閉ざされたドア, イーディス・ウォートン

第六章


グラニスが地方検事の口から直接事情を聞くことができるまで、数日を要した。アーロンビーに避けられているのか、と思いかけたところだった。

だが、実際に顔を合わせてみると、いささかも困惑している様子のない明るい表情をしている。椅子を勧めると、机から身を乗り出して、顧問医師が患者を励ますような笑みを浮かべた。

すぐさまグラニスはまくしたてた。「先日あなたが寄越した刑事は……」

アーロンビーは手をあげてなだめようとする。

「……わかってるんですよ。精神鑑定医のステルだ。どうしてそんなことをしたんです、アーロンビー」

相手は動じない。「まず最初にあなたの話を調べてみました――ところが何も出てこない」

「ほんとうに何も?」グラニスは乱暴にことばをはさんだ。

「まったく何も。もし証拠があるんだったら、いったいどうしてそれを持ってきてくれないんです。あなたがピーター・アスカムに話をしていたのも知っています。デンヴァーにも、それから『エクスプローラー』の小僧っ子、マッカランにもね。だれか事件を立証してくれる人がいましたか? だれもいない。となると、わたしはどうしたらいいんでしょう」

グラニスのくちびるは震え始めた。「それでもなんであんな、私をぺてんにかけるようなまねをしたんです」

「ステルのことを言ってるんですね? そうする必要があったんです。それも私の仕事の内でね。それに、ステルは刑事でもあるんですよ、もしそのことをおっしゃっているのなら。鑑定医はみんな」

くちびるの震えは一層激しくなり、その震えが顔全体に拡がって、あごががくがくとわなないた。乾いた喉の奥から、むりやり笑い声を押し出す。「ほほう……で、やつはいったい何を嗅ぎつけたんです」

「あなたから? ステルはオーバーワークだって言ってましたよ――過労と過度の喫煙。いつか博士のオフィスをちょっとのぞいてごらんになったら、あなたのような症例の記録を何百と見せてくれるでしょうね。それにどういった治療が必要か、アドバイスもしてくれるでしょう。幻覚症状のもっともありふれたもののひとつですよ。まあそうはいっても、おひとつ葉巻でもどうぞ」

「だが、アーロンビー、私はほんとうにあの男を殺したんだ!」

机に広げていた地方検事の大きな手が、ほとんど気がつかないくらいに微かに動いた。するとその直後、呼び鈴に応えたかのように事務員が顔をのぞかせる。

「失礼、グラニスさん。人を大勢待たせてるんです。いつかの午前中、ステルのところへ行ってください」アーロンビーはそう言って、握手をした。

マッカランは自分には手に負えなくなった、と認めないわけにはいかなかった。アリバイに何の穴も見つけることができなかったのだ。雑誌の仕事が忙しくて、これ以上解決しようのない謎にかかずらわって時間を無駄にすることはできないと、グラニスを訪れるのもやめてしまった。こうしてグラニスは深い孤独のなかに落ち込んだのである。

アーロンビーのところへ行ったあと一日、二日は、ステル博士の影に怯えていた。精神鑑定医の診断を、アーロンビーが偽らなかったとどうして言えるだろう? もし自分がほんとうは刑事ではなく、精神科の医者に尾行されていたとしたら。真相を確かめるために、ただちにステル博士を訪ねる決心をした。

博士はグラニスを親切に迎え入れ、前回の会見を悪びれる風もなく振り返った。

「そういうことが必要な場合もあるのですよ、グラニスさん。手段のひとつとして。で、あなたはアーロンビーを脅かしたそうですね」

グラニスは何も言わなかった。彼としては自分の罪をもういちど言明した上で、以前ステルと話したあとに考えたことも含めて、新たに話し合ってみたかったのだ。だが、あまりにしつこく言って発狂の徴候と受け取られでもしたら大変だ、と思って、ステルがそれとなく言ったことを、笑顔で受け容れるふりをした。

「では先生は、精神疲労であるとお考えなんですね――それ以上のものではない、と」

「そうです。そのうえで、タバコをお止めになったほうがよろしいでしょう。相当にお吸いですね」

ステルは治療法を説明し始めた。マッサージや体操、旅行、そのほかさまざまな種類の気分転換を推奨し、……しないと、……が不足すると……。

辛抱しかねたグラニスが遮った。「そんなもの、どれも大嫌いだ。旅行なんてうんざりです」

「ふむ。なら、もう少しスケールの大きな趣味はどうでしょう。政治とか、社会改革や慈善活動に携わられては。なんでもいい、ご自身の外に関心を向けられることです」

「はいはい、わかりましたよ」グラニスはうんざりしてきた。

「なによりも、意欲を失わないことです。あなたのような症例は何百と見てきたんですから」ステルは敷居のところまでくると、明るくことばを添えた。

戸口の階段に立ち止まってグラニスは笑った。自分のような症例を何百も、か。殺人を犯した男、罪を告白した男、そしてだれにもそれを信じてもらえない男の症例を。世界中探したって、一例だってあるわけがなかろう。芝居のなかで使えば、さぞやおもしろい象徴になるだろう。人間の良心を理解できない、偉大なる精神鑑定医!

グラニスはそのタイプの人間から、喜劇が生まれる多大な可能性を感じた。

そこから歩いていくうちに、感じていた恐怖も氷解し、やがて、ものうい感覚が戻ってくる。ピーター・アスカムに告白して以来、初めてやることがなくなってしまった。この数週間というもの、必要に迫られて休むことなく行動を続け、ここまで来た。そうして自分の生活はふたたび淀み、沈滞する。街角にたたずみ、通り過ぎる人並みを見つめながら、緩慢な意識を抱えて、自分はどのくらいの間、耐えていられるのだろうか、と打ちひしがれた思いで自問してみた。

ふたたび、自分で自分に片をつける、という考えがよみがえる。だが、グラニスの肉体は、そうした考えを受けつけようとしないのだ。他人の手による死を願ったのに、その願いもかなえられない。

自分の肉体が一線をどうしても乗り越えられないばかりでなく、グラニスを踏みとどまらせているのには、もうひとつの理由があった。自分の話が正しいことをなんとしても証明しなくては、という激しい情熱に取り憑かれていたのである。いいかげんな話をする夢想家として片付けられたくはない。たとえその結果、自分を殺すことになったとしても。自分が死に値する人間だということを、社会に証明するまでは、死ねないのだ。

新聞社宛に長い手紙を書いた。だが、第一回が掲載されて解説が載ったあと、検事局から短い声明が出されると、世間の関心も霧散し、手紙の残りが印刷されることもなかった。

アスカムが、後生だから海外にでも行ってください、と言いに来た。ロバート・デンヴァーも立ち寄って、冗談を言ってはグラニスを妄想から解き放とうと試みた。だが、彼らのもくろみがほかにあるのでは、と疑うグラニスは、ステル博士がふたたびやってくることを警戒して、自分の口を固く閉ざすのだった。

外に出ることを禁じられたことばは、頭のなかでつぎつぎと新しいことばを生み出していき、まだいくらでも出てきそうだった。彼の「内なる自我」は活発な議論が生まれる場所となり、長時間に渡って、自分の犯行をもとに練り上げた声明を、声に出して言ってみては、書きつけた。休むことなく声明に加筆を続け、練り上げていったのだ。だが、こうした活動も、聞く者もいないところでは、無視され、忘却の淵に沈められてしまうような感覚が生じるのはいかんともしがたく、徐々に停滞していった。

憤慨のあまり、たとえ別の犯罪を犯すことになったとしても、自分が殺人者であることを証明してみせる、と誓った日もあった。眠れぬ夜、その思いは、自身の暗闇のなかで赤く燃えた。だが、日の光はその思いを溶かしてしまう。実行するには衝動に欠け、だれでもいいから殺す、という考えは、あまりにおぞましい……。結局、自分の話に真実味を持たせるためにあがく試みは、また振り出しに戻ったのである。

ひとつの水路が閉ざされるやいなや、別の水路を求めて、サラサラと流れ落ちる砂のような人間の猜疑心に孔をうがとうとした。だが、あらゆる出口は塞がれて、人類全体が、ひとりの人間から死ぬ権利をだましとるために、一致団結しているように思えたのだった。

こうして情況が手に負えないものになったために、グラニスは自制心の最後の一片を失った。

ほんとうは自分が、ひとを笑い者にするための実験の犠牲者だとしたら。見物人に取り囲まれて笑われている、まんなかの哀れな生き物が自分で、意識という固い壁に向かって盲目的に突進を繰り返しているのだとしたら。

いや、そんなことはない。人間はそこまで一様に残酷ではない。無関心という滑らかな表面にはひびが入っているし、弱さや同情という割れ目がそこかしこにある……。

自分の失敗は、多少なりとも自分の過去に繋がりがある人々に訴えたことだ、とグラニスは考えるようになった。そういう人が見る自分の生き方と、秘めた、道を外れた行いとは決して一致しない、そのことが最終的な反証となったのだ、と。一般的な傾向として、習慣という目隠しの細い隙間から見える光景が、その人の生活のすべてだと思いがちである。自分の行動をその狭い隙間から見ると、おおよそ穏当な人物の姿が浮かび上がるのだ。自分のどんな経験をも受け容れられる、自由なものの見方をする人間のほうが、話を理解しやすいだろう。通りでぼんやりチャンスを待っている人間のほうが、前例に足を取られがちな訓練を積んだ知性のもちぬしより、説得するのが簡単ではなかろうか。

グラニスの中に芽生えたこの思いつきは、南洋の植物のように、つぎつぎと新しい考えの種を生んだ。そうして通りを歩き、辺鄙な場所にある肉料理屋やバーに出かけては、自分の秘密を打ち明けられそうな、公平で見知らぬ人間を探したのだった。

最初はだれもが話を聞きたがっているように見えた。だが肝心なところにくると、どうしても躊躇してしまう。危険はあまりに大きく、おまけに最初の人選が、決定的に重要なのだった。頭の悪そうな人間、臆病そうな人間、寛容さに欠けそうな人間はだめだ。求めたのは、想像力豊かな目、皺の寄った額だった。自分が打ち明けていいのは、人間の意志がもつれにもつれて行くさまを熟知している相手だけなのだ。並みの人間が見せる、鈍い、おためごかしの表情にはうんざりし始めていた。一度か二度、漠然と、それとなく、話し始めたこともある――あるときは地下の肉料理屋で、隣にすわっていた男に。またあるときは、イーストサイドの波止場でブラブラしている男に近づいていって。だが、いずれの場合も失敗の予感に襲われ、話し始める寸前に止めてしまったのだ。

人にかつがれるのではないか、と怖れる一念から、いざというとき、話し相手の表情を読むことに、異常なまでに鋭くなり、また、あらかじめ代わりにしゃべる一連のことばを用意して、冷笑したり、疑われたりするような気配が見えるやいなや、舞台のせりからいつでも退くことができるようにしておいたのだった。

グラニスは一日のほとんどを通りで過ごし、夜遅くなってから、自分のアパートメントの静けさと秩序正しさ、物言いたげなフリントの視線を疎ましく思いつつ家路につくようになった。住み慣れた場所とはひどく隔たった世界で生活していると、ときどき、輪廻転生を生きているような不思議な感覚が襲う。ひとつのアイデンティティから別のアイデンティティへと人目を忍んで渡り歩いているような――さらに、逃れることのできない自分自身がもうひとり!

生き永らえる人間が味わう屈辱。生きる情熱など、金輪際よみがえることはない。現状と惨めったらしく折り合いをつけていくことなど、ほんの一瞬たりとも考えることはなかった。死にたかった。死を願う気持ちは変わらず、揺るぎもしない。死、それ自体のために死を求めていたのだ。だが、いまだにそれは、自分の手から逃げおおせている。もちろんいつも、運命の暗黒星に全面的に身を委ねていたわけではない。それが証拠に、いつか小さな火花が起こるまで、数百万の無関心な人のなかでだれかひとりが立ち止まり、耳を傾け、信じてくれるまで、グラニスは自分の話を頑固に、疲れを知らぬように繰り返し、無関心な耳に注ぎ、鈍い脳に叩き込んできたのである……。

ある穏やかな三月の日だった。グラニスはウエストサイドの桟橋を、人の顔を見ながらぶらぶら歩いていた。もはや人相を見るのも専門家の域に達している。無分別に突進したり、怖じ気づいて後ずさるようなこともない。いまでは求める顔も、幻となって表れるほどはっきりとわかっていた。その顔が見つかるまで、話しかけるつもりはない。みすぼらしい、悪臭の漂う通りを東に向かって歩きながら、今朝がその日だ、という予感めいたものを感じていた。もしかするとその期待も、あたりに漂う春の気配から生まれたのかもしれない――ただ、これまでにくらべて、穏やかな気持ちでいられたのは確かだった。

ワシントンスクエアに入り、そこをななめに横切って、ユニバーシティ・プレイスを北に向かう。その通りにいるよそとは異質の通行人には、いつも引きつけられてきた。ブロードウェイを行く人のように慌ただしくないし、五番街を歩く人ほど閉鎖的で秘密めいたふうもない。グラニスはここでも人の顔をみながらゆっくり歩いた。

ユニオン・スクエアまで来ると、突然また憂鬱な気分がぶり返してきた。教会で祭壇から神のお告げが下るのを、あまりに長い間待ちわびている信者のように。もしかしたら、最後までそんな顔は見つけられないのではないか……。予感は薄れていき、疲労感を覚えた。はげた芝生と曲がった木の間を進んで、空いた席を探す。少女がひとりすわっているベンチの横を通りかかった瞬間、ひもでぐいっとひっぱられでもしたかのように、グラニスは少女の前で立ち止まった。少女に話をすることなど、夢にも思ったことはない。だから通り過ぎる女の顔など、これまでほとんど見たこともなかったのだ。自分の事件は、男の犯行だ。女性が助けになるだろうか? だが、この少女の顔はたぐいまれなものだ――穏やかで懐の広い、澄み切った夜空を思わせる。宇宙、距離、神秘のイメージが百ほども浮かんでくる。たとえば、少年のころ見たことのある船が、見慣れた埠頭に停泊している。だが船の汽笛は遠くの海のささやき、マストから張った索の向こうに見えるのは、見知らぬ港……。

確かに、この少女ならわかってくれる。グラニスは静かに近づいていき、帽子を取って、身なりを改めた――少女が一目で「紳士」と思ってくれるように。

「これまでお目にかかったことはありませんが」とグラニスは隣にすわると、こう切り出した。「お嬢さんの顔は、たいそう知的でいらっしゃる……私がずっと探していたのは、お嬢さんのような顔なんです……どこもかも探して歩きました。つまり私が言いたいのは……」

目を丸くした少女は、ひどく驚いて逃げ出そうとした。

狼狽したグラニスは、数歩遅れて走り出すと、乱暴に腕をつかんだ。

「お願いです――ちょっと待って――聞いてください。ああ、悲鳴なんてあげないで、頼むから」つい彼も怒鳴ってしまう。

グラニスの腕に手がかかる。振り返るとそこに警官がいた。即座に自分が逮捕されることがわかり、内部で強ばっていたものが溶け出してきて、涙があふれた。

「そうなんです――私は罪人なんです!」

野次馬が集まってきて、少女の怯えた顔が人波に消えたのがわかった。だが、自分は少女の顔のどこがそんなに気になったのだろう。自分をほんとうに理解してくれるのは、この警官だ。彼はおとなしく警官に従い、野次馬があとをついていった。


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