメムノーンがこの大会戦で戦ったとは語られていないのだ。さて、怒った野性の蜜蜂が蜂の巣をとろうとする人間のまわりに群がるように、トロイア軍はアイアースのまわりに集まり、アイアースを刺そうと奮戦した。しかしアイアースは前に大盾を置き、槍の届く範囲に来るものをすべて刺し殺した。ユリシーズも多くを刺した。槍が飛んで来て膝のあたりの脚に突き刺さったが、しっかりと立ち、アキレウスの骸を守った。ついにユリシーズはアキレウスの死骸の手をつかみ、背中にのせると、足をひきずりながら船に向かった。アイアースとアイアースの部下は、トロイア軍が近寄ろうものならぐるりと向きを変え、その真中に突撃をくわえながら、ついていった。こうして彼らは倒れた者たちの死体と血をこえて、非常にゆっくり平原を横切って死んだアキレウスを運んで行った。戦車に乗ったネストールに出会うと、アキレウスを戦車にのせ、ネストールはたちまち船へと駆けて行った。

そこで女たちが泣きながら、アキレウスの美しい体を洗い、棺台に横たえて、白い外套で覆った。そして女たちは皆嘆き、喪葬の歌を歌った。一番嘆いたのはブリセイスだった。彼女は自分の故国よりも、父親よりも、アキレウスに殺された兄弟よりも、アキレウスを愛していた。ギリシアの王候たちも、遺骸のまわりに立ち、泣きながら黄色い髪の長い巻き毛を切り取り、悲しみの標とし死者への供物とした。

海からはアキレウスの母、銀の足のテティスが、不死の海の乙女を引き連れて、現れたということだ。彼女らは海の下のガラスの部屋から上がってきて、夏の日の波のように、たくさんの美しい海の乙女たちが動きまわって、その美しい歌声が岸辺にこだまし、ギリシア軍は恐怖に襲われた。それでギリシア軍は逃げようとしたが、ネストールが叫んだ。「じっとして、逃げるではないぞ、アカイア人の若き主たちよ。見よ、海から現れたのは、不死の海の乙女たちをつれたアキレウスの母上で、死んだ息子の顔を見ようとしておるのじゃ。」それから海のニンフは死んでいるアキレウスのまわりに立ち、神々の衣装、よい香りの衣服を着せ、九人のムーサイ全員が、互いに美しい声で応じああいながら、哀歌を歌い始めた。

次にギリシア人は乾いた薪の山を築き、そのうえにアキレウスをのせ、火をつけ、炎がその遺骸を焼き尽くして、白い灰だけが残った。この灰を大きな金杯に入れ、パトロクロスの灰と混ぜた。そして特に、そばを帆走するときにはいつも目にしてアキレウスのことを思い出すよう、海に突き出た岬に高く、丘のような墓を築いた。次にギリシア人はアキレウスを讃えて徒歩競走や戦車競走、その他の競技会を催し、テティスはすばらし賞品をだした。一番最後に、すべての競技が終ったとき、テティスは王候たちの前に、パトロクロスがヘクトールに殺された夜に、神がその息子のために作った輝かしい武具を置いた。「この武具をもっとも優れたギリシア人でアキレウスの骸をトロイア軍の手から救った者への褒美としよう。」とテティスは言った。

そこで一方にアイアースが、もう一方にはユリシーズが立ち上がった。というのは、この二人が遺骸を救いだしたのだし、どちらも自分の方が劣っているとは思っていなかったからなのだ。どちらも勇者のなかの勇者で、アイアースの方が背が高く力も強く、ヘクトールが武勲をたてた日、船べりでの戦いを支えたというのなら、ユリシーズはたった一人でトロイア軍に立ち向かい、傷を負った時でさえ治療を拒絶し、勇気と狡知でギリシア軍のためにトロイアの幸運の宝を勝ち取った。それだから老ネストールは立ち上がって言った。「今日は不運な日だ。ギリシア軍のもっとも優れた者がこの褒美をめぐって対立するのだから。勝者にならなかった者は心が沈み、まるで老人のように、戦場で我々の確固たる力にならず、したがってギリシア軍の大きな損失になるだろう。だれがこの問題に公正な判断が下せよう。というのは、アイアースが好きな者もいれば、ユリシーズのほうがよい者もいて、したがって我々に紛争が起こるだろうから。ほら、我々には友人が牛や金や銀や青銅や鉄で身代金を払うまで留め置かれているたくさんのトロイアの捕虜がいるだろう。この連中はみな一様にギリシア人を憎んでおり、アイアースもユリシーズも嫌っている。連中に判断させ、誰がギリシア軍でもっとも優れた者で、トロイア軍に一番損害を与えたかを決めよう。」

アガメムノーンはネストールの言っているのが賢明だと言った。トロイア兵たちはそこで、集会の真中に判定者として座り、アイアースとユリシーズがそれぞれ自分の偉業の物語を語った。その話は私たちはもう聞いて来た。アイアースは乱暴でぶしつけな話し方で、ユリシーズを臆病者で弱虫だと言った。「おそらくトロイアの諸君はわかっているだろう。」とユリシーズは静かに言った。「私がアイアースの言ったこと、つまり私が臆病者であると言われて当然なのかどうか。それに多分アイアースは憶えていることだろう。パトロクロスの葬儀のときに、賞品をかけてレスリングをやったとき、私が弱くないことがわかったはずだ。」

そこでトロイア兵たちは皆声を一つに、勇気の点でも軍略の技の点でもユリシーズがギリシア軍でもっとも優れた者、トロイア軍を恐れさせる者だと言った。この時、アイアースの血は頭に登り、友人が彼のところに来て小屋に連れて行くまで、黙ったまま身じろぎもせずに立ちつくし、一言も話すことができなかった。そしてアイアースはそこに座り込んで、食べも飲みもせず、そして夜が更けていった。

アイアースは長いこと座って、思いを巡らせていたが、やがて立ち上がり、武具をすっかり身に着けると、かつてヘクトールと儀礼ばった一騎打ちを戦かい、お互いに礼儀正しく別れを告げたときにヘクトールが贈った剣をつかんだ。そのときアイアースは黄金で造った幅広の剣帯をヘクトールに贈ったのだ。ヘクトールの贈物のこの剣をアイアースは持って、ユリシーズの小屋へ向かった。ユリシーズをばらばらに切り刻むつもりだったのだ。というのは、あまりの心痛にアイアースは狂気に襲われていたのだ。ユリシーズを殺そうと夜の闇の中を突進して、アイアースはギリシア軍が食肉用に飼っていた羊の群に襲いかかった。そうして羊の間を行ったり来たりして、夜が明けるまでやみくもに切りつけた。そして、我にかえると、アイアースは、ユリシーズに切りつけたのではなく、殺した羊の間の血の海に立っているのに気がついた。アイアースは自分の狂気の不名誉に耐えることができなかった。アイアースはヘクトールの贈った剣を、柄を地面にしっかり差し込んで固定し、少し戻ると、走ってそのうえに倒れ、剣はその心臓を貫いた。こうして大アイアースは死んだ。不名誉に生き長らえるより死を選んだのだ。


Copyright on Japanese Translation (C) 2001 Ryoichi Nagae 永江良一 本翻訳は、この著作権表示を付すかぎりにおいて、訳者および著者に一切断ることなく、商業利用を含むあらゆる形で自由に利用し複製し配布することを許諾し ます。改変を行うことも許諾しますが、その場合は、この著作権表示を付すほか、著作権表示に改変者を付加し改変を行ったことを明示してください。