ジキルとハイド, ロバート・ルイス・スティーヴンソン

最後の晩


アターソンが夕食後に暖炉の側にすわっていると、驚いたことにプールが訪ねてきた。

「どうしたんだ、プール、何があったんだ?」アターソンは叫んだ。それから再びプールをみて、「何か困ったことがあったのかい?」そしてつけ加えた。「博士の調子が悪いのか?」

「アターソンさん」プールは言った。「何かおかしなことが起きているんです」

「まあ、まず腰かけて、それからワインを一杯どうだい」弁護士は言った。「さぁ、落ち着いて、私に言いたいことをはっきり説明してくれ」

「博士の習慣はご存知ですよね」プールは答えた。「そして一人でひきこもっていることも。そうです、書斎にすっかりひきこもってしまったんです。私には気に入りません。まああれを気に入れっていうんなら、死んだ方がましなくらいです。アターソンさん、心配なんです」

「さぁ、さぁ」弁護士は言った。「はっきり頼むよ。何が心配なんだい?」

「一週間ものあいだ、心配のし通しです」プールは、聞かれたことには全くふれずに答えた。「もう耐えられません」

プールの様子からは、まったく言葉通りであることがうかがえた。物腰は不安でたまらないと言った様子だったし、始めに恐怖を口にしたとき以外は、一度も弁護士の顔を見なかった。今でさえ、ひざにまったく口をつけていないワインをのせて座り、視線の先は床の隅といった具合だった。「もう耐えられません」とプールはくりかえした。

「さぁ」弁護士は言った。「しかるべき理由があるんだろう、プール。何かとんでもないことがあるんじゃないかと私は思うんだが。さぁ、何があったか言ってごらん」

「私は、殺人があったのではないかと思うんです」プールはかすれた声で言った。

「殺人だって!」弁護士はひどく驚いて、どちらかというとしまいにはむっとして叫んだ。「どんな殺人なんだ? 博士とどういう関係があるんだ?」

「私の口からは言えません」というのが答えだった。「どうか私と一緒にきて、ご自身の目で見てもらえないでしょうか?」

アターソン氏の答えはといえば、立ち上がって帽子とコートを手にとることだった。ただアターソン氏は執事の顔に浮かんだ安堵と、ワイングラスを置いたときに少しも口をつけていないのを見て、いよいよ驚いたくらいだった。

三月らしい風が強い寒い夜で、月が青白く、風に押されて傾いているかのようだった。そして透明でカーテン生地のような雲がちぎれちぎれに飛んでいた。風のせいで、話もできず、顔にまだらができるくらいだった。その上、風が吹き飛ばしたようで、いつになく道には通行人もいなかった。アターソンはロンドンのこの地域がこれほどさびれているのを見たことがなく、人がたくさんいればなぁと思ったほどだった。生まれてこの方、こんなにはっきり誰か他の人を見てふれたいと思ったことはないほどだった。いくらもがいても、惨事がおきるという予感を心からふりはらうことができなかった。その場所についたときも、風がふきあれ、埃がまっていた。そして庭のひょろひょろとした木々が風にあおられ、柵に打ちつけられていた。プールは一、二歩前をあるいていたが、道の真ん中で立ち止まり、これほど寒いのに、帽子をとって赤いハンカチで汗をぬぐっていた。急ぐには急いできたが、そのぬぐった汗は急いだからというよりは、何かに苦しんで流した汗というべきものだった。プールの顔は青ざめていて、話したときの声はかすれ割れていた。

「さて」プールは言った。「ここまできましたが、どうか何事もないように」

「アーメン」と弁護士も言った。

そして執事が、音をひびかせないようにノックをした。鎖がついたままドアがひらき、中からたずねる声がした。「プールか?」

「その通りだ」プールは答えた。「ドアを開けてくれ」中に入ると、広間は明るく、暖炉には火がおこされていた。そして暖炉のあたりに、全ての召使が男も女も、まるで羊の群れみたいに集まって立ちすくんでいた。アターソン氏を見ると、あるメイドはヒステリックに泣き叫ぶし、コックは大声で「おぉ、神よ。アターソン氏だ」と叫び、両腕でだきしめようとばかりに駆け寄る始末だった。

「どうしたんだ、どうしたんだ? みんなここにいるのか?」弁護士は腹をたてたように言った。「だらしないし、みっともないぞ。君たちの主人がみたら、喜ばんだろうな」

「みんな怖がっているんです」プールが言った。

沈黙がその場を支配し、だれもそれに異議を唱えなかった。メイドだけが叫び声をあげ、大声で泣き始めた。

「静かにしろ」とプールはメイドにどなりつけ、その乱暴な調子は自身もいらいらしている証拠だった。現にメイドが突然嘆きの声をあげたときには、みんなおどろき恐ろしいことが起きるのではないかという顔で奥のドアを見つめたのだった。「それで」執事は、ナイフとぎの少年に命令するようにこう続けた。「ろうそくをもってこい、すぐにこいつを片付けてやる」それからアターソン氏に一緒についてくるように頼むと、裏庭へと先導していった。

「さて、」プールは言った。「できるだけお静かに願います。耳をすませて、それからわれわれの足音が聞こえないように願います。もしなんらかの事情で中に入るように言われても、決して入ってはいけません」

アターソン氏は思わぬことのなりゆきに、体のバランスをくずして転びそうになった。でも再び勇気を奮い起こすと、執事の後を追って、研究室の建物に入り、箱やビンがちらかった外科教室をぬけて、階段の下へとやってきた。そこでプールは手振りで、片側によって耳をすませているようにと合図した。そして自身はろうそくを置き、勇気をせいいっぱいふりしぼると、階段をのぼり、赤い羅紗の書斎のドアを片手でノックした。

「アターソンさんがお目にかかりたいということですが」とプールは声をかけた。そしてそうしているときに、もう一回大きな身振りで耳をすますように合図をした。

中から声が聞こえてきた。「誰にも会いたくないと言ってくれ」と不平そうな声だった。

「すみません」とプールは言ったが、その声にはどこかやったぞという響きがあった。そしてろうそくを再び取り上げ、アターソン氏を伴って庭をもどると、大きな食堂に入った。そこでは暖炉に火はなく、虫が床をはいまわっていた。

「どうです」プールは、アターソン氏の目を見ていった。「あれが私の主人の声でしょうか?」

「だいぶ変わったようだな」弁護士は、青ざめた顔でそれでも相手の目を見返して、答えた。

「変わったですって? そうです、変わったんです」執事は言った。「この家に二十年はお世話になっていますが、私が主人の声を聞きそこなうとでも? いいえ、ご主人さまは連れ去られたんです。八日前に連れ去られたんでしょう。その日、私はご主人さまが神の名を呼ぶのを聞いたんですから。あそこにいるのは、ご主人さまの身代わりで、なぜそこにいるのか、天にでも聞かなきゃなりますまい、アターソンさん!」

「なんともおかしな話だね、プール。とっぴな話といってもいい」アターソンは、つめをかみながら答えた。「おまえが思っているようなことだと仮定してみよう、ジキル博士が、そうだ、殺されたとしてみよう、どうして殺人犯がそこにとどまっているんだい? それでは筋が通らないよ。納得できないな」

「あぁ、アターソンさま、あなたはやっかいな方ですね。でも説明しますよ」とプールは言った。「先週中は(あなたも知ってらっしゃいますが)、やつ、もしくはそれ、まぁとにかく何であれ書斎で生活しているやつが昼夜かまわず、ある薬品をもとめて叫びつづけていたんです、ところが気に入るものが手に入らない。たしかにそれは、ときどき主人もやったやり方なんですが、つまり、注文を紙に書いて階段のところに置いておくんです。この一週間というもの、そればっかりです。紙だけ、そしてドアは締め切りで、食事さえそこに置いておくと、誰も見ていないときにこっそりと引き込むといった具合です。えぇ、毎日で、あぁ、一日に二回も三回もです。注文と文句ばかり。それで街の薬の卸しに飛んでいきます。ものを買ってくると、次の紙があって、純度が悪いだから返せといわれる。そして別の店への次の注文です。この薬が何としても必要ということらしいです」

「その紙をもっているかい?」アターソン氏は尋ねた。

プールはポケットをさぐると、くしゃくしゃになった紙を取り出した。弁護士はろうそくを近づけると、注意深くそれを調べた。その内容はこうだった。「ジキル博士よりモー商会へ。前回のサンプルは純度が悪いもので、こちらの目的にはそぐいません。一八XX年にジキル博士がモー商会より大量の買い付けをしています。どうか細心の注意をはらって、その同じ物の残りをさがして、すぐにジキル博士のところまで届けてください。代金は気にしなくてかまいません。ジキル博士がどれほどその薬を必要としているかは、説明のしようがないほどです」手紙はここまでは抑制がきいたものだったが、ここから感情がほとばしるのを押さえられなかったらしく、とつぜん筆がみだれていた。「どうか、」と続けていた。「元のと同じ物を見つけてください」

「奇妙なメモだな」アターソン氏は言った。それからするどく、「どうしてこれが開封されているんだ?」と問いつめた。

「モー商会のものがかんかんに怒って、こんなにくしゃくしゃにしてつっかえしてきたんです」プールは答えた。

「ただこれは疑いなく博士の筆跡だね、そうだろう?」ふたたび弁護士は質問した。

「そうだと思いますが」執事はかなりむっとして答えた。それから声の調子をかえて、「筆跡がなんだっていうんです」とつづけた。「私はやつを見たんです!」

「やつを見たって?」アターソン氏は繰り返した。「本当かい?」

「その通りです!」プールは答えた。「こういう具合です。私がとつぜん庭から教室に入ったことがありました。やつは薬かなんかを探しに部屋の外に出ていたんでしょう。書斎のドアも開いていました。そして部屋の向こう側で箱をひっくりかえしていたんです。私が入って行くと、やつは顔を上げて、悲鳴みたいな声を出したかと思うと、階上の部屋へ飛び込んだんですから。やつを見たのは一分やそこらだったでしょう。でも私の髪は逆立ちました。もしそれが私の主人だったら、どうして覆面なんてしなきゃならないんでしょう? もし私の主人だったら、どうしてあんなネズミみたいな叫び声をあげて、私から逃げなきゃならんのです? 私はずっとご主人さまに仕えてきたんです。それに……」執事は一息おくと、手で顔をなでた。

「奇妙な状況だな」アターソン氏は言った。「ただ分かってきたような気がするぞ。おまえの主人は、プール、たぶん苦痛のあまり人相までかわるような病気にかかっているんだよ。だから、たぶん、声も変わったし、覆面をしたり、友達を避けたりしているわけだ。薬をやっきになって探してるのもそうだ。薬で完治する希望を捨ててないんだよ、なんとかして願いがかなえばいいんだが! これが私の解釈だ。ひどいことだ、プール、まったく、考えるだけでぞっとするよ。でもこれではっきりしたし、当たり前のことでもある。つじつまもあうじゃないか。いろんな恐ろしい不安からも解放されるってもんだよ」

「アターソンさま」執事は、まだ青白い顔をして言った。「やつは、私のご主人さまではありません、それは確かです。私の主人は、」とここであたりを見回して、声をひそめた。「背が高くて、がっちりした体格ですが、やつはずっと小さいんですから」アターソンはさえぎろうとしたが、「アターソンさま」とプールが叫んだ。「私が二十年もお仕えしたご主人さまを見まちがえるとでもお考えですか? 毎朝ご主人さまを見ていたのにも関わらず、私が書斎のドアのどのあたりまで、ご主人さまの頭がくるのか分からないとでもいうんですか。いいえ、アターソンさま、覆面をしたやつは断じてジキル博士ではございません。神のみがご存知です、でもジキル博士でないことだけは確かです。殺人が行われたに違いありません」

「プール」弁護士は答えた。「もしおまえがそこまでいうなら、はっきりさせるのが私の義務だろう。おまえの主人の感情を損ねたくないし、この紙はまだ彼が生きている証拠にちがいないと思わないでもないが、あのドアを壊してでも中へ入るのが私の義務だろう」

「あぁ、アターソンさま、その通りです!」執事はさけんだ。

「そこで二つ目の問題だ」アターソンは続けた。「誰がそれをやるかということだが、」

「もちろん、あなたと私で」というのが執事の勇敢な答えだった。

「よく言ってくれた」弁護士は答えた。「何があっても、おまえには迷惑がかからないようにするからな」

「教室に斧があります」とプールは続けた。「で、アターソンさまは台所の火かき棒をもってください」

弁護士はそのごつごつとしてずっしり重い棒を手にもち、重さを確かめた。「わかってるか?」と顔をあげてプールへ言った。「これから、おまえと私でいささか危険な場所へ乗り込むんだぞ」

「そうですとも」執事は答えた。

「それなら、もっと正直になろうじゃないか」弁護士は言った。「私たちにはまだお互いに言ってないことがあるようだ。すっかり打ち明けようじゃないか。そのおまえが見た覆面をした男というのは、誰だかわかったかい?」

「えぇ、あまりに動きが早くて腰をかがめてましたから、確かにとはいえませんが」というのが答えだった。「でもアターソンさまが言いたいのは、ハイド氏では? ということでしょう。えぇ、そうです、私もそう思いました! 背の高さも同じくらいですし、身のこなしが軽いのもそっくりです。それに他の誰があの研究室のドアから入ってこれるというんですか? お忘れではないでしょうな、アターソンさま、あの殺人事件のときもやつがまだ鍵をもっていたということを。でもそれだけではありません、アターソンさま。ハイド氏には会ったことがありましたか?」

「あぁ」弁護士は答えた。「ハイド氏とは、一回話したことがある」

「それなら私たちと同じように、あのお方にはどこか奇妙なところがあったことをよくご存知なはずです。どこか、人にショックを与えるようなところがあるんです。なんて言えばいいのかはよくわかりませんが、とにかくアターソンさまも、背筋がぞっとするような目にあわれたことでしょう」

「おまえが言うとおりだ」アターソン氏は答えた。

「そうなんです」プールは答えた。「それで、あの覆面をつけたサルみたいなやつが、薬品のなかから飛び上がって、書斎に逃げ帰ったときは、ぞっとしました。はっきりした証拠はないんですが、アターソンさま、私も書物でいろいろ学んでますから。ただ人には感じるということがあります、聖書に誓って、やつはハイド氏です!」

「そうか、そうか」弁護士は言った。「私が心配していたことも全く同じことだ。私が心配したように、悪いことが行われたんだ、二人の関係から悪が生じたに違いない。あぁ、おまえのいうことを信じるよ。ヘンリーはかわいそうに殺されたんだ。おまけにその殺人者は、被害者の部屋に潜んでいるというわけだ(何の目的なのかは、神のみぞ知るのだろう)。よし、仇を討ってやろう。ブラッドショーを呼ぶんだ」

召使はよばれて、青くなっておどおどしながらやってきた。

「しっかりしろ、ブラッドショー」弁護士は言った。「私にもわかっているが、どっちつかずの状態がおまえたち全員をびくびくさせているんだ。これからそれにも決着をつけてやる。ここにいるプールと私で書斎に押し入るから。もし万事上手くいったなら、責任は全部私がもつ。そのあいだに、なにか失敗をやらかしたり、犯人が裏口から逃げ出すようなことがあったら、おまえとあの男の子でしっかりした棒をもって、あの角をまがって、研究室のドアのところで待ち伏せるんだ。持ち場につくまで十分の猶予をやるから」

ブラッドショーが行くと、弁護士は自分の時計を見た。「さて、プール、自分たちの仕事にとりかかろうか」といい、火かき棒を脇にかかえ、裏庭へでていった。雲が風に流されて月を隠し、外は暗闇だった。深い井戸のようになっている庭には、風もとぎれとぎれに吹き込むだけで、ろうそくの光も足元でゆらゆらゆれるだけだった。そうこうしているうちに教室の中にやってきて、二人は静かに腰をおろして待っていた。ロンドンのざわめきがあたりに重々しくひびきわたり、ただ近くでは、書斎の床をこつこつと歩く足音だけが静寂をやぶっていた。

「いつも一日中歩いているんです」プールはささやいた。「あぁ、夜もほとんどそうしてます。ただ薬屋から新しいサンプルが来たときだけ、少しやむんですが。あぁ、あんなに落ち着かないのも、つまりは良心の呵責なんでしょうな! あぁ、アターソンさま、あの一歩一歩が血塗られているようですね! でもよく聞いてください、こっちへきて、じっくり聞いてください、アターソンさま。言ってください、あれが博士の足音でしょうか?」

足音は軽やかで、変わったものだった。しっかりした足取りだが、妙にゆっくりとしているのだ。ヘンリー・ジキルの重々しい、きしむような足音とは明らかに違っていた。「他になにか変わったことはないか?」アターソンは尋ねた。

プールはうなずいて「一度、」と続けた。「一度すすり泣くのが聞こえました!」

「すすり泣くだって! どんな?」弁護士は急に恐怖におそわれて聞いた。

「女や魂を失ったものみたいに泣いてたんです」執事は言った。「私も泣きたいくらいの気持ちで、その場を去りました」

しかし十分が過ぎようとしていて、プールはわらが積み重なった下から斧を取り出した。ろうそくは、攻撃の準備を整えるために、一番近くのテーブルの上に置いた。そして二人は息を殺して、忍耐強く足音がこつこつ、こつこつと響いている方へと夜のとばりの中を近づいていった。

「ジキル」アターソンが大声で叫んだ。「君と会いたいんだ」と一呼吸置いた。しかし返事はなかった。「ちゃんと警告はしたぞ、私たちの疑惑が最高潮に高まっている。私は君に会わなければならないんだ」アターソンは続けた。「もし適正な手段でだめなら、手段はえらばない! 君が承知しなければ、無理やりにでもやるぞ!」

「アターソン」と声がした。「お願いだから、慈悲をかけてくれないか!」

「あぁ、それはジキルの声じゃない、ハイドの声だ!」とアターソンは叫んだ。「ドアを叩き壊せ、プール!」

プールは斧を肩の上までふりあげ、その一撃は建物をふるわせた。そして赤い羅紗の扉で鍵とちょうつがいが震えた。恐ろしい叫び声が、まるで動物の叫び声が書斎に響き渡った。斧が再び振り上げられ、そして羽目板が壊れ、ドア枠が飛び跳ねた。斧は四回振り下ろされた。しかしその木のドアは丈夫で、取り付けはしっかりした仕事だった。そして五回目で、鍵はばらばらになり、ドアは内側のじゅうたんの上にばたんと倒れた。

二人は自分たちのやったことに呆然とし、それに引き続きあっけにとられ、少し後ずさりして、部屋を覗き込んだ。見たところ、穏やかなランプの明かりに照らされた書斎で、暖炉には火がくべられ燃えていた。やかんが甲高い音をたて、引出しは一つ二つが開いたままだったが、机の上には書類がきちんと整えられていた。暖炉の側では、お茶の用意がされていた。ロンドンでは一番落ち着いた部屋とでも言えたかもしれない、つまり薬品でいっぱいのガラス戸棚さえなければ、もっともありふれた部屋とでも言えた事だろう。

部屋の真ん中には、手足をひどくねじって、まだ体をぴくぴくさせている一人の男の死体が横たわっていた。二人は静かに近づいて行き、仰向けにしてみると、そこにはまさしくエドワード・ハイドがいた。大きすぎる服を着込み、その服はどちらかといえば博士に合うサイズだった。顔の筋肉はまだ外からはぴくぴくと動いていたが、すでにこと切れていた。手で握りしめ割れている薬ビンと部屋に漂う強烈な匂いからして、アターソンは自殺したことを見てとった。

「遅すぎたようだな、」アターソンは真面目な面持ちで言った。「救いだすにしても、罰するにしてもな。ハイドは亡くなってしまった。あとは、おまえの主人の死体を探すだけだ」

この建物の大部分は、教室と書斎で占められていた。教室が一階の大部分をしめて、二階から採光するようになっていて、書斎は二階の片隅にあり、裏庭に面していた。教室と裏庭のドアは通廊でつながっていて、書斎はまた別の階段で裏庭のドアとつながっていた。その上に、二、三の物置と広い地下室があった。それらすべてを隅から隅まで調べたが、物置は、どれもひと目見ただけでからっぽで、そしてどの部屋も、ドアのところにほこりがたまっていることからも、長い間しめきったままなのは明らかだった。地下室は、たしかにがらくたが山ほどつまっていたが、ほとんどはジキルの前にこの家に住んでいた外科医のときから置いてあるものだった。ただ、ドアをあけてみると、何年もしめきっていたせいか、くもの巣がおちてきたので、ここもそれ以上探しても無駄なのは明らかだった。どこを探しても、ヘンリー・ジキルは死んでいるのか生きているのか、影も形も見当たらなかった。

プールは通廊の敷石を踏みしめて、「ここに埋められているに違いありません」とその音に耳を傾けながら言った。

「あるいはどこかに逃げたかもしれない」とアターソンは言った。そして裏通りのドアを調べに行った。そこは鍵がかかっていて、その近くの敷石には、さびかかっている鍵が落ちているのがみつかった。

「使えるようには見えないな」弁護士は言った。

「使うですって!」プールは繰り返した。「壊れてますよ? まるで踏みつけたようです」

「あぁ、」アターソンは続けた。「断面もさびているしな」

二人の男は驚いて、お互いに顔を見合わせた。「私にはぜんぜんわからん」と弁護士が言った。「とにかく書斎にもどろう」

二人は口もきかずに階段を上り、ときどき怖そうに死体を見ながら、書斎の中をより詳細に調べはじめた。テーブルの上には、化学の実験をしたあとがあった。いろいろな分量の塩みたいな薬がガラス皿に山になっていて、まるであの不幸な男が実験の途中に邪魔されたかのようだった。

「これは、私がもってきていた薬と同じ物です」とプールは言った。そしてプールがそう言ったときに、やかんがびっくりさせるような音をたててふきこぼれた。

そして暖炉の側に行ってみると、安楽椅子が居心地がよいように備え付けられていて、お茶の道具が手近に用意され、カップには砂糖まで入っていた。棚には本があり、一冊の本がお茶の用意の側に開かれていた。そしてアターソンは、それが宗教の本であることを見つけて驚いた。しかもそれはジキルが何回も誉めていた本だったが、直筆でひどい言葉が書き連ねてあった。

次に部屋を調べていき、大きな鏡のところへやってきて、なにげなく恐怖のあまり鏡を覗き込んでみた。ただ天井に映るばら色の光と、暖炉の火がたくさんガラス棚に反射するのと、青白い顔で自分たちが恐怖に満ちた姿で覗き込んでいる姿以外は何も映っていなかった。

「この鏡は、いろんなおかしなものを映してきたんでしょう」とプールはささやいた。

「でもこの鏡自体がおかしくないか?」と弁護士も同じくささやくように言った。「なんだってジキルは」といいかけて、いいよどんだが、弱さに打ち克つように続けた。「なんだってジキルは、こんなものが必要だったんだ?」

「そうですよ!」プールも言った。次には、二人は事務机の方へと行った。机の上には書類がきちんと整理されていて、大きな封筒が一番上にあった。そこには博士の字で、アターソンの名前が書いてあった。弁護士がそれを開封すると、何通かの同封物が床に落ちた。一通は遺言で、そこには六ヶ月前に本人に突っ返したのと同じく突拍子もないことが書かれていた。死亡時は遺言に、失踪時には譲渡証書になるようになっていて、ただエドワード・ハイドの名前の代わりに、弁護士の、おどろくべきことだが、ガブリエル・ジョン・アターソンという名前が記されていた。弁護士はプールの方をみたが、それから再び書類に目を落とした。そして最後には、じゅうたんの上に横たわっている死んだ殺人者を見た。

「頭が混乱してしまう」と弁護士はいった。「ここ最近は、この書類はすべてやつが持ってたんだ。やつが私を気に入るわけがない。自分の名前が書き換えられているのをみて、怒り心頭に発しただろう。だけどこの書類を破り捨てはしなかった」

次にとりかかると、それは博士の手による短い手紙で、日付が一番上に書かれていた。

「あぁ、プール!」弁護士は叫んだ。「博士はここで今日まで生きてたんだ。こんなに短いあいだに殺されてしまうわけがない、まだ生きてるに違いない、逃げ出したんだ! でも、どうして逃げ出したんだ? それにどうやって? そうだとすれば、この自殺を公表してもよいものだろうか? あぁ、注意深くやらなければいけないな。私はこの先、おまえの主人をやっかいなことに巻き込まないようにしないと」

「どうしてそれを読まないんですか? アターソンさま」プールは尋ねた。

「怖いんだよ」弁護士は真面目な顔をして答えた。「どうか怖がるようなものでなければいいんだが!」そしてその手紙をとりあげ、読んだ。

「親愛なるアターソン、この手紙が君の手にわたるころには、私は姿を消していることでしょう。どんな状況のもとでいなくなるかまではわかりません。ただ直感で、それから現在置かれているなんともいいようがない状況から、終わりがすぐそこにあり、必ずやってくることはわかっています。ラニョンが君に託した手紙をまず読んでください。もっと詳細が知りたければ、私の告白を読んでいただければと思います。

君にはふさわしくない不幸な友より   ヘンリー・ジキル」

「三つ目もあったな」アターソンは尋ねた。

「えぇ、これです」プールは答えた。そしてアターソンに、何ヶ所も封がされている厚い封書を手渡した。

弁護士は、それをポケットにしまった。「私はこの封書については、口外しないつもりだ。もしおまえの主人が逃げ出したのか、それとも死んだとしても、とにかく彼の名誉だけは守ろう。もう十時だ。私は家に帰って、落ち着いてこの封書を読むことにするよ。でも真夜中までにはここに戻ってくる、そのときに警察をよぼう」

二人は教室の扉に鍵をかけて、外にでた。そしてアターソンは、広間の暖炉の側に召使たちが集まっていたのはそのままにして、二通の封書を読むために自分の事務所まで重い足を引きずっていった。その二通が、この謎を明らかにしてくれることだろう。


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