馬商の娘 デーヴィッド・ハーバート・ローレンス

馬商の娘


「よう、メイベル、で、お前はこれからどうするつもりだ?」と、ジョーは下卑た軽薄な調子で言った。自分のことは、彼はさほど心配していなかった。相手の返事に耳を傾けるつもりもなく、脇を向いて、煙草のかすを舌先に押し出し、それから唾と吐き出した。彼は何事も想いわずらわなかった──自分の身空は安心だと思っていたのだ。

三人の兄弟とその妹は、寒々とした朝食の卓を囲んで坐り、何かしらぼやぼやと相談をつづけていた。その日の朝届いた郵便が、もはや、彼らに打つ術はないことを告げ、一家の命運にとどめを刺したのだった。彼らのいる食堂は、重々しいマホガニーの調度と相俟って、あたかも観念して処分されるのを待っているかのように、暗澹として見えた。

相談はどこに行き着くはずもなかった。三人の兄弟たちは、手足を卓に投げ出し、煙草を吸い、自分の身の上をあいまいに考えているうちに、得体の知れない無力感にとりまかれたようになった。ひとり除け者になっている妹は、たいそう小柄な、無愛敬な顔つきの、二十七歳の娘だった。つねから、兄弟たちとは考えや感じ方を共有することのない彼女だった。もしその間鈍い硬い表情が抜ければ、彼女も美しい見目だったろうが、兄弟たちからは普段「ブルドッグ」と揶揄されていた。

戸の外には、馬がのし歩く入り乱れた足音が響いていた。三人の兄弟は椅子にだらしなく腰掛けたまま、それを眺める恰好になった。街道と前庭とを隔てる、色の濃いヒイラギの茂みの向うに、勁悍な馬たちが、身体を馴らすため厩舎から連れ出され、列をなして颯爽と歩いているのが見えた。これが見納めだった。その馬たちが、彼らが売買を仲立ちする最後の馬になるはずだった。その馬の歩みぶりを、彼らは荒廃した、むごいような目付きで見ていた。彼らはみな自分の零落を恐れ、心の安らぎを奪う悲運の念に憑かれていた。

とはいえ彼ら三人は皆、いかにも見目良い、逞しさのあふれる男だった。長男のジョーは三十五歳で、その燃えるように溌剌とした物腰は頑健で、人目を引くとさえ言えた。平生、ジョーの顔は赤み帯び、太々した指で黒い口髭をひねっていて、眼差しははしこく、落ちつきがなかった。彼は肉感あらわに歯を見せて笑い、立ち居振舞いは不遜だった。だが今は、自分の生活の破綻に茫然となり、諦めのぼんやりした眼差しで馬を見送っているのだった。

魁偉な馬たちが躍々と歩き過ぎて行った。彼らは四頭ずつ、尾から頭へと繋がれて連なり、街道から枝分かれする小径へ向っていたが、滑らかに黒い泥をものともせず、大きなひづめを地に突き立て、見事に引き締った腿肉を豪奢にうねらせながら、小径にさしかかると不意に敏捷な足取りになって、角を折れて行くのだった。馬たちの動息一つひとつに、重みのある、眠っているような落ち着いた力強さと、人にしたがえられている従順な愚かさがあった。先に立つ馬丁は、振り向いては、引き綱を無理に引っ張った。やがて馬の行列は小径に消えたが、その一番後ろを歩く馬の尾──短く断ち切って整えた尾は、垣根を透かして、あたかも眠りながらの動きのように揺れている、馬の見事な臀の流れるに従って、しなやかに靡いていた。

ぼんやりした絶望の眼差しで、ジョーはそれを見ていた。馬たちの境遇が彼と無縁とは思えなかった。自分はもう終わりだと、彼は思っていた。幸いにも、彼は自分と同い年の女性と婚約しており、従って、近隣の地所の家令をしているその父親が、彼に職を与えてくれることになっている。つまり、彼はいずれ結婚して轡をはめられるのだ。人生はついえ、もはや彼は他に隷属する動物にすぎない。

彼は苛立ち気味に向き直ったが、遠ざかっていく馬の足音はまだ彼の耳に響いていた。ジョーは滑稽なほど落ち着きがなく、しばらくすると、皿からベーコンの上皮の切れ端をつまんで、短く口笛を吹き、それを暖炉の前囲いに身を寄せて寝ていたテリア犬に放ってやった。ベーコンをがつがつ呑み込む犬に、眼を据えて、その獣が、彼を物欲しげに見つめ返すのを待った。それから、微かな嘲笑を浮べて、甲高い、下卑た声で言った。

「ベーコンもっと欲しいか? ええ? 欲しいだろう、このちび奴!」

犬は怖じ怖じと惨めに尻尾を振り、臀を垂れ、ぐるりと廻ってみせたが、また身を横たえてしまった。

ふたたびやりきれない沈黙が卓のまわりに降りた。ジョーは苛立たしげに、だらしなく椅子に腰掛け、この家族会議が済むまで発って行く気も起きないようだった。次男のフレッド・ヘンリーは、姿勢の良い、身綺麗な、隙のない男だった。馬の行列が過ぎ去るのを、彼は、兄よりも平静に眺めていた。彼もまた兄のジョーと同じく、動物に喩えるなら、支配される側の獣ではなく、支配する側の獣だった。彼は今までいかなる馬も掌中で扱ってきたのだし、毅然とふるまう支配者としての物腰が、自然身に付いていた。しかし彼も、畢竟人生の異事の支配者ではなかった。彼は唇を覆っている茶色の粗々した口髭を、指で押し上げ、そして不気味に、ずっと無表情に坐っている妹に向って、癇の強い一瞥を投げた。

「お前はしばらく、ルーシーのところに厄介になるんだったな?」彼は訊いた。妹は応えなかった。

「けっ、外に身の振りようがないだろうが、」とフレッド・ヘンリーは重ねて言った。

「女中にでもなりゃいいさ、」ジョーが口を挟んだ。

彼女は身じろぎ一つしなかった。

「僕が姉さんだったら、これから看護婦見習いになるだろうな、」と、末弟のマルコムが言った。彼は一家の“ちび”で、快活な、がんぜ無い面立ちをした、二十二歳の若者だった。

だがメイベルは、マルコムの言葉にも表情を動かさなかった。これまで幾年ものあいだ、彼らは彼女に話しかけ、彼女の周囲で言葉を交わしてきたのだが、もはや、彼女がそれを気にかけることはほとんどないのだった。

マントルピースの上の大理石の時計が、柔らかな音で正時半を告げると、犬が、不安気に敷物から身を起し、朝食の卓のまわりの彼らを見やった。しかし、まだ、彼らは益体無い相談をつづける恰好で、椅子に坐っていた。

「よし、わかった、」と、何についての事か、曖昧に、ジョーは突然言った。「俺はそろそろ行くぜ。」

彼は椅子を後ろへ押しやり、股を開いて、馬に乗るときような恰好で、膝を曲げてほぐすと、立ち上がって暖炉のそばへ歩み寄った。彼は部屋を出て行こうとはしなかった──というのも、他の者がこれから何を言い、何をしようとするのか、興味があったのだ。ジョーはパイプに煙草を詰め、犬を見下ろしながら、甲高い、わざとらしい作り声で話し掛けた。

「おい、一緒に行くか? 俺に付いてくるか、お前? お前にゃ想いもよらねえ、ずっと遠くへ行くことになるぜ。おい、いいか?」

犬はかすかに尾を振った。彼は顎をしゃくりながら、パイプを手に包んでひたすら煙草を吸い、引っ切りなしに煙を吐き出していたが、そのあいだずっと、茶色の空ろな眼で、犬を見下ろしていた。犬の方でも彼を見上げたが、それは哀しげな不信の目色だった。ジョーは、馬乗りのような恰好で、膝を突き出して立っていた。

「ルーシーから手紙は来たか?」フレッド・ヘンリーは妹に訊ねた。

「先週ね。」と無機質な声が返った。

「なんて書いてあった?」

相手は応えなかった。

「お前に家に来いって言ってるのか?」とフレッド・ヘンリーはしつこく訊いた。

「そうしたければ、そうしていいって。」

「なら、そうすりゃいい。月曜には行くって彼女に伝えてやれよ。」

その言葉の後には、深い沈黙が降りた。

「そうするしかないだろ? ええ?」と、フレッド・ヘンリーはやや腹立ちまぎれに言った。

だが彼女は応えなかった。もの憂さと苛立ちとを含んだ沈黙が、部屋に充ちた。マルコムは間抜けたように、にやにや笑っていた。

「来週の水曜までにはどうするか決めなきゃならんだろうな、」と、ジョーは声を大きくして言った、「でなけりゃ、野ざらしになるかだな。」

翳りが娘の顔に差したが、やはり彼女はじっと坐っていた。

「あ、ジャック・ファーガソンがいるよ!」ぼんやり窓の外に眼を向けていたマルコムが、突然叫んだ。

「どこに?」とジョーが喧しく訊ねた。

「もう通り過ぎてった。」

「こっちに来そうか?」

マルコムは門口の方を見ようと首を伸ばした。

「来るね、」と彼は言った。

言葉は途切れた。メイベルはあたかも非難されているかのように、卓の上座にさらされて坐っていた。やがて台所に口笛の音が立った。犬が起き上がり鋭く吠え立てた。扉を開けたジョーは、大声で言った。

「入りな!」

少し間をおいて若い男が入って来た。彼は外套と紫の毛織りのスカーフに身を包み、ツイードの帽子を目深にかぶって、それを脱がずに立っていた。身の丈は中くらい、顔はとても縦長で蒼白く、両眼には疲れを浮べていた。

「こんにちは、ジャック!」「よう、ジャック!」とマルコムとジョーは騒いだ。フレッド・ヘンリーは、ただ「ジャックか。」とだけ言った。

「どんな具合だい?」と客人は、マルコムとジョーにではなく、フレッド・ヘンリーに向って、訊ねた。

「変わらんよ。水曜までにはここを立ち退かなきゃならん。──風邪を引いたのかい?」

「まあね。──こっちの具合もかんばしくないってわけだ。」

「家で寝てりゃいいじゃないか。」

「家で寝る? まあ、いよいよ身体を壊してぶっ倒れたなら、そんな機会もあるだろうな。」と、若い男はしゃがれ声で言った。少しスコットランド訛りのある語気だった。

「こいつはたまげたぜ、」と、ジョーが騒々しく口を挟んだ、「風邪引いて、のど嗄らした医者が、診察に参るってわけだ。患者にとっちゃ良い話じゃねえな?」

若い医師はゆっくりとジョーに眼を向けた。

「ではあなたも、どこか具合が悪いんですね?」と、彼は皮肉っぽく訊ねた。

「別に悪かねえよ。悪いわけないだろ、縁起でもねえ。なぜそんなこと訊くんだ?」

「いや、あまりに患者のことを心配されているから、あなたも患者になるご予定がおありかと思ってね。」

「へっ、俺は今まで藪医者の世話になったことはなし、今後も世話になるつもりはないね。」とジョーは言い返した。

そのときメイベルが卓から立ち上がり、彼らは皆、彼女の動息に少し注意を向けた。彼女は皿を重ね片付けはじめた。若い医師は彼女の方を見たが、声を掛けはしなかった。彼はまだ挨拶すらしていなかった。盆を持って部屋を出て行く彼女の顔は、やはり無表情で頑なだった。

「皆さんは、いつ頃ここを出発するんですか?」と医師が訊ねた。

「僕は十一時四十分のに乗るよ、」とマルコムが応えた、「ジョー兄さん、兄さんは軽馬車で行くんだっけ?」

「そうさ。さっき言ったじゃねえか、軽馬車で行くってな。」

「じゃあそろそろ、馬の仕度をした方がいいよね。──ジャック、それじゃさよなら。これが最後になるかもしれないからね、」とマルコムは言って、ジャックと握手をした。

マルコムが部屋を出て行くのに、ジョーも従いて行ったが、彼の様子には、どこか負け犬のような物悲しさがあった。

「やれやれ、とんだ悲劇だな、」と、医師はフレッド・ヘンリーと二人きりになってから、慨嘆した。「水曜にはもう行っちまうのかい?」

「それが定めさ。」相手は応えた。

「何処へ? ノーサンプトンか?」

「そうなるね。」

「まさに悲劇だ!」静かな無念を噛みしめ、ファーガソンは強く言った。

二人のあいだにしばらく沈黙が続いた。

「借金の片は付いたんだろ?」と、ファーガソンが訊ねた。

「大体ね。」

ふたたび言葉が途切れた。

「フレディ、会えなくなるのは寂しいな、」と若い医師は言った。

「俺もさ。」相手は応えた。

「まったく辛いな──」と、医師は物思わしげに言った。

フレッド・ヘンリーは脇を向いた。もう言うべきことは何もなかった。そこへ、卓を仕舞いまで片付けるために、メイベルがふたたび入って来た。

「あなたはこれからどうされるんですか、ミス・パーヴィン?」とファーガソンは訊ねた。「お姉さんの婚家へ行くのでしたっけ?」

メイベルは、彼を剣呑な、揺るがない硬い眼つきで見返したが、それは以前から、彼を不安にさせ、つねに彼のうわべの礼節を脅かしてきた眼差しだった。

「行きません、」と彼女は言った。

「なら、これから一体全体どうするつもりだ? 言え!」と、フレッド・ヘンリーは深追いする語勢で叫んだ。

しかし、彼女は少し顔をそむけただけで、淡々と片付けをつづけた。白いテーブル・クロスを折りたたみ、代わりにシェニール織りのクロスを広げた。

「なんて薄鈍な女だ!」と彼はぶつぶつ言った。

関心の眼差しを向けはじめた若い医師の前で、ずっと彼女は、端然と無表情のまま、片付けを終えた。そして部屋を出て行った。

フレッド・ヘンリーは唇を固く結び、ねじけた忿懣に眉間をしかめ、鋭い敵意に青い眼を強ばらせて、彼女の後ろ姿を見据えていた。

「どうしようもない阿魔だ。石臼ですりつぶして粉にするぐらいにしか使えねえな、」と、彼は、小さい、抑えた声で言った。

医師は微笑した。

「ともかく、彼女はどうするんだろうね?」と彼は訊ねた。

「俺が知るかよ!」相手は応えた。

言葉が途切れた。医師はかすかに身じろぎした。

「今夜会えるかい?」彼は友人に言った。

「ああ。──でも、場所は何処で? ジェスデイルまで行くか?」

「いや、僕は風邪を引いてるし、まだ決められない。いずれにせよ《ムーン・アンド・スターズ亭》には顔を出すよ。」

「リジーとメイに待ちぼうけをくわせることになるな?」

「しょうがない。──こんな気分の時じゃね。」

「気分のせいにするなよ──、」

二人は廊下を抜けて裏口へと降りて行った。家屋は大きかったが、召使いは一人も見られず、荒涼としていた。家の裏手には煉瓦で舗装した小さな庭があり、そこを越えると、二方に厩舎のある、綺麗に赤い砂利を敷き詰めたひらけた場所になっていた。厩舎のない側には、暗く湿った冬の野原が、坂になって遠くまで広がっていた。

厩舎は今はもう空になっていた。一家の父であるジョセフ・パーヴィンは、教育のない男でありながら、馬商として成功し、財をなした人物だった。当時は厩舎も馬であふれ、馬と商人と馬丁が行き交うあわただしい喧噪に充ちていたものだった。台所にも、多くの召使いが居並んでいた。だが凋落は急速にやって来た。衰運のあげくに、何のつもりでか、老人は再婚さえした。しかし今や、父は死に、すべては崩落し、あとには借金と催促状だけが残ったのだった。

幾月にもわたって、メイベルは、召使いの失せたこの大きな家の体裁を、無為な兄弟たちに代ってなんとか取り繕っていた。これまで十年ものあいだ、彼女は家政をつとめてきたのだった。一家が零落する以前には、物惜しみなどする必要はなかった。そして、彼女をとりまく何もかもが下品で粗野であっても、財産があるという意識が、彼女に誇りと自信とを与えていた。男共が淫らな噂ばかり好み、台所で働く女のあいだに悪評が沸き、或いは、彼女の兄弟たちがよその女に子を孕ませているのだとしても、構わなかった。財産があるかぎり、娘は独尊を感じ、冷ややかな誇りは保たれていた。

商人と野卑な男たち以外に家を訪れる者はなかった。姉が嫁いで行った後では、彼女に同性の話し相手はなくなった。だが、彼女は気に掛けなかった。教会に通うことを欠かさず、忠実しく父親の世話をした。そして彼女が十四のときに亡くなった、愛する母親の想い出を、慕って生きた。彼女はまた父親も愛していたのだが、それは、母とは異なった仕方で、つまり、父親を頼りつづけ、彼の面目の元で順風を感じているということだった──彼が五十四歳の折に再婚するまでは。それを境に、彼女は父から離れ背くようになった。そしてついに父は、彼らに手に負えない借金を残して死んでしまった。

一家の貧窮がつづくあいだに、彼女の誇りはひどく傷ついた。しかしパーヴィン家の人間に根づいている、奇妙に陰暗な、野性的な自尊心は揺るぐことはなかった。そして今、メイベルにとって、終わりは来た。彼女はもう未来を望まなかった。彼女はただ、それまでと同じ彼女自身の流儀に従うだけだった。彼女は最後まで自分の身は自分で処するつもりだった。何も考えずに、頑なに、彼女は困窮の日々を堪えて来たのだ。そもそも、何を考える必要があるというのか? 誰に何を訴えるというのか? 終局は訪れたのであり、もはや出口はないというだけで、十分だ。もう、人々の眼を恥じて、この小さな街の目抜き通りを憂鬱に歩き過ぎていく必要もない。店へ入って、もっとも粗末な品に手を出し、自身を卑しめる必要もない。すべては終わった。誰の事も彼女は思い煩わなかった──自分自身の事さえも。彼女は、何も考えず、頑なに、ただ自分自身の成就が迫っているのを感じ──彼女の崇拝、すなわち、彼女の胸裡で神々しい面影になっている亡き母親に、いよいよ近づいていくように感じて、ただ恍惚にひたっているようだった。

午後に、彼女は木ばさみとスポンジと小さな束子を入れたバッグを下げて、外へ出た。蒼然とした冬日で、深緑の野は陰鬱に広がり、近くにある鋳物工場の煙りは大気を黒く濁していた。彼女は土手道を、足早に、憂鬱な顔で歩き、行き違う人を気にとめず、街を抜け教会墓地へと急いだ。

墓地のなかでは、彼女はいつも、人々の視線から隔てられたような安堵を感じた──が、実際には、教会墓地の壁の下手を通りかかる者なら誰でも彼女の姿を見ることができた。それでもやはり、ぼんやりと浮ぶ大きい教会の影にひそみ隠れ、墓の間に立っていると、彼女は、世界の脅嚇を免れていると感じ、あたかも教会墓地の厚い壁によって、別世界に匿われたように感じるのだった。

注意深く彼女は墓に生えた雑草を刈り、薄く赤らんだ白菊の花を、錫製の十字架に供えた。それを終えると、隣りの墓にあった空の水差しを取って、水を汲み、大理石の墓碑と冠石を、余念なく、隅々まで磨きはじめた。

その作業は彼女に深い喜びを与えた。母のいる世界にじかに触れているという感じがあった。純粋な幸福につつまれたように坐り込み、ひたむきに墓の掃除をするのに、彼女は、ほとんど労苦を覚えず、まるでそうした作業をつづけるうちに、彼女と母親とのあいだに仄かな、緊密なつながりが生まれるかのようだった。母親と連なることのできる、その死の世界に較べれば、彼女が現実の世界で従っている生は、色の稀薄なものでしかなかった。

医師の家は、ちょうど教会の傍にあった。ただの雇われの助手にすぎない彼──ファーガソンは、この田舎の土地に縛られている男だった。診療所で待つ外来患者を診るため、足を急がせていた彼は、通りしな、はしこい眼で教会墓地を一瞥し、そこで墓石の掃除をしている娘を見かけた。一途に無心な彼女は、果てしなく遠い姿のようで、それを見るのは、まるで別世界をのぞき込むかのようだった。なにか不可思議な実体が、彼の内に触れて来た。彼は徐々に歩調をゆるめ、呪縛されたように、彼女を見つめた。

その眼差しを感じて、彼女は眼を上げた。二人の目線が合った。すると何故か、互いに、相手に心際を見抜かれたというような気がして、あらためて相手を見つめ直した。彼は少し帽子を持ち上げて見せて、それから先を急いだ。教会墓地のなかで、墓石の傍から頭をもたげ、鈍い、大きな、不吉な瞳で彼を見つめていた彼女の姿が、幻影のように、彼の意識に克明にとどまった。そう、彼女の面差しはいかにも不吉だった。しかもその顔は、彼を魅するかのようだった。まるで劇薬を呑まされたかのように、彼の存在を捉え尽くす、苛烈な力を、彼女の両眼は帯びていた。彼はずっと以前から、自分の人生に見切りをつけ、凋衰に甘んじていたのだが、今、不意に彼に、生の手応えが戻って来て、自身を擦り減らす日々の暮らしから、解き放たれたように感じた。

彼は、病院での仕事を、急くように、並んで待っている患者たちの薬瓶に、間に合わせの薬をつめたりして、許されるかぎりの手早さで済ませた。それからやはり急いで、お茶の時間の前の午後の往診に、幾人かの患者を訪ねるため、ふたたび病院を出た。彼は常日頃、もしそうできるなら、いつでも歩いて行くことを好んだが、とりわけ、身体の具合が悪いときはそうだった。身体を動かすことで調子を取り戻せると、彼は信じていたのだ。

午後は暮れていった。あたりは冬めいて薄暗く、生彩を無くし、そして緩い、潤むような重苦しい霜気が、肌に沁み入り、彼の知覚を鈍磨させるようだった。だからどうしたというのか?──彼はそんなことを気にかけなかった。忙しげに丘を登ると、黒々と石炭殻を敷きつめた路づたいに、深緑の野の方へ折れて行った。遠い彼方、浅く広い窪地になった先に、教会の塔が、尖り屋根が、そして圧し伏された、不熟な、凍てついた家々が、燻る灰のように群がり、小さな街をなしているのが見えた。そして、街の縁の一番手前、窪地へと下る勾配には、パーヴィン家の寂びた牧場があった。彼と真直ぐ向き合うように斜面に並んでいる、厩舎や、納屋を、彼ははっきりと眺めることができた。もはや、彼があの家へ頻々に足を運ぶことはないだろう。また一つ彼の生の慰めが失われ、貴重な場所が失われていく。彼の馴染むことのできない、この醜悪な小さな街で、ただ一人の気心の知れた仲間を、彼は失おうとしているのだった。あとに残るのはただ仕事だけ──炭坑夫たちと鉄工夫たちの棲家から棲家へと、絶えず急き立てられる、退屈な骨折り仕事だけだ。だがその仕事は、彼を疲弊させつつ、同時に彼に渇望されてもいた。労働者たちの棲家へ分け入ることは、あたかも彼らの生の、もっとも奥底の本性を手探りするようで、それは彼に非常な刺激なのだった。それは彼の神経を昂奮させ、満足を与える。医師である彼は、荒々しく、支離滅裂な人々、凶暴な情動をかかえた男たちと女たちの生活そのものに、微に入り近づくことができた。彼はつねづね不平を言い、あの地獄の穴ぐらのような住居にはぞっとする、と口にした。その実、それらは彼の情思をそそっていたのであり、野太い感情を持つ、無骨な人々に接することは、彼にとって、直に神経を焦がすような刺激なのだった。

寂びた牧場の下方、緑色を帯び、浅く、水に浸かって落ちくぼんだところに、四角い形の深い池が横たわっていた。陰湿な眺めを当処なく見渡していた医師の、敏い眼が、木戸をくぐり、草地を横切り、その池へと真直ぐ下っていく黒衣の人影を捉えた。彼は瞬きして眺め直した。その人影はメイベル・パーヴィンのようだった。彼の意識は俄かに、かっと燃え立ち、注意は張りつめた。

彼女はなぜ坂を下っているのだろうか? 彼は池につづく勾配の上の小径で足を止めて、じっと眼を凝らした。彼に分ったのは、薄ら陽に照らされた窪地を、黒い小さな人影が横切っているということだけだった。彼の眼に、彼女があまりに危うい朧ろな姿に映るのは、あたかも彼が、普段の眼によらず、心の眼で見澄ます、神秘の力を得た者と化したかのようだった。とはいえ、彼が注意を凝らして見つめているかぎり、彼女の姿は、はっきり捉えられていた。彼は、もし自分が眼を逸らせば、この濃密に濁った暮れ方の陽光の下で、彼女を永遠に見失ってしまうのではないか、と感じた。

彼は彼女の動きを──一にひたむきに、意志を持って進むというより、何かに導かれるかのように、池へと真直ぐに草地を突っ切って行く彼女の動きを、一時も見失わぬよう、眼で追っていた。岸にたどりついて、彼女はしばらく立ち止まっていた。彼女は決して頭を上げなかった。やがて彼女は、ゆっくりと水のなかに足を踏み入れた。

小さな黒い人影が、急がず、落ち着いて真直ぐに池の深みへ向うあいだ──とてもゆっくりと、徐々に徐々に、波立たぬ平らな水面へ沈んでいき、ついには、彼女の胸元が水につかるまで歩いて進むあいだ──彼は、身じろぎせず立ち尽くしていた。それから不意に、死んだような午後の夕闇に、彼女の姿が溶け去り、彼に見えなくなった。

「まさか!」と彼は叫んだ。「くそっ、こんなことあり得るだろうか?」

彼は湿深い、水に浸かった野を飛ぶように駈け下り、叢をかき分け、鈍く冷たい冬の瞑色におおわれた窪地へ下りて行った。すぐさま池にたどり着くというわけにはいかなかった。彼は荒い息づかいで、岸に立った。何も見えなかった。彼は死んだような水面を見澄ました。いや、確かにこの静かな水面は、彼女の黒い服の影を隠しているにちがいない。

彼は意を決して、慎重に池に踏み入った。池底は深く、柔らかい粘った泥で、一歩ごとに足は沈み、そして水は冷たい死の感触で彼の膝に巻きついた。みだりに動くと、水のなかに立ちのぼる、腐敗した泥の冷え冷えした臭いが、鼻についた。彼の肺臓に堪える臭いだった。しかし、彼はなお水を踏み分け、ほとんど盲目的に、池の深みへと進んで行った。冷えきった水が彼の腿に触れ、彼の腰を突き刺し、みぞおちまでを浸した。もう彼の身体の下半が、総毛立つような冷ややかな存在に捕えられていた。足裏に触れる池底は深々と柔らかく、不確かで、彼は身体が傾いで前につんのめるのを、恐れはじめた。彼は泳げないのだ。

彼は少し腰をかがめ、腕をひろげて水の下をめぐらし、彼女の気配を掴もうとした。死のように凍えた池水が彼の胸元でうねった。もう一度、手をより深いところまで伸ばし、幾度も、腕をめぐらせた。周囲には水の動きしか感じられない──と思うと、指先に彼女の衣服が触れた。しかし掴む間もなく、それは彼の指から逃れた。ふたたび彼女を捕えようと、彼は必死になった。

だがそうするうちに彼は平衡を失い、溺れ沈み、すると、土臭く濁った水に息ができなくなり、狼狽して、足手限りにもがいた。永遠とも思える一時の後、なんとか池底に足をついて、彼は、水面に浮びあがり、あたりを見回した。喘ぐように息をしていたが、ともかく、自分がまだ生きていると実感できた。池水を見やると、彼女も彼のそばに浮んでいた。彼女の衣服をしっかり握り、彼女を引き寄せた彼は、ふたたび陸に上がるため向きを転じた。

彼はゆっくりと、できるだけ慎重に、少しずつ前へ前へ足を運ぶことに集中した。やがて彼は、這い上がるように池から身体を現した。もう水は彼の足元までしかとどいていない。纏いつくような池水の感触から逃れて、彼は、深い安堵とありがたみとを覚えた。彼女を抱え上げ、よろめきながら、彼は恐ろしい灰色の緩い泥土を脱け出して、岸に上がった。

彼は彼女を岸に寝かせた。彼女は意識がなく、かなり水を呑んでいた。彼は彼女に水を吐かせ、幾度もみぞおちを圧してやった。彼女が息を吹き返すのにそれほど時間はかからなかった──彼女の息差しはすぐ普段どおりに戻った。もうしばらくのあいだ、彼はみぞおちを圧しつづけた。彼女の生の温みが手のひらに感じられた──彼女はもう意識を取り戻していた。彼女の顔を拭い、自分の外套で身体をくるんでやり、彼は、あたりの薄闇をしばらく眺め渡して、それから、彼女を抱え上げると、危うい足取りで、岸を離れ、野の方へ歩いて行った。

パーヴィン家までの道のりは、気が遠くなるほど長く、彼の負う荷は重く、永久に家に辿り着けないのではないかとさえ、彼に感じられた。だが、とうとう厩舎の並ぶ庭にさしかかり、ついで母屋の中庭に辿り着いた。彼は扉を開け、家のなかへ入った。彼女を台所に横たえてから、人を呼んでみた。家には誰も居ないようだった。しかし、暖炉の格子の奥には火の気があった。

彼は跪いて彼女の様子をうかがった。彼女の息合いは規則正しく、もう正気づいたように眼は開かれていたが、まだどこか虚ろなようだった。彼女自身の内奥は目覚めているが、周囲にはまだ意識が触れていないような虚脱だった。

彼は階段を駆けのぼり、毛布を幾枚か取って来ると、それらを暖炉の火にかざして暖めた。それから水浸しの、泥臭い彼女の服を脱がせ、ずぶ濡れの身体をタオルで拭いてやり、裸のまま毛布にくるんでやった。強い酒か何かを探して台所へ行った彼は、ほんの少し残っていたウィスキーを見つけた。まずそれを、自分でも一息飲んでから、幾らか彼女の口のなかへ含ませた。

効き目はすぐに表われた。あたかも、その時まで眼に映ってはいたものの、今はじめて彼の存在に気づいたかのように、彼女は、彼の顔をまじまじと眺めた。

「ファーガソン先生?」と彼女は声を出した。

「何ですか?」彼は応じた。

外套を脱ぎながら、上の階に乾いた衣服がなかったろうかと、彼は考えていた。死のような粘った泥水の臭いに苛まれ、彼は自分の体の具合を危惧した。

「私、どうしたんでしょう?」彼女は訊ねた。

「池へ入って行ったんですよ、」と彼は答えた。病熱を帯びたように身体が慄えはじめていて、彼女に応対するのも辛いようだった。だが、彼女の眼は彼にじっと注がれていた。彼女のその姿を見つめ返すと、気がゆるみ、彼の意識は、暗くしびれてくるようだった。身震いは、徐々におさまり、陰った、未知の生き生きしさが、彼の内に打ち寄せるように、戻って来た。

「気を失っていたんですか?」彼に堅い眼差しを向けたまま、彼女は訊ねた。

「そうです、しばらくの間ね、」と彼は答えた。彼は落ち着いていた──もう彼は生気を取り戻していた。言い知れず焦らされるような不安は、もう彼になかった。

「今も気を失っているんですか?」と彼女は言った。

「今も?」と彼は驚いて応えた。「いいえ、」と生真面目に言った、「そうは見えませんね。」彼は顔をそむけた。どうやら彼よりも確かに力強い、彼女の精気に圧されて、意識があやふやに、眩んでしまうのを感じて、彼は怖れはじめたのだ。彼女は瞬きもせず彼を見つめていた。「僕が着られるような乾いた服が、どこかにありませんか?」と彼は訊ねた。

「私のために池に飛び込んでくれたんですか?」彼女は訊ねた。

「いや、」と彼は応えた。「歩いて入ったんです。結局頭まで水を被ってしまいましたが。」

しばらく沈黙がつづいた。彼は迷っていた。すぐにでも上の階へ行って服を着替えたかった。しかし、それとはまた別の欲求も感じていた。それに彼女も、彼に傍に居てほしいようだった。彼女の前に茫漠と突っ立ったままに、彼の意志は眠りへと引きずられて行きそうだった。それでいて、彼の身内には暖かいものがあった。濡れそぼつ服に身をつつんでいながら、彼はまったく寒気を感じなかった。

「でも、なぜ?」と彼女は訊ねた。

「あなたにそんな馬鹿げた真似をさせたくなかったからですよ、」と彼は言った。

「馬鹿げてません、」と、彼女は、クッションを枕にして床に横たわったまま、やはり彼を見つめて、言った。「当然するべきことをしたんです。気紛れでもありません。」

「ちょっと、この濡れた服を取り替えてきます、」と彼は言った。しかし、彼女の気配が、彼を射抜いているかぎり、彼はその場を立ち去れなかった。彼女の手に自身の生を握られてしまったように、彼は逃れがたさを感じた。そして、おそらくは彼も、自らそれを望んでいたのかもしれない。

不意に彼女は体を起した。それで、彼女は自分が今どんな姿であるかに気づいた。身にまとった毛布を手でさぐり、自分の裸の四肢に触れた。しばらく、彼女は放心したように動かなかった。それから、荒々しい目付きで、何か探すようにあたりを見回した。彼は恐怖に身動きできず、立ち尽くしていた。自分の服が投げ散らかっているのを、彼女は見た。

「誰が私を脱がせたんです?」避けられないような目線を、彼の顔にじっと据えて、彼女は訊ねた。

「僕です、」と彼は応えた、「あなたを介抱するために──」

しばらくのあいだ、体を起した彼女は、唇を半ば開き、彼を獰猛に見据えていた。

「じゃあ、私を愛してるのね?」と、彼女は訊ねた。

彼は、答えずに、ただ惹き入られるように彼女を見つめていた。彼の精神は恍惚に溶けるようだった。

彼女は膝を引きずってゆっくりと彼に近寄り、両の腕を彼に──彼の脚にまわして、彼が立ち尽くしているのにかまわず、胸先を彼の膝と腿に押し当て、不可思議な、戦くような力強さで締め付け、さらに彼の両膝を強くかき抱くと、自分の顔に、喉元に、彼を引き寄せ、この初めての抱擁を勝ち誇るかのような、それまでとはまるで違った、燃え輝く、野卑な眼差しで、彼を見上げた。

「愛してるのね、」想い焦がれるように、勝ち誇るように、確信に充ちて、彼女は異様な無心のままにつぶやいた。「愛しているのね──、分ったわ、やっと分ったわ、私を愛しているのね。」

それから彼女は、濡れた服を着たままの、彼の膝に、熱烈に接吻し、さらに憑かれたように、膝に、脚に、見境いなく熱い唇を押し付けた。

彼は彼女の濡れて縺れた髪筋と、荒れ立った、むき出しの、獣ののような肩先とを見下ろしていた。彼が感じていたのは、驚きと、当惑と、恐怖だった。彼は、自分が彼女を愛しているなど、思ってみたこともなかった。彼女を愛したいと考えたことさえなかった。彼が彼女を助け、正気づかせたのは、医師としてであり、相手は患者に過ぎなかった。彼女に対する、彼個人としての想いなどあろうはずはなかった。のみならず、こうして個人の事柄を交えられるのは、彼には不快で、自分の職業の尊厳を傷つけられたとさえ、感じた。彼女にこんな風に膝に抱きつかれているのは、おぞましかった。息詰まる嫌悪を感じた。荒々しい反感がつのった。しかしそれでいて──なお、彼はそこから逃げ出す力が出なかった。

彼女は変わらず、猛々しい愛執と、度外れの、脅かすような勝ち誇った眼の輝きで、ふたたび彼を見上げた。彼女の面差しの、ゆらめき放たれるような繊細な炎を間近にして、彼は無力だった。しかし、なお彼は彼女を自ら愛そうとは考えなかった。そんな気にはならなかった。なにかしら頑ななものが、折れずに、彼の内にとどまっていた。

「私を愛してるのね、」と、夢のように深い確信を帯びたつぶやきで、彼女はくり返した。「愛してるのね。」

彼女の腕に引き寄せられ、彼は身をかがめた。彼は恐怖と、そして幾分ぞっとするような嫌悪も感じていた。彼女を愛そうなどという考えは、彼にまったく無かった。だが彼女の腕はしきりに彼を抱き寄せようとする。彼は倒れぬよう、とっさに手を伸ばし、彼女の肩の素肌を掴んだ。すると、彼の手と彼女の柔らかい肩との触れ先に、熱い、火傷ような感覚が走った。だが、決して、彼は彼女を愛しはしない──彼女に屈してはならないと、彼の意志は必死に抵抗していた。彼女を愛する──それはおぞましい事だ。しかし彼女の肩のふくらかな感触はすばらしく、彼女の顔は美しく輝いている。彼女は正気なのだろうか? 彼女に屈するのは恐ろしいことだ。しかし、彼の内には、何かしら疼くようなものもあった。

彼は彼女を避けるように、遠くの扉を見つめ続けていた。だが彼の手は彼女の肩に置かれていた。突然、彼女は動きを止めて、静かになった。彼は彼女に目を向けた。不安と疑念とに、彼女の眼は大きく見開かれ、彼女の面差しの明るさは消え去り、影のような、痛ましい蒼味に覆われていた。そして、彼女の問い掛けの眼差しの強迫と、その問いの裏にある絶望の色は、もはや彼には堪えられなかった。

心の内で呻きながら、彼は屈服し、自分の心が彼女に惹き入られるにまかせた。不意に彼の顔に、優しい微笑が浮んだ。すると、片時も彼の顔から離れることのなかった彼女の眼に、ゆっくりと、とてもゆっくりと、涙があふれてきた。その不可思議な水が、あたかも、ひっそりと泉が湧き出るように、彼女の眼に満ち溢れるのを、彼は見ていた。そして彼の心臓は、胸のなかで爆ぜ、溶け崩れていくかのようだった。

もう彼は彼女を見ていられなかった。膝を床につき、彼女の頭を腕にかかえ、喉元に彼女の顔を押し当てるように抱きしめた。彼女はとても静かにしていた。もはや裂け潰れてしまったように思える彼の心臓は、胸のなかで、灼けるような苦悶に焦がれていた。やがて彼は、静かに、熱い涙が彼の襟首を伝っていくのを感じた。彼は身動きできなかった。

熱い涙が彼の首と喉元のくぼみを濡らすのを感じながら、彼は、人が知り得る永遠の感情の一つを抱いて、じっと動かずにいた。今はじめて、彼は身際にある彼女の顔を、失いたくないと感じた──もう彼はそれを放すことができなかった。彼女の頭をきつく抱えているその腕を解くことができなかった。心臓に、彼にとって生そのものである痛苦を感じながら、永遠にその形姿のままでいることを、彼は望んだ。意識せぬままに、彼は彼女の蒸れた、柔らかな褐色の髪を見下ろした。

すると、不意打ちのように、泥水の淀んだ厭わしい臭いが彼の鼻を衝いた。同時に、彼女は彼から身を離して、彼を見つめた。想い沈むような、測りがたい目色だった。その眼に恐れおののき、彼は、自分が何をしているか覚束ないまま、彼女に接吻しはじめていた。そのような、痛々しい、沈鬱な、測りがたい光りが彼女の眼に浮ぶのが、彼には辛かったのだ。

ふたたび彼女が彼と向き合ったときには、彼女の顔は赤らんで、繊細な光りにほのめき、そして、眼にはまたも彼を脅かす熾烈な喜びの輝きが現れていた──その輝きはたしかに彼を脅かしたが、彼女の疑いの目色をもう堪え難いと感じる彼には、むしろ望まれている輝きなのだった。

「私を愛してるの?」と、彼女はおずおずと言った。

「ええ。」この言葉は、彼には苦渋の一言だった。それが虚偽だからではない。それはあまりに、彼に未知の真実であり、それを告げることは、すでに生々しい裂け目のある彼の心を、さらに裂き開くような痛みなのだった。そして、それが真実であってほしくないという気持も、彼にはまだあった。

彼女が顔を上げると、彼は前へ身を傾けて、永久の誓約であるかのように、優しく、彼女と唇を重ねた。と同時に、彼の心臓は胸の内で、ふたたび締めつけられた。彼は彼女を愛そうとしたことは決してなかった。だが、その抵抗も終わりだった。彼は彼女のいる側へ、遠い隔たりを越えて渡ったのであり、彼が後に残してきたものは、もはや瑣末な、空ろなものとしか感じられない。

接吻の後、またも彼女の眼をゆっくりと涙が満たしていった。彼女は、彼から離れ、顔を脇に俯け、膝の上に腕を組んで静かに坐っていた。涙はとてもゆるやかに頬を流れていた。完璧な静けさがあたりに降りていた。彼も炉床に、身じろぎせず、黙って坐っていた。裂け崩れた心の、不思議な痛みが、彼を喰い尽くしたようだった。──まさか、自分が彼女を愛することになるとは! これが──これが愛だとは! 自分がこんな風に胸を抉られようとは! 只の医師に過ぎない彼が! ──このことを知ったら、彼の知人たちはみな彼を嘲ることだろう。それを思うと、彼は暗澹とした。

思いを馳せるうちに、奇妙に生々しい苦痛を覚えて、彼はふたたび彼女を見つめた。彼女はしょんぼりと、物思いにふけっているようだった。涙が彼女の頬を伝うのを見ると、彼の心は熱く揺らめいた。彼は、毛布がずれて下がって、彼女の片方の肩と、片腕の肌が露わになっていることにはじめて気づき、彼女の片方の小さな胸を認めた──ほとんど暗闇につつまれた部屋のなかで、ぼんやりとではあったが。

「何故泣いているんです?」彼は声音を変えて訊ねた。

顔を上げた彼女の眼は、はじめて自分が泣いていることに気づいたように、涙を透かして暗い羞恥の光りを帯びた。

「泣いているわけじゃないんです、ほんとうに、」半ば怯えながら彼を見て言った。

彼は手を伸ばし、彼女の腕の肌をそっと握った。

「愛しています、あなたを愛しています──!」と、彼は、密やかな、低い震え声、彼本来のものでないような声で言った。

彼女は身を縮こませ、項垂れた。親密に、沁み入るような感触で彼が彼女の腕を握っているのは、彼女を困らせた。彼女は顔を上げて、彼を見つめた。

「放してください、」と彼女は言った。「上へ行って乾いた服を取って来ますから。」

「何故?」彼は言った。「僕は平気ですよ。」

「でも、そうしたいんです、」と彼女は言った。「あなたにも服を着替えてほしいんです。」

彼が手を放すと、彼女は毛布でしっかりと身をつつみ、怖がるような眼で彼を見た。そしてまだ立ち上がらずにいた。

「キスして。」彼女は思い沈んだ声で言った。

彼は彼女に唇を触れたが、怒っているかのように、すぐに離した。

それから間をおかず、毛布が全身を隠すよう気を遣いながら、彼女はそろそろと立ち上がった。歩きやすいように、彼女が毛布をゆるめてから身体に巻き直そうとして、まごつくのを、彼はじっと見据えていた。彼のその仮借ない眼差しを、彼女も気づいていた。そして、毛布を引きずって歩き出した彼女の、束の間ひらめいた白い脚とふくらはぎを眼にして、彼は、自分が先ほど毛布にくるんでやった折の彼女の姿を、想い出そうとした。だが、すぐにそれをやめた──というのも、あの時はまだ彼にとって何者でもなかった彼女、その彼女の姿を、記憶に呼びさますのは、今はもう強く抵抗をおぼえることになっていたから。

籠った、忙しげな音が暗い家の中に響いて、彼をはっとさせた。つづいて、彼女の声が聞えた──「これを着てください。」彼は起き上がり、階段の上り口まで行って、彼女が投げて落とした衣服を拾い集めた。暖炉の傍に戻ると、体を拭いて、着替えた。身支度を済ますと、自分の新しい装いを見て、少し苦笑した。

消えかかっている炎に、彼は石炭をくべた。ヒイラギの木の向うにほのめく街灯の光りがわずかに射すだけで、家の中は、もうほとんど闇に沈んでいた。マントルピースの上に見つけたマッチで、彼はランプを点した。それから自分の服のポケットの中身を取り出し、濡れた服を山にして、洗い場に投げ込んだ。次に、彼女のずぶ濡れの衣服を、丁寧に拾い集め、洗い場の銅の台板に、別の山にしてのせた。

時計は六時を指していた。彼自身の時計は壊れて止まっていた。もう病院へ戻らなければならない。彼は待ちつづけたが、彼女は下りて来なかった。彼は階段の上り口まで行って、呼びかけた。

「僕はもう行かなくちゃならない。」

すると、すぐさま彼女が階段を下りてくる音が聞えた。彼女は最も見目良い、黒の薄地のドレスを着て、髪はきれいに整えていたが、まだ少し湿っていた。彼女は彼を見て──知らず識らず、微笑した。

「あなたに着せる服を間違えたわ、」と彼女は言った。

「変に見えますか?」と彼は応えた。

彼らは互いにはにかんでいた。

「お茶を淹れます、」と彼女は言った。

「いや、もう行かなくちゃ。」

「どうしても?」彼女は、ふたたび、大きな、張りつめた、疑いの眼で彼を見つめた。そしてまたも、彼の胸裡に痛みが疼き、彼は、自分がどれほど彼女を愛しているかを知った。彼は近寄り、身をかがめ、彼女に、優しく、熱く、心の痛みを触れ先に込めたくちづけをした。

「私の髪の毛、ひどく臭うのね、」彼女は取り乱してつぶやいた。「ひどいわ、ひどい、私、ひどすぎる!」突然彼女は、心が破れたように、痛切にすすり泣き始めた。「こんなにひどい恰好じゃ、あなたに愛されるはずないわ。」

「そんなこと、そんなことない、」と、彼女を落ち着かせようと、彼は彼女に接吻し、腕に抱いた。「君が欲しい、君と結婚したい。そう、僕らは結婚するんだ、早く、できるだけ早く、できるなら明日結婚したっていい。」

しかし彼女の嗚咽は止まず、彼女は叫んだ。

「ひどい、ひどいわ、私分るわ、あなたが嫌がっているのが。」

「違う、君が欲しい、君が好きだ、」と、ひたむきに、盲目的に彼はくり返したが、その切羽詰まった響きは、彼が彼女を愛さなくなるかもしれないという怖れ以上に、彼女を脅かすようだった。


目次
©2006 稲富裕介. この版権表示を残す限りにおいてこの翻訳は商業利用を含む複製、再配布が自由に認められる。プロジェクト杉田玄白 (http://www.genpaku.org/) 正式参加作品。