モロー博士の島, ハーバート・ジョージ・ウェルズ

スクーナー船の手すりで


その晩、日の落ちた後になって島が見え始め、スクーナー船は進路を変えた。モンゴメリーはあそこが自分の目的地なのだと告げた。細かな様子を確認するには距離が遠すぎた。私に見えたのは揺れる青灰色の波間に浮かぶはっきりとしない青っぽい影に過ぎなかった。島からは空に向かって一筋の煙がまっすぐに立ち上っていた。島が見えた時には船長は甲板にはいなかった。私に対して怒りを爆発させた後でふらつきながら下へと戻っていったのだが、おそらくは自分の船室の床で眠りこけているのだろう。後のことは彼の部下がほとんど引き受けていた。操舵輪の所にいるのは痩せた寡黙な男だった。明らかに彼はモンゴメリーに敵意を抱いていて、まるで私たちがそこにいないかのような態度をとった。会話をしようという私の虚しい努力の後で陰鬱な静寂の中、私たちは彼と食事をとった。私の連れと彼の動物たちに対して男たちがとるあからさまに敵対的な態度も私を驚かせた。あの動物たちを使って何をするつもりなのかということや、彼の目的地についてモンゴメリーは何も言おうとしなかった。私は自分がその両方に対して関心を持ち始めていることに気づいたが彼に強く尋ねることはしなかった。

私たちは後甲板で空が星に覆われる時間まで話を続けた。明かりの灯った船首の見張り小屋からときどき聞こえる物音と動物たちの動きを除けばその夜は静まり返っていた。ピューマが檻の隅の薄暗がりにうずくまって光る眼で私たちを見つめていた。モンゴメリーは煙草を取り出すと、どこか辛い思い出を語るような調子でロンドンについて話し、そこがどんな風に変わってしまったのか事細かに私に尋ねた。まるでそこでの生活を心底愛していたのにある日、突然そこから無理やり放り出された人間のようだった。私は思いつく限りの話をした。その間にも彼を奇妙な人間だと思う気持ちは私の中で大きくなっていき、私は喋りながらも背後から私を照らすビナクルのランタンの薄明かりの中で彼の妙に青ざめた顔をじっと見つめていた。それから私は彼の小さな小島をその暗がりの中に隠す暗い海を見つめた。

この男はただ私の命を助けるためだけに無限に広い世界から現れたように私には思えた。明日になれば彼は元いた世界に戻り、私の世界から再び消えてしまうだろう。もしこれが日常の一こまであったとしても多少は私を物思いに耽らせたことだろう。そもそも見知らぬ孤島に教育のある男が旅の積荷であるたくさんの動物と共に住んでいることが奇妙なのだ。私は知らぬ間にあの船長の質問を繰り返していた。この動物たちを使って彼は何をするつもりなのか? またなぜ私が最初に動物たちに気づいた時に自分とは関係がないふりをしたのか? そして彼の連れだ。私に強い印象を残した彼の連れの奇妙な容姿。それらがこの男の周りに謎めいた煙のように立ち上り、私の想像をかきたてたが尋ねることははばかられた。

夜中になってロンドンの話も絶えてきた。私たちは並んでブルワークに寄りかかったまま静寂の中で星空と海を見つめながら互いに物思いに耽った。感傷的な雰囲気になり私は感謝の言葉を口にした。

「言うなれば」私は言ってからしばらく間を置いて続けた。「あなたは私の命の恩人だ」

「偶然さ」彼は答えた。「偶然そうなっただけのことです」

「私を救ってくれた方に礼がしたいのです」

「礼には及びません。あなたにはそれが必要で私にはその知識があった。注射し、食事をさせた。ちょうど標本を集めるようにね。私は退屈していて何かが起きることを望んでいたんです。もしあの日、私が疲れていたら、あるいはあなたの顔を気に入らなかったら……あなたが今ごろどこにいたかは興味ある問題ですね!」

彼の言葉は私の気持ちをいささか削いだ。「いや、とにかく、」私は言葉を続けた。

「偶然だったということですよ」彼が遮って言った。「人生で起きることは全てそうだ。それがわからないのは馬鹿者だけですよ! なぜ私が今ロンドンの歓楽を離れてこんな文明から遠い所にいるのか? 簡単なことだ。十一年前の出来事のせいです……ある霧の深い夜、ほんの十分間、私は正気を失ったんだ」

彼は言葉を止めた。「それで?」私は聞いた。

「それが全てです」

再び私たちを静寂が取り囲んだ。やがて彼は笑い出した。「この星空の下ではなぜか口が軽くなってしまう。私は馬鹿な人間ですがどういうわけかあなたに話したいことがあるんです」

「何を聞こうがもしそうする必要があるなら口外はしません。信じて下さい」

彼は話し始めようとしたが、そこで疑わしげに頭を振った。

「そうなさらなくてもいいんですよ」私は言った。「私はどちらでも構いません。もちろん秘密にしたままの方がいいですよ。私があなたとの秘密を守ったところであなたには気休めにしかなりません。もし私が秘密を守らなければ……どうなることでしょう?」

彼は決心がつかないというように低いうめき声を上げた。どうやら彼を不都合な状況に追いやり、分別の無い雰囲気の中に引きずり込んでしまったようだと私は思った。それに実を言うと私は何が若い医学生をロンドンから追い立てたのかということに関してはあまり関心が無かった。私には想像力がある。肩をすくめると私は視線を逸らした。すると船尾の手すりに黙りこくった黒い影が寄りかかって星を見ているのに気がついた。モンゴメリーのあの奇妙な連れだ。私に気づくと彼は肩越しにすばやく振り返ったがすぐにまた視線を元に戻した。

たいしたこととは思えないかも知れないが私にとっては突然殴りつけられたようなものだった。私たちの近くにある灯りと言えば操舵輪のランタンだけだった。その生き物の顔は一瞬その灯りの方を振り返って船尾の暗がりの中で照らされただけだったが私の方を向いたその瞳が緑白色の光に照らされて輝くのが確かに見えた。当時は知らなかったのだが赤い光なら稀に人間の瞳も光を放つらしい。しかし私にはそれが完全に人外の物に思えた。その燃えるような瞳を持った黒い影は私が大人になって得た思考や感情を打ち崩し、一瞬、忘れていた子供時代の恐怖が私の頭によみがえった。それからそれはよみがえった時と同じようにまた消えていったのだった。どこといって特徴のない男の無骨な黒い影が星明かりの中、船尾から突き出しているだけだ。気がつくとモンゴメリーが私に話しかけていた。

「私はもう寝ようと思うんですが」彼が言った。「もしあなたがもうお疲れだというならばですがね」

私はしどろもどろに彼に応じた。私たちは下に降り、彼は私の船室のドアの前でお休みと言って去っていった。

その夜、私はひどく不快な夢を見た。夜遅くには朧気な月が上った。そのぼんやりとした白い光が私の船室へと差し込み、寝台の側の床に不吉な影を落とす。それからあのスタッグハウンドたちが目覚め、吠えたりうなったりを始めたので私は途切れがちな夢を見ることになり、夜明け近くまでほとんど眠ることができなかった。


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