君主, ニッコロ・マキャヴェリ

おべっか使いをどのように避けるべきか


私はこの問題の重要な一分肢を省かないようにしようと思います。というのは、それは非常に注意を払い、きちんと見分けないと、君主がそれから身を守るのに困難を伴うような危険だからです。それはおべっか使い、つまり宮廷にあふれている連中についての問題だからです。なぜなら、人間というものは自分自身の諸事では自惚れが強く、ある意味、こうしたことでは欺かれやすいので、この疫病から身を守るのは難事であり、また身を守ろうとすると、侮られる危険に身をさらすことにもなるからなのです。そのわけは、おべっか使いから身を守るには、真実を告げることが君主の機嫌を損ねることにならないことを人々に理解させる以外に道はないのですが、だれもが真実を告げてもよいとなれば、君主の尊厳を貶めることになるからです。

ですから、賢明な君主は第三の道を採って、国内から賢者を選らび、彼らにだけ君主に真実を離す自由を与え、しかも君主が諮問した事柄だけで、それ以外は話させないようにすべきです。君主はなにごとも彼らに質問し、その意見に耳を傾け、その後に自分の結論を下すべきです。ばらばらであれ集団であれ、この相談役に、その一人一人が気兼ねなく話せばそれだけ好ましいということを理解するよう、君主は振舞わなければなりません。それ以外には、君主はだれの意見も聴かず、決定したことに専心して、その決定を守り通すべきです。そうしなければ、おべっか使いによって滅亡するか、さまざまな意見によってしばしば決定を変更して、軽蔑されることになるのです。

この問題について、現代の事例を一つ挙げておきましょう。現皇帝マクシミリアン[45]の事務処理役であったルカ師は、この皇帝について次のように言っています。皇帝はだれにも助言を求めなかったが、なにごとも自分の思い通りにしなかった、と。こうしたことは、皇帝が上に述べたのと反対のやり方をしたために生じたのです。というのは、この皇帝は秘密主義の人物で、自分の計画をだれにも伝えず、またそれについてだれの意見も聴きませんでした。しかし計画を実行しようとすると、事は露見して周知にものとなり、直ちに周囲から妨害され、すると皇帝は言いなりなって、その計画から方針転換するのです。こうしてその結果、ある日行ったことを次の日には取り止め、皇帝がなにを望みなにを行おうとしているのかだれも理解できず、皇帝の決断をだれもあてにできない状態になりました。

ですから、君主はいつも助言を聴くべきですが、ただそれは君主が聴きたいときに聴くのであって、他人が助言したいときであってはなりません。むしろだれにせよ、尋ねもしないのに彼に忠告しようという気を起こさせてはならないのです。しかし君主は、飽くなき探究者であるべきで、次いで、探究する事柄に関しては忍耐強い聴き手であるべきなのです。また、あれこれ考えて、真実を告げなかったことがわかれば、君主は自分が怒っていることを感じとらせなければならないのです。

また、賢明だと評判の君主は、自分の能力によるのでなくて、側近の良き助言者のおかげなのだと思う人があれば、それは明らかに間違っています。なぜなら、君主が賢明でなければ、良き助言を採ることはないというのは、外れようのない格律なのですから。しかし、たまたま、君主がその諸事を全面的にある個人に委ね、この人が非常に分別があるという場合は別です。この場合は、この人がうまく管理されるでしょうが、それは長くは続かないでしょう。なぜなら、まもなくこうした役人が君主から国を奪い取るでしょうから。

しかし経験の浅い君主が、複数の人から助言を受けても、彼はまとまった助言を得ることにはならないし、そうした助言をまとめる仕方も知らないでしょう。それぞれの相談役は自分の利害を考えるでしょうし、君主はそれらを統制する術も、そういう助言を通して理解する術も知らないでしょう。それに彼らはそれ以外の者ではありようがないのです。なぜなら、人間というものは、むりやり正直にさせられているのでなければ、君主にたいして不実であるのが常なのですから。ですから、推測するに、良き助言は、だれから得られたにしても、君主の知恵から生まれるのであって、君主の知恵が良き助言から生まれるわけではないのです。

英訳の注

[45] マクシミリアン一世。1459年生れ、1519年死去。神聖ローマ帝国の皇帝。彼は最初ボルドーのシャルルの娘マリーと結婚したが、その死後、ビアンカ・スフォルツァと結婚し、こうしてイタリアの政局に巻き込まれるようになった。


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