タイムマシン, ハーバート・ジョージ・ウェルズ

第五章


「この人類の完璧すぎる勝利について考えながら立っていると、北東の空に満月が黄色く立体感をもって上がってきて、銀色の光をあふれさせていました。下では明るい小さな姿がうろつくのをやめ、無音のフクロウが横を飛びすぎ、そして夜の冷気でわたしは身震いしました。下りて寝場所を探すことにしました。

見覚えのある建物を探しました。そしてブロンズの台座に乗った白いスフィンクスの姿に目が映りました。スフィンクスは、昇った月の光が強くなるにつれてはっきりしてきます。それに触れた銀のカバノキも見えます。シャクナゲのもつれた茂みが、淡い光の中で黒く見え、そして小さな芝生がありました。その芝生を見ました。奇妙な疑念がわたしの安心感に冷や水を浴びせました。「いやちがう」とわたしは強く自分に言い聞かせました。「あの芝生じゃない」

でもまさにその芝生だったのです。なぜならあばたのできたスフィンクスの白い顔がそちらに向いていたのです。この確信が腑に落ちたときのわたしの気分が想像つくでしょうか? 無理でしょう。タイムマシンは消えていたのです!

いきなり、顔をひっぱたかれたかのように、自分自身の時代を失うのではないか、この奇妙な新世界に寄る辺なく残されてしまうのでは、という可能性が頭に浮かびました。それを考えるだけで、本当に肉体的な反応が生じました。それがわたしののどを締め上げ、息を止めるのが感じられました。次の瞬間、わたしは恐怖の発作におそわれ、斜面を大股に駆け下りていました。一度、前のめりに転んで顔を切ってしまいました。でも血をぬぐう暇もなく、とびおきて走り続け、ほおとあごになま暖かい液体が流れるままにしました。走りながらずっと、「ちょっと動かしただけだろう、茂みの中のじゃまのならないところに押しやっただけだ」と自分に言い聞かせ続けていました。それでも、必死で走り続けました。その間ずっと、過剰な恐怖に時々伴う確信をもって、わたしは自分の考えが気休めにすぎず、マシンがわたしの手の届かないところに移動されたことを直感的に悟っていました。呼吸するのも苦しかった。丘のてっぺんから小さな芝生までの、おそらく三キロほどを十分もかからずにカバーしたでしょう。そしてわたしは若くはないのです。走りながら、マシンを置いて去った自分の自信たっぷりの愚行を声高にののしり、おかげで息がきれる始末。おおごえで叫んでも、だれも答えてくれません。月に照らされた世界では、生き物一匹たりとも動いていないようです。

芝生にたどりつくと、最悪のおそれが現実のものとなっていました。タイムマシンはあとかたもありません。黒く生い茂ったやぶの中の、空っぽの空間に直面したときには、気が遠くなって身震いがしました。それがすぐそこに隠してあるかもしれないというようにあわててその周りを駆け回り、 急に立ち止まって、手で髪をかきむしりました。頭上にはスフィンクスが、ブロンズの台座の上にそびえ、白く、穴だらけで、上ってきた月の光に照らされています。わたしの絶望をばかにしてほほえんでいるかのようです。

あの小さな人々が、わたしのために機械をどこかにしまってくれたのだと想像することで慰めを得られたかもしれません。でも、わたしはかれらが肉体的にも知的にもそんなことはできないのを感じ取っていました。だからこそわたしはがっかりしたのです。これまではうかがいしれなかった力があって、それが介入してわたしの発明品は消えてしまいました。でも、一つだけ確信できたことがありました。別の時代にあの完全な複製品が生まれない限り、あのマシンは時間内を動いたはずはありません。レバーの取り付け方――後で仕組みはごらんに入れます――のおかげで、それを取り外したら、何人たりともそれを操作することは不可能なのです。あれが移動して隠されたのは、空間内だけのこと。でもそれなら、いったいどこにあるのでしょう?

たぶん何か狂乱状態に陥ったのでしょう。スフィンクスをずっと取り巻く、月に照らされた茂みすべてに、あらっぽく駆け込んでは飛び出していたのを覚えています。そしてそれにより、何か白い動物をびっくりさせたことも。薄明かりの中で、それは小さな鹿に思えました。またその晩遅く、げんこつを握りしめて茂みを殴りつけ、こぶしが折れた小枝のために傷ついて血が出ていたのも覚えています。そして心が千々に乱れる中で泣いては怒鳴りつつ、わたしは巨大な石造建築のほうに下っていきました。巨大な広間は暗く、静かで、無人でした。でこぼこの床ですべり、クジャク石のテーブルの一つの上に倒れこんで、ほとんど脛を折りそうになりました。マッチをともして、すでにお話したほこりまみれのカーテンを通りすぎました。

そこには二番目の大ホールがあって、そこもクッションに覆われ、おそらく二〇人ほどの小さな人々が眠っていました。かれらがわたしの二度目の登場をずいぶん奇妙に思ったのはまちがいありません。いきなり静かな暗闇からあらわれて、わけのわからない騒音をたて、マッチの音と炎を手にしているのです。というのも、かれらはマッチも忘れ去っていました。『わたしのタイムマシンはどこだ?』とわたしは腹をたてた子供のように叫び、かれらを捕まえるとまとめて揺さぶりました。かれらにしてみれば、ずいぶん奇妙に思えたでしょう。何人かは笑いましたが、ほとんどは心底おびえた様子でした。まわりに立っているかれらを見たとき、恐怖の感覚を呼び覚まそうとするなんて、自分がいまの状況で最高に愚かしいことをやっていると自覚しました。というのもかれらの日中の振る舞いから判断して、わたしはかれらが恐怖を忘れたにちがいないと思ったのです。

あわててわたしはマッチをおろし、一人を突き倒しつつも、また巨大な食堂をよろよろと抜けて、外の月光の下に出ました。恐怖の声と、かれらの小さな足があちこちで走っては転んでいる音が聞こえました。月が空に上るにつれて自分のやったことをすべて覚えているわけではありません。たぶん、狂乱してしまったのは、まったく予想もしない形でマシンを失ってしまったからなのでしょう。わたしは自分の同類たちから絶望的に切り離された気がしました――未知の世界での奇妙な動物になってしまったのです。あちらへこちらへとさまよい、神と運命に向かって泣き叫びました。絶望の長い夜が過ぎるにつれて、ひどい疲労におそわれた記憶があります。絶対にあり得ないような場所をあちこちのぞいたことも。月に照らされた廃墟の中を闇雲につかみ回り、黒い影の中の奇妙な生き物に触れたことも。最後に、スフィンクスの近くの地面に横たわって、圧倒的な悲嘆にくれて泣いたことも。それからわたしは眠りに落ちました。目をさますと、真っ昼間で、土盛りの上ではツバメが二羽、手の届くところで飛び跳ねていました。

わたしは朝の新鮮さの中で身を起こし、自分がどうやってここにたどりついたか、なぜ自分がこんなにも深い孤独と絶望を感じているのか、思い出そうとしました。すると頭の中がはっきりしてきました。ふつうのまともな日光の元で、わたしは自分の状況を真正面から公平に見ることができたのです。夜間の狂乱ぶりがとんでもなく愚かしかったことも悟りましたし、自分で自分に合理的な説明もできました。『最悪の場合を想定してみようか。仮にマシンが丸ごと失われ――あるいは破壊されていたら? 当然ながらわたしはおちついて辛抱強くなり、ここの人々の風習を学んで、マシンがどのように失われたかはっきり理解しようとして、材料や道具を手に入れる手段を身につけねばならない。そうすればいずれ、もう一台マシンを作れるかもしれない』それが唯一の希望かもしれませんが、でも絶望よりはましです。それになんと言っても、ここは美しくおもしろい世界ではあったのです。

でもおそらく、マシンは単にどこかへ運び去られただけでしょう。それでも落ち着いて辛抱強くその隠し場所を見つけ、力づくか籠絡かによってそれを取り戻さなくてはなりません。そう思ってわたしはさっと立ち上がってあたりを見回し、水浴びできる場所がないかと思いました。朝の新鮮さのおかげで、自分も同じくらい新鮮な気分になりたいと思ったのです。興奮するのには疲れてしまいました。作業を始めるにつれて、前日のすさまじい興奮ぶりを我ながら不思議に思っているほどでした。小さな芝生のまわりの地面を慎重に調べてみました。通りがかった小さな人々の一部に、そうしたことを精一杯伝えようとして、無駄な質問時間をとられてしまいました。だれもわたしの身振りを理解してくれませんでした。一部はぽかーんとその場に突っ立って、一部はそれが冗談だと思って笑いました。その笑うかわいい顔につかみかかりたいのを抑えるのは、実に至難の業ではありました。ばかげた衝動ではありましたが、恐怖と目もくらむ怒りに憑かれた悪魔は抑えがきかず、いまだに我が困惑につけ込もうとしていたのです。地面のほうが優れた情報を与えてくれました。スフィンクスの台座と、到着時にひっくり返ったマシンと格闘したわたしの足跡との間の半ばくらいに、溝が引き裂くように刻まれていたのです。それ以外にも移動のしるしがありました。ナマケモノがつけたと思えるような、奇妙な狭い足跡などです。これで関心がこの台座にしぼられました。それは、すでに申し上げたと思いますが、ブロンズ製でした。ただの箱ではなく、どの面も深いふちどりつきのパネルで入念に装飾されていました。叩いてみると、台座は空洞になっていました。パネルを慎重に調べると、それが枠とは分離しているのがわかりました。取っ手も鍵穴もありませんでしたが、もしこのパネルが思ったように扉であるなら、中から開くのでしょう。一つだけまちがいないことがありました。わがタイムマシンが台座の中にあると推測するのは、大してむずかしくありませんでした。でもなぜそれがそこに入ったのかは、別の問題です。

オレンジの服をまとった人の頭が二つ、茂みの中を通って、花に覆われたリンゴの木の下をこちらにやってくるのが見えました。かれらにほほえみかけると、こちらに差し招きました。かれらがくると、わたしはブロンズの台座を指さして、これを開けたいのだという願いを伝えようとしました。でもこれを初めて身振りでつたえたとき、かれらの振る舞いは実に奇妙なものでした。その表情をどうお伝えしたらいいものやら。繊細な心を持った女性に、とんでもなく不適切な身振りをしてみせたとしましょう――そのときの女性の表情です。二人は、これ以上の侮辱はあり得ないとでもいうようにその場を去りました。白い服の優しそうな人物も試してみたが、結果は全く同じでした。なぜか、かれの様子を見てわたしは自分が恥ずかしくなりました。でも、ご承知のとおりタイムマシンを取り戻したかったので、もう一度その人物に働きかけてみました。かれが他のみんなと同じように背を向けると、ついカッとなってしまいました。たった三歩で追いつくと、そのローブのゆるい首周りをつかんで、スフィンクスのほうに引きずっていきかけたのです。でも、その表情に浮かんだ恐怖と嫌悪を見て、突然放してやりました。

でもわたしはまだ負けてはいませんでした。ブロンズのパネルをげんこつで殴りつけました。何かが中で動くのが聞こえたような気がしました――正確には、何かくすくす笑いのような音が聞こえたような気がしたのです――でもこれは気のせいでしょう。それから、川で大きな石を拾ってくると、それを持って殴りつけ、おかげで装飾の渦巻きが一つつぶれ、緑青が粉状のかけらになって落ちてきました。繊細で小さな人々は、遠くからでもわたしが荒っぽい激情に駆られて殴りつけているのが聞こえたにちがいありませんが、何も起こりませんでした。斜面に集団がいて、こっそりこちらを見ているのがうかがえました。とうとう暑くて疲れてしまったので、わたしは座ってその場を眺めました。でも、長く見物しているほどの落ち着きはありません。わたしは長い夜警をするにはあまりに西洋人すぎるのです。ある問題に何年も取り組むことはできますが、二四時間何もせずに待つとなると――それは話が別です。

しばらくして起きあがると、あてもなく茂みの中を、丘に向かって歩き出しました。そして自分に言い聞かせました。『あわてるな。マシンに再会したければ、あのスフィンクスには手を出さないことだ。もし連中がマシンをどこかへ持ち去る気なら、ブロンズのパネルを壊しても何の役にもたたないし、持ち去らないなら、いつか頼めばすぐに返してもらえるだろう。あんなわけのわからないものの中で、あんなふうにパズルの前ですわりこんでいるのは絶望的だ。その先には偏執狂があるだけだ。この世界に直面しろ。その方法を学んで、観察し、その意味についての性急な憶測には気をつけろ』。すると、状況のおかしさが頭に浮かびました。何年もかけて研究と苦労を重ねて未来に到達しようとしてきたのに、いまや必死でそこから脱出しようとしている。わたしは人類がこれまで考案したこともないほど複雑で、最も絶望的なわなを自分に仕掛けてしまったのです。対象は自分自身でしたが、どうにも抑え切れませんでした。わたしはげらげら笑い出してしまいました。

巨大な宮殿の中を通るうちに、どうも小さな人々がわたしを避けているように思えました。ただの思いこみかもしれないし、ブロンズの門を叩いていたのと何か関係があるのかもしれません。でも避けられているのは、まちがいないと感じました。でもわたしは、注意して何の懸念も見せないようにして、かれらを追いかけようとは絶対にしないことにしました。そして一日の終わりには、一人か二人が昔通りにやってくるようになりました。わたしは言語でも多少なりとも進歩をとげ、さらにあちこちで探求を深めました。細かい点が理解できなかっただけかもしれませんが、かれらの言語はとてつもなく単純でした――ほとんど具体名詞と動詞だけしかありません。抽象用語はほとんど、あるいはまったくなく、描写的な言語はほとんど使われません。文はふつうは単純で単語二つしかなく、主張や提案はきわめて単純なものしか伝えることも理解することもできませんでした。タイムマシンとスフィンクスの下のブロンズの戸に関する謎は、なるべく記憶の片隅におしやろうと決意しました。知識が増えれば、自然とそこにまた導かれるだろうと思ったのです。でも到着地点から半径数キロの範囲内にいると、ある種の感情にさいなまれたことはご理解いただけるでしょうか。

わたしの見た限り、世界はすべて、テームズ峡谷と同じすばらしい豊かさを示していました。上ったすべての丘からは、同じように壮大な建物がたくさん見え、そのどれも材質や様式が果てしなく異なり、同じく緑が生い茂り、どこも花咲く木や樹木だらけです。あちこちで水面が銀のように輝き、彼方では土地は青い波打つ丘陵となり、やがて空の美しさにのみこまれていきました。すぐに目を引いた奇妙な特徴として、ある丸い井戸がいくつかあって、かなり深いもののようでした。一つはわたしが初めて歩いた丘の上の小道の横にありました。他のと同じく、これもブロンズでふちどられ、妙にすり減っていて、小さなキューポラで雨から守られています。こうした井戸の横にすわり、竪穴の暗闇を見下ろしても、水の反射はまったく見られませんし、マッチで明かりをつけても、反射が見えるわけでもありません。でもそのすべてで、ある音が聞こえました。ズンズンズン、というような巨大な動力機関の鼓動のようです。そしてマッチの炎のたなびきかたから、この竪穴にはずっと空気が流入し続けていることがわかりました。さらに紙切れを一つに投げ込んでみると、ひらひらとゆっくり落ちていくかわりに、さっと急速に引き込まれて見えなくなってしまいました。

またしばらくして、わたしはこれらの井戸を、斜面のあちこちに立っている高い塔と結びつけて考えるようになりました。というのもそのてっぺんには、しばしば強い日差しにさらされた砂浜で見られるようなかげろうが見られたからです。いろいろ総合して考えると、複雑な地下換気システムがあるという強い示唆が得られました。その本当の重要性は想像が困難だった。まずはそれを、この人々の衛生装置と関連づけようと思いました。すぐ思いつく結論ですが、圧倒的にまちがっていました。

そしてここで、排水や電話や輸送手段などの利便施設については、この真の未来での期間中にほとんど学べなかったということは白状せねばなりますまい。ユートピアのビジョンや来るべき世界の描写は読んだことがありますが、そこには建物や社会的な仕組みなどについて、莫大な細部が書き込まれています。でもこうした細部は、全世界が想像の中に収まっているときにはすぐにわかるものですが、ここで見いだしたような現実のさなかにいる本物の旅行者には、まるで手の届かないものです。中央アフリカから出てきたばかりの黒人が、ロンドンについて自分の部族にどんな話を持って帰るか想像してみてください! 鉄道会社だの、社会運動だの、電信電話線だの、小包配達会社だの、為替だの等々についてかれに何がわかるでしょうか? でもわれわれは、少なくともそうしたことをかれに喜んで説明してやるべきでしょう! そしてわれわれの知っていることのうちで、この旅慣れぬ友人に理解させる、あるいは信じさせられるのはどの程度でしょうか? そして、いまの時代において黒人と白人の差がいかに小さいかを考えてみてください。そしてわたしとこの黄金時代の間隙がいかに大きいかも! わたしはほとんど目には見えないけれど、わたしの快適さに貢献していた多くのものがあることを感じていました。でも自動化された仕組みがあるという漠然とした印象以外には、その差についてほとんどお伝えできないのではないかと思います。

たとえば葬儀の面では、火葬場や墓を思わせるものはいっさい見つけられませんでした。でも、ひょっとしたら自分が探検した範囲外に墓(または火葬場)があるのかもしれない、と思いつきました。これもまた、意図的に自分に投げかけた疑問で、わたしの好奇心はこの点で完全に敗北したかのようでした。この物体はわたしを不思議がらせ、そこからわたしはさらにある発見を行い、それでさらに不思議さはましました。この人々の中には、高齢者や体の不自由な人々がまったくいなかったのです。

白状しますと、自動化された文明と退廃した人類に関する最初の理論についての自己満足は、長続きしませんでした。でも、それ以外には思いつきませんでした。何が難しかったかご説明しましょう。探検した巨大な宮殿のいくつかはただの生活場所で、大きな食堂と就寝用アパートでした。機械も、装置も、まったく見つかりません。それなのにこれらの人々は快適な布を身にまとっています。これも時には更新が必要でしょう。そしてかれらのサンダルは、装飾こそありませんが、かなり複雑な金属細工の成果でした。こうしたものがどうにかして作られなければならないはずです。でもこの小さな人々は、創造性のかけらも見せません。店もなく、工房もなく、お互いの交易の様子すらうかがえません。みんなひたすら穏やかに遊んで時間を過ごすばかり。川で水浴びしたり、遊び半分に愛を交わしたり、果物を食べて眠ったり。どうやって物事が運営されているのか、さっぱりわかりませんでした。

そして再び、タイムマシンのことがあります。正体はわかりませんが、何かがそれを白いスフィンクスの空洞の台座に運び込みました。なぜでしょう。どう考えても想像つきません。あの水のない井戸も、あのかげろうを発する円筒も。ヒントが欠けているように思いました。感じたのは――どう言ったらいいでしょうか。たとえば何か書き付けを発見して、ここそこでごく普通の立派な英語で文章が書かれているのに、その間に単語や、ひょっとして文字すら、まったく見たこともないようなものが混じっている、という感じでしょうか。とにかく訪問の三日目には、八十万二七〇一年の世界はわたしにはそう見えたのです!

またその日は、一種の――友だちもできました。たまたま、浅瀬で水浴びをしているこうした小さな人々を見ていると、一人が足をつらせて、下流に漂いはじめたのです。本流はかなり急でしたが、そこそこの泳ぎ手でもそんなに強いとは感じなかったでしょう。ですから、目の前で溺れている弱々しく泣き叫ぶ者をだれもまるで助けようとしなかったというのは、これらの生き物に見られる奇妙な欠陥について何事かを物語るものでしょう。これに気がついて、急いで服を脱ぎ捨て、もっと下流の地点で水に入ると、可哀想なやつをつかまえて、彼女を安全な陸地へと引き戻しました。手足をちょっとさすってやると、すぐに息をふきかえし、彼女をあとにしたときにはもう大丈夫だというのがわかって、わたしは満足でした。彼女の種族について実に低い評価しかしていなかったので、感謝はまったく期待していませんでした。でもこの点でわたしはまちがっていました。

これが起きたのは朝でした。午後に探検から自分のセンターに戻りかけていたとき、あの小さな女性だと思われる女性にでくわし、そして彼女は喜びの声をあげてわたしを迎え、大きな花束を差し出しました――明らかにわたし一人だけのために作られたものです。それはわたしの想像力に訴えかけるものでした。たぶん寂しい気持ちがあったせいものあるのでしょう。いずれにしても、その贈り物がうれしいことを精一杯伝えました。やがてわれわれは小さな石のあずまやに並んで腰掛け、もっぱら微笑みあいから成る会話に没頭しました。この生き物の人なつっこさは、まさに子供と同じような形でわたしに影響しました。お互いに花をやりとりして、彼女がわたしの手にキスをしました。わたしも同じことを彼女の手にしました。それから話そうとして、彼女の名前がウィーナということを知りました。これは、意味はわかりませんでしたが、なぜか彼女にふさわしいように思いました。これが奇妙な友情の発端でした。一週間続いて、そして終わりは――これからお話しします!

彼女はまさに子供のようでした。いつもわたしと一緒にいたがります。どこにでもついてこようとして、次に出かけてうろつく探索行にでかけたときには、彼女を疲れ果てさせ、ついには疲れ切っていささか悲しげにわたしの後から叫ぶまま後に残していくのは、胸が痛みました。でも世界の問題は理解しなくてはなりません。未来にやってきたのは、些末な恋愛ごっこのためじゃないんだ、とわたしは自分に言い聞かせました。でも後に残していったときの彼女の悲嘆はすさまじく、別れるときの説得ぶりは時に狂乱の域に達していて、彼女の献身ぶりからは、喜びと同じくらいの困惑を得たものです。それでも彼女は、なぜか実に大きな喜びをもたらしてくれたのです。彼女がわたしにくっついてきたのは、単なる子供じみた愛情のせいだと思っていました。手遅れになるまで、彼女を後にしたときにわたしが彼女にどんな危険をもたらしていたのか、はっきりとは理解できませんでした。手遅れになるまで、自分にとって彼女が何なのかはっきりとは理解できていませんでした。というのも、単にわたしのことを気に入った様子を見せ、弱々しく無意味な形でわたしを気にかけてくれているのを示すうちに、このかわいらしい生き物はまもなく、白いスフィンクスのあたりに戻ってくるのが帰宅に等しいような気分を作り出してくれたのです。そして丘を越えると同時に、わたしは彼女の白と金色の小さな姿を探すようになりました。

世界から恐怖が消えたわけではないというのを学んだのも、彼女からでした。彼女は昼間は恐れ知らずでしたし、実に不思議なことに、わたしをえらく信用していました。一度、ちょっとふざけて彼女に脅かすようなそぶりをしてみせたのですが、笑い飛ばされただけでした。でも彼女は闇を恐れ、影を恐れ、黒いものを恐れていました。唯一彼女にとって恐ろしいものは、暗闇でした。それはずばぬけて情熱的な感情であり、わたしはそれでずいぶん考え込み、さらに観察を重ねました。そして、いろいろ発見したことの一つとして、こうした人々が日暮れ以降は大きな家に集まっていて、群れて眠るということがありました。明かりを持たずにこうした家に入ると、かれらは不安がって大騒ぎします。一人として日が暮れてからは外に出ず、屋外で一人で眠る者もいません。でも、わたしは頭がかたすぎて、その恐怖が教えてくれるものに気がつかず、そしてウィーナのおびえにもかかわらず、わたしはこの大群の眠りから離れて眠ることにこだわったのでした。

彼女は大いに困惑しましたが、最終的にはわたしに対する奇妙な好意が勝利をおさめ、われわれが知己を得た五晩、最後の夜も含め、彼女はわたしの腕を枕にして眠りました。が、彼女の話をするとつい話がそれます。彼女の救出の前の晩だったはずですが、夜明け頃に目が覚めました。溺れて、イソギンチャクがその柔らかい触手で顔をなでまわしているという実に不快な夢を見ていてうなされていました。びくっとして目を覚ましましたが、なにやら灰色がかった動物がたった今部屋から飛び出していったという奇妙な印象が残ったのです。もう一度眠ろうとしましたが、落ち着かず不愉快な感じでした。物事がちょうど闇からゆっくり抜け出そうとする、薄暗い灰色の時間で、何もかも色彩を欠いて明瞭で、それなのに非現実的に見えるのです。起きあがり、大広間に入り、さらにそこを出て宮殿の前の旗台に出たのです。そこで用を足すとともに、日の出を見ようと思いました。

月が沈もうとしていて、消えゆく月光と夜明けの最初の明かりが混じって、不気味な薄明かりとなっていました。茂みはインキのように真っ黒で、地面は重々しい灰色、空は無色で陰気です。そして斜面の上のほうに、幽霊が見えたような気がしました。斜面を見渡すたびに、そこに何度か白い姿が見えたのです。二度は白いサルのような生き物がいささか素早く丘を駆け上っているのが見えたような気がしたし、一度は廃墟の近くで、それが三人一組でなにやら黒っぽい物体を運んでいるのが見えました。動きは素早く、それがどこへ向かったのかはわかりませんでした。茂みの間に消え失せたようです。夜明けはまだ明瞭ではなかったことをご理解ください。ちょうどみなさんもご承知かもしれない、あの寒い自信のない早朝の雰囲気を感じていたのです。自分の目が信用できませんでした。

東の空が白むにつれ、昼の光が強まって、その鮮やかな彩色が再び世界の上に戻ってくるにつれて、わたしは風景の中を熱心に探し回りました。でも、あの白い人影は影も形もありません。あれは単に、おぼろな光の生き物だったのかもしれません。「幽霊だったんだろう。いつ死んだんだろうか」とわたしは口に出しました。というのも、グラント・アレンの奇妙な発想がふと思い浮かび、おもしろいなと思ったのです。各世代が死んで幽霊を残すなら、世界はやがて幽霊過密になってしまうだろう、とかれは論じました。その理論にしたがえば、八十万年ほど後では幽霊は文字通り無数になっていたでしょうし、だから4匹一度に見たところで何の不思議もありません。でもその冗談は満足のいかないもので、わたしは朝の間ずっとあの姿のことを考えていたのですが、そこでウィーナが救いにあらわれて、それを頭から追い払ってくれました。わたしはそれを、初めて熱心にタイムマシンを探したときに脅かした、あの白い動物となぜかしら結びつけていたのです。でも、ウィーナの方が考えるには気分がよかった。とはいえ、それらはやがて、わたしの意識に遥かに恐ろしい形で取り憑くことになるのです。

この黄金時代の天候が、われわれの時代よりずっと暑かったことは申し上げたかと思います。理由はわかりません。太陽が暑くなったのか、地球が太陽に近づいたのか。将来は太陽がどんどん冷却化すると考えるのが通例のようです。でも若きダーウィンのような考察に慣れていない人々は、惑星はいずれ一つずつ母星に落下して戻らなくてはならないのだ、ということを忘れてしまいます。こうした転変地異が起こるにつれて、太陽はエネルギーを更新してまた燃えさかるでしょう。そして、いくつか内側の惑星がこうした運命を迎えたのかもしれません。理由は何であれ、太陽はいまよりもずっと暑かったというのは事実です。

とにかく、とても暑いある朝――たしか四日目だったと思います――眠って食事をする大きな家に近い、巨大な廃墟の中で、熱と陽光から逃れようとしているとき、奇妙なことが起こりました。煉瓦の山を登っているうちに、狭いギャラリーに出たのですが、その端とスライド式の窓が倒れてきた石の山でブロックされています。屋外の明るさに比べて、最初はそこは入るのもはばかられるほど真っ暗に思えました。明るいところから暗いところに変わって、目の前に色のついた点がちらちらしているほどだったので、手探りでその中に入りました。急にわたしは、呪文にかかったように凍り付きました。外の日光を反射して輝く目が二つ、暗闇の中からこちらを見ているのです。

昔ながらの本能的な野獣に対する嫌悪がわき起こりました。手を握りしめると、ぎらつく目玉をしっかりとにらみつけました。背を向けるのはこわかった。そのとき、人類が絶対的な安全の中に暮らしているように思えたことが頭に浮かびました。そして暗闇に対する奇妙な怯えも。多少は自分の恐れを克服して、わたしは一歩進み出て話しかけてみました。その声がきつくて、抑えが効いていなかったことは認めざるを得ません。手をのばすと、何か柔らかいものに触れました。すぐに目は横に飛び退いて、何か白いものが脇をすりぬけていきました。わたしは死ぬほど驚いて振り返り、そして奇妙な小さいサルのような姿が、独特の形で頭を下げ、背後の陽に照らされた空間を駆け抜けるのを目にしたのです。それは花崗岩のかたまりにぶつかって、よろめき、そして一瞬で別の壊れた煉瓦壁の山の下にある、黒い影の中にかき消えてしまいました。

それについてのわたしの印象は、もちろん不完全なものです。でもそれが鈍い白で、奇妙に大きな灰色がかった赤の目をしているのはわかりました。さらに頭と背中にかけて亜麻色の毛もありました。でも申し上げたように、はっきり見て取るにはあまりに素早かった。それが四つ足で走ったのか、前の腕をとても低く下げていただけなのかもわかりませんでした。一瞬ためらってから、わたしはそいつの後を追って二つ目の廃墟の山に入っていきました。最初はそいつを見つけられませんでした。でもその広大な茫漠の中でしばらくするうちに、すでにお話ししたあの丸い井戸のような開口部の一つに出くわしました。これが倒れた柱によって半分閉じています。いきなりひらめきました。あの生き物は、この竪穴の中に消えたんじゃないか? わたしはマッチをともし、見下ろすと、小さな白い動く生き物が見え、そいつが大きな明るい目で、退却しつつもこっちをじっとにらんでいました。実に人間グモのようでした! そいつはかべをはい降りつつあって、いまや初めてその竪穴に金属の足場がたくさんついていて、そこを降りるはしご代わりとなっているのがわかりました。そのときマッチの火が指を焼き、手から落ちて、落下するうちに消えてしまい。そしてもう一本マッチを擦る頃には、小さな怪物は消えていました。

その井戸の中を、どれほどのぞきこんでいたのかはわかりません。自分が見たものが人間だったと言うことを自分に納得させるのに成功するまで、かなりの時間がかかりました。でもやがて、真実が見えてきました。人類は一つの種のままではなく、二種類のちがった動物へと差別化していったのです。地上世界の我が優雅な子どもたちは、われわれの世代の唯一の子孫ではなく、わたしの目の前を駆け抜けた、あの漂白されて醜悪な夜行性の代物も、この時代を通じてずっと子孫だったのだ、と悟ったのです。

わたしはちらつく小塔と、自分の地下換気理論のことを考えました。かれらの真の意義がわかってきたのです。そしてこのレムールは、完全にバランスのとれた組織という我が図式の中で何をしていたのでしょうか? 美しい地上世界人たちの怠惰な静穏とどう関係しているのだろう? そしてあの縦穴の底、地下には何が隠されているのだろう? わたしは井戸のふちにすわって自分に言い聞かせました。とにかく何も恐れることはないのだ、と。そして我が困難の解決のためには、あそこに下って行かなくてはならないのだ、と。 そしてそれにもかかわらず、わたしはそこに行くのが心底怖かった! ためらううちに、美しい地上世界の人々が二人走ってきて、日光の中を影から影へと走る、かれらの優雅なスポーツをやっていました。男が女を追いかけ、走りながら花を投げつけています。

かれらは、ひっくり返った塔に腕をかけて井戸をのぞいているわたしを見つけて、おびえたようでした。どうやらこうした装置について言及するのはよくないことと思われていたようです。というのも、これを指さして、かれらの言語でそれについての質問をしようとすると、かれらはいっそうおびえて、背中を向けてしまいました。でもマッチには興味を持ったようで、かれらを楽しませるために何本か擦ってやりました。井戸についてもう一度きいてみましたが、また失敗です。そこで、じきにかれらを後にして、ウィーナのところに帰ろうと思いました。彼女なら何か教えてくれるかもしれません。でも頭の中はすでに大混乱していました。憶測や印象が揺れ動いては変動し、新しいところにおさまろうとしていたのです。いまやこうした井戸や換気塔、そして幽霊たちの謎についてヒントが得られました。そしてもちろん、ブロンズの門の意義やタイムマシンの行方についても! そして非常に漠然とですが、悩んできた経済上の問題の答えに向けて、示唆が思い浮かんだのです。

新しい見方というのはこうです。明らかに、この人類二番目の種は地下にすんでいます。かれらがたまにしか地上に登場しないのは、長く続いた地下の習慣の結果だと思わせる状況証拠が三つありました。まず、暗闇の中でもっぱら過ごす動物たち――たとえばケンタッキーの洞窟に住む魚など――に共通の、あの漂白されたような外見があります。そしてあの光を反射できる大きな目は、夜行性動物の共通の特徴です――フクロウやネコをごろうじろ。そして最後に、日光の下で明らかに混乱していて、あわててしかもよたよた不器用に暗い影に逃げ出す様子、そして光の下にいるときには奇妙な形で頭を覆っていること――このすべては、瞳孔がきわめて敏感だという仮説を強化するものです。

すると足下では、地下にすさまじいトンネルがほられ、そのトンネルは新しい人種の居住地になっているにちがいありません。丘の斜面沿いの換気シャフトや井戸の存在――いや、川の峡谷沿いを除けば実はあらゆる場所にありました――はその広がりがいかに広大かを告げています。でしたら、昼間の種族の安楽のために必要な仕事が、この人工の地下世界で行われていると想定すること以上に自然なことがあるでしょうか。この考えはあまりに納得がいったので、わたしはすぐにそれを受け入れ、この人類の分裂がどうやって起きたかを考え始めました。たぶんあなたたちも、わたしの理論の方向性は予想がつくはずだ、と申し上げておきましょう。でもわたし自身はといえば、やがてそれが真実に遙かに及ばないものであると感じることになったのですが。

最初、われわれの時代の問題から考えを進めると、資本家と労働者の間の、現在では単に一時的で社会的な相違が徐々に拡大してきたのが、この状況すべてへの鍵だと言うことは真昼のように明らかに思えました。もちろんあなたたちにはグロテスクに思えるでしょう――そしてまるで信じられないと!――でも現在ですら、その方向を示すような状況が存在しているのです。文明の中であまり見栄えのしない目的のためには地下空間を使う傾向があります。たとえばロンドンでは都市地下鉄道がありますし、新しい電気鉄道も、地下通路も、地下の作業室やレストランもありますし、それが増えては増殖しています。明らかに、この傾向が拡大して、やがて産業は徐々に空に対する生得権を失ってしまったのだ、とわたしは思いました。つまりそれがますます深く、ますます大きな地下工場へと移行し、その中でますます多くの時間をすごすようになって、そしてついに――! 今ですら、イーストエンドの労働者たちは実に人工的な環境に住んでいて、実質的に地球の自然な表面からは切り離されているのではありませんか?

またも、裕福な人々特有の性向――まちがいなく教育がますます洗練され、かれらと貧困者の粗野な暴力との間の溝が拡大してきたせいですが――のおかげで、地表面のかなりの部分は、かれらの利益になるような形で囲い込まれています。たとえばロンドン周辺では、見目麗しい方のいなかのうち、半分は侵入できないように囲われているでしょうか。そしてこの広がる溝――それは高等教育の長さと費用と、金持ちの洗練された習慣のための設備向上と魅力の高まりのせいなのですが――は、階級間の交流、現在では人類が社会的な階層化によって分断されるのを抑えている、あの階級間の婚姻による階級移動は、ますます起こりにくくなります。したがって最後には、地上には持てる者がいて、快楽と安楽と美を追究し、地下には持たざる者、自分の労働条件にますます適応する労働者たちがいるようになります。いったん地下に入ったら、まちがいなく賃料を支払うことになるでしょう。しかも、かなりの額のはずです。あの洞窟の換気設備がありますから。そしてそれを拒否すれば、未払い金のせいで飢え死にするか絞め殺されるでしょう。惨めさや反逆心を感じるように作られた者たちは死にます。そしてついには、バランスが永続的なものとなり、生き残った者たちは地下生活の条件に立派に適応し、地上世界の人がこちらで感じているのと同じような幸せを、地下の暮らしで感じるようになります。わたしの目には、洗練された美としおれたような蒼白さはそこから十分自然に続いてくるものでした。

わたしが夢見た人類の偉大な勝利は、心の中でまったく別の形をとって現れました。それはわたしが想像したような、道徳教育と全般的な協力の勝利ではありませんでした。かわりに、本物の貴族階級が完全な科学で武装して、今日の産業システムの論理的帰結にまで突き詰めたのが見いだされました。その勝利は単に自然に対する勝利ではなく、自然と仲間の人間に対する勝利でした。警告しておきますが、これは当時のわたしの理論でした。ユートピア関連書のパターンに関する手軽な案内はありませんでした。だからわたしの説明はまるっきりまちがっているかもしれない。それでも、いちばんもっともらしい説明だと思います。でもそう想定したとしても、ついに実現したバランスのとれた文明は、たぶんその最盛期を遙か昔に過ぎ、いまや衰退に落ち込んで久しいようでした。地上世界人たちのあまりに完璧すぎる安全保障は、かれらをゆっくりと退行させて、体の大きさも、強さも、知性も、全般に縮んでいったのです。この点はすでに十分にはっきりと見て取れました。地下世界人たちに何が起きたか、そのときはまだ見当がつきませんでした。でもそれまでに見たモーロックたちから判断して――ちなみにモーロックというのは、この生き物たちの呼び名でした――わたしがすでに知っていた美しい種族「エロイ」たちに見られるよりもっと激しい人間の変形が生じたものと思われます。

そして困った疑念がわき起こりました。なぜモーロックたちはわたしのタイムマシンを持ち去ったのか? というのも、それを取ったのはまちがいなくかれらだと思ったのです。また、もしエロイが主人であるなら、なぜかれらはマシンをわたしのところに戻してくれないのか? そしてなぜかれらは暗闇をひどく恐れるのか? すでに述べたように、地下世界についてウィーナに問いただし始めましたが、ここでもがっかりさせられました。最初、彼女はわたしの質問を理解せず、理解した後はそれに答えることを拒否したのです。そして追求すると、詰問がきつすぎたのか、いきなり泣き出しました。この黄金時代に見た涙は、自分自身のものをのぞけば、それが唯一のものでした。それを見て、わたしはあわててモーロックたちのことで悩むのをやめて、こうした人間の遺産の徴をウィーナの目から消滅させることに専念しました。そしてまもなく、わたしが荘厳にマッチをともすのを見て、彼女は笑っては手をたたいていました。


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