トロイア物語:都市の略奪者ユリシーズ アンドリュー・ラング 第五章

トロイア方の勝利


戦はそこで終ったかに見えた。だがイーデーの王パンダロスに邪まで愚かしい考えがうかんだ。彼は平和の誓に背いて、メネラーオスを矢で射ることにしたのだ。矢は留め板の継目から胸当てを貫き、血が流れ出た。弟をとても愛していたアガメムノーンは悲嘆し、もしメネラーオスが死なば、ギリシア軍は全軍帰国し、トロイア人はメネラーオスの墓の上で踊るだろうと言った。「我が軍中を心配させてはなりませぬぞ。」とメネラーオスは言った。「矢はさして傷つけてはおりませぬ。」そして軍医はたやすく傷口から矢を引き抜いたので、傷があさいことは明らかになった。

そこでアガメムノーンはそこいらを急き立て、ギリシア軍に武装してトロイア軍を攻撃するよう命じた。トロイア軍は明らかに負けていた。それは彼らが誓を破ったゆえであった。だがアガメムノーンはいつもの横柄さから、ユリシーズとディオメーデースを臆病だと非難した。ディオメーデースは人並に勇敢であったし、ユリシーズこそが全軍あげて船を進水させ帰国しようするのを防いだというのに。ユリシーズは気迫で応えたが、ディオメーデースはしばらくは何も言わなかった。彼は後になってその心のうちを語った。ディオメーデースは戦車から飛び降り、それに続いて大将たち全員が飛び降りて、一線となって前進した。その後に戦車が続き、さらに槍兵と弓兵が続いた。トロイア軍は前進し、全員がそれぞれ異なった言葉で叫び立てた。だがギリシア軍は黙したまま近づいた。その時二つの前線は崩れ、盾と盾とがぶつかりあい、その音は山の間を流れる激流の轟音さながらであった。倒れると、殺した者が武具をはぎ取ろうとし、友人が死者をこの不名誉から護ろうと骸のうえで戦った。

ユリシーズは傷ついた友のうえで戦い、槍でトロイアの王侯の頭と兜を貫き通した。あたり一帯で戦士たちの投げる槍と矢と重い石の下で人が倒れた。ここでメネラーオスは、パリスがギリシアへと航海した船を造った男を槍で刺し殺した。塵が雲のごとく舞い上がり、戦う男たちからは霧が立ち上った。一方ではディオメーデースが、氾濫した川のごとくに平原を横切り、川がその流れのあとに木の枝や草を残していくように、その後には屍が累々とした。パンダロスは矢でディオメーデースに傷を負わせたものの、ディオメーデースに殺された。サルペードーンとヘクトールが向きをかえ、猛然とギリシア軍にぶつかっていった時は、トロイア軍は敗走する寸前であった。ヘクトールが押し寄せ、ユリシーズめがけて突撃したときは、ディオメーデースでさえ身震いした。そのユリシーズは行く先々でトロイア勢を殺してまわった。戦況は一進一退めまぐるしく変わり、矢は雨のごとくに降り注いだ。

だがヘクトールは、女神アテーナーに助力を祈願するよう命じるために町に派遣された。そしてパリスの家へ行ってみると、ヘレネーがパリスに男らしく戦いに行くよう懇願していた。そして曰く「我が身など風に飛ばされ、潮に溺れてしまえばよいものを。かようなことの起こるまでは、私は恥知らずなまま。」

それからヘクトールは愛しい妻アンドロマケーに会いにいった。彼女の父は包囲戦のはじめのころにアキレウスに殺されていた。ヘクトールは妻と乳母がヘクトールの幼き息子を連れて来たのに気がついた。アンドロマケーの胸の上に星のごとくに、息子の美しい金に輝く頭があった。さて、一方でヘレネーがパリスに戦いに行くよう急き立てていたころ、アンドロマケーはヘクトールに自分と一緒に町に残るよう頼み込んでいた。戦死して、自分を寡婦とし、子供を護る者とてない孤児として残すことのないよう、これ以上戦うのを思い止まって欲しいと言うのだ。軍勢はやがて城中に戻りましょう、さすれば平原で戦うこともなく、しばらくは安全となるでしょうと彼女は言った。けれどヘクトールはこう応えた。自分は戦いに尻込みするものではないが「聖なるトロイアもプリアモス王もその民も亡び去る日がこようという予感がする。だがトロイアの滅亡も私の死も、お前が奴隷としてギリシアに連れ去られ、他の女に命じられて糸を紡ぎ、ギリシアの井戸から水を汲むかと思うことほど、悩ましくはない。お前の泣き叫ぶ声、お前の捕らわれの物語を聞く前に、我が墓の積み上げられた土に覆われていたいものだ。」

それからヘクトールは幼き我が子に手を伸ばした。だが子供は父親のきらめく兜と垂れ下がった馬のたてがみの前立てを見て怖がった。そこでヘクトールは兜を地面に置き、子供を腕の中であやし、妻を慰めようとしてから、最後の別れを告げた。なんとなれば、ヘクトールは生きてトロイアに戻ることはなかったのだ。ヘクトールは戦場に戻り、パリスも荘厳な武具を着けて、それに続いた。そしてすぐにギリシアの王侯を殺したのだ。

戦闘は夕暮れまで続いたが、夜になるとギリシア軍もトロイア軍も死者を焼いた。ギリシア軍は野営地のまわりに塹壕と防壁を作った。トロイア軍が町を出て平原で戦っている今では、安全のために必要となったのだ。

次の日、トロイア軍は大勝し、夜になっても城壁の向うへと退かず、平原に大きな焚火を焚いた。千もの焚火で、それぞれの焚火を五十人が取り囲んで夕食をとり、笛の楽を聞きながら葡萄酒を飲んだ。けれどギリシア軍は意気消沈して、アガメムノーンは全軍を呼び集めて、夜のうちに船を発進して故郷へ船出しようと提案した。そのときディオメーデースが立ち上がり、「貴殿は先頃私を臆病者とよばわったが、貴殿こそが臆病者。ここに残るが恐ければ、船にのって逃げるがよい。だが我ら残り全員は、トロイアの町を手にいれるまで戦おうぞ。」

かくして全軍がディオメーデースに称讃の声をあげた。ネストールはみなに、自分の子トラシュメデス配下の五百人の若者をトロイア軍の監視に遣わし、トロイア軍が暗闇に紛れて攻撃してきたときには、新しい防壁と塹壕を護らせるよう助言した。次にネストールはアガメムノーンに、ユリシーズとアイアースをアキレウスのもとに遣わし、ブリセーイスを返し、たくさんの黄金の贈物を与える約束をして、横柄な振舞を詫びるよう勧めた。もしアキレウスがアガメムノーンの味方となり、これまで通り一緒に戦うなら、トロイア軍はすぐにも町へと追い返されるであろうと。

アガメムノーンはいましも許しを乞おうとしていたところであった。なんとなれば彼は全軍が敗北を喫し、船から切り離されて、殺されるか奴隷とされるのを恐れたからなのだ。そこでユリシーズとアイアースそれにアキレウスの老師フォエニクスはアキレウスのところに赴き、彼と話合い、たくさんの贈物を受けて、ギリシア軍に助力するよう頼み込んだ。だがアキレウスは、アガメムノーンの言った言葉など信じられぬ、アガメムノーンはこれまでずっとアキレウスを憎んでおり、これからも憎み続けるであろうと言った。さよう、アキレウスは怒りを鎮めてはおらず、明日にも部下をすべて引き連れて船出しようとしているのだ。そして残りの皆も共に行こうと勧めたのだ。「何ゆえ、かくも荒れ狂われるのか。」と、めったに喋らぬアイアースが言った。「なにゆえ、一人の女のことでかくも騒がれるのか。我らは七人の女とそのほか多くの贈物を差し出すというに。」

アキレウスは明日は船出はしないだろうが、トロイア軍が我が船を焼こうとせぬかぎり戦いはせぬと言った。アキレウスは、ヘクトールには他にやることがたっぷりあると考えていたのだ。これがアキレウスにできた精一杯の約束であった。ユリシーズがアキレウスの伝言を持ちかえったとき、ギリシア軍は静まりかえった。だがディオメーデースは立ち上がり、アキレウスがいようがいまいが、我らは戦わなくてはならぬと言った。それから、全員うち沈んで、小屋か戸口の外で眠についた。

アガメムノーンは心配のあまり眠れなかった。暗闇の中にトロイア軍の千の焚火の赤い輝きが見え、楽しげな笛の音が聞こえていた。アガメムノーンは呻き声をあげ、長い髪を両手でつかんで引き抜いた。叫び、呻き、髪を掻きむしるのに倦むと、老ネストールのもとに助言を乞いに行こうと思った。寝床の覆いの獅子の皮を肩にかけ、槍をつかんで出かけると、メネラーオスに出会った。というのも、メネラーオスも眠れなかったのだ。メネラーオスは、もしかりにさような勇気ある男がいたとしたらの話で、トロイア軍にスパイを送り込もうと提案した。なんとなれば、トロイア軍の野営地には一晩中火がともっており、冒険は危険きわまりなかったのだから。そこで二人は、ネストールとそのほかの大将たちを起こした。彼らは目覚めたが、武具をつけず、寝床の毛布の覆いにくるまっていた。まずは防壁の見張りにたつ五百人の若者を見回った。それから塹壕を渡って囲いの外に座り込み、何をしたらよいかを考えた。「誰もトロイア軍にスパイとしてもぐりこまぬだろうか。」と言った。若者は誰も行かぬと言いたかったのだ。ディオメーデースが言った。誰ぞ危険を分つ者あれば、私が危険を冒しましょうぞ、と。そして、同行者を選べるものなら、ユリシーズにしたい、とも。

「では行こう。」とユリシーズは言った。「夜は更けており、暁は近いゆえ。」この二人の大将は武具をつけていなかったので、警固の若者から盾と革の帽子を借りた。なんとなれば、青銅の兜なら火の光に輝こうが、革なれば輝くことがないゆえに。ユリシーズの借りた帽子は外側を猪の牙で補強したものだった。この目的で加工した牙はたくさん、剣や武具とともに、アガメムノーンの都ミュケーナイの墓から見つかっている。このユリシーズが借りた帽子は、一度祖父の盗みの達人アウトリュコスが盗んだもので、アウトリュコスは友人に贈物として与え、それから何人かの手を経て、五百人守備隊の一人、クレータのメーリオネースという若者のものとなり、ユリシーズに貸し与えたのだ。そうして二人の王侯は暗闇の中を出発したが、あまりに暗く、鷺の声を聞くも、飛び去ったのは見えなかった。

ユリシーズとディオメーデースが、屍の間をうろつく狼のように、夜陰の中を音もなく忍び入っているころ、トロイア軍の指導者は集まって、何をすべきか考えていた。ギリシア軍が、いつものごとく敵が近づけば警報を出せるよう歩哨や前哨を配置しているのか、それとも疲れ果ててちゃんと見張れない程なのか、あるいはひょっとして夜明けとともに故郷に船出するよう船の準備を整えているのか、皆目分からなかったのだ。そこでヘクトールは、夜陰の中を忍び入ってギリシア軍をスパイした者には褒美をとらそうとした。つまりスパイにはギリシア軍野営地の最良の馬二頭を与えようと言うのだ。

さて、トロイア軍の中にドローンという若者がいた。金持ちの息子で、五人姉妹の家族の中でただ一人の男子だった。ドローンは醜かったが、足が速く、この世で何より馬が好きだった。ドローンは立ち上がり「ペーレウスの子アキレウスの馬と戦車をやろうとお誓いくだされば、アガメムノーンの小屋に忍び込み、聴き耳をたてギリシア軍が戦おうというのか逃げようというのか調べて参りましょう。」と言った。ヘクトールはその馬をドローンにやると誓ったが、それは世界最良の馬であった。そこでドローンは弓を持ち、回色の狼の皮を肩に掛け、ギリシア軍の船に向かって走っていった。

さて、ユリシーズはやってくるドローンを見て、ディオメーデースに「通りすぎるに任せておこう。そうしておいて、貴殿の槍で船の方へと追いたて、トロイアから引き離そう。」と言った。それで、ユリシーズとディオメーデースは戦死者たちの間に身を伏せ、ドローンはギリシア軍の方へと二人の前を走り過ぎた。それから二人は起き上がり、二頭のグレーハウンドが兎を追うように、ドローンを追跡した。ドローンが歩哨に近づいたとき、ディオメーデースは「止まれ、さもなくば槍で殺すぞ。」と叫んで、槍をちょうどドローンの肩の真上越しに投げた。ドローンは恐怖で真っ青となり、歯を鳴らして、じっと立ち止まった。二人が近づくと、泣き叫んで、父親が金持ちゆえに、身請けにたくさんの黄金や青銅や鉄を払うだろうと言った。

「落ち着いて、死ぬかも知れぬということは頭から振り払い、ここで何をしていたのか言え。」とユリシーズが言った。ドローンは、ギリシア軍のスパイをしてくれば、ヘクトールがアキレウスの馬をやろうと約束したことを話した。「高望みをしたものよ。」とユリシーズが言った。「なんとなれば、アキレウスの馬は、地上の馬ではのうて、天上のもの。神々の贈物でアキレウスしか駆ることはできないのだ。では、言え。トロイア軍はちゃんと見張りを立てているのか。ヘクトールは馬とともにどこにおるのか。」それというのも、ヘクトールの馬を追いたてるのは大冒険になるだろうとユリシーズは思っていたからなのだ。

「ヘクトール殿は大将方とイーロスの墓のところで軍議を開いておいでです。」とドローンは言った。「だが、正規の衛兵は置いてはおりませぬ。トロイアの人々は確かに夜営の篝火のまわりにおります。なんとなれば、妻子の安全を考えなければならぬゆえ。けれど遠くの国から参った同盟軍は見張りを立ててはおりませぬ。妻子とも故郷で安全なるゆえに。」それからドローンはプリアモスに味方して戦っている様々な民の持ち場を教えた。「馬を盗まんとするならば、トラーキア王レーソスの馬が一番。かの王は今宵我らと合流したばかりで、その部下ともども戦線の一番遠く離れた端で寝ております。その馬は私がこれまで見てきたなかで最良にして最大、雪のごとく白く、風のごとく速く、その戦車は金と銀とに飾られ、その武具は黄金色をしております。さあ、私が言ったことが真か嘘か確かめに行く間、私を船で捕虜とするか、さもなくば縛ってここに置き去りにし給え。」

「いいや」とディオメーデースは言った。「お前の命を助ければ、またスパイに来るやも知れぬでな。」そして剣を抜き、ドローンの首をば打ち落とした。二人は見つけやすいところに、ドローンの帽子と弓と槍とを隠し、目印をして、夜陰のなかをレーソス王の暗い夜営地へと向かった。レーソス王は夜営の篝火も焚かず、見張りも置いてはいなかった。そこでディオメーデースは眠っている男たちの心臓を突き刺し、ユリシーズは、屍が馬を驚かさぬよう、足をつかんで傍らに投げ棄てた。馬は一度も戦場に出たことがなく、屍の上を連れて行くとおびえるだろうから。最後の仕上げにディオメーデースはレーソス王を殺し、ユリシーズは弓で馬を打って追いたてた。なぜなら戦車から鞭を取って来るのを忘れたからだ。それからユリシーズとディオメーデースは、戦車を取って来る暇がなかったので、馬の背に跳びのって、船へと疾駆し、途中留ってドローンの槍と弓と帽子をとってきたのだ。二人は王侯らのところに馬で行き、皆は二人を喜び迎えた。白馬を見て、レーソス王が死んだと聞くと、全員浮かれて大笑した。というのは、皆レーソス王の軍は今やトラーキアに帰ったのか思っていたのだ。これがありそうなことではある。なんとなれば、この後戦場ではトラーキア軍のことを聞くことはないのだから。こうしてユリシーズとディオメーデースはトロイア勢から数千人を削り取ったのだ。他の王侯は上機嫌で寝床に向かったが、ユリシーズとディオメーデースは海でひと泳ぎし、熱い湯につかって、それから朝食をとった。というのは、薔薇の指の暁の女神が空に登ってきたからだ。


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