プロシア士官 デーヴィッド・ハーバート・ローレンス

第二章


彼は咽喉の渇きにも、徐々に慣れつつあった。雪が覆う山の頂きは、空に閃きを放ち、そのふもとの谷の、青くかすんだ浅みを、緑色を柔らかく帯びた白い凍った河が縫っている──それは、深い神秘につつまれた光景だった。だが、熱きれと渇きとが彼を朦朧とさせていた。彼は苦しみを堪えて、足元を見ながら歩いた。彼は口をききたくなかったし、誰に話しかけたくもなかった。水と雪の薄片のように、二羽の鴎が河の上をゆれていた。陽差しのなかに充ちた、緑のライ麦の芳香は、すこし胸をむかつかせる。中隊は前へ前へと、単調に、辛く持続する微睡みのように、進みつづけた。

次の、道沿いに平らに広く建っている農家までたどり着くと、飲み水を湛えた桶が兵士たちのために出されてあった。兵士たちはそのまわりに群がった。ヘルメットを外した彼等の、汗みずくの毛髪から、湯気がたちのぼった。大尉は馬の背に乗ったまま、目を凝らしていた。彼の眼は従卒の姿を求めていた。大尉の明々とした、獰悪な両眼は、ヘルメットの影に隠れ、口髭と唇と顎が陽差しにさらされ輪郭を明らかにしていた。その馬上の人影の存在に、従卒は、始終圧迫されつづけた。彼は畏れ、怯えていたわけではない。彼はまるで内腑を抜き取られたかのように、空虚を──空の貝殻のような空虚を感じていたのだ。自分は無であり、陽光の下を匍う影にすぎない、と彼は思った。大尉の存在が身際に感じられて、彼は、咽喉が渇いていたにもかかわらず、ほとんど水を口にできなかった。彼はヘルメットを脱いで濡れた髪を拭おうともしなかった。彼はできるなら、影の存在にとどまりつづけ、正気に返りたくなかった。出発の折、士官の踵のひらめきが馬の腹を打つのを、彼は眼にした──大尉の馬はゆるい駆け足で遠ざかっていき、彼はふたたび、自己を行軍の放心のなかへ沈ませていった。

だがもはや、この熱い、陽光に充ちた午前に、彼は自分を生ける存在として見出すことができなくなっていた。彼と、外のものすべてとの間に隔てができたようだった。その一方で、大尉は、なんの憚りなく、威儀を誇っている。光熱が、若い従卒の身体を射抜いた。大尉は確乎として自己の生を奢り、対して、彼の方は影のように空ろだ。ふたたび光熱が彼を衝き、意識を眩ませた。しかしそれによって、彼の心臓の鼓動は、幾らか、確かさを取り戻した。

中隊は一まわりして折り返すために、丘を登りはじめた。すその方から、農園の鐘が、木々の上を響きわたった。密に茂った草を、裸足で刈り取っていた人夫たちが、作業を離れ、丘を下っていくのが見えたが、大鎌を肩に担いで歩くその姿は、彼の目に、長く鋭い爪の煌めきが、弓なりに人夫たちの背を貫いているかのように映った。彼らは、従卒とは何のかかわりもない、夢の中の人物のようだった。彼は冥々とした夢を見ているように感じた──まわりのものすべては形をもってそこに在るのに、彼自身は、たださまよう意識にすぎず、ただ考え知覚することのできる泡沫であるかのように、感じていた。

兵士たちは重い足音を響かせ、ぎらつく丘の斜面を登っていった。段々に彼の頭は、小刻みに、揺れるともなく揺れはじめた。ときおり、世界が曇り硝子を透かして見られたように──非現実の毀れやすい影と化したかのように、彼の視界が暗くなった。彼の頭はもう、一歩毎に鋭い痛みを覚えるようになった。

風は絶え、大気には香りが濃く満ちていた。あたり一面に茂った青々とした草木は、空気を青ずんだ臭気で染め、ひどく淀ませるかのように漿液を放っている。混じりけない花蜜と蜂のように芳しい、シロツメクサも見かけた。それから、かすかにつんとくる香りが、鼻を刺す──ブナノキが近くにあるのだ。やがて奇怪な騒々しい音が耳についた、と思うと、むせるような怖るべき悪臭だ。彼らは、羊の群れと、黒い仕事着の、柄の曲がった杖を持つ羊飼いの傍を通りかかったのだ。しかしなぜ羊たちは、この灼けるような陽の下で、押し合いへし合いかたまっていられるのだろう?──彼の眼に羊飼いは映っているけれど、羊飼いには自分が見えてないのではないかという気が、彼はした。

ようやく休憩の命が出された。兵士たちは銃を叉銃に組み、そのまわりに装備を無造作に下ろして、思い思いに、丘の斜面の小さい土のつばくみの上に坐った。無駄口が交わされはじめた。兵士たちはみな、むっと熱に火照っていたが、元気だった。従卒は静かに坐って、二十キロも先きにある、大地からまっすぐに聳えている青白い山脈を、眺めた。それは山並みのあいだに青い襞を重ねて、そこからふもとへ向けて、薄ぼんやり見える河が敷きひろがり、暗い松の木の群々にかこまれた、桃灰色の砂州の上を、白とも緑色ともつかぬ水が条になって流れているのだった。その河は果てしなく伸びて、彼のいる丘の下方までも至るようだった。一マイルばかり先きには、誰かが筏を漕いでいる。いかにも言い知れぬ眺めの土地だ。もっとそばには、赤い屋根の、白い土台と点のような四角い窓をもつ、幅広の農家が、森の端の、ブナノキの茂った葉の壁に触れるように、うずくまって建っている。ライ麦とシロツメクサと、瑞々しい緑色をした小麦の植わった、細長い畠も見える。そして彼のすぐ足元、土のつばくみの裾には、暗色の沼があり、幾つものキンバイソウが、きゃしゃな茎で張りつめたように立っている。ほのかな金の粒子が、あたりにまばゆく撥け、砕け散っては、空中にただよう。彼は眠ってしまいたい想いに襲われる。

しかし不意に、彼の目前にかすむ幻の彩りのなかに、何かがひらめいた。小麦の畠のあいだを、大尉の、明るい青と緋色の、小さな形姿が、丘の平らな崖端に沿って、落ちついた速足で馬を駆けさせていた。やがて、信号旗手が大尉に近づいていった。馬に乗った大尉の姿は、尊大に、端然と動き、午前の明るさの一切を身に帯びたように、輝いて、敏捷な存在で、あたかもそれ以外のすべては繊弱な陽炎になってしまったかのようだった。朴訥に、無為に、若い従卒は坐り込んで、それを見据えていた。しかし大尉の馬が駆け足をゆるめ、こちらへ向かう険しい小道にさしかかったのを見ると、すさまじい閃光が従卒の身体と魂の上を爆ぜた。彼は坐って待ち構えた。彼の後ろ頭は、まるで残酷な熱のはためきを負って重くなったようだった。彼は何の食べ物も口にする気がなくなった。動かすたび、彼の手はかすかに顫えた。その間にも、ゆっくりと、威儀を誇って、馬の背に乗った士官は近づいてくる。従卒の魂に緊張がこもった。そして大尉が鞍の上で安意にくつろいでいるのを見ると、彼の内をまたも熱い閃光が脈打つのだった。

斜面に群がり散った、明るい青と緋色の斑々を、そして無数の暗い頭を、大尉は見やった。彼は喜びを覚えた。兵士たちに対する彼の優越が、彼を嬉しがらせるのだ。彼の自尊心は昂っていた。彼の従卒も、そうした兵士の一人として、目立たず服従している。彼はよく眺めるため、鐙を踏んでちょっと腰を浮せた。若い従卒は顔を背けて、口を噤んで坐っていた。鞍の上で大尉は晴れ晴れしさを感じた。引き締った脚をもつ、ブナの実のような茶色の毛をした、美しい彼の馬は、誇らしげに道を登って行った。大尉は兵士たちの人いきれのなかを通った──男たちの、汗の、皮革の臭いがむしむしと立ちこめていた。それは彼になじみ深い熱気だった。中尉と言葉を交わしてから、もう少し先へと登って、それから馬を降りて、坐った──まさしく、彼は今、尾をしならせる、汗の跡のついた彼の馬をそばに、支配者然として、兵士たちに臨んでいるのであり、対して、彼に見下ろされている従卒は、兵士の群れに没してもう何者でもなくなっていた。

若い従卒の心臓は、胸裡で火と燃え、彼の息づかいは低く苦しくなった。丘を見下ろしている士官のもとへ、水を湛えた二つの桶を間に持った、三人の若い兵士が、輝く緑の野を横切って、よろつきながら登って行った。樹の蔭に食卓が組まれていて、痩躯の中尉が、勿体らしくせこせこ指図していた。大尉は、少し勇気の要る行動に出るため、意識を整えていた。そうして、従卒を呼び寄せた。

命令を聞くや、若い従卒の咽喉に、ぱっと炎がこみ上げた。彼は片息でゆらりと立ち上がった。士官の下手に、彼は敬礼して立った。彼は目線を合わせなかった。が、大尉の声の震えの尖りは伝わった。

「一走り居酒屋へ行って、何か持って来い……、」と士官は命を下した。「今すぐだ!」追い立てた。

その大尉の声が耳を過ぎると同時に、従卒は、目が眩み、心臓が跳ね、暗い力が自分の身体にみなぎって来るのを感じた。しかし彼は、機械的な従順さで向きを変えると、熊さながらに、弛んだズボンが軍靴にかぶさったままに、重い駆け足で、丘を下って行った。士官は、その従卒の、自己を失ったように、夢中に駆けおりる姿を、視界から消えるまで、ずっと眺めていた。

ところがそんな風に機械的に屈従していたのは、従卒の身体の外面に過ぎなかった。彼の内部では、若々しい生命の精気のすべてが、密に凝結し、ゆっくりと核をなしはじめていたのだ。課せられた命をはたして、彼は疲れた足取りで、急いで、丘を登って行った。歩くたびに鋭い頭痛がし、知らず識らず顔を顰めていた。だが彼は胸の奥の芯のところでは、自分自身を一に、しっかりと固持し、けっして自己を細かく散らさないようにしていた。

大尉はすでに森の中へ行ってしまっていた。兵士たちの熱く、濃い息吹きのなかを、従卒は俯いて通り過ぎた。得体の知れない精気の波が、彼の内でうごめいていた。もはや大尉が彼以上に強く実在しているとは思われなかった。彼は緑の濃い森の入口に近づいた。そこで、陰日向の境に立っている馬を彼は目にした──日の光りと、葉の茂りの蔭のはためきが、馬の茶色の体躯の上をちらちら踊っていた。あたりは過日樹木が切り払われたばかりらしい、空き地になっていた。そして、眩しい陽光が傾げられているすぐそばの、緑金の葉蔭のなかに、青と桃色と、二つの人影が立っていて、その桃色の人影が少し輪郭を露にした。大尉が、中尉に向けて話しているのだった。

従卒は、空き地の縁に──皮をはがれ、むき出しに輝いている巨きな樹の幹が、まるで手肢を伸ばした、褐色の肌をした裸身のように、幾つも倒れている、明々とした空き地の縁に、立っていた。踏みしだかれた地面には、木の屑が、こぼれ落ちた光りのように散っていて、そこここに生えた木の切り株は、生のままの平らな断面を見せている。向こう側、日に照らされて煌めくのは、ブナノキの緑だ。

「では、俺は馬で先へ向かうことにしよう、」という大尉の声を、従卒は耳にした。中尉は敬礼して、大股に去って行った。従卒は、意を決して進み出た。重い足取りで士官に近づいていくあいだに、熱い閃光が彼の腹で発火した。

よろよろと迫ってくる、若い従卒の鬱勃とした姿を見ると、同じく、大尉の脈管にも火がめぐった。二人は直に向き合おうとしているのだ。大尉は従卒の、頸を屈曲させ、ゆらめいている頑強な姿を前にして、圧迫を感じた。従卒は身をかがめて、切り株の水平な断面に食べ物を置いた。従卒の、赫灼とした昂りを秘めているような、その裸の手から、大尉は目を離さなかった。彼は話しかけようとしたが、言葉が口に出なかった。従卒は腿で瓶を支えて、コルクを引き抜き、ジョッキにビールを注いだ。やはり彼は頸を屈曲させていた。大尉はジョッキを受け取った。

「今日は暑いな!」と、大尉は親しげに語りかけた。

炎が従卒の心臓で弾け、熱い鋭気が外へ溢れそうになった。

「はっ。」彼は、奥歯をかたく噛んだまま、応えた。

大尉が咽喉を鳴らしてビールを飲む、その音を聞いていると、従卒の腕首に恐ろしい衝迫がこみ上げ、彼は固くこぶしを握りしめた。ジョッキの蓋を閉める、かすかな高い音が立った。彼はふっと目を上げた。大尉が彼を見つめていた。従卒はすぐに目を反らした。それから大尉は、切り株の上のパンを手に取ろうと、身をかがめた──それが彼の目に入った。傍らにかがむ、強ばった肉体を見下ろすうちに、またも、従卒の内を炎が爆ぜ、彼の手は引き攣りふるえた。彼は顔を横へ向け変えた。彼にも、士官がどこかぎくぎくしているのが伝わった。ちぎろうとして、士官はパンを落とした。士官は別の一切れを手にした。静止した、今にもひび割れそうな張りつめた空気のなかに、二人はいた──上官は苦慮しながらパンを噛みこなしていて、部下は、こぶしを握りしめ、顔を背けつつも目をそばだてている。

不意に若い従卒はびくっとした。士官はふたたびジョッキの蓋を開けていた。その蓋と、そして白い手がジョッキの柄を掴むのを、従卒は惹き付けられるように見た。ジョッキが持ち上げられる。従卒の眼がその動きを追う。そして彼の凝らした眼に、士官の、細い、屈強な咽喉がビールを飲むにつれ上下に動き、その頑丈な顎が次第に傾くのが、映った。と、思うと、不意に、前触れなく、彼の腕首に込められていた衝迫が解き放たれた。従卒は、おぞましい炎に自分が焼き切られたように感じながら、飛びかかった。

靴の踵が根に引っ掛かった。士官は、身体の重みで倒れ、いきおい背の中心を切り株の鋭い縁に激しく打ちつけた。ジョッキが吹っ飛ぶ。すかさず、下唇を噛んだ、必死な、おそろしく真剣な顔で、従卒が、士官の胸を膝で抑え、相手の顎をそらし、角張った切り株の縁を梃子にして圧し曲げた──圧すと同時に、彼の心はくまなく安堵に覆われ、彼の腕首の緊張は、快さにえも言えぬほど高まった。手のひらの付け根をあて、彼は渾身の力をこめて士官の顎を押し込んだ。以前から髭でざらざらと荒れていた、士官の顎に、こうして手を触れていることは、彼には爽快だった。彼は一毫も力をゆるめなかったが、士官の顎を突くたび、彼の血漿に充ちた気力すべてが歓喜し、彼は、相手の頸をさらに圧し曲げ、「ごりっ」という細い音と、骨の砕ける手応えがくるまで押し込みつづけた。ついには彼は、自分の意識が蒸散してゆらめくように感じた。突然、弾けるように士官の身体がふるえて、若い従卒を驚かせ、冷やっとさせた。しかしそれを息絶えさせるのも、彼には喜びだった。手のひらで相手の顎を圧しつづけ、自分の頑強な若々しい膝の重みで、息根がつぶれるまで相手の胸を抑えているのだと感じ、そしてまた、ねじ伏せられた士官の身体がおそろしく痙攣して、のしかかる自分の重みに抵抗するのを感じるのは──彼には快かった。

しかしやがて、大尉の身体は静まった。従卒は相手の眼をおそるおそる避けて、鼻孔をのぞきこむようにした。いかにも異様に、大尉の口は突き出されて、唇は浮腫んだように膨らみ、その上を、口髭が逆立っている。彼は不意にぎくりとした──徐々に鼻孔に濃い血の波が充ちてきたのに気づいたのだ。その赤い波は、縁まで達してから、一時張りつめてふるえ、あふれ出し、それから細い滴りになって顔を眼の凹みへと伝った。

それを見て彼は動揺し、痛ましく思った。ゆらゆらと立ち上がった。大尉の萎えた身体は、鈍く痙攣し、四肢を醜く投げ出していた。黙りこくって彼はそれを見下ろした。「それ」がこんな風に壊れくだけてしまったことに、彼は哀しさを感じた。今やそれは、かつて彼を足蹴にし、酷く苛めた存在というより以上の何かを表わしていた。彼は死体の眼を見るのに勇気がいった。それは醜怪に、ただ白目だけが見え、垂れた血に沈んでいた。恐怖で従卒の顔の色は引いた。だが、それは表情だけのことにすぎなかった。心の内では、従卒は満足を感じていたのだ。もとより従卒は大尉の面差しを嫌っていた。今やそれは空ろな死顔にすぎない。従卒の魂に深い安堵が充ちて来た。この顛末は起るべくして起ったものなのだ。だが、軍服につつまれた身体が、細い指をよじらせ、打ち砕かれて切り株の上に横たわっているのを、彼は永く眺めてはいられなかった。どこかへ隠してしまわなければ──。

すばやく、忙しげに、従卒は死屍を抱きかかえ、切り倒されて丸太の上に両端を乗せた、長々と美しい、なめらかな木の幹がつくる陰へ、それを押しやった。死体の顔はおぞましく血に塗れていた。彼はヘルメットでそれを覆い隠した。それから、見苦しくないよう、よじれた手肢を伸ばしてやり、綺麗な軍服にかかった落ち葉を払ってやった。それで死屍は、樹の蔭のまったき静けさにつつまれた。大尉の胸の上へ、丸太の裂け目から、空の光りが僅かにさしていた。従卒はその傍にしばらく坐り込んだ。こうして、彼のものである生もまた終わりを告げたのだった。

やがて、彼のかすみがかった意識に、中尉の大声が響いて来た──森の外で、中尉が、丘のふもとの河にかかった橋が敵に占拠されたという、仮定の状況を、兵士たちに説明しているのだった。これから彼らは、かくかくしかじかの隊形で橋へと進撃しなければならぬ、云々。だが中尉の説明はいかにも不味かった。習慣から耳を傾けていたが、従卒の意識は濁ってきた。中尉がもう一度すべてを説明し直しはじめると、彼は耳を閉ざした。

いつまでもそこにとどまっているわけにはいかなかった。彼は立ち上がった。すると、木々の葉が太陽に煌めき、地面の木の破片に白々と光りが反映しているのが、彼を驚かせた。彼にとってもう世界は別様に変じてしまった、にもかかわらず、彼以外のすべてにとってはそうではない──万事それまでどおりだった。世界から立ち去ったのは、彼ひとりなのだ。そしてもう戻ることは出来なかった。ビール・ジョッキと瓶を片付けて中隊へ引き返すのが、当然の彼の務めだった。が、彼には出来なかった。彼はそうしたもの一切から自分を切り離したのだ。中尉はしわがれた声で、いまだ説明をつづけている。彼は去らねばならない、さもなければ、向うからいずれやって来る。そして今の彼は、いかなる類いの触れ合いにも堪えられない。

指で眼を拭って、彼は自分がどこにいるのか把握しようとした。それから向きを定めて歩き去った。小道にたたずんでいる馬が目に入った。彼はそれによじのぼり、またがった。鞍の上に腰をおろすのに、彼は苦痛をおぼえた。その苦痛は馬に乗ってゆるやかに森を駆けていくあいだ、ずっと彼を苛んだ。そして、なにもかもが漫然と意識を流れていったが、自分が外のものから隔てられてしまったという感覚は、彼を去らなかった。小道は森の外へ通じていた。森と外との境で彼は手綱を引き、馬を止めて見渡した。広漠とした陽差しを受けた山間を、兵士たちの小さい群れが動いていた。ときおり、畝をまぐわでならしている男が、あたりをうろついている牛に向って怒鳴るのが聞えた。村と、白い尖塔を持つ教会は、陽光におし伏されて小さく見える。そして、彼はもうその世界に属してはいないのだった──もはやそれらの及ばない、暗闇の彼方へ逃れて行った者のように、彼は、そこに居る。来たり巡る日々の生から、未知の世界へと、彼は立ち去ったのであり、もう戻ることは出来ず、また、戻りたいという気持も彼にはなかった。

陽光の燃え立つ山間に背を向け、彼は森の奥処へと馬を駆った。灰色に、身じろぎせずに立っている人間に似た木々の幹は、通り過ぎていく彼に何の表情も見せない。光りと蔭の飛び火のような牝鹿が、斑らに散った蔭のなかを、駆け抜けていた。葉の茂りは、緑の裂け目のように輝いている。それからあたりが松林に変わると、冷え冷えと暗さが増した。そのうちに、彼は苦痛で弱ってきた──頭に堪え難い苦しみが脈打ち、彼の気力は失われてきた。今までに彼はこんな苦痛を経験したことなどなかった。彼は自分の意識と感覚を領しているものを、不可解に思い、途方に暮れはじめた。

馬からおりようとして、痛みと、身体のぐらつきに驚き、彼は落馬した。馬は不安げに身をゆすった。彼は手綱をぐいと引き、馬を、彼を離れて駆けさせてやった。そしてそれは、彼を措いた世界との、最後のつながりが断たれたことを意味した。

彼はただ、身体を横たえ、何からも煩わされないことだけを欲していた。木々の間をよろぼい歩き、彼はようやく、静かな場所──ブナノキと松の木が生えている斜面に出た。たちまち彼は横になって瞼を閉じ、意識が彼の意志をはなれ、乱れていくままに任せた。まるで地上全体に響き伝わるかのように、吐き気の激しい脈動が彼の内で打った。熱が鬱積して、彼の身体は灼けるようだった。しかしそれらを意識できないほどに、彼は、錯綜する想いの切れぎれな流れに、掻き裂くような朦朧に、追われていた。


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©2006 稲富裕介. この版権表示を残す限りにおいてこの翻訳は商業利用を含む複製、再配布が自由に認められる。プロジェクト杉田玄白 (http://www.genpaku.org/) 正式参加作品。