ジョージ・オーウェル

聖職者の特権:サルバドール・ダリに関するいくらかの覚え書き


自叙伝が信用に足るのはそれが何らかの恥ずべき行為を明かしている場合だけだ。自身について良いことを言う者はおそらく嘘をついている。どんな人生であれ、内から見ればそれは失敗の連続に過ぎないのだから。しかしながらもっとも誠実さに欠ける書籍(フランク・ハリスの自叙伝がその一例だ)であっても思いがけずその著者の真実の姿を描き出すものだ。最近出版されたダリの生涯生涯:ダリによって書かれた自叙伝「わが秘められた生涯」を指すがまさにそうだ。そこに書かれた出来事の一部は率直にいって信用に値しないし、そうでなくとも脚色され、実際より美化されている。たんなる屈辱的な出来事だけでなく、絶え間ない日常生活のありふれた出来事も取り除かれているのだ。ダリは自身でその自己陶酔的傾向を認めることさえしている。端的に言えば彼の自叙伝はピンクのスポットライトの下でおこなわれるストリップショーだ。だがこの機械化の時代に可能になった自由奔放な空想の記録、本能からの逸脱の記録として見ればこれは非常に価値がある。

それではここでダリの生涯から年代順にいくつかのエピソードを挙げてみよう。そのいくつかは真実であり、いくつかは想像上の全く根拠が無いものである。だが重要なのは、おそらくそれらこそダリがおこないたいと望むものであることだ。

彼が六歳の時、ハレー彗星の出現という興奮を催させる出来事があった:

私の父親の執務室で働く事務員の一人が突然、客間の入り口に現れ、テラスからあの彗星が見えると告げた……。玄関ホールを横切る時、三歳になる妹がこっそりとはいはいで戸口をすり抜けるのが目に止まった。私は立ち止まると一瞬ためらってからまるでボールを蹴るように彼女の頭に恐ろしい一蹴りを浴びせ、また走りだそうとした。この残忍な行為によって引き起こされた「甘美な喜び」に心は満ちあふれていた。だが背後にいた父親は私を捕らえると執務室へと引っ張って行き、罰として私はそこに夕食の時間まで閉じ込められることになった。

この出来事の一年前、ダリは「唐突に自身の思想のほとんどを手に入れ」、ある少年を吊り橋から突き落とした。同じようなたぐいの事件が他にもいくつか書かれ、中には(これは彼が二十九歳の時のことだが)ある少女を殴り倒して踏みつけにし、「皮膚が裂け、血を流しながら彼女が逃げ出すまでそれを続けた」という出来事も書かれている。

五歳ほどの時に彼は傷を追ったコウモリを捕まえてブリキ製のバケツに閉じ込めた。翌朝、コウモリはその肉を貪り食う蟻に体中を覆われて死にかけていた。彼は蟻ごとそれを口に放り込み、二つに裂けるほど強く噛んだ。

青春期にはある少女が猛烈に彼に恋をした。彼は彼女を可能な限りその気にさせるようにキスし、愛撫し、その後で拒絶した。この行為を彼は五年の間続けると決め(彼はこれを「五カ年計画」と読んでいた)、相手の感じる恥辱と自分に与えられた権力を楽しんだのだ。彼はたびたび相手に五年が過ぎたら彼女を捨てることを言って聞かせ、実際にそれを実行に移した。

成人期になってからもかなりの間、彼はマスターベーションを続けた。どうやら鏡の前でそれをおこなうのが彼のお気に入りだったようだ。通常の行為においては三十歳あたりまで彼は不能であったらしい。未来の妻であるガラと初めて出会った時、彼女を崖から突き落としたいという激しい衝動に彼は駆られた。彼女が何かを求めていることに彼は気がつき、初めて二人がキスをした後、それは告白された。

私は彼女の髪を掴んで、ガラの頭を後ろに引いた。完全なヒステリー状態で体を震わせながら私は詰問した:

「さあ、私に何をさせたいのか言うんだ! だが私の目を見ながらもっとも汚らわしい、もっともみだらな言葉でゆっくりと言え。私たち二人ともが最大の恥辱を感じるような言葉で!」

するとガラは喜びの表情の残り火を彼女自身の暴虐さの光に変えながら答えた:

「私を殺して!」

この要求に彼はいくらか失望した。それは既に彼がそうしたいと思っていたことに過ぎなかったからだ。彼はトレド大聖堂の鐘楼から彼女を突き落とすことを計画し、だがそれをこらえていたのだ。

スペイン内戦スペイン内戦:オーウェルは共和国派の義勇兵としてこの内戦に参加していたの間、彼は抜け目なくどちらかの陣営につくことを避けてイタリアへと旅行に出ていた。彼はますます自らを貴族階級、洗練されたサロンの常連と感じるようになっていた。自らのための裕福なパトロンを探し出し、自分の「マエケナスマエケナス:ガイウス・マエケナス。古代ローマの政治家。詩人、文学者の支援者として有名なことからパトロンの意味で使われる。」であると称するよく太ったノアイユ子爵ノアイユ子爵:シャルル・ド・ノアイユ子爵。ノアイユ夫妻はダリやジャン・コクトーなどに積極的な援助を行ったことで知られる。と一緒にいるところを写真に撮られている。ヨーロッパ戦争が近づいた時の彼の関心事はただ一つだった。まともな食事ができて危険が近づいた時にすばやく逃げ出せる場所をどうやって探し出すかということだ。彼はボルドーを選び、ナチス・ドイツのフランス侵攻が始まると再びスペインへと逃げ出した。いくつかの反共の残虐行為を見聞きする頃までスペインにとどまった後はアメリカへと急いだ。この物語は輝かしい体面を取り繕って終わる。三十七歳になるとダリは献身的な夫へと変貌を遂げ、その奇行の少なくとも一部は治癒し、カトリック教会との完璧な和解を遂げたのだ。そしてその頃には彼はひとまとめにするとかなりの量の金を稼ぎだすようになっていた。

しかし彼は「大自慰者」や「グランドピアノと頭蓋骨の獣姦グランドピアノと頭蓋骨の獣姦:ダリの作品「グランドピアノを獣姦する空気のような頭蓋骨」を指していると思われる」といった自らのシュールレアリズム時代の絵画を誇示することを決してやめようとはしない。この書籍のいたるところにそれらの複製画が載っている。ダリの描く絵の多くは単純で表象的なものであり、後ほど説明する特徴を持っている。だが彼のシュールレアリズムな絵画や写真から私たちの前に立ち現れるのは意図的な性の逸脱と死体性愛の二つである。性的な物体や記号……お馴染みのハイヒールのミュールといったよく知られたもの、あるいはダリ自身によって彼の専売特許であるとされた松葉杖やホットミルクの入ったカップと言ったもの……が何度も何度も繰り返され、はっきりそれと分かる排泄器官をモチーフとしたものさえある。彼の作品である「陰惨な遊戯」について彼はこう語っている。「排泄物が飛び散ったズボン下はほんのわずかな時間で描いたものだが、シュールレアリズムの小さなグループ全体をある疑問で苦しめることができて実に満足を覚えた。疑問とはこうだ。彼は食糞症なのだろうか?」ダリははっきりと自分にその趣味はない、そういった倒錯は「ひどく不快」であると付け加えているが、彼の排泄物に対する関心が止んだのはその一時だけだったようだ。ある女性が立ったまま排尿するのを見た経験について説明している時にさえ、彼はその女性が狙いを外して彼女の靴を汚したといった詳細を付け加えずにはいられない。それが誰であれ一人の人間が全ての不道徳を背負っているということはあり得ないし、またダリは自分が同性愛者ではないと誇らしげに語っている。しかしその他の点では人間が望む倒錯癖の一揃いを彼は身につけているように見えるのだ。

だが彼のもっとも目を引く特徴はその死体愛好癖だ。彼自身がためらうこと無くそれを認め、そこから治癒したのだと主張している。死者の顔、頭蓋骨、動物の死骸は非常によく彼の絵画に現れ、あの死にかけたコウモリを貪っていたような蟻は数えきれないほどたびたび登場する。ある写真には墓から掘り起こされた腐敗が進む死体が写っている。またグランドピアノの上に積まれた腐りかけのロバの死骸が写されたこともある。シュールレアリズム映画「アンダルシアの犬」の一場面だ。ダリはここでもまた非常に情熱的にそのロバのことを回想している。

私は大きな容器から粘着質のにかわをその上に注いでロバの死骸を「作り上げ」た。またロバの眼窩は空洞にした後でカミソリを使って大きく切り開いた。同じように口も大きく切り開いて並んだ歯がよく見えるようにし、さらにそれぞれの顎を何度か開け閉めした。そうすることで既にロバが腐り始めているにも関わらず、自らの死にわずかに吐き気を催しているように見えたはずだ。ロバの上側の歯の並びは黒いピアノの鍵盤に揃えた。

そして極めつけは……まるでやらせ写真か何かのように見える……「タクシーの中の朽ちゆくマネキン」の写真だ。明らかに死んだ少女を思わせる既にいくらかむくんだ顔や胸の上を巨大なカタツムリが這いまわっている。ダリは写真の下に付けられた説明文にこれはブルゴーニュ・カタツムリであると書いている……食用の種類だ。

もちろんこの四百ページに及ぶ四つ折り版の長編には私が挙げた他にもいろいろなことが書かれている。だが私は彼の持つ道徳観と心象風景についてここで不公平な説明をしたとは考えていない。この本は悪臭を放っている。もしページから現実の悪臭を放つ本があるとすればこの本こそがそれだ……この思いつきはダリを喜ばせることだろう。彼は未来の妻に初めて結婚を申し込んだ時、魚からとったにかわでやぎの糞を煮込んで作った軟膏を体にすりこんでいたのだ。だがそれでもダリが非常に類まれな才能を持つ画家であることは間違いない。またその画作からうかがい知れる精密さと腕の確かさから見て、彼は非常に努力家である。自己顕示欲と出世欲の強い人物ではあるが詐欺師ではない。彼の道徳観を非難し、その絵画を嘲笑するであろう人間の五十倍もの才能を彼は持っている。そしてその二つの事実のために、激しい議論によってもなんら基本的な合意が得られることのない疑問が投げかけられるのだ。

重要なのは今、健全さと慎みというものに対する直接的で疑問の余地のない攻撃が加えられているということだ。生命そのものにさえ攻撃が加えられているのだ……なぜならポルノの描かれたポストカードのように、ダリの絵画には想像力を汚染する傾向がおそらくはあるからだ。ダリがおこなってきたこと、彼が思い描くことには議論の余地がある。しかし彼の見解や品性、人間としての最低限の慎みに関してはそんなものは存在しない。間違いなく彼は反社会的な人物であり、望ましからざる人々の一員だ。そしてそういった人々が栄える社会は何かしらの病理を抱えているのだ。

さて、もしその挿絵とともにこの本を示せば「高尚なるものの衰退」に喝采をあげるエルトン卿エルトン卿:おそらくイギリスの歴史家ゴドフリー・エルトンを指すやアルフレッド・ノイズ氏アルフレッド・ノイズ氏:イギリスの詩人、ザ・タイムズ紙の論説委員……つまり芸術を憎む「思慮ある」イギリスの人々……がどんな反応を示すかは容易に想像できるのではないだろうか。それがどんなものであれ彼らはダリに価値があることを断固として認めようとはしないだろう。こういった人々は道徳的な退廃が審美的に正当化し得ることを認められない。それだけでなく実のところ全ての芸術家に対してその背中を叩いてそういった思想は不要なものなのだと説いて聞かせたいと考えているのだ。情報省と英国文化振興会が彼らに権力を与えようとしている現在の状況では彼らは特に危険な存在になり得る。彼らの欲求は姿を見せつつある全ての新しい才能の芽を摘むだけでなく、過去をも弱体化させるからだ。現在、この国やアメリカで進行している高尚なものへの迫害の再勃興を見るといい。糾弾されているのはジョイスやプルースト、ローレンスだけではない。T・S・エリオットさえその対象なのだ。

一方でダリの価値について理解できるような人物と話してもたいがいは良い反応が返ってくることはない。もし、ダリはすばらしい画家ではあるが同時に薄汚れて矮小なろくでなしだ、と言えば相手に野蛮人と見なされるのが関の山だ。腐りかけの死体など好みではない、腐りかけの死体が大好きな人間は精神的に病んでいるのだ、と言えば美的なセンスに欠けていると思われるのだ。何と言っても「タクシーの中の朽ちゆくマネキン」は傑作なのだ。たんに私たちがそれをまだ見つけ出せていないというだけでなく、これら二つの誤謬の間の中間は存在しない。一方には文化ボリシェヴィキズム文化ボリシェヴィキズム:ナチス時代のドイツでモダニズム芸術(特に虚無主義的なもの)を非難するために広く使われた言葉。Kulturbolschewismus。があり、もう一方には(このフレーズ自体は流行遅れだが)「芸術のための芸術」がある。わいせつ性は誠実な議論が非常に難しい問題だ。衝撃を受けているよう見える見えないによらず、人々は驚きのあまり芸術と道徳の間の関係性を定義できないでいる。

ダリの擁護者の主張がある種の聖職者特権であることはおわかりいただけるだろう。芸術家は普通の人々を縛る道徳律に従わずとも良い。ただ「芸術」という呪文を唱えるだけで全ての問題はなくなる。小さな少女の頭を蹴飛ばしても問題なし、「黄金時代黄金時代:ダリと共に「アンダルシアの犬」を撮影したルイス・ブニュエルの作品。右派の抗議活動をきっかけに以後五十年近くの間、上映が自粛された。」のような映画[以下に注記]も問題なし、ダリがフランスで何年も居候として過ごし、フランスが危機に瀕するとネズミのように逃げ出したところで何の問題もない。基準を満たす十分うまい絵を描くことができれば、全てが許される。

[注記:ダリは「黄金時代」に言及した上で最初の公開上映が暴徒によって台無しにされたと付け加えているがその内容がどの様なものだったかについては語っていない。ヘンリー・ミラーの説明によれば、ある女性の排便シーンをとりわけ詳細に写していたそうだ(原著者脚注)]

これがどれほど間違っているかはその対象を通常の犯罪にまで広げてみればわかる。私たちの時代においては芸術家がひどく例外的な人間である場合、その人物はある程度までなら無責任な行為をしても許される。それはちょうど妊娠中の女性が寛大に扱われるのと同じようなものだ。だが妊娠中の女性は殺人を犯しても許されると言う者はいないだろうし、それは芸術家に対しても同じだろう。どれだけ才能のある芸術家だろうと変わらない。もし明日、シェイクスピアが地上によみがえったとしよう。そして彼のお気に入りの娯楽が旅客列車で小さな少女たちをレイプすることだったとしよう。彼が新たなリア王を書くだろうからと言って私たちは目の前で繰り広げられるその行為を続けるよう勧めるべきではない。確かに最悪の犯罪であってもそれを常に罰することができるわけではない。死体愛好の空想を煽ることによる害は実際のところ、例えば競馬場でスリを働くことと大差ないだろう。ダリは優れた画家であり、また吐き気を催させるような人間であるという二つの事実を同時に頭の中に収めることができるようになるべきだ。その一方によってもう片方が帳消しになったり、何か影響を受けたりするわけではない。私たちが壁に対して求めるものはまず第一に丈夫であることだ。丈夫であれば良い壁であり、壁が何の目的で作られたかはそれには関係しない。そして世界でもっとも良い壁であっても、もしそれが強制収容所を囲むものであれば解体されるべきなのだ。同様に「これは良い書籍、あるいは良い絵画であるが公共に仕える死刑執行人によって焼き捨てられるべきである」と言うことができるはずだ。もしそう言えないのであれば芸術家もまた一人の市民であり、人間であるという事実が意味することから少なくとも心の中では逃げ出しているのだ。

もちろん、ダリの自叙伝や彼の絵画を規制の対象にすべきだと言っているわけではない。地中海の港町でよく売られている下品なポストカードでもなければ、それが何であれ規制するというのは疑問のあるやり方である。ダリの夢想も資本主義文明の退廃に光を投げかけるという意味でおそらくは有用なのだろう。だが明らかに彼に必要なのは医者による診断だ。彼がどのような人物であるかはたいした問題ではない。問題なのはなぜそのような人物なのかということだ。彼の知性が病的なものであることに疑問の余地は無いだろう。彼が主張するところの転向もおそらくはたいした変化をもたらしてはいない。真に懺悔する者や正気を取り戻した人々は自らの過去の悪行をこんな自慢げなやり方でひけらかしたりはしないからだ。彼は世界の病理の表れなのだ。重要なのは彼を鞭打たれるべき下劣な人間であると非難したり、疑問を投げかけられる余地のない天才であると擁護したりすることではない。なぜ彼はあの一連の奇行を誇示するのか理解することだ。

その答えはおそらく彼の絵画の中から見つけ出すことができるだろうが、私自身にはそれを分析するだけの能力はない。だが答えに近づく手がかりとなるであろうものを指摘することはできる。それは古風で過剰装飾気味のエドワード朝エドワード朝:エドワード7世が在位した1901年から1910年ごろの期間を指す様式の彼の絵だ。ダリはシュールレアリズムから脱却した時、そこに立ち返ろうとした。ダリのデッサンのいくつかはデューラーを思わせ、(百十三ページ目の)あるものはビアズリーの影響をうかがわせる。また(二六九ページ目の)別のものはブレイクの作風を取り入れているようだ。だがもっとも顕著な傾向はやはりエドワード朝からの影響だ。初めてこの本を開いて欄外にある無数の挿絵を見たとき、私はそれが何に似ているのかすぐにはわからず、ずいぶん悩まされた。ようやく気がついたのは第一部の始め(七ページ目)にある装飾されたろうそく立てを見た時だ。何か思い出さないだろうか? ついに私はそれを突き止めた。思い出したのは巨大で下品で、高価に飾り立てたアナトール・フランスアナトール・フランス:フランスの詩人、小説家の一冊だ。たしか一九一四年ごろに出版されたものだ。章の見出しと終わりは同じように飾り立てられていた。ダリのろうそく立ての一方の端には妙に既視感を覚えるねじ曲がったような魚に似た動物(抽象化されたイルカを元にしていると思われる)が描かれ、もう一方の端では火が燃えている。この(複数の絵に繰り返し現れる)ろうそくはひどく馴染み深いものだ。その側面に同じように蝋の塊を滴らせたものを、まがい物のチューダー朝様式で飾られた大衆向けの田舎ホテルにあるろうそく立て風の電灯に見ることができる。このろうそくとその意匠はそれよりも劣る。強い感傷的な印象を即座に与え、まるでそれを中和するかのようにダリは針のようなインクをページ全体にまき散らしているがそれも役には立っていない。同じような印象がページをめくるたびに湧き上がる。例えば六十二ページ目の下部にあるシンボルマークはひどくピーターパンに似ている。二二四ページ目にある人物像は、頭がまるで巨大なソーセージのような形に長く引き伸ばされているにも関わらず、おとぎ話に出てくる魔女そのものだ。二三四ページ目の馬と二一八ページ目のユニコーンはジェームス・ブランチ・カベルジェームス・ブランチ・カベル:アメリカのファンタジー・純文学作家のために描かれたかのようだ。九十七ページ目や百ページ目、その他の場所にもある若者たちを描いた同性愛的な絵も同じ印象を与える。絵の印象はずっと変わらない。頭蓋骨や蟻、ロブスター、電話といった題材を除けば、気がつくとたびたびバリーやラッカム、ダンセイニ、そして虹の果てるところ虹の果てるところ:1911年に上演された児童劇の世界へと引き戻されるのだ。

非常に奇妙なことにダリの自叙伝に登場する不品行の持つ雰囲気の一部は同時代と強く結びついている。最初に引用した妹の頭を蹴ったというあの文章を読んだとき、私はもう一つの既視感を感じた。何だろうか? その通り! ハリー・グラハムの冷酷な一家のための残酷な詩だ。これは一九一二年ごろにとても人気のあった詩で、例えばこんな風なものだ。

かわいそうなちっちゃいウィリーが泣いている、とても悲しそう
惨めなちっちゃい少年、それが彼
妹の首を折ったせいで
紅茶にジャムを入れてもらえないんだね

ダリの逸話に見つかりそうな話ではないか。もちろんダリは自分のエドワード朝的傾向を知っていて、多かれ少なかれパスティーシュ文体模写の精神でもってそれを利用している。彼は一九〇〇年という年への愛着をはっきりと明言し、一九〇〇年の全ての装飾品には神秘性、詩的優雅さ、エロティシズム、狂気、逸脱が満ちていると主張している。しかしながらパスティーシュでは普通、パロディー化されたものへの強い愛着がほのめかされるものだ。それがルールであるというわけではないが同じ方向を向いた非理知的、あるいは子供っぽいとさえ言える衝動をともなういくらかの知的な倒錯は疑いようもなく一般的である。たとえば彫刻家は平面と曲線に関心を持ち、同時に粘土や岩石との格闘という肉体的活動を楽しむ人間である。エンジニアは道具の感触、発電機の騒音、そしてオイルの臭いを楽しむ人間だ。精神科医は自身、いくらかの性的な異常傾向を持つことが多い。ダーウィンが生物学者になった理由の一部は彼が田舎に住む紳士で動物を好きだったからだ。それに従えば、ダリに見て取れるエドワード朝的なものへの倒錯した崇拝は心の奥底にある意識にのぼらない好みの表れに過ぎないのだろう。無数にある美しい教科書の挿絵の模写には、おそらく冗談まじりなのだろうが真面目ぶって夜鳴きうぐいす時計といった題名が付けられている。それらが本の余白中に撒き散らされているのだ。一〇三ページ目にある半ズボンを履いてディアボロで遊ぶ小さな少年の絵はまさに古風と言っていい作品だ。しかしこういったものが掲載されているのはダリがこういったものを描かずにはいられないからなのだろう。彼が本当に属しているのはその時代、そのスタイルの絵画なのだ。

もしそうであれば彼の奇行にも部分的には説明がつく。おそらくそれは自分が平凡な人間ではないと自分自身に確認するための方法なのだ。ダリが紛れもなく持つ二つの性質は絵画の才能と恐ろしいほどの自我の肥大だ。彼は自著の最初の段落で書いている。「七歳の時、私はナポレオンになりたかった。私の野心はその時から次第に成長を始めたのだ」。これは人を驚かせることを意図して書かれた言葉だが、本質的な真実であることは疑いようがない。こういった感覚は十分ありふれたものだ。私は誰だったかに「自分が天才であるということはわかっている。天才とは何か理解するずっと前から自分でわかっていた」と言われたことがある。鼻っ柱をへし折られる前の自我の肥大と器用さの他には何も持っていない自分を想像してみて欲しい。詳細で学術的で表現に富んだ絵画スタイルに対する真の才能を自分が持っていることを、科学の教科書の挿絵画家になれるほどの本物の手腕を自分が持っていることを想像して欲しい。それではここからどうしたらナポレオンになれるだろう?

逃げ道は一つだけだ。極悪人になるのだ。人々を驚かせ、傷つけることをやり続けるのだ。五歳で小さな少年を橋から突き落とし、年老いた医者の顔を鞭で打ってその眼鏡を壊す……あるいはともかくもそういった行いを夢想する。二十年たったら死んだロバの眼球をはさみを使ってえぐりだせばいい。その間ずっと自分が独特な人間であるという感覚を感じ続けることができる。結局、全て演技なのだ! 犯罪を犯すよりはずっと安全だ。ダリの自叙伝での抑制具合を考え合わせれば、幼少期に行ったかもしれない奇行に彼が苦しむ必要など無いことは明らかだ。彼は一九二〇年代の腐りゆく世界で育った。詭弁がおおいに広がり、ヨーロッパの資本階級は貴族と金利生活者たちで占められ、スポーツと政治に夢中の彼らが芸術分野のパトロンとして振る舞っていた時代だ。人々に死んだロバを投げつければ、彼らは代わりに金を投げ返すのだ。バッタ嫌いバッタ嫌い:ダリはバッタを異常に恐れていた……数十年前であればたんに冷笑を生んだだけであろうこの性質……は今では興味深い「脅迫観念」であり、それをうまく使えば利益さえ生み出せる。そしてその特殊な世界がドイツ軍の前に崩れ落ちても、次はアメリカが待っている。挙句の果ては宗旨替えさえ可能だ。一足飛びで良心の呵責の影さえ感じさせずにパリのファッショナブルなサロンから天国へと行ける。

おそらくこれこそがダリの人生の本質的なあらすじなのだ。しかしダリの奇行はなぜあのような特有の形をとるのか、なぜ腐っていく死体のようなおぞましいものがああも簡単に知性ある人々に「売れる」のか……それらの疑問は心理学者と社会学評論家に委ねるとしよう。マルクス主義者による批判はシュールレアリズムを始めとするそれらの現象を短く断じている。それらは「ブルジョアの退廃」である、それで終わりだ(多くの場合、「死体という毒」と「不労所得者階級の腐敗」という言葉が使われる)。だがそれらの主張がおそらく事実であったとしても、その間の関係ははっきりとしない。なぜダリの性向が死体愛好へ向けられるのか(そしてなぜ同性愛には向けられないのか)、なぜあの金利生活者や貴族たちは彼の絵画を買い求め、その祖父世代のように愛を追い求めることをしないのか、依然として答えは探し求められるだろう。たんなる道徳的非難ではたいしたものは得られそうにない。だが「無関心」という名のもとに「タクシーの中の朽ちゆくマネキン」のような写真は道徳的に中立であるという振りしても同様に得るものはない。それらは病的で吐き気を催させるものである。どのような原因探求であってもまずその事実から開始されなければならない。

1944年
The Saturday Book for 1944

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