閉ざされたドア イーディス・ウォートン

第三章


アスカムが帰っていったのは、真夜中過ぎだった。

帰りがけ、グラニスの肩に手を置いて、

「地方検事なら縛り首にしてくれるかもしれませんがね、医者にかかってください。医者ですよ」と、大きな声でそう言うと、とってつけたような笑い声を響かせて、コートを羽織って出ていったのだった。

グラニスはひとり書斎に戻った。まさかアスカムが自分の話を信じないとは、まったく思いもかけないことだった。三時間も説明したのに。微に入り細に入り、辛抱強く、痛々しいまでに、細部に至るまで繰り返し練習しておいたのに――だが、並大抵のことでは信じない弁護士の目だけは、一瞬たりともごまかすことはできなかった。

初めのうち、アスカムは説得されているふりをしていた。だがそれも、と、いまになってグラニスにもわかるのだが、単に彼の本心をさらけ出させるためであり、論理破綻させるためにしかけた罠だったのだ。

その企てがうまくいかなくなったので、つまり、グラニスがまごつくような質問にも、ひとつひとつ臆することなく向き合い、反論したので、突然仮面をかなぐり捨てて、愉快そうに笑いながらこう言ったのだ。

「グラニスさん、まだまだ立派な戯曲が書けますよ。あなたがこうしてお話してくださってることは、まったくたいしたものだ」

グラニスは荒々しい仕草で向きを変えた。最後に戯曲を笑いものにされて、怒りに火がついたのだ。世界中がグラニスの失敗を共謀して嘲ろうとしているのだろうか。

「私がやったんです。私がやった」グラニスは苛立たしげにそうつぶやいたが、その怒りもあざ笑う他者の内側には通じないのだった。

アスカムは微笑みを浮かべてこう答えた。「幻覚症状について何か読んだことはおありですかな。法医学の文献で良い本を持っていますので、よろしければ一冊か二冊、届けさせましょう」

ひとり残されて、ライティング・テーブルの椅子に腰掛けたグラニスは、縮み上がった。アスカムは、自分が気が狂ったと思っている。

「なんということだ。みんながおれを気違いだと思ったらどうしよう」

冷たい汗がどっと出る。氷のような手で顔を覆って震えながらそこにすわっていた。だが次第に、千回も練習したときのように、ふたたび自分の話は疑念を差し挟む余地のないものに見えてきて、どんな刑事弁護士でさえ信じてくれるにちがいない、という気持ちもよみがえってきた。

「問題は、アスカムが刑事弁護士ではなかった、ということだ。しかも友人だ。友だちにこんな話をするなんて、おれはなんと馬鹿だったんだろう。よしんば話を信じたとしても、そんなそぶりを見せるものか。本能的にすべてを隠蔽してしまうだろう……。だが、その場合……もしおれの言ったことを実際は信じたなら……精神病院に閉じ込めるのが親切だと考えたなら……」 グラニスはふたたび震え上がった。「なんということだ。専門家を連れてきたら……精神科医とかいう手合いだ。アスカムとペッティローの手にかかれば、どんなことだってできる。いつだって、何を言っても通るのだ。もしアスカムが、おれを収容した方がいい、とでも言ったことなら、明日から拘束衣を着せられることになるだろう。おまけにやつにしてみれば、親切でそんなことをするのだ――もしおれが殺人者だと信じたとしても、そうするのが正しいと思って」

そのことに思い至ったグラニスは、心底凍りつきそうになった。爆発しそうなこめかみを、両の拳で押さえつけ、考えようとした。初めて、アスカムが自分の話を信じてくれなければいい、と願った。

「だが、信じたのだ……そうだ、信じたのだ。いまになってみればよくわかる。首を傾げて、おれを奇妙な目で見ていた。ああ、どうしたらいいんだ。どうしたらいいんだろう」

顔を上げて時計を見た。一時半。アスカムがことは緊急を要すると考えて、精神科医を引きずり出して、一緒に戻ってきたらどうしよう。グラニスは弾かれたように立ち上がった。そのはずみに、テーブルから朝刊を払い落としてしまう。それを拾い上げようと機械的に腰をかがめたとたん、連想が生じた。

もういちどすわり直して、椅子の脇のラックの電話帳に手を伸ばす。

「3-0-10……をお願いします。……はい」

胸の内に浮かんだ新たな着想は、沈滞していたエネルギーに活を入れた。自分は行動を開始する。行動を、いますぐに。先の行動を計画することによってのみ、自分自身を逃れることのできない一連の行動に投げ入れることによってのみ、グラニスは無意味な日々のなかで自分を先に引っ張ってきたのだった。霧の垂れ込めた波の高い海に届く、穏やかな港の灯りのように、いつも新たな決断が胸の内に生まれた。長く苦しい日々のなかで訪れる、まったくちがった局面、こうしたつかの間の小康状態に、いつも助けられてきたのだった。

「調査部ですか。デンヴァーさんをお願いします。……やぁ、デンヴァー……そうだ、ヒューバート・グラニスだよ。……君がつかまって助かった。まっすぐ家へ帰るのかい? ちょっと君に会うことはできないだろうか……そうだ、いまだよ……話ができるかな。ちょっと急ぐんだ。……そうだ。第一級の『記事』を提供できるかもしれん。……いいとも」

グラニスは笑顔で受話器を置いた。調査部の編集長に電話すると思いついたことで、すっかり満足していたのだ。ロバート・デンヴァーこそ、自分が必要とする人間にほかならない。

グラニスは書斎の電気を消し――機械的な動作がここまで頑固なことに、奇妙な気さえする――玄関ホールに出て、帽子とコートを身につけると、アパートを出た。ホールでは眠たそうなエレベーター・ボーイが、グラニスを見て瞬きをしたが、また、組んだ腕の中へ頭をがくっと落とした。グラニスは通りへ出て、五番街の角で徐行運転しているタクシーを呼び止め、アップタウンの住所を告げた。どこまでも伸びていく大通りは、墓地のなかの古い通り道のように、薄暗く、人気もなかった。

二人の男は握手を交わすと、デンヴァーは掛け金を手探りして鍵を開け、グラニスを明るいホールに案内した。

「邪魔じゃなかったかって? ちっとも。明日の朝の十時だったらそうだったろうが、いまがおれの一番元気な時間帯さ。昔からそうだったろう?」

ロバート・デンヴァーと知り合ってから十五年になる。デンヴァーがジャーナリズムの階段を一歩ずつ上って、オリュンポスの頂上たる調査部の編集室にたどりつくまでを、グラニスはずっと目の当たりにしてきた。白髪頭でよく太ったデンヴァーは、飢えた目をして、家に帰る途中、戯曲に向かって奮闘しているグラニスのところへ「ぶらっと」寄っていた若い記者だったころの面影をほとんど残していなかった。帰路の途中にはグラニスのアパートがあり、窓に明かりが点ってブラインドに映る影を見てはなかへ入って、パイプを吹かしながら、森羅万象についてよくふたりで話し合ったものだった。

「おやおや……なんだか昔に返ったみたいだな。古き良き習慣の逆だが」デンヴァーは親愛の情をこめてグラニスの肩を叩いた。「おまえを引っ張り出した夜のことを思い出すな。それはそうと戯曲の方はどうなった? 戯曲があるんだよな。ほかの男に『赤ん坊はどうしてる?』と言うのと同じくらい、おまえにこのことを聞くのはまちがいのないことなんだよな」

デンヴァーは人の良さそうな笑い声をあげ、グラニスはこいつもずいぶん太ったものだと考えた。グラニスのボロボロになった神経にさえ、デンヴァーのことばにまったく悪意がないことはわかっていたが、それも無価値な自分を際立たせることにしかならない。デンヴァーは自分が成功しなかったことなど知りもしないのだ。このことは、アスカムの皮肉より、グラニスにはこたえた。

「入れ入れ」そう言いながら、葉巻とデカンターのある小さな明るい部屋へ招き入れる。肘掛け椅子をグラニスの方へ押してきて、もうひとつの椅子に自分が腰を下ろすと、満足そうな声をもらした。

「さて、と。好きなようにやってくれ。で、話とやらを全部聞こうじゃないか」

デンヴァーはパイプの火皿ごしに笑いかけ、グラニスは葉巻に火をつけ、こう独り言を言った。

「成功した人間は満ち足りているが、時として愚かでもある」

それから向き直ると、話を始めた。「デンヴァー、聞いてほしいことがあるんだ」

マントルピースの上で、時計がリズミカルに時を刻む。小さな部屋はしだいに紫煙が垂れ込め始め、煙越しのデンヴァーの顔は、雲が流れる空に浮かぶ月のように、ところどころで霞んでいた。時を告げる鐘の音――ふたたびリズミカルなチクタクいう音。部屋の空気は次第に濃く、重いものになっていき、グラニスの額には、玉のような汗が浮かんできた。

「窓を開けてもいいか」

「ああ、かまわんよ、空気がこもってるからな……いや、おれがやろう」

デンヴァーは上側の窓枠を下げると、自分の椅子に戻った。

「さあ、続けてくれ」ともうひとつのパイプを詰めながら促す。デンヴァーの落ち着き払った態度は、グラニスのカンにさわった。

「信じてくれないのなら、話をしても仕方がない」

デンヴァーは動じる気配もなかった。「信じてないとだれが言った? 終いまで聞かなきゃ、何も言いようがないじゃないか」

グラニスは感情をあらわにしたことに気恥ずかしさを覚えながら、話を続けた。

「ごく単純な話さ。じいさんが『ああいうイタリア人連中というのは、たった25セントのために人殺しをするんだ』と言ったときから、一切をなげうって、ただ自分の計画に没頭した。まず、一晩のうちにレンフィールドを出て、戻ってくる方法をみつけなければならなかった。それには、車を使ったらどうだろう。車――だれでも思いつくんじゃないかな。どこから金を調達したのかと思うかもしれないが、ともかく、私は千ドルかそこらの貯金はあったんだ。そこで必要なものを見つけようと、あちこち探し回った。中古のレース用の車だ。運転のやり方は知っていたし、実際に試してみて、うまくやれることもわかっていた。景気が悪いときだったから、言い値で買うことができた。そうやって、よそへ隠しておいたんだ。どこかって? まあ、家族用ではない車を停めておく、何も聞かれたりしないたぐいの駐車場さ。私の従兄弟で元気のいいやつが、ドッジを練習させてくれたし、その奇妙な隠し場所を見つけるまで、孤児院の赤ん坊の世話でもするみたいに車の面倒を見てくれたよ。

それから一晩のうちにレンフィールドを出入りする練習を始めた。道はよく知っていた。その元気なやつと一緒に、よく走っていたからね。深夜に走ることも慣れていた。距離は90マイルを超えているし、三回目の走行で、二時間を切ることができた。ただ腕が痛くて、次の朝服を着るのに苦労したがね……。

「それで、イタリア人が脅かした、という知らせが来てから、すぐに行動しなければならないと思った。じいさんの部屋へ侵入して、撃ち殺し、逃げることを考えたんだ。それには大きな危険が伴うけれど、自分ならなんとかやってのけるだろう、と思ったんだ。それから、やつが病気だ、診察を受けている、という知らせだ。運命が味方してくれたにちがいない、だったらなんとしてもやらなければ! と思ったんだよ……。

グラニスはことばを切って、額の汗を拭った。窓を開けていても、部屋は涼しくならないようだ。

「じき、じいさんの状態がましになった、という知らせが来た。そのつぎの日、仕事から帰ってみると、ケイトが笑いながら、じいさんがメロンをひときれ、食べることになった、と教えてくれたんだ。家政婦からの電話があったらしい。レンフィールドは大騒ぎだ、と。医者みずからがメロンを選び出したらしい。小さなフレンチ種で、大きめのトマトと同じくらいの大きさのものらしかった。じいさんはそれを明日の朝、朝食に食べるんだと。

「すぐに、チャンスだ、と思った。これ以上はないほど、完璧なチャンスだ。レンマン家のやり方はよくわかっていた。家に持って帰ったメロンは一晩置いておくにちがいない。食料貯蔵庫の冷蔵庫のなかで。冷蔵庫のなかにひとつしかないんだったら、目指すメロンはすぐにわかる。屋敷では、メロンがどこにでも転がっているわけではなかった。ひとつずつ識別されて、番号がふってあり、分類されていたのだ。じいさんは使用人がメロンを食べてしまうのではないか、という恐怖に取り憑かれていて、それを防ぐために、あらかじめ百もの方策を取っていたからな。そう、だから目指すメロンはまちがいなくわかると思った……それに、毒殺の方が射殺より安全だと思ったのだ。じいさんの寝室に入り込み、やつが騒ぎ立てて家の者を起こさないようにするのは、悪魔でもなきゃできることじゃない。だが、ただ食料貯蔵庫に侵入するだけなら、たいした苦労はいらない。

「しかも、その夜は曇っていた。なにもかもが都合が良かった。落ち着いて食事を終えると、机に向かう。ケイトはいつもの頭痛が出て、早くに休んでしまった。ケイトが寝室に下がるや、私は家を抜け出したんだ。変装道具を持ってね。赤毛のつけひげと、丈の長い妙な外套だ。それをカバンに押し込んで、駐車場に向かった。駐車場には、会ったこともない、ほろ酔い加減の修理工がひとりいるだけだった。それもまたありがたかった。修理工はしょっちゅう入れ替わっていたし、その新参者は、その車がおまえのものか、とかなんとかうるさく聞いてくることもなかったからね。とにかくそこは呑気な場所だったんだ。

「ともかく、私は車に飛び乗って、ブロードウェイを北へ向かい、できるだけ急いでハーレムを出られるように車を走らせた。暗かったけれど、自分を信頼して速度をぐんぐんあげた。森影に入るとほんの短い間だけ車を停めて、ひげと外套を身につけた。それからすぐにまた走り出す。レンフィールドに着いたのは、十一時半だった。

「レンマン家の地所の裏手の暗い小道に車を置いて、家庭菜園をこっそり抜けていった。闇の中でメロンの温室がきらっと光った。メロンも私が何を知りたがっているかわかってるんだ、と思ったのをよく覚えているよ……。

厩舎の脇で犬が唸りながらやってきた。でもにおいで私がわかると、飛びついてきたが、すぐに戻っていった。家は真っ暗だった。屋敷ではだれもが十時には寝てしまうんだ。だがうろついている使用人がいるかもしれない。台所の下働き女中がイタリア人を引き込むために、降りてきていないとも限らない。もちろんその危険は冒さなければならなかった。

足音を忍ばせて裏口にまわり、植え込みに身を潜めて耳を澄ました。屋敷の中は静まりかえっている。私は反対側へ渡って、食料貯蔵庫の窓をこじ開けて、よじ登った。ポケットの小型懐中電灯を出すと、帽子で覆いをして、冷蔵庫までそろそろと進んだ。ふたを開けると……そこには小さなフレンチメロンがあった。……たったひとつだけ。

「じっと耳を澄ました。きわめて冷静だったよ。それから薬の瓶と注射器を取り出して、何箇所かに注射した。なかでの仕事を全部終えるまでに、三分もかからなかっただろう。十二時十分前には車に戻っていた。なんとか音をさせないように車を小道から出して、村沿いの裏道に入り、できるだけ急いで村から出ようと走った。途中、一度だけ停車して、池につけひげと外套を沈めた。重石のために大きな石を用意しておいたんだ。そいつは死体みたいに膨らんで沈んでいったよ。それから二時には戻った私は机に向かっていた」

グラニスはことばを切って、煙で霞むデンヴァーの方を見やった。だが、相変わらずデンヴァーはとらえどころのない表情のままだ。

ついにデンヴァーが口を切った。「なんでそのことを話す気になった?」

グラニスは驚いた。アスカムにしたのと同じような説明を繰り返そうとしたが、不意に思った。もし自分の動機が、弁護士さえも納得しかねるものだったとすれば、ましてデンヴァーを納得させることはできないだろう。ふたりとも成功した人間だし、成功した人間には敗者の屈折した苦悩など理解できまい。グラニスは新たな理由を急いで探した。

「まあ、その……自分が苦しんでいるのは……後悔、たぶんそういうものじゃないかと思うんだが……」  デンヴァーは空のパイプを打ちつけて灰を落とした。

「後悔だって? 笑わせるなよ」力強い声が返ってくる。

グラニスの気持ちは沈んだ。「後悔……と言ったところで、信じてはくれないんだろうな」

「これっぽっちもな。君は行動の人だろう。後悔ということばがそのまま信じられるような人間なら、とてもそんなことを計画して、しかもやり遂げられるとは思えない」

グラニスは唸った。「そうだ……。後悔だなんて嘘だ。ちっとも思ってやしない」

詰め直したパイプを加えるデンヴァーの口元は、疑わしげに引き結ばれていた。「なら、動機はなんだ。動機がないはずはない」

「これから話すよ……」グラニスは、練習したとおりに戯曲の失敗と生きていくことが嫌になったことを話し始めた。「こんどは信じない、なんて言ってくれるなよ」哀れっぽくどもってみせながら、話を終えた。

デンヴァーは考え込んでいる様子だった。「そんなことを言うつもりはない。奇妙なことはこれまでずいぶん見てきた。いつだって人生から降りたいという理由はあるものだ。驚くのは降りずにいることに、そりゃたくさんの理由があることのほうだよ」

「書くことにうんざりした、ということを信じろと? ああ、信じるよ。それから君に引き金を引く度胸がない、だって? とんでもない。そんなこと簡単さ。だが、それだけをもってして、君が殺人者だと断定することはできない――君は絶対にやってない、ということも証明できないが」

「やったんだよ、デンヴァー。正真正銘」

「かもしれん」なおも考えていた。「少し聞きたいことがあるんだが」

「なんでも聞いてくれ。遠慮なしに」グラニスは無意識のうちに笑い声をあげていた。

「よし。君の妹さんに、いったいどうしたんだろう、と思わせずに、どうやって試運転を何度も繰り返すことができたんだ? あのころの君の夜の習慣はよく知ってる。夜遅く出かけることなんてまずなかった。習慣を変えることで、妹さんは驚いたりしなかったのかね?」

「驚いてない。というのも、そのときは出かけてたんだよ。レンフィールドから戻ってすぐのころ、ケイトは田舎のほうの知人のところへよく会いに行っていたんだ。その前にこっちにいたのは一晩か二晩だった――前というのは、私が例のことをやる前ということだが」

「それで、その晩は頭痛がして、早くに休んだんだな?」

「そうだ。ひどく痛んだらしい。だからそうしたことには全然気がつかなかったんだ。それに妹の部屋は、アパートの裏手にあったし」

デンヴァーはふたたび考え込んでいるようだった。「それで、君が戻ったとき……妹さんは何の物音も聞いてないんだな? 君は気づかれずに家に戻った?」

「そうだ。すぐに仕事に戻ったよ。出かけたときに中断したところからまた始めたんだ。そうだよ、デンヴァー、君は覚えてないか」グラニスの語調は、急に熱っぽいものに変わった。

「覚えてる?」

「そうだよ、私はどうしてた? 君が来たとき――あの夜、二時か三時の君のいつもの時間だったな?」

「そうだ」デンヴァーはうなずいた。

グラニスはちょっと笑ってことばを続けた。「着古した部屋着、それにパイプだ。一晩中書き物をしていたみたいだったな、そうじゃなかったか? ところが実際は、十分かそこらしかそこにいなかったんだ」

デンヴァーは組んでいた足をほどくと、もういちど組み直した。「君が何を覚えていると言っているのかわからないんだが」

「なんでわからない?」

「おれが行ったのが、その晩――というか、つぎの日の夜明け前だったんだな」

グラニスは椅子に座ったまま、ぐるりと向きを変えた。「そうだよ! だからこそ私はここにいるんじゃないか。君が審問で証言してくれたからだよ、じいさんの相続人全員があの晩何をしていたか調べられていたときに――その晩、家に寄ったら私がいつもどおり机に向かっていた、と証言してくれたのは、君じゃないか。もしほかの事件がなかったら、あのことはさぞかし君のブンヤ魂に訴えたことだろうと思うんだがな」

デンヴァーは笑顔になった。「もちろんおれのブンヤ魂は、さびついちゃいないさ。なるほど、そのアイデアは独創的だな。アリバイを立証した人間に、こんどは罪があることを認めさせようっていうのは」

「それ、それなんだよ」グラニスの笑い声には、勝ち誇ったような響きがあった。

「なら、もうひとりのやつの証言はどうなるんだ――あの若い医者だよ。なんという名前だった? ネッド・ラネイだ。おれが証言したのを覚えてるか。高架駅でそいつに会ったんだ。おれがこれから君のところでパイプを吹かしに行く、と言ったら、そいつは『いいですね、あの人はいましたよ。二時間ほど前に家の前を通りかかったら、いつものように、ブラインドに影が映ってましたから』と言ったんだ。それに、道の反対側のアパートに住んでいた、歯の痛い女性のこともある。その人も医者の証言を裏付けたんだったな」

「ああ、その証言も覚えているよ」

「で、それについては」

「簡単なことさ。出かける前に部屋着とクッションで、急造の人型を作ったのさ、ブラインドに影が映るようにね。夜更けに自分の影を見ている連中がいたのは知っていた――そういう人を頼りにしたのさ。どんなあやふやな影でも、何か映ってさえいれば自分だと思ってくれるだろう、とね」

「簡単なことだと言ったな。だが、その歯が痛い女性は、その影は動いたと言っていたぞ――前へかがんだ、ちょうど、居眠りでもするみたいに、と」

「そうだ。彼女はまちがっていないよ。人形は動いたんだ。たぶん、とくべつ重たい荷馬車か何かが、もろい建物にぶつかるかどうかしたんだよ、とにかく人形に衝撃が加わった。だから私が帰ってみたら、人形は前のめりになっていた。半身を机に突っ伏すようにして」

ふたりの間に長い沈黙が訪れた。デンヴァーがパイプを詰め替えるのを、グラニスは胸をとどろかせながら見ていた。なんにせよ、こいつはあざけったりバカにしたりすることはなかった。結局、人生に起こりうる摩訶不思議なできごとに関しては、法律より、ジャーナリズムのほうが深い洞察ができる、ということなのだろう。人間を突き動かす衝動は数限りなく存在する、ということを、あらかじめわきまえているせいだろうか。

「で、どうだろうか」グラニスは口ごもりながら言った。

デンヴァーは立ち上がり、肩をすくめる。「あのなあ、いったいどうしたんだ。全部白状しちまえよ。神経がイカレちまったか。おれが知ってるやつに、会いに連れて行ってやろうか。元プロボクサーだがな。不思議なことに、そいつはおまえみたいに自分の穴の中に入り込んじまってるやつを、引っ張り出してしま……」

「なにを言うんだ……」グラニスは最後まで言わせず立ち上がった。そのままふたりはにらみ合う。「信じてくれないんだな」

「そんな大ボラをどうやったら信じられる? アリバイに穴なんかないんだぞ」

「だからいま、どれもこれも十分説明したじゃないか」

デンヴァーは頭を横に振った。「君がどうにかして信じさせようとしていることに気づかなかったなら、もしかしたら信じたかもしれん。それがネックになったな」

グラニスはうめき声をあげた。「そんなつもりはない。私が有罪になりたがっているとでも言うのか?」

「あたりまえじゃないか。もしだれかが君を告発したのだったら、その話だって捜査する必要があったかもしれないがな。実際、子どもでも思いつきそうな話じゃないか。君の作り話の才はたいしたものではないな」

グラニスは不機嫌な顔でドアを出ようとした。議論してどうなるというのか。だが戸口まで来ると、急に気が変わった。「デンヴァー、たぶん君が正しいんだろう。だが、たったひとつでもその証拠があるか? 私の陳述を調査員に見せてやってくれ。言ったとおりの陳述を。バカにしたければしたらいい。ほかの人間にも、私のことを知らない人間にも、機会を与えてやってくれ。そうした人間が議論したり検討したりできるようにしてほしいんだ。君が信じようが信じまいが、そんなことはちっとも気にかけちゃいない。大陪審が納得してくれればそれでいいんだ。私のことを知っている人間を来させないでくれ。君が疑っていると、まわりにも伝わってしまうからな。うまい話だとは思ってないさ。最初から信用してもらえないんじゃないかと思っていたからな。結局その話では、自分自身さえ納得させられなかったってことさ。君が納得できないのもそのせいだ。悪循環ってやつだな」グラニスはデンヴァーの腕に手をかけた。

「速記者をよこしてくれ。私の陳述を記録させてくれ」

デンヴァーはいい顔をしなかった。

「あのとき、あらゆる証拠が徹底的に調査されたのを忘れてしまったようだな。考えられるかぎりの手がかりが追求されたじゃないか。君がレンマンを殺したと世間が考える条件は、十分揃っていた。君か、ほかの誰かがな。世間は殺人者を知りたがっていた。一番ありそうもない人間だってかまわなかったんだ。だが、君のアリバイは完璧だった。いま話してくれた内容で揺るがすことなんか、できっこないさ」デンヴァーは自分の冷たい手を、相手の燃えるように熱い指に重ねた。「さあ、家に帰ってもうちょっとましなものにするんだな――そうしたら、また来るといい。そのときは調査課に出してやるよ」


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