トロイア物語:都市の略奪者ユリシーズ アンドリュー・ラング 第六章

船辺りの戦い


暁とともにアガメムノーンは目覚めたが、恐怖心は去っていた。武具をつけると、徒歩だちの大将たちを自らの戦車の前に配し、その後ろには槍兵を、軍勢の両翼には弓兵と投石兵を置いた。そのとき大きな黒雲が空を覆い、降りしきる雨は真っ赤であった。トロイア軍は平原の高みに集まり、ヘクトールは、武具を輝かせながら、あちらこちらへ、前面に出たり後方にさがったりと、さながらきらめくと思えば雲にかくれる星のようであった。

両軍互いに押し寄せ、互いに切り結び、あたかも刈取機が丈の高い蜀黍畑に道を切り開くかのようであった。双方退きもせず、勇敢なトロイア兵の兜がギリシア勢の兵列深くに見ゆる一方で、勇猛なギリシア兵がトロイアの兵列の中で剣を振り回し、その間矢は雨のごとくに降り注いだ。だが、疲れ果てた木樵が木を切るのを休み、静かな山の上で食事を取る正午のころには、第一線のギリシア軍が突撃すると、アガメムノーンは前面に走り出て、二人のトロイア人を槍で刺し殺し、その胸当てを奪って戦車にのせた。それからヘクトールの兄弟を槍で突き、別の兄弟を剣で殺し、戦争捕虜にしてくれと虚しく頼む相手をさらに二人も殺したのだ。歩兵は歩兵を殺し、戦車兵は戦車兵を殺し、あたかも風の強い日に火事が森をおそい、木々の間を跳ねまわり、轟音をたてて駆け抜けるがごとく、ギリシア軍はトロイア軍の戦列に乱入した。空の戦車を馬が狂ったように平原中を引き回った。なぜなら戦車兵は倒れ死んでいたのだ。死骸のうえには貪欲な禿鷹が宙を舞い、翼をはばたかせていた。アガメムノーンはまだトロイア軍の最後尾を追っては殺していたが、残りのトロイア軍は城門のところまで逃れ去り、城門の外の樫の木のところで留まった。

だがヘクトールは戦いを手控えた。ギリシア軍の防壁から、古えの王イーロスの墳墓を過ぎ、野性の無花果の木の生えているところを過ぎて、平原を突っきって退却したので、その間に、部下を敵のほうへと向き直らせて戦線を作り、一息つかせて、激励したのだ。ヘクトールはトロイア軍を再編しようと骨を折ったが、もう一度もとへ戻そうというときは、なかなかすすまぬものだとも承知していた。そんなものだとはっきりわかった。というのも、トロイア軍が集まって戦線を作っているときに、レーソス王が来援する前からトロイアに味方して戦ってきたトラーキアの大将をアガメムノーンが殺したのだ。だが殺された男の兄がアガメムノーンに武具を貫く槍の一撃を加えた。アガメムノーンはこの男を返り討ちにしたけれど、傷はひどく出血して激しく痛んだので、戦車に跳び乗ると船まで駆け戻った。

それからヘクトールは、狩人が獅子に立ち向かう猟犬に叫ぶかのごとく、突撃の号令をかけた。そしてトロイア軍の戦線の先頭に飛び出すと、行く先々で殺しわまった。ギリシア軍の九人の大将を殺し、それから槍兵に襲いかかって、吹き荒れる風が波の沫を散らすがごとく追い散らした。

今やギリシア軍の隊列は乱れ、もしもユリシーズとディオメーデースが真中に立ちはだかり、四人のトロイアの指揮者を殺さなければ、船の間へと逃げ込んで、情け容赦もなく殺されていたであろう。ギリシア人は戻りはじめ、再び戦線について敵と対峙した。ところがトロイア軍の右翼で戦っていたヘクトールがそれへ向かって押し寄せた。だがディオメーデースはヘクトールの兜に槍の狙いをよく定めて、見事にあてた。槍の切先は兜を貫きはしなかったが、ヘクトールは気絶して倒れた。それから意識が戻るとヘクトールは戦車に跳び乗り、従者はギリシア軍左翼のネストールとイードメネウス率いるピュロス人とクレーテ人の部隊に向かって駆けていった。古えの王イーロスの墳丘の上の柱の傍らにたつパリスがその足を射抜くまで、ディオメーデースは戦い続けた。ユリシーズは座り込んだディオメーデースの所にいって正面に立ち、その足から矢を引き抜いた。ディオメーデースは戦車に乗り込み、船の所に駆け戻った。

今や中央でまだ戦っているのギリシア方の大将はユリシーズただ一人だった。ギリシア軍はみな逃げてしまい、ユリシーズはトロイアの大軍のなかにただ一人となり、森の中で追い詰められた猪のまわりに猟犬と狩人が押し寄せるがごとく、トロイア軍は彼のところに殺到した。「やつらは戦いを避ける腰抜けどもだ。だがおれはここに立ち、一人で多勢に立ち向かおう。」とユリシーズは自分に言って聞かせた。彼は首からベルトで吊した大盾で体の前面を覆い、四人のトロイア兵を殺し五番目にも傷を負わせた。だが負傷した男の兄弟が突く槍が、大盾と胸当てを貫いて、見事ユリシーズの脇に傷を負わせたのだ。そこでユリシーズはこのトロイア兵に向き直った。トロイア兵は逃げたが、ユリシーズの投げた槍が肩から胸へと突き通り、彼は死んだ。ユリシーズは傷を負わせた槍を脇から引きずったまま、大声で三度他のギリシア人に救いを求めた。そこでメネラーオスとアイアースとが彼を救いに駆けつけた。というのも、矢を打ち込まれて傷ついた牡鹿の周りを囲むジャッカルのごとくに、トロイア軍がユリシーズを取り囲んでいたのだ。アイアースが走って来て、ユリシーズがメネラーオスの戦車にはい上がるまで、傷ついた彼を大盾で覆った。そしてメネラーオスはユリシーズをのせて船のところへと駆け戻ったのだ。

その間、ヘクトールは戦場の左翼でギリシア兵を殺していたが、パリスはギリシア軍の軍医マカーオーンを射当てた。それでイードメネウスはネストールに頼んでマカーオーンをその戦車に乗せ、ネストールの小屋まで駆けていき、そこで傷の手当をした。一方ヘクトールは戦線の中央へと急いだ。そこではアイアースがトロイア兵を殺していたが、ギリシアの大将エウリュピュロスはパリスの放った矢で傷つき、友人たちが盾と槍で彼を護った。

こうしてギリシア軍の優れた戦士たちは、アイアースを除いては、負傷して戦場から離れ、槍兵たちは敗走した。その間、アキレウスは船の艫に立ち、ギリシア軍の敗北を眺めていたが、マカーオーンがひどく傷ついて、ネストールの戦車で運ばれるのが通り過ぎるのを見ると、誰よりも愛した友パトロクロスにマカーオーンの具合がどうか見て来るように言った。パトロクロスが行ってみると、マカーオーンはネストールと一緒に座って葡萄酒を飲んでいた。ネストールはいかに多くの大将たちが傷ついたか話して聞かせた。それからパトロクロスが急いでいるにもかかわらず、自分の若い頃の手柄話を長々と語り始めた。最後にネストールは、自身で戦わないなら、せめてアキレウスの壮麗な武具を着けたパトロクロスに率いさせた部下を出すようアキレウスに頼んでくれと、パトロクロスに言った。さすれば、トロイア軍はアキレウスが戦場に戻ったと思い、恐れるだろう。というのも、トロイア軍の誰しもアキレウスと接近戦で見えるだけの勇気はないのだから。

そこでパトロクロスはアキレウスのもとへ急ぎ戻った。しかし道すがら負傷したエウリュピュロスに出会い、彼の小屋へと連れて行って、小刀で腿から矢を切り落とし、傷をお湯で洗い、痛みをとりさる苦い根を擦り込んだ。こうしてパトロクロスはしばらくエウリュピュロスの世話をしたのだ。しかし結局はネストールの助言がパトロクロスの死の原因となった。今や戦いはもっと激しくなっていたが、アガメムノーンもディオメーデースもユリシーズも槍にすがって歩くのがやっとだった。アガメムノーンはまたしても岸辺に船を繋ぎ、夜陰に乗じて船を出し、逃げ帰りたくなった。だがユリシーズは激怒して言った。「貴殿は我らではなく、他の名誉心のない軍隊を率いておればよかったのだ。我らは、臆病者のように逃げるより、魂の消え去るまで戦い抜きましょうほどに。兵士どもが貴殿が逃げ去ろうと言っておるのを聞きつけぬよう、黙らっしゃれい。かような言葉は何人たりとも言うてはならぬのじゃ。私は貴殿の勧めを全くもって蔑すんで拒みましょう。なんとなればギリシア軍は、戦いの最中、貴殿が船に乗れと命じれば、挫けましょうゆえ。」と。

アガメムノーンは恥じ入った。そしてディオメーデースの助言により、負傷した王たちは、自ら戦うことはかなわぬとも、戦場の縁に行き、他の者たちを励ました。彼らはギリシア軍を再編し、アイアースがこれを率いた。アイアースは大きな石をヘクトールの胸に投げつけた。そこでヘクトールの友らは彼を戦場から引出して川岸まで運んだのだ。そこでヘクトールに水をかけたが、ヘクトールは失神したまま大地に横たわり、口からは黒い血が溢れ出た。ヘクトールが横たわり、誰もが死ぬだろうと思っている間に、アイアースとイードメネウスはトロイア軍を追い返し、アキレウスとその部下がいなくても、ギリシア軍はトロイア軍に屈しないと思えた。しかし戦闘は決して終ることがなく、しかもヘクトールは生きていたのだ。この時代には「前兆」というものが信じられており、鳥が右に現れるか左に現れるかが幸不幸を表している考えていた。戦闘の最中にあるトロイア兵がヘクトールに不幸の鳥を見て、町に引き返して欲しいと言った。だがヘクトールは「前兆は唯一つ最良のもの。我らが祖国のために戦えという徴。」と言った。ヘクトールが生死の境をさ迷っている間、ギリシア軍は勝ち続けた。というのもトロイア軍を率いる偉大な大将は他にいなかったのだ。しかしヘクトールは失神から覚め、立ち上がるとあちこちと走り回ってトロイア人を励ました。そうしてヘクトールを見ると多くのギリシア兵は逃げてしまった。だがアイアースとイードメネウス、それに残った勇者たちはトロイア軍と船の間に方陣を組んだが、彼らにヘクトール、アイアース、パリスが襲いかかり、槍を投げ、そこら中で殺し回った。ギリシア軍は踵を返して逃走したが、トロイア軍は殺した者たちから武具をはぎ取るため留まろうとした。だがヘクトールが叫んだ。「戦利品はそのままにして、船へと急げ。遅れる者は殺してくれよう。」

かくして、トロイア全軍がギリシアの船を護る塹壕の中へと戦車を乗り入れた。それはあたかも海上で大波が船の舷側に押し寄せるかのようであった。ギリシア軍は船の甲板で、海戦で使う非常に長い槍を突き出し、トロイア軍は船に乗り込み、剣や斧で打ちかかった。ヘクトールは火の着いた松明を持ち、アイアースの船に火を放たんとしたが、アイアースは長い槍で寄せつけず、一人のトロイア兵を殺し、火の着いた松明がその手から落ちた。そうしてアイアースは叫び続けた。「さあ来い、ヘクトールなぞ追い返してやる。部下を呼び集めたのは踊りに来たのではのうて、戦うためだろうが。」

屍は山と積み上り、生きている者たちは戦死者の山を駆け登って、船によじ登った。ヘクトールは、大きな険しい巌に打ち寄せる海の波のように突進し、その巌のごとくにギリシア軍は立ちはだかった。まだトロイア軍は一番手前の船の舳を過ぎたあたりを攻撃していたが、アイアースは六メータを越す長槍を繰り出し、四頭の馬を駆って背から背へと跳び移る人のように甲板から甲板へと跳び移った。ヘクトールは我が手でプローテシラーオスの船の艫をつかんだ。このプローテシラーオスはギリシア軍が最初に上陸した日に、岸に降り立ったところをパリスに射殺された王であった。そしてヘクトールは「火を放て。」と命じ続けた。この陸上で行われた奇妙な海戦では、アイアースでさえ、甲板を降りて、舷窓から槍を突き出した。アイアースの護る船に火を放とうとした十二人の男が戦死した。


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