モロー博士の島, ハーバート・ジョージ・ウェルズ

名も無い場所に向かう男


私が目覚めた船室は狭くてずいぶんと散らかっていた。亜麻色の髪に藁のような色の髭、下唇をつきだした若い男が座って私の手首をつかんでいた。つかの間、黙ったまま私たちは互いに見つめ合った。男は湿ったグレーの瞳をしていて妙に無表情だった。その時、頭上から鉄製のベッドの枠組みを叩くような音と何か大型の動物が怒りで低くうなるような音が聞こえてきた。同時に男が喋った。彼は質問を繰り返した。「具合はどうです?」

大丈夫、と答えたはずだ。どうやってここに来たのかは思い出せなかった。発した声は自分でさえ聞こえなかったが彼は私の顔から疑問を見て取ったのだろう。

「ボートの中で餓死しかけているのを助けだされたんですよ。ボートには『レディ・ヴェイン号』と書かれていた。船縁に血の跡があったようですが」

その時になって視界に自分の手が入った。やせ細ってまるで歪んだ骨を詰め込んだ汚れた革財布のようだった。そこでボートでの出来事の全てがよみがえった。

「これを飲むといい」彼はそう言うと私に糖衣で覆われた赤いものを与えた。

血のような味がして力が湧いてくるように感じた。

「運が良かった」男が言った。「医者が乗っている船に助けだされたんですから」どこか粘つくような、舌足らずな喋り方で男は喋った。

「これはどういった船です?」ゆっくりと私は言った。久しぶりに出した声はかすれていた。

「アリカとカヤオから荷を運んでいる小さな貿易船です。一番最初はどこから来たのかは訊いたことがないですね……たぶん愚か者の土地からでしょう。私はアリカから乗って来ました。馬鹿な船主が……船長でもあるんですがね、ディビスという名です……船籍証明書やら何やらを失くしたのでね。悪名高い男だ。あなたも聞いたことがあるでしょう……『イペカクアーナ号』のこともね。全く風がない海でもお構いなく進む船だ」

(頭上の騒音が再び聞こえてきた。歯をむくようなうなり声と人の声が混じった音だ。それから黙らせるように 「このろくでなしの大馬鹿が」と言うもう一つの声が聞こえた)

「もう少しで死ぬところだったんですよ」相手が言った。「本当に危なかった。しかし私が手当てしました。腕の痛みに気づきましたか? 注射です。あなたは三十時間近く意識を失っていたんです」

頭が回らなかった(たくさんの犬の吠え声に気をとられていたのだ)。「なにか固い食べ物をいただけないですか?」私は尋ねた。

「ちょうど良かった」彼が言った。「今、羊肉を煮ているところです」

「ああ」私は自信を持って言った。「羊肉なら食べられます」

「しかし、」彼はしばしためらうようにしてから言った。「どうしてあなたが一人でボートに乗っていたのかどうしても知りたいのですがね。しかしあの吠え声はたまらん!」彼の目に何か疑念の光が宿ったように私には思えた。

突然、彼が船室を出ていったかと思うと誰かを威圧的に怒鳴る声が聞こえた。相手は何か訳のわからない言葉で彼に答えているようだ。言葉の端々に鳴き声のようなものが聞こえたが、おそらく聞き間違いだろうと私は思った。それから彼は犬たちを怒鳴りつけてから船室に戻ってきた。

「それで?」ドアの所で彼が言った。「教えてくれませんかね」

私はエドワード・プレンディックという自分の名前を教え、穏やかな独立生活の倦怠から博物学に取り組むようになったことを喋った。

それが彼の興味を惹いたようだった。「私はちょっとした科学研究をやっていましてね。大学では生物学を専攻していました……ミミズの卵巣やらカタツムリの歯舌やらを扱ってましてね。ああ! もう十年も前です。だがそれはいい! 続けましょう! あのボートのことについて教えてください」

彼はどうやら私の簡潔な話にも満足しているようだった。あまりにも私が衰弱していたためにごく簡単にしか話すことができなかったのだが。話が終わると彼はまた博物学と彼自身の生物学研究の話題に立ち戻った。彼は手始めにトッテナムコートロードとガウアーストリートについて私に細かく質問した。「カパラッツィの店カパラッツィの店:科学器具の販売店はまだ繁盛してますか? あの店ときたら!」彼が典型的な医学生だったことは明らかだった。話はいつの間にか音楽ホールのことに移り、彼は私にちょっとした小話を披露した。

「全て過ぎ去りました」彼は言った。「十年前にね。なんて楽しかったことか! しかし私も若かった……二十一歳にもなる前に遊び尽くした。今では何もかも変わってしまったでしょう。さてコックのやつを探してあなたの羊肉の具合を見てきましょう」

頭上のうなり声が再び始まった。あまりに突然で、またその声に野蛮な怒りの気配が強く感じられたので私はびっくりした。「あれは何です?」私は彼の背中に呼びかけたがドアはそのまま閉まってしまった。再び戻ってきた時、彼は煮た羊肉を手にしていた。食欲をそそるその匂いに興奮して私はさっきまで私を怯えさせていた獣のうなり声のことも忘れてしまったのだった。

もう一度眠り、食事をし、一日も経つと私もだいぶ回復し寝床を起き上がって舷窓まで行けるようになった。舷窓から覗くと緑色の海が私たちを追いかけて来るようだった。どうやらスクーナー船は追い風に乗っているようだと私は勘定をつけた。そこに立っているとモンゴメリー……それがあの亜麻色の髪の男の名前だった……がまたやって来たので私が彼に服はないかと尋ねると彼は自分用のキャンバス地の服を貸してくれた。ボートの中から着ていた自分の服はすでに海に投げ捨てられていた。彼は私より大柄で手足も長かったので服はずいぶんぶかぶかだった。彼は興味なさげに船長は四六時中、自分の船室で酒を飲んでいると教えてくれた。服を借りたついでに私は彼にこの船の目的地について聞いた。彼が言うには最終目的地はハワイだがその前に自分は下船するということだった。

「どこにです?」私は聞いた。

「ある島ですよ。私の住んでいるところです。私の知る限りでは名前はついてないですね」

彼は下唇をつきだして私を見つめた。突然、彼がわざと頭の回転が悪いふりを始めたように見えたのであまり質問されたくないらしいと思って私はそれ以上は尋ねるのをやめた。


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