プロシア士官 デーヴィッド・ハーバート・ローレンス

第三章


不意打ちのように、彼の目は醒めた。口の中はからからに渇いてこわばり、心臓は大きく脈打っていたが、彼には、起き上がる力がないようだった。動悸が烈しい。自分は何処にいるのか?──兵舎だろうか──自分の家だろうか? なにかこつこつと叩く音がする。どうにかあたりを見回してみた──木々があり、青葉の茂りが入り乱れて、ほの赤く輝く陽の光りのひらめきが地面に注がれている。彼は、信じがたいものを眺めているような気がし、自分の気は確かなのかどうか、いぶかしんだ。何かがこつこつという音を立てている。彼は意識を一つに凝らそうと努めてみる、が、また後戻りしてしまう。もう一度意識を集めてみる──すると、徐々に四囲の動きが彼とのつながりをはっきりさせてくる。とたんに、激しい恐怖の痺れが心臓を衝いた。何かがこつこつという音を立てている。上向いた彼に、黒々とつみ重なったぼろ布のようなモミの木が見えた。やがて、すべてが瞑眩に沈んでしまった。しかし彼が眼を閉じたのではないはずだった──事実、彼は眼をつむってはいない。冥暗からふたたびゆっくりと視界が輪郭をあらわにしてきた。やはりなにかこつこつと叩く音がする。するととっさに、彼が憎んでいた大尉の、血に塗れて醜怪な顔が目に浮んだ。恐怖に彼は身をじっと強ばらせた。しかし、大尉の死は起るべくして起ったものにすぎず、必然の成り行きだったことを、彼の内奥では理解していた。だが身体の戦きはおさまらなかった。なにかがこつこつと音を立てている。彼は恐怖にひたって、死んだように静かに横たわっていた。そして彼の意識はとりとめがなくなっていく。

ふたたび彼が目を開いたとき、木の幹をなにかがそろそろと機敏に登っていくのが目に入り、彼ははっとした。小鳥だった。彼の頭上で鳥がさえずっている。こつ、こつ、こつ、──小さくて敏捷な鳥が、まるで頭を可愛らしい円い金槌みたいにして、嘴で木の幹を軽くたたいている。彼はそれを物珍しげに眺めた。忍ぶような足取りで、小鳥は不意に場所を移った。それから、鼠のように、むき出しになった木の幹をすべり降りた。そのはしこい歩み振りが、ふと、厭嫌の念を、彼の内にひらめかせた。彼は頭をもたげた。ひどく重たるい感じだった。それから、小鳥は蔭から駈け出て、陽の光りの静かな斑らを横切って行った──その小さい頭は敏捷に跳ね、束の間その白い脚が鋭く煌めいた。その姿形はとても端正で、翼に白の断片を乗せていながら素朴だ。一羽だけでなく、小鳥は数羽いた。たいそう可愛らしかったが、彼等は、すばしっこくて無作法な鼠のように、どんぐりの上を、あちらへこちらへ、こそこそ歩いていた。

彼はくたびれてふたたび横になり、意識が沈みこんでいくにまかせた。彼はこそこそ歩き回る小鳥たちに、嫌悪を感じた。頭のなかをすべての血が疾駆し、這い回るようだった。なおも彼は起き上がることができなかった。

疲労から来る、さらにひどい鈍い痛みで、彼は正気づいた。頭に苦痛がこもり、吐き気がし、身体を動かす力もなかった。こんな病熱は、彼は生まれてこのかた経験したことがない。ここは何処で、自分が何者なのさえ、彼には定かでなくなっていた。おそらくは、自分は今熱射病にかかっているのだろう。それから他には?──そうだ、自分は大尉を殺してしまった──しばらく前に──いや、ずいぶん前のことだ。大尉の顔には血が垂れ、眼は裏返っていた。まあ、それはそれでいい。そのことは彼に平穏を与えたのだから。しかし今、彼は、どこかへ投げ出されてしまっている。今までおよそ足を踏み入れたことのなかったところに、自分は来てしまっている。これは生であるのか、それとも生ではないのか? 彼は今たった独りきりだ。他の者たちはみな広々とした、明々と輝く場所にいて、自分はその外にいる。町を含む、その土地のすべては、広々とした光り輝く場所で、──彼はその外、今ここに、おのおのが孤独に隔てられてしまう、法外な闇の世界にいる。しかし他の者たちも、いずれはその明々とした世界を出て、この闇の世界へやって来なければならないのだろう。他の者たちはみな、彼に置き去りにされて、遠く小さくみえる。──かつて彼には父や母、そして恋人がいた。だがそれが一体なんだろう? 彼は今やこの彼方の土地にいるのだ。

彼は体を起した。なにかが小競り合っているような騒ぎが聞える。それは小さな茶色のりすだ。りすが、地面を、可愛らしく起き伏しながら跳ねて走っていて、その赤い尻尾は、体の起き伏しにつれて、流れるように靡く──と、思うと、りすはぴんと立って、尾が巻いたり伸ばされたりする。彼はそれを眺めて楽しくなった。ふたたび、りすは、愉快そうに、じゃれるように走り出す。一方がもう一匹にみだりに飛びかっては、ちょっと怒っているような騒々しさで、互いに追いかけまわっている。兵士はりすに話しかけたくなった。しかし、咽喉から出たのはしわがれた声音だけだった。りすは弾けるように逃げて──木の上に駆け上がってしまった。そのうちの一匹が、木の幹のなかばで彼に向き直り、じっと見下ろしているのが、彼の眼に映った。すると突然、彼は戦慄を覚えた──みずからりすを見て楽しんでいたにもかかわらず。りすは尚もとどまっていて、その小さい、敏感な顔は、木の幹をなかば登ったところから彼を見つめつづけ、その小さい鋭い耳は逆立ち、その爪のある小さな手は、樹皮にとりつき、白い胸はふくらんでいる。彼は弾かれるように怯え、恐慌におちいった。

脚に力を込めて、彼はなんとかその場をよろめき離れた。彼は歩いて、さらに歩き続け、何かを探し求めた──何か飲む物を。彼の脳は暑さに参り、焦がれるように水を求めていた。彼はつまずきながらも歩きつづけた。そのうち、彼は何事も感じられなくなってきた。歩くにつれ、彼の意識は遠のいた。それでもなお彼は、口を開いたまま、よろめき歩いた。

そしてふたたび、彼が眼を見開いて世界を眺めたときには、もの言えぬ驚きで、もはや彼は、その光景が何であるかを考えようとはしなかった。燦然とした緑金の色彩の背後に、濃密な金色の光りがあり、そして切り立つような灰紫の条がならび、その奥には冥色がおりて、彼をとりまくように、より深く、濃さを増していく。──ついにどこかに辿り着いたのかという意識が、彼にきざした。彼は今現実のただなかに、現実の深淵にいるのだ。しかし灼けつくような渇きはまだ彼の脳裏をめぐっていた。やや身体が軽くなったようにも感じられる。なにか新しいものが開けつつあるのだと、彼は考えようとした。大気は稲妻にとどろいている。彼は自分の足取りがふしぎなほど機敏になり、充たされる喜びへ向けて、真直ぐに進んでいるように感じた──果たして彼は、水のある場所へでも向っているのだろうか?

それから突然、彼は恐怖に立ちすくんだ。いっせいに燃え立つ黄金の輝きが、途方もなく、眼の前に広がった──ただ幾つかの縞のような暗い樹幹が彼を隔てているだけの間近に。あたり一面、瑞々しい小麦の平原が、その柔らかな緑の上に、磨かれた純金のまばゆさを放っているのだった。丈の長いスカートを穿いた、黒い布を頭飾りに巻いた娘が、あたかも影の人型のように、緑の小麦のあいだを、漲る光りを浴びながら通り過ぎていく。農家も見える──薄青い影と立ち木の黒の色調だ。金のさざなみに溶け去ってしまいそうな、教会の尖塔も見える。娘はさらに移ろい、彼から遠ざかっていく。彼はその娘と通じ合えるどんな言葉も持っていなかった。彼女はまばゆい、一個の非現実の存在だった。彼女の発する言葉の響きは彼を当惑させるだけだろうし、彼女の眼は彼の姿を映すことなく彼を見つめることができるだろう。彼女は右から左へと横切っていく。彼は木にもたれてただ立ち尽くしていた。

ようやく彼がその光景に背をむけ、振り返ると、眼前には草のまばらな林が下って広がっていて、その樹下の平らな地面には、もう夕闇がただよい、そしてさほど遠くないところに、ふしぎな光りにつつまれた山並みが、輝きに充ちて見えた。手前にある山の、柔らかな灰色の尾根の奥には、さらに山々が、金色に、蒼然とそびえ、まるで純粋で細やかな黄金のように深雪が発光していた。山々は、空に微光をゆらめかせ、ただ一に空の光りの鉱石から織りなされたように、沈黙して輝いている。彼はその光りを顔に受けながら、立ち止まって山々を眺めていた。そして、黄金の光沢をもって輝く雪に呼応するように、渇きが、彼の内で冴えた。彼は木にもたれかかり、立ったまま凝視していた。それからなにもかもが虚空へ滑り去っていった。

夜どおし、雷光が絶え間なくひらめき、空一面を白く照らしていた。いつしか彼はまた歩き出していた。落雷に、世界は、彼の周囲で青黒く冴え、野原は水平に薄緑の光りにさざめき、木々は暗い巨体のようになり、黒々した雲のつらなりが白い空を横切る。しばらくすると鎧戸のように闇がおりて、すべてが夜に沈む。幽かにはためく世界の断片は、もう暗闇から現れ出ることはない──と、思うと、地面を、青白い流れがさっとかすめ、暗い物影が浮び上がり、頭の上を雲のつらなりが渡っている。世界はもはや、不断にすべてを満たし尽くしてしまう純粋な闇の上に、束の間投げかけられる、幽冥の影にすぎない。

吐き気と病熱はまだ彼のうちで入り乱れていた──彼の脳裏は周囲の夜の闇のように明滅し──そしてときおり、木の陰から何か巨きな眼に見据えられているように感じて、寒気立ち──永い行軍の苦痛を思い起こし──彼の血を爛れさせた太陽の熱を想い──或いは、大尉への激しい憎悪が胸を刺しては、安堵と憐れみの痛みが生ずるのだった。あらゆるものがいびつになり、痛苦から生まれては痛苦へと還っていくようだった。

朝になると、彼は、はっきりと目を醒した。とたんに、彼の頭は咽喉の渇きを怖れる気持に灼きつくされた。彼の顔は陽光を浴びて、露に濡れた服は湯気に烟っていた。彼はなにごとも考える間もなく、立ち上がった。彼の真正面に、明け方の空の薄青い縁に沿って、青々と、冷涼に、優しげに、山脈が連なり横たわっていた。すると、その山々を、ただそれだけを渇望する想いが、彼に生まれた──彼は自身を離れて、その山々と一つになりたいと思った。山々は身動きすることなく、沈黙して和らぎ、白い、穏やかな雪の光輪を持っている。彼はじっと立ち尽くし、狂わしい苦痛を堪え、手を固く震わせては握りしめていた。それから突然、発作に襲われ、草の上に身をひねって倒れた。

彼は夢に魘されるように、もの言わず身を横たえていた。そのうちに、彼の咽喉の渇きそれだけが、彼から離れ去り、一つの欲求のように独立の存在になった。つづいて、彼の感じていた苦痛も、一つの孤立した存在になった。また、彼の肉体に支えていた錘りのようなものも、彼から切り離された。彼はあらゆる類いのものに自身が分断されていくように感じた。そのとりどりの孤立した存在のあいだには、なにかしら奇怪な、痛いような繋がりがほのかにあったが、しかし、すべては互いに、遠くへ、遠くへ離れさっていく。そしていずれ一切が散り散りになるのだろう。彼を真下りにつらぬく太陽の礫が、その結びつきをも焼き切る。そうして何もかもが手放され、落ちしきり、永遠に推移する空間をくぐって落ちていく。──と、そのとき、彼の意識がふたたび力を取り戻した。彼は肘で体を起して、ゆらめき光る山脈を、見つめた。それらはまったき静けさと驚くべき姿で、天空と地上との境に連なり浮んでいる。彼は、眼が暗むまでずっと、それらを見つめつづけた──完璧に清く冷たく、美しさを帯びて聳えている山並みは、あたかも彼の内で失われたものを所有しているかのようだった。


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