モロー博士の島, ハーバート・ジョージ・ウェルズ

モンゴメリーの「祝祭日」


作業が終わり体を洗って食事をした後、モンゴメリーと私は私の小部屋で初めて真剣に自分たちの置かれた状況について話し合った。もう真夜中に近かった。彼の酔いはもうほとんど醒めていたが頭の中はひどい混乱状態だった。彼は奇妙なほど強くモローの人格に影響されていた。今までモローが死ぬことなど考えたことも無かったのだと思う。この島で十年以上も過ごす間に彼にとってごく自然なものの一部に変わっていた習慣をこの事件は唐突に崩壊させたのだ。彼の話ははっきりとせず、私の質問にもひねくれた答えを返して次第に話は一般論へと逸れていった。

「最低だ」彼が言った。「全てがひっちゃかめっちゃかじゃないか! まともな人生と呼べるものは今まで一度も体験したことがない。いつそいつが始まるのかと思うよ。十六年間、乳母と教師にいいようにいじめられ続け、ロンドンでの五年間はつらい医学の勉強にまずい食事、ぼろぼろの下宿に使いふるした服に不品行と馬鹿な過ち……何も良いことは無かった。そしてこの獣だらけの島に追いやられた。ここに十年間いた! いったいなんのためになった、プレンディック? 私たちは赤ん坊の吹いたシャボン玉か?」

まるで手が付けられなかった。「今考えなければならないのは」私は言った。「この島からどうやって脱出するかだ」

「逃げ出してどうなる? 私は追放された人間だ。どこに戻ればいい? 君は良いかもしれんがな、プレンディック。哀れな年寄りだよ。モロー! 彼をここに置き去りにはできない。骨を拾ってやらなければ。そうだ……それに獣人のうちのおとなしい者はどうなる?」

「ああ」私は答えた。「それは明日にしよう。まずは薪を積んで彼の死体を……それに他の死骸も焼いた方がいいように思うんだ。これから獣人たちに何が起きると思う?」

「わからないよ。遅かれ早かれ肉食獣から作られた者が何か馬鹿げたことをしでかすんじゃないかな。皆殺しにする訳にはいかない……そうだろ? 君の慈悲心に照らしてもそうだと思うがね? だが彼らは変わるだろう。彼らは必ず変わる」

彼の話はいつまで立っても結論に到達せず、ついに私は短気を起こした。

「ちくしょうが!」私の癇癪に彼が大声を上げた。「私のほうが君より悪い状態だってことがわからないのか?」そう言うと彼は立ち上がってブランデーを取りに行った。「飲め!」戻って来ながら彼が言った。「君のたいそうな理屈も、まじめ腐った白い顔もたくさんだ、飲め!」

「飲まない」私は言って座ると彼が飲みながら自分の惨めさについて盛大にしゃべっている間、眉をしかめて黄色いロウソクの灯りに照らされた彼の顔を見つめた。

ひどくうんざりしたことを憶えている。彼は落ち着きなく獣人とミリングに対する感傷的な 擁護弁論を繰り広げた。ミリングはこれまでで唯一自分のことを本当に気にかけてくれた存在なのだと彼は言った。そこで突然、彼は何かを思いついた。

「私は大馬鹿だ!」ふらつく足でブランデーの瓶を握りしめたまま彼は言った。

直感的ひらめきで私には彼が言わんとすることがわかった。「あの獣に酒をやるなんてとんでもないぞ!」私は立ち上がって彼と真正面に向きあって言った。

「獣!」彼が言った。「獣は君だ。彼はキリスト教徒のように酒を嗜む。向こうへ行け、プレンディック!」

「なんてことだ」私は言った。

「さっさと……いなくなれ!」彼は怒鳴るとリボルバー拳銃をすばやく抜き出した。

「結構なことだ」私は言って脇に避けた。彼の手が鍵を開ける間にもどうにか襲いかかれないかと考えたが自分の使い物にならなくなっている腕のことを考えて思い留まった。「君は獣になっていたのだ……獣人のところへ行くがいい」

彼は戸口をはね開けると黄色いランプの光と月の青白い光に体を半分ずつ照らされて私に向かって立った。彼の眼窩が伸び放題になった眉毛の下で黒い染みのように見えた。

「真面目腐った堅苦しいやつだ。プレンディック、大馬鹿が! いつだって何かを怖がって有りもしない妄想をしている。私たちは瀬戸際に立たされているんだぞ。明日にも喉を掻っ切られるかもしれない。今夜はくそったれな祝祭日だ」彼は向きを変えると月明かりの下に歩んでいった。「ミリング!」彼が叫ぶ。「ミリング、我が旧友!」

白銀の光の下、三人のぼんやりとした人影が青白く光る浜辺の縁に沿って近づいてきた……一人は体に白い布を巻きつけた獣人で、その後ろを黒い影がついて来ていた。彼らが立ち止まって見つめる。その時、ミリングが家の角を曲って現れ、そのすぼまった肩が見えた。

「飲むぞ!」モンゴメリーが叫んだ。「飲むぞ、獣たちよ! 飲んで人間になるんだ! ちくしょう、俺は最高に冴えてるぞ。モローはこいつを忘れていたんだ。これが最後の鍵なんだ。飲むぞ!」そう言うと手にしたビンを振りながら彼は西の方に向かって小走りに駆け出した。ミリングが彼の後を追い、ちょうど彼とミリングと同じ距離だけ離れて三人の人影がその後について行った。

私は戸口まで近づいた。モンゴメリーが立ち止まった時にはもう月の光の下で彼らの姿を見分けることはできなくなっていた。彼が水で割ることもなくブランデーを一杯、ミリングに与えるのが見え、五つの影が一つの黒い塊に融け合った。

「歌うぞ!」モンゴメリーが叫ぶのが聞こえた……。「皆で一緒に歌うんだ『くそったれな老いぼれプレンディック!』いい調子だ、もう一度だ。『くそったれな老いぼれプレンディック!』」

黒い群れが五つの影に分裂し、輝く浜辺の帯に沿ってゆっくりと蛇行しながら私から離れていった。それぞれ勝手気ままに吠え声を上げ、私に対する悪態をわめいたりブランデーの酔いに任せたとめどない文句を言ったりしていた。しばらくしてモンゴメリーの叫び声が聞こえた。「方向転換!」そして叫び声や遠吠えと共に彼らは内陸の森の暗闇へと去って行った。ゆっくり、本当にゆっくり彼らは遠ざかって行き、あたりは静かになっていった。

平穏な夜の壮麗さが再び戻って来た。月はもう天頂を過ぎ、西に向かって沈んでいく所だった。雲のない空を進む月は満月でとても明るかった。足元にはインクのように真っ黒な壁の影が一ヤードほどの幅でできていた。東の海はのっぺりとした灰色で暗く神秘的に見える。海と足元の影の間の(火山性のガラスとクリスタルでできている)灰色の砂がきらきらと瞬き、まるでダイヤモンドの浜辺のようだった。背後ではパラフィンランプが明々と炎を上げていた。

私は扉を閉めると鍵をかけ、モローと彼の最後の犠牲者……あのスタッグハウンドやリャマやその他の哀れな獣たち……が一緒に横たわる囲い地へと入って行った。彼の大きな顔はその恐ろしい死の後でいくぶん穏やかになったように見えた。目は大きく見開かれ、頭上の死んだように白い月を見つめていた。私はシンクの縁に腰を下ろし、銀色の光に照らされた不気味な死体の山に目をやったまま、自分の計画について再び考えだした。朝になったらあの救命ボートに食料を積み込み、目の前の死体の山に火をつけた後でもう一度あの荒涼とした外洋へと漕ぎ出すのだ。モンゴメリーを助けることはできないだろうと私は思った。実際の所、彼は半ば獣人の同族なのだ。人間には馴染めなかったのだ。

どれだけの間、そこに座って考え込んでいたのかは憶えていない。一時間かそこらだろう。私の考え事はモンゴメリーの帰還によって中断された。たくさんの喉から上がるわめき声が聞こえ、興奮して叫んだり、吼えたりしている騒ぎ声が浜辺に向かって動いて行った。興奮したわめき声が波打ち際に来たあたりで動きを止めた。お祭り騒ぎの声は大きくなったり小さくなったりしていた。木材を放り投げたり、叩き折るような音が聞こえたがその時はあまり気にならなかった。不揃いな詠唱が始まった。

私の思考は脱出する方法を考える事へと戻って行った。立ち上がってランプを持つと以前そこで見た樽を見に倉庫へ入っていった。そこでビスケットの缶詰を見つけ、一つ開けてみた。その時、視界の端に何か……赤い姿……を捕らえ、私はすばやく振り向いた。

月の光でくっきりと黒と白に塗り分けられた背後の庭には枯れ枝と薪が積まれ、その上にはモローと彼の実験の犠牲者が折重なるように横たわっていた。まるで最後の戦いの真っ最中でお互いにつかみ合っているかのように見えた。彼の傷は大きく口を開いていて、夜の闇のように黒かった。そこから滴り落ちた血が砂地に黒い染みを作っている。その時、深く考えるまでもなく幽霊の正体はわかった……反対側の壁に投げかけられて踊り回る赤いぼんやりとした光だ。私は自分の持っているランプが揺れて反射しているのだと思い、再び倉庫に置かれた蓄えの方を向いた。片腕しか使えない人間としては可能な限り私は物色を続け、色々と役に立ちそうなものを見つけては明日の船出のためにと置いていった。動作は遅く、時間はどんどん過ぎていった。いつの間にか空が白み始めていた。

詠唱は終わって不満の叫びに変わり、それから詠唱が再び始まり、突然、わめき声が沸き起こった。「もっとだ! もっとだ!」という叫びが聞こえ、突然、獣じみた金切り声が上がった。物音の様子が大きく変わり、私の注意はそちらに向かざるを得なかった。私は庭に出て耳をすました。その時、騒音をナイフで切り裂くようにしてリボルバー拳銃の銃声が聞こえた。

私はすぐさま自分の部屋を抜けて小さな戸口へと駆けた。背後の梱包された容器がガラスのカチャカチャという音をたてながら倉庫の床を滑って互いにぶつかり合うのが聞こえた。しかしそれどころではなかった。私は扉に飛びついて開けると外を見た。

浜辺の向こうのボート小屋の近くで火が燃え上がり、薄明かりの夜明けの空に火の粉を散らしていた。その周りでは大勢の黒い影が取っ組み合っている。モンゴメリーが私の名前を呼ぶのが聞こえた。リボルバー拳銃を手に私はすぐさまその火に向かって走りだした。地面の近くでモンゴメリーのピストルから赤い閃光が放たれるのが見えた。彼は倒れていた。私は全身の力を振り絞って叫ぶと空に向けて拳銃を撃った。誰かが「主よ!」と叫ぶのが聞こえて取っ組み合っていた黒い一群がいくつかに分裂し、たき火が跳ね上げられてその火が消えた。獣人たちの群れは私の目の前で突然パニックに陥って浜辺を駆けまわった。興奮した私は茂みに隠れようと逃げまわる彼らの背中に向かって撃ちまくった。それから地面に折り重なって倒れた黒い影の所まで戻った。

モンゴメリーは仰向けに倒れていて、その上に灰色の毛で覆われた獣人が倒れ込んでいた。獣人の方は死んでいたがまだその弧を描く鉤爪でモンゴメリーの喉をつかんでいた。近くでは全く動かなくなったミリングが顔から突っ伏している。首を食いちぎられ、手には割れたブランデーのビンの首の部分を持っていた。たき火の近くで他に二人の人影が倒れていた……一人は身動きせず、もう一人はときどきうめき声を上げながら起き上がろうと頭を上げてはまた突っ伏した。

私は灰色の男をつかんで持ち上げ、モンゴメリーの体から引き剥がした。引き離すとようやくその鉤爪が裂けた皮膚から離れた。モンゴメリーはと言うとその顔はどす黒く、なんとか息をしている状態だった。私は彼の顔に海水をかけて、丸めた自分のコートを頭の下にあてがってやった。ミリングは死んでいた。火の側の怪我をした獣人……灰色のヒゲを生やした狼人間だった……を見てみるとまだ火がくすぶる材木に倒れ込んでいた。哀れなそいつの苦しみは恐ろしいものだっただろう。私は情けをかけてすぐにその頭を撃ち抜いてやった。もう一人の獣人は体に白い布を巻きつけた牛人間の一人だった。彼も死んでいた。残りの獣人は浜辺から姿を消していた。

私はモンゴメリーの所まで戻ると自分に医学の知識がないことを呪いながら彼のかたわらにひざまずいた。そばにあるたき火は消え、中央で炭になった木材だけが残った薪の灰にまみれて燻っていた。ふと私はモンゴメリーがどこから燃やすものを持ってきたのかを考えた。日が昇ってきていた。空は次第に明るくなり、頭上の月は明るい日中の青空で青白く不透明になっていった。東の空の水平線が赤く縁取られている。

突然、背後で何かが落ちてしゅーっと音をたてた。振り向いた私は恐怖の叫びと共に立ち上がった。夜明けの空を背景にしてとんでもない量の黒い煙が囲い地から上がっていた。渦巻く黒い煙の隙間で血のように赤い炎がちらちらと光った。その瞬間、草葺きの屋根に火がついた。猛烈な炎が舐めるように傾斜した藁の屋根に這い登るのが見えた。私の部屋の窓から炎が吹き出す。

何が起きたのかすぐにわかった。耳にしたあの物がぶつかり合う音のことを思い出したのだ。モンゴメリーを助けるために走りだした時にランプをひっくり返したのだ。

囲い地にある物資を運び出すことが絶望的なのは明白だった。脱出計画のことを思い出した私はすばやく振り向いてあの二艘のボートが浜辺のどこにあるのか確認しようとした。どこにも無かった! 私のそばの砂地に二つの手斧が落ちていた。あたりには木の破片が散らばっていて、たき火の灰が夜明けの空の下で黒く燻っている。私へ報復するために、私たちの人間世界への帰還を阻むためにモンゴメリーはボートを燃やしたのだ!

唐突な怒りの発作が私の体を痙攣させた。もう少しで足元に力なく横たわる彼の無思慮な頭を殴りつけてしまいそうだった。その時、とつぜんその手が動いた。その様子があまりに弱々しく痛々しかったので私の怒りは消え去ってしまった。彼がうめき声を上げて一瞬、その目を開いた。私は膝を下ろして彼の頭を起こしてやった。また彼が目を開き、夜明けを静かに見つめた。それからその目が私と合った。まぶたが閉じられる。

「すまなかった」しばらくしてから彼が力を振り絞るようにして言った。何かを必死で考えているように見えた。「お別れだ」彼がつぶやいた。「このくだらない世界ともお別れだ。この馬鹿げた……」

私は耳をすませた。彼の頭が力なく横に倒れた。何か飲ませれば息を吹き返すのではないか、と思ったが飲むものもそれを持って来るための器も無かった。突然、彼の体が重くなったように感じた。私の心臓が冷えていく。私は彼の顔に屈みこんでシャツに手を差し入れた。死んでいた。彼の死とともに水平線が白熱し、光に縁取られた太陽が入江の突端の向こうの東の空から昇った。太陽は空に輝きを放ち、暗い海をまばゆい光の洪水へと変えた。その様子はまるで死んで縮んだようになった彼の顔を祝福するかのようだった。

私は彼のために用意した間に合わせの枕の上に静かに彼の頭を下ろすと立ち上がった。目の前にはぎらぎらと輝く荒涼とした海が広がり、既に私が十分に体験して苦しんだ恐ろしい孤独があった。背後には夜明けの光の下で静まり返る島がある。住人である獣人たちは声もたてず、姿も見えなかった。囲い地はそこに蓄えられた全ての食料と武器と共に激しく燃え上がり、時たま炎を吹き上げたり火の粉を巻き上げてはその一部が崩れ落ちた。濃い煙は私から離れるように浜辺を流れ、樹冠のすぐ上を低くたなびきながら峡谷の住処の方に流れていく。かたわらにあるものは焦げたボートの残骸と五人の死体だ。

その時、茂みから三人の獣人が姿を現した。すぼまった肩、突き出た頭、ぎこちなく組まれた不恰好な手、そして詮索好きで敵意のある目。彼らはおどおどとした様子で私に向かって進んできた。


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