トロイア物語:都市の略奪者ユリシーズ アンドリュー・ラング 第十四章

トロイアの最後とヘレネーの救出


トロイア人は城壁から、空高く黒い煙が濃く立ち登り、ギリシア軍の全ての船が海へと船出するのを見た。誰も決して喜んでおらず、待ち伏を恐れて武装し、自分たちの前に斥候を送りながら、用心深く海岸へと下った。そこで彼らが見たのは焼け落ちた小屋と放棄された野営地だった。何人かの斥候が、見つけて欲しい場所に隠れていたシノーンを捉えてきた。彼らは猛々しく叫びながらシノーンのところへ殺到し、手を綱で縛りあげ、けり倒し、プリアモスと王子たちが巨大な木馬を訝しんでいる所へとひきずってきた。シノーンは彼らを見回したが、ある者は木馬についてあらいざらい真実を吐かせるためにシノーンを火責めの拷問にかけなくてはと言っていた。木馬の中の大将たちは、拷問でシノーンから真実を聞き出すのではないかという恐怖で身ぶるいしたにちがない。それというのも、そうなったらトロイア軍は仕掛けとその中にいる自分たちを、ただ焼けばよいのだから。

しかしシノーンはこう言った。「俺は哀れな男よの。ギリシア軍には憎まれ、トロイア軍は殺したがる。」トロイア軍は、ギリシア軍が憎んでいるというのを聞きつけ、好奇心を抱き、彼が誰で、どうやってここにいるのか尋ねた。「ああ王様、全てをお話しいたしましょう。」とシノーンはプリアモスに答えた。「私は不運な大将パラメーデースの友にして従者でした。邪まなユリシーズはパラメーデースを憎んでいて、ある日彼が一人で海で釣をしているのを見つけると、こっそり殺したのです。私は怒り、愚かなことに、怒りを隠そうとはせず、我が言葉はユリシーズの耳に入ったのです。そのときから、彼は私を殺す機会を探したのです。そうしてカルカースは....」ここで言葉を切り、また語り始めた。「だがなんで長々と物語るのか。あなたがたが同様にギリシア人をみな憎んでいるのなら、私を殺すがいい。それがアガメムノーンとユリシーズが望んでいること。メネラーオスは我が首に感謝しましょうぞ。」

トロイア軍は今や以前にもまして好奇心をかきたてられた。彼に続けるよう命じ、そしてシノーンはギリシア軍が神官に意見を求めると、神々の怒りを宥め、故国へむけて順風を得るには軍隊の中の一人を生贄に捧げるとよいと助言したと言った。「だが誰を生贄にするのか。カルカースに尋ねると、十五日の間語るのを拒んだのです。ついに彼はユリシーズに買収されて、私シノーンを指さし、私が犠牲とならなくてはならないと言ったのです。私は縛られ牢に入れられました。一方、みんなはパラス・アテーナー女神への贈物として大きな木馬を造りはじめました。あなたがたトロイア人が町に引き入れることが決してできないように、かくも大きく造ったのです。その上、あなたがたが木馬を壊せば、女神はあなたがたに怒りを向けるでしょう。さてあなたがたの町を陥したら、ギリシア軍は天から落ちてきた像をもって故郷へ戻り、この像をギリシアへと運び、パラス・アテーネー女神の神殿に戻したことでしょう。なぜならユリシーズの盗みゆえに女神はギリシア軍にお怒りですから。」

トロイア軍は愚かにもシノーンの話を信じこみ、彼を不憫に思い、手の縛めをほどいた。それから木馬に綱を結び、船を進水するように、その前にコロを敷き、みんなで交替で木馬をスカイアイ門の方へとひっぱった。子供も女も綱をつかんでひっぱり、叫び、踊り、讃歌を歌いながら、せっせと働き、夕暮れ頃には木馬は最奥の城の中庭に立っていた。

そうしてトロイア中の人々は踊り、飲み、歌いはじめた。こうして門に配置した番兵も他の人たちと同じように飲み、人々は夜更けまで町中を踊り、それから家へ戻ってぐっすり眠った。

その間、ギリシアの船団は漕ぎ手ができるだけ速く漕ぎ、テネドス島の陰から戻ってきた。

飲みも眠りもしないトロイア人が一人いた。デーイポボスだった。今ではヘレネーは彼の家に住んでいた。デーイポボスはヘレネーに自分たちと一緒にくるように命じた。というのは彼女が一度会った人は男女を問わず誰であれそっくりの声で話すことができるのを知っていたからだ。そして数人の友人に武装させ、一緒に城へと向かった。それから彼は馬の傍らに立ち、ヘレネーの手をつかんで、大将ひとりびとりにその妻の声でよびかけよとささやいた。ヘレネーは従わざるを得ず、自分の声でメネラーオスに、その妻の声でディオメーデースに、ペーネロペーそっくりの声でユリシーズに呼びかけた。それでメネラーオスとディオメーデースは返答したくてたまらなかったが、ユリシーズがその手をつかんで、「エコー」という言葉をささやいた。それでみんな、それがヘレネーがあらゆる声で話すことができるのでついた彼女についた名前であることを思いだし、静かにした。しかしアンティクロスはまだも返答したがり、ユリシーズは強い手でその口を押えた。あたりは静まりかえったままで、デーイポボスはヘレネーを家に連れ帰った。この連中が去ると、エペイオスが木馬の側面を開き、大将全員が静かに地面に下りた。何人かは門に走ってこれを開き、眠りこけた番兵を殺して、ギリシア軍を導きいれた。その他の者はトロイアの王侯の家を焼くため松明を手に散開した。武装を解き半ば寝ぼけた男たちの大虐殺はすさまじく、女たちは大きな叫び声をあげた。一方ユリシーズは最初にこっそり抜け出して、誰もどこにいるのか知らなかった。ネオプトレモスはプリアモスの宮殿に走った。プリアモスは中庭の祭壇にぬかずき、むなしく神に祈りを捧げた。というのも、ネオプトレモスは無惨にも老人を屠り、その白髪には自が血がはねかかった。町中で戦闘と殺戮が行われた。一方メネラーオスはデーイポボスの家へと向かった。そこにヘレネーがいると知っていたのだ。

戸口でデーイポボスが武具を着けて死んで横たわっていた。胸には槍が突き立てられていた。血染めの足跡がポーティコを通って広間へと続いていた。メネラーオスが入ってみると、ユリシーズが傷つき大きな部屋の中央の柱にもたれていた。火の光がその武具にきらめいた。

「なぜそなたはデーイポボスを殺し、我が仇を奪い取るのだ。」とメネラーオスは言った。「貴殿は私に贈物をやると誓われた。」とユリシーズは言った。「貴殿はその誓いを守られましょうな。」「望みを言うがよい。」とメネラーオスが言った。「それはそなたの物。我が誓いを破ることはない。」「美しき手のヘレネーの命を所望する。」とユリシーズは言った。「これが我が命を救った彼女への恩返しだ。というのは私がトロイアの幸運の宝を奪ったとき、彼女が我が命を救い、私は彼女の命を救おうと誓ったのだ。」

そのときヘレネーが、白いローブをほんのり光らせて、奥から暗い広間へとそっと現れ、メネラーオスの足元に身を投げ出し、金髪を炉辺の埃に置き、彼の膝に振れようと手を延ばした。メネラーオスは抜き身の剣を手から落し、憐憫と愛情が心にわき上がった。そしてヘレネーを埃から立ち上がらせると、彼女は白い腕で彼の首を抱き、二人は泣いた。その夜、メネラーオスはもうそれ以上戦わず、ユリシーズの傷の手当をした。なぜならデーイポボスの剣が兜を貫いて切りつけたからだ。

夜が明けたとき、トロイアは灰塵に帰しており、女たちは槍の柄で船へと追いたてられ、男たちは犬やありとあらゆる鳥どもの餌食となるよう、葬られずに捨て置かれた。こうして何世紀もの間その地を治めた灰色の町は陥落した。金や銀や豪奢な刺繍、象牙と琥珀、馬と戦車はすべて軍隊に分けられた。銀や金の財宝以外のすべては壁の洞の中の箱に隠され、この宝ははるかな年月を経たのちに、かつてトロイアの建っていた丘を深く掘り起こした男に発見された。女たちも王侯たちに分けられて、ネオプトレモスはアンドロマケーをアルゴスの故郷へ連れて行き、井戸から水汲みをさせ、主人の奴隷にした。アガメムノーンはプリアモスの娘、美しきカッサンドラーをミュケーナイの宮殿に連れていったが、そこで二人とも一夜のうちに殺された。ヘレネーただ一人が名誉を保ってメネラーオスの船に迎えられたのだ。

トロイアから故郷へ向かう途中でユリシーズの身に起こったことの物語は、別の本『ギリシア海物語』で語ろう。


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