利子率の価格にたいする影響, クヌート・ウィクセル

利子率の価格にたいする影響


私が謹んで批判に供します論題は次のことであります。もし、他のことが同じままで、世界の指導的銀行がその利子率を、例えば通常の水準より1%下げて、それを数年にわたり維持するならば、すべての商品の価格は如何なる制限もなく上昇に上昇を続けることになるだろうということ、そして逆に、もし指導的銀行がその利子率を、例えば正常な水準より1%上げ、それを数年にわたり維持すると、すべての価格はゼロ以外にはなんの制限もなく、下落に下落を続けるだろうということであります。

さて、この命題は経験より直接証明することができません。なぜなら、この仮説が求めるような事実は決して起こらないからです。

仮定は、銀行は利子を下げるか上げるかするが、他のことは同じままであるということでした。しかし、もちろん銀行はそんなことは決してしません。実際、なぜそんなことをしなければならないのでしょうか?他のことが同じままなら、銀行利率も同じまま維持されるに違いありません。あるいは、もし何らかの偶然によって、たとえば誤って、利子率が変更されても、それは直ちに本来の水準に戻るでしょう。したがって私の論題は抽象的な主張にすぎませんし、おそらく、ではそれが何の役にたつのか?と尋ねられることでしょう。しかし、にもかかわらず、それは大いに役に立つのだと、私は敢えて断言いたします。どなたもニュートンの次の主張をご存知でしょう。もし太陽の引力が突然なくなったら、惑星は接線方向にその軌道から離れていくだろうという主張を。これもまた抽象的命題についてでしかありません。なぜなら太陽の引力がなくなったりはしませんから。しかし、それにもかかわらず、これはもっとも役に立ちます。実際これは天体力学のまさに礎石なのです。同じように、私はここに提出した論題が、もし真であることが証明されれば、価格の力学の礎石、あるいはむしろ、貴金属の供給の影響や他国である金産出国からの商品に対する需要の影響といった、その礎石のうちのひとつとなることを信じています。

しかし、さらに進む前に、私たちはもういくつかの疑問に答えなければなりません。私たちの仮定は事実に関して非現実的であるというだけでなく、論理的にさえ不可能であるかもしれません。そのときは、もちろん、それは何の役にも立たないということになります。経済学者の間での一般的意見では、貨幣にたいする利子は長期的には資本にたいする利潤によって規制されており、その資本に対する利潤は実体資本の生産性とその比較的な豊富さによって、あるいは現代経済学の用語では、その限界生産性によって決定されるということになります。これが同じまま変わらずに、実際、私たちの仮定ではそうなっていますが、そもそも、同時期の資本に対する平均的な利潤の状態に規制されながら、銀行が利子率を正常な水準より高くあるいは低く維持することは可能なのでしょうか?

この問題はきわめて注意深く考察するに値するものです。つまりは、問題全体を解決するためにそれを適切に分析するには長い道のりを歩まなければならないだろうということです。

貨幣にたいする利子と資本にたいする利潤は同じものではありませんし、お互いに直接結び付いているわけでもありません。もしそうなら、それらは全く区別がつかない、あるいはいつもある決まった量違っているだけになるでしょう。確かに、それらを結び付けているものがあるのですが、この結び付きの本来の性質や範囲を確定することはそんなに容易なことではないのです。

もし銀行の干渉のない個人間の信用取引だけを注目するなら、利子と利潤の間の結び付きは実際明白であるように見えます。もしあなたが資本をある企業に投資して、当然の危険割引を控除した後で、例えば10%の利潤を得ることができるなら、あなたはもちろんそれより安い利率で貸し付けたりしないでしょう。そして、もし借り手があなたと同じ状況にある個人以外に頼ることができなければ、それより安く金を得ることはできないでしょう。

しかしこれは信用の現代的形態とは非常に違っています。現代の信用形態はほとんどいつでも銀行や専門の金貸業者の仲介を伴っています。銀行はその貸付業務において、自分自身の資本による制限を受けないばかりか、少なくとも直接的には、いかなる資本によっても制限を受けません。ほとんどすべての支払をその手中に集中することによって、銀行自身が必要な貨幣を創出するのです。あるいは、同じことなのですが、貨幣の循環速度を任意に加速するのです。今日商品を買うために借り出された金額は商品の売り手が同じ銀行か別の銀行かの自分の口座に入金し、次の日には別の人に貸し出すことができ、同じ効果をもたらします。ドイツ人の著作者エミール・シュトラックはよく知られたイギリス金融市場のスケッチでまさに次のように言っています。我々の時代では貨幣の需要と供給は同じものとなり、かなりの範囲の需要が自らの供給をつくり出す、と。

純粋な信用システムでは、あらゆる支払が預金通帳の中の移動で行われ、銀行はいかなる時にもいかなる額の貸付金も任意の、たとえどんなに小さかろうとも、利子率で与えることができるのです。

しかしそのとき、何が利子と利潤を結び付けるリンクとなるのでしょうか?私の意見では、その違いによって惹き起こされる、まさに価格への効果以外に、そうしたリンクは存在しないのです。

利子が現存する利潤率のわりに低いとき、もし私が推測するように、価格がそれによって上昇するならば、取引はもっとソブリン金貨や紙幣を必要とし、したがって貸し付け額は全額銀行に戻って来るわけではなくて、世間の金庫や財布の中に残るでしょう。その結果、銀行の保有金は次第になくなるが、一方その負債額はおそらく増加して、利子率を引き上げるよう強制することになるでしょう。

利子率がたまたま資本に対する平均的利潤のわりに高すぎるようになると、これと全く逆のことがおこります。ここまでは、私の命題が金融市場でのよく知られた事実とまったく一致していることに、容易に気づかれることでしょう。もしそれが正しくないなら、もし、逆に、トーマス・トゥックが主張し、リカードでさえ初期の著作では信じていたと思われるように、低い利子率は、彼らが考えたように、生産要素の一つの値を下げることによって、価格を下げ、高い利子率は価格を上げる--もっともらしいが、しかし、他の生産要因の報酬が、そうした状況の下で同じままでありうるという保証できない仮定に基づく議論です--ならば、そのときは、銀行の政策は実際にとられるものとはまるで逆でなければなりません。銀行は価格が高くなって保有額が下がるときは利子率を下げ、反対の場合は利子率を引き上げるのです。

しかし、私の論題のもっと直接的な証明が求められているのであろうし、それはこうしたやり方で与えられるでありましょう。もし私が商人として商品を総額£100で3ヵ月の為替手形または約束手形とひきかえに販売し、それを直ちに銀行または手形ブローカで割り引き、割引率が年利4%でたならば、実際は私は商品とひきかえに総額£99の現金価格を手にいれたことになります。しかし、もし銀行が3%で手形を引き取ると、結果的に私の商品の現金価格は、たった1/4%であるが、上昇したことになります。おそらくそんなことはないでしょう。なぜなら、おそらく競争が私に超過利潤を商品の買い手に譲るように強制するでしょうから。しかし、別の場合、長期信用が作用すると、直接的な価格上昇はそれよりもずっと大きくなるでしょう。もし割引率が低いままなら、長期貸し付け金の利子も確かに下がります。建物会社や鉄道会社は、例えば5%のかわりに4%で、金を集めることができます。したがって、他のことが同じであるなら、£125の4%は£100の5%と同じだから、賃金や原料、その他を以前より25%高く買うことができるし、また競争により多かれ少なかれ買わざるを得なくなります。

しかし、さらに--そしてこれが私が皆さんに特に注意して欲しい本質的な点ですが--価格の上昇運動は、最初の事例において大きかろうが小さかろうが、利子率がその正常な率、すなわちその時に存在している実物資本の限界生産生に対応した率より低く維持されているかぎり、止まることができません。すべての商品の価格が上がると、新しい価格水準が形づくられ、今度はそれがあらゆる将来の計算とあらゆる契約のための基盤としてはたらくことになります。したがって、もし銀行利子率が今その正常な高さにまで上がれば、価格水準を押し下げるように作用する力はないので、価格水準は下がらず、単純に今あるところに留まるでしょう。そしてその結果もし銀行利子率がその正常な高さより低いままなら、価格を上げようとする方向への新しい起動力が後に続き、等々ということになります。利子率が平均的な利潤に比べて高すぎるようになると、これと全く反対のことが生じます。そうして、どちらの場合にも二つの率の間に差異が残り、価格の運動は止まることが決してできません。それはちょうど電極の間に電圧の差異が残るかぎり電流が決して止まらないようなものです。

低い利子率が価格を引き上げ、高い利子率が価格を引き下げるという命題は、いくつかの点で少しも新しくはありません。一度ならず主張されてきましたが、それに対してはいつも手に負えない反論が統計的事実という形で勝ち誇ったようにもたらされてきたのです。実際、例えば統計協会のジャーナルのサウアベック(Sauerbeck)のよく知られた統計表の数字を考察するなら、一般に高い価格が低い利子率に対応していないこと、逆も然りであることがわかるでしょう。むしろ反対のことが起こって、利子と価格はほとんど大抵いっしょに上昇したり下落したりしています。しかしこの反論はその重要性を全く見失っています。いやむしろ、貨幣に対する利子という概念が相対的で、それが必然的に資本に対する利潤に結びついていることに着目するやいなや、それは私達の理論を積極的支持するものに変わるのです。利子率は決してそれ自身で高かったり低かったりするわけではなくて、人々が手中にした貨幣を使ってつくり出す利潤に関係してそうなのです。そしてこれは、もちろん変化します。好調時で、取引が活発なときには、利潤率は高く、そして重要なことは、それが高いままとどまると一般に期待されるということです。不況期には、利潤率は低く、また低いままとどまると期待されます。貨幣に対する利子率は、疑いもなく、同じコースをたどるでしょうが、直ちにではなく、それ自身ででもなく、それまでもそうであったように、二つの率の差異により惹き起こされた、価格の運動と、結果として生じた銀行保有高の状態の変化によって、利潤率の後をひきずられていくのです。ところで、この差異は価格に作用する仕方は、私たちのもともとの仮定にしたがって、資本にたいする利潤が一定のままであり、貨幣にたいする利子が自発的に上がったり下がったりすると仮定した場合とちょうど同じ仕方です。一言で言えば、貨幣にたいする利子は、実際には、ほとんどたいていの場合、高いと思われているときに低く、低いと思われているときに高いのです。これが、価格にたいする信用の影響が認められる限りにおいて、さっき述べた反論にたいする妥当な答えであると、私は信じます。時によっては、もちろん、向こう見ずな投機や恐慌のときのように、問題が他の要因の作用で非常に複雑になることもあるでしょうが、ここでは考慮する必要はないでしょう。

このとき、私たちの理論が大部分は、あるいは抽象的には真実だとしても、その実際上の帰結は何なのでしょうか?どこまで指導的金融機関は価格を調整できるのでしょうか?

単一の銀行は、もちろん、そうした力を全く持っていません。実際、それは自分の利率を市場の状態が定める利率より高くもより低くも設定できません。もしそうしたならば、高すぎる場合にはすべての利益のある事業を失ってしまうでしょうし、低すぎる場合には必然的結果として速やかに破産するでしょう。

単一国のすべての銀行が連合したとしても長期にわたってそうすることはできないでしょう。利子率が高すぎるか低すぎるかすると、それは貿易収支に影響し、そのためによく知られているように金の流入や流出がし、銀行はその利率を世界的な金融市場の状態に強制的にあわせざるをえなくなります。

しかし、実際、私たちがしたように、商業界の指導銀行がすべて同じ過程をたどると仮定すると、金はこれ以上ある場所から他の場所に移動する理由がなくなるので、価格に働く作用は、貨幣の国際的運動の妨害を受けずに、支配力をもつことになります。それでも、そのときでさえ、現在の状況のもとでは、明白な限界があります。最初に注意しておいてように、信用あるいは利子率の影響は、価格に作用する因子のうちの一つにすぎません。他の因子には金属貨幣の量、特に私たちの時代では、金の供給量があり、金そのものが価値の標準であり続けるかぎり、この因子が明らかに長期にわたり優勢であるでしょう。貨幣需要が変わらないのに、素材としての金の生産が減少しているところでは、銀行は疑いもなく、その金利を下げることによって、しばらくの間、その他の価格にたいする不可避的な圧力に抗して有利に反応するでしょう。しかしそれはしばらくの間だけです。なぜなら、現在の銀行法のかなり不必要な硬直性が緩んだとしても、産業目的の金への絶えず大きくなる需要は次第に銀行保有高を縮め、金価格の上昇--すなわち平均的貨幣価格の下落--によってのみ阻止できるからです。

別の極端な例は、現在ではもっと起こりそうなことですが、金の供給過剰とそれによって引き起こされた価格の上昇に、自由な金貨鋳造が存在する限り、どうやっても効果的に対処できないということです。(原注1)

他方では、もし合理的な通貨制度への道のこのもっとも本質的な一歩を踏み出すならば、もし自由な金貨鋳造を、銀貨の鋳造と同じように、止め、結局は紙幣そのもの、あるいはむしろ銀行口座を記録している単位が価値の標準になるならば、そのときには、そしてそのときなってはじめて、明らかに通貨の科学の基本問題とみされている、貨幣の価値を安定させ、貨幣価格の平均的水準を一定の高さに保つという問題は、限界無しに理論的にも実践的にも解決可能となるのです。そして、それを解決する手段は、時々提案される全世界の中央発行銀行といった、多かれ少なかれ空想的な計画に求める必要はなく、単に一般的銀行利子率を、価格が低くなれば下げ、価格が高くなれば上げるというように、適切に操作することに求めればよいのです。

そしてまた、この制度は全く人工的というわけでもないのです。なぜなら、利子率がその回りを振動し、絶えず引き寄せられる点は、前に私がその正常な水準と呼んだものそのものであり、それは同時期の実態資本の限界生産性の状態に指定されており、私たちは、もちろん、その変更を制御できず、単に従うしかないのですから。

付言

この論文が英国協会の会合で読み上げられたとき、ポールグレーヴ氏から、銀行の行動の自由は--私が彼を正しく理解しているとして--彼の見解では、その保有高を、好ましくない貿易収支の結果の低くなりすぎることからも、金流入によって利益のない高さになることからも、守るという必要性によって制約されるので、とても価格の調整といった課題を負うことはできない、という反論をもらった。このことは疑いもなく正しいのであるが、しかし銀行の国際的利子政策には、これまでもそうであったように、金流失国の割引率をあげるだけでなく、金流入国の割引率をさげることによっても、金の国際的運動を阻止あるいは修正できるかぎりで、二つの自由度をもっていることを忘れてはならない。言い換えると、適切な貨幣の分配、あるいは他国との間の価格の標準の平準化を目的とする、互いにもたれあった銀行の活動は、論理的には貨幣の普遍的価値と価格の水準を一定の高さに維持することを目的にした共通の活動に付随するものであるだろう。しかし、現在の状況の下では一般的な金の供給が定める制限の中でしか行うことができない。

もう一方では、エッジワース教授から、自由な金貨鋳造が抑圧されると、政府自身が一般的価格の統制をその手中に収めることになるという評注があった。これも、現在の大きな金生産が続く限りは、いずれにしても真実である。たとえ金生産が止まり、金が欠乏したとしても、政府は紙幣を慎重に発行して通貨不足を補うだろう。しかし単一の政府はこの点では二つの選択肢しかない。一つは貨幣の価値を商品にたいして安定したものに保とうと試みるということだが、しかしその時は必然的に為替平価を犠牲にすることになる。あるいはもう一つは、為替を厳密に平価通りに保とうと管理することだが、この時はそれだけでは価格の水準には何の力も持っていない。各国が鋳造する金貨幣の総量に関するものか、そうでなければ上に述べたような銀行の共通の利子率政策を含むかする何らかの国際協定がぜひとも働き始めなければならないが、そうすればこの目的--貨幣の平均的価値と為替平価の安定--を両方とも一緒に満たすことができるだろう。そして私には、誤っているかもしれないが、いくつかの理由から、このような協定は、銀行を除いた政府それ自身よりも、政府に支援を受けながら銀行が作ったほうが、ずっと簡単で効果的であるように思われる。

問題の実践面および議論全体をもっと詳細に分析するには、私の著書GeldzinesundGuterpreise(Jena:GustavFischer,1898 コンラッドの年報第13巻,1897をさらに展開したもの)、また私の印刷された大学講義録(第1、2巻,1906スゥェーデン語)を参考にしなければならない。

原注

1 通常の金の供給の超過および不足が価格にたいし最終的には影響していることは疑いえないにもかかわらず、それが影響するやり方を正確に記述したり想像したりすることは、容易なことではない。今日では、新しい金はできるだけ速やかに銀行にいたる道を見出すので、一般的印象では銀行の貸付可能な基金をそれだけ増加させることによって、そしてそれゆえ、最初の事例では利子率の下落を惹き起こすことによってそうなのだと思われる。もし新しい金が総体としてその所有者によって貸付目的の資本として預金されるのならば、このことは疑いもなく真実である。そしてそうである場合にかぎり、それはまさに、銀行利子率の下落が価格上昇をもたらすことの説明を、唯一の実際的な説明をあたえてくれる。しかしたいていは、私はそう思うっているのだが、金は貸付資本としてではなく、金産出国の輸入の支払いとして来るのであり、もしそうなら、価格への作用はもっと直接的であり、利子率への効果はもっと小さいのである。金産出国からの商品にたいする需要の増加によって惹き起こされた価格上昇が金の到来の前兆となり、一方では必要な交換手段が信用の拡大で供給され、それで利子率が多分当初よりも上昇するということも、ありえる。どの場合も、増加した金の供給の最終的効果は利子率の上昇であって、下落ではない(金の供給不足では逆になる)。なぜなら、大規模採掘企業と非金産出国による金の買い占めは、実際に多額の実物資本を破壊し、それによって利潤率に上昇傾向をもたらすからである。このすべてが、価格の上昇が、明らかに金の供給の余剰によって惹き起こされているときでさえ、低い利子率が伴うことはほとんどまれで、一般には高い利子率が伴うという、経済史におけるかなり困惑するような特徴の説明であろう。


©2001 永江良一. この版権表示を残す限りにおいてこの翻訳は商業利用を含む複製、再配布が自由に認められる。プロジェクト杉田玄白 (http://www.genpaku.org/) 正式参加作品。