ジョージ・オーウェル

チャールズ・ディケンズ 第三章


ディケンズは貧困に脅かされながら育ち、その心の広さにも関わらず、卑しい上流階級という特有の偏見から逃れることはできなかった。彼は「人々」の作家、「抑圧された大衆」の擁護者であるとよく言われる。相手が抑圧されていると彼が考える限りにおいては確かにその通りだが、彼の態度にはそれを条件づけている二つのものが存在する。まず第一に彼はイングランド南部の人間であり、さらにはロンドン育ちであるということだ。それゆえに本当に抑圧されている大衆の一群、つまり工業労働者や農業労働者とは触れ合うことが無かった。もう一人のロンドン育ち、チェスタートンが「貧困者」とは具体的に誰のことなのかを言わずに常にディケンズを「貧困者」の代弁者として挙げている様は興味深い。チェスタートンにとって「貧困者」とは小さな商店の店主や商人のことなのだ。彼はサム・ウェラーこそ「イギリス文学における偉大なシンボル、イングランド特有の民衆を象徴するそれだ」と言っているが、サム・ウェラーは使用人なのだ! もうひとつの重要な点はディケンズの幼少期の体験が彼にプロレタリアートの荒々しさに対する恐怖を植えつけた、ということだ。貧困者の中でも、もっとも貧しい者、つまりスラムの住民を描く時には決まって紛れもない恐怖を彼はあらわにする。ロンドンのスラムに関する彼の文章には常にあからさまな嫌悪が満ちている。

道は薄汚れ、狭かった。店と家屋は悲惨なもので、人々は半裸で酔っ払い、だらしなく醜かった。裏通りと拱路はまるで大量の汚水溜めのようで、そこからは彼らの胸の悪くなるような臭いやうわさ話、生活が、みすぼらしい通りに吐き出されていた。その街区全体に犯罪や腐敗や貧窮が満ちていた……

ディケンズにはこれと似た文章が多く存在する。それらを読むと、彼は極貧の人々全員を境界の向こう側にいるものと見なしているような印象を受ける。これとまったく同じように現代の教条的社会主義者は人々の大きな一部を「ルンペンプロレタリアート」と軽蔑的に切り捨てている。

またディケンズは思われているほど犯罪者に対して理解があるわけでもない。彼は犯罪の社会的・経済的原因についてはよく理解していたが、ひとたび法律を破った者は自分自身を人間社会の外に置いたのだと感じているように見えることがしばしばある。デイヴィッド・コパフィールドの最終章でデイヴィッドはラティマーとユーライア・ヒープが服役している刑務所を訪ねる。そこでのディケンズはその恐ろしげな「模範的」刑務所が人道的過ぎると考えているかのようだ。チャールズ・リードは過ちを改むるにはばかることなかれの中でこの刑務所に対して注目すべき非難を加えている。彼は食事が良すぎると文句を言うのだ! 犯罪や最悪の貧困に出くわすやいなや「自分はいつだって身を正してきた」という考えが条件反射的に彼の頭に浮かぶ。大いなる遺産でのマグウィッチに対するピップの態度(明らかにこれはディケンズ自身の態度だ)は極めて興味深い。ピップは自分がジョーの恩に報いていないと思い悩むが、マグウィッチの恩に対してはさほど思い悩まない。長年自分に便宜を図ってくれた人物が実は流刑囚であることを知った時、彼は嫌悪感で恐慌状態になるのだ。「あの男に対して僕が抱いている嫌悪、やつへの恐怖、やつに感じる反感は、相手が恐ろしい獣であったとしてもかくやというものだった」といった具合だ。この文章から読み取れる限りでは、これはピップが子供の頃に教会の墓地でマグウィッチに脅されたためではなく、マグウィッチが犯罪者・服役囚であるためのようだ。ピップがマグウィッチの金を受け取れないと当然のように感じている事実には非常に強い「自分の身を正す」という態度がうかがえる。この金は犯罪ではなく正当な手段で得られたものだ。しかしそれはかつて服役していた者の金で、それゆえに汚れているというわけだ。いずれにせよ、以上の心理は間違ってはいないだろう。心理的に見れば大いなる遺産の後半部はディケンズの作品の中でも、もっとも優れたものと呼べるだろう。作品のこの部分を読めば「ああ、これこそまさにピップが為すべきことだったのだ」と感じるだろう。しかし重要なのはこのマグウィッチの問題に関してディケンズはピップに自らを投影しているが、その態度は根本的には高慢なものであるということなのだ。その結果としてマグウィッチは、ファルスタッフファルスタッフ:サー・ジョン・フォルスタッフ。シェイクスピアの作品に登場する太った老騎士。「ヘンリー四世」など複数の作品に登場する。、あるいはドン・キホーテといった登場人物……著者が意図していたよりもずっと憐れみを誘う登場人物……と同じ変人という分類に属しているのだ。

犯罪者でない貧しい人間、ごく普通の労働をしている慎ましい貧困者を取り上げる時には、もちろんディケンズの態度に蔑みは無い。ペゴティやプローニシュ夫妻のような人々には彼は心から称賛の念を抱いている。しかし本当に彼らを対等に見ているかという点では疑問の余地がある。デイヴィッド・コパフィールドの第十一章を彼の自叙伝的文章(フォースターの「生涯」フォースターの「生涯」:ジョン・フォースターの「チャールズ・ディケンズの生涯」にその一部がある)と並べて読むと非常に興味深いことがわかる。そこでディケンズは靴墨工場での出来事に関する自分の感想を、小説よりもずっと強い調子で表現している。二十年以上たった後でもその記憶は彼を苦しめ、そのために彼は外出する時でもストランドのその地域を避けて通るほどなのだ。そこを通り過ぎると「自分の子供が話せるようになった後になっても涙が流れる」と彼は書いている。この文章からは、当時、そして思い返した時に彼をもっとも傷つけるのが「下層」の仕事仲間との交際を強いられたことだとはっきりわかる。

この交わりへと沈んでいく私の魂の秘めた苦痛を言い表すことはできない。日々の暮らしを幸福だった子供時代と結び付けて見比べる。しかし私にはあの靴墨工場でもいくらかの地位を手にした……少なくともすぐに私は他のどの少年よりもすばやく、うまく作業をこなすようになった。彼らと完全になじみながらも私の振る舞いと作法は彼らとまったく異なり、それが私たちの間に距離を置いた。彼ら、そして大人たちは決まって私のことを「あの若い紳士」と呼んだ。ある男は……ときどき私に話しかける時に私のことを「チャールズ」と呼んだが、それはたいていは非常に内密な話をする時だけだったように思う……ポール・グリーンは一度立ち上がって「若い紳士」と呼ぶことに反対したがボブ・ファギンはあっという間に彼をなだめた。

「私たちの間に距離」があったのも無理からぬことだ。ディケンズがどれほど労働階級を称賛しようと彼が彼らのようになりたいと願うことは無い。彼の生まれと彼が生きた時代を考えればそれは致し方の無いことだ。十九世紀初頭、階級憎悪は今よりも苛烈ではなかっただろうが、階級と階級の間の表面的な違いはずっと大きかった。「紳士」と「平民」は異なる種の動物のように見えたに違いない。ディケンズが富裕側でなく貧困側であることは間違いなかったが、労働階級の外見を不名誉なものと考えずにいることは彼にはほとんど不可能に近かっただろう。トルストイの寓話のひとつに、ある村の農民たちが訪れる旅人をその手の状態から品定めするというものがある。その手のひらが労働で固ければ招き入れられ、柔らかければ追い払われるのだ。ディケンズにはこの寓話は理解不能なことだろう。彼の描く主人公は全員、柔らかい手のひらをしているのだ。彼の若い主人公……ニコラス・ニクルビー、マーティン・チャズルウィット、エドワード・チェスター、デイヴィッド・コパフィールド、ジョン・ハーモン……はたいていは「歩き回る紳士」として知られるタイプだ。彼はブルジョアの外見、(貴族ではなく)ブルジョアの訛りを好む。これによる興味深い症状のひとつは、彼が労働階級の人間のようにしゃべる人物に勇敢な立ち回りを演じさせないということだ。サム・ウェラーのような滑稽な主人公、あるいはステファン・ブラックプールのようなただ哀れなだけの人物であればひどい地方訛りでしゃべることもできるが、若い主人公JEUNE PREMIERは決まってBBCアクセントと同じアクセントでしゃべる。それでは不自然な時でさえそうなのだ。例えば子供の頃のピップはエセックス訛りでしゃべる人々に育てられるが、もっとも幼い頃から上流階級の英語で話す。本当であれば彼はジョーか、少なくともガージェリー夫人と同じ方言でしゃべるはずだろう。ビディー・ウォプスルやリジー・へクサム、シシー・ジュープ、オリバー・ツイストも同じだ……さらにリトル・ドリットを加えてもいい。ハード・タイムズのレイチェルでさえランカシャー訛りはほとんど見られない。彼女の場合、これはあり得ないことだ。

階級問題に対する小説家の本当の感情への手がかりをしばしば与えてくれるもののひとつにセックスと階級が衝突した時の態度が挙げられる。嘘をつくにはあまりに大きな痛みを伴うので、結果として「私は高慢ではない」というポーズが打ち砕かれやすい問題のひとつだ。

階級の区別があるところでは肌の色の区別もあることは誰の目にも明らかなことだ。またあらゆる白人コミュニティーには植民地支配的な態度(「原住民」女性は狩りの対象、白人女性は不可侵)に似た何かがベールで覆い隠された形で存在し、両方の陣営に苦々しい鬱憤を引き起こしている。こうした問題が持ち上がると小説家は別の時であれば拒否するような生の階級感情へと舞い戻ることが多い。「階級意識」的反応の良い例がアンドリュー・バートンによる完全に忘れ去られた小説、クロプトンの人々だ。著者の道徳律は明らかに階級嫌悪と混ざりあっている。彼は、豊かな男が貧しい少女を誘惑することを何か恐ろしいこと、ある種の汚染、彼女と同じ身分の男による誘惑とはまったく違う何事かのように感じている。トロロープはこのテーマを二度取り上げている(三人の事務官アリントンの「小さな家」)が、予期されるようにそれは全体的に上流階級からの視点から描かれている。彼の理解するところでは、酒場の女給や宿屋の娘との情事はまさに避けるべき痴情のもつれである。トロロープの道徳基準は厳格なもので彼は実際に起きる誘惑を決して許容しないが、そうした関係においては労働階級の少女の感情は常にたいして問題にされない。三人の事務官で彼は、少女の「臭い」に気がつくという典型的な階級的反応を描きさえしている。メレディス(ローダ・フレミング)はさらに「階級意識」的な立場をとる。サッカレーも普段のごとくあまり賛成していないように見える。ペンデニスペンデニス:サッカレーの小説での(ファニー・ボルトンの)態度はトロロープとまったく同じものだし、みじめにもはなやかな物語ではメレディスのそれにずっと近い。

トロロープ、あるいはメレディスやバートンの社会的な出自については彼らがどのように階級・セックスというテーマを扱うのかを見るだけで多くのことが推測できる。ディケンズについてもそれは可能だが、そこから浮かび上がるのは常のごとく彼はプロレタリアートよりも中産階級に自らを重ね合わせる傾向が強いということである。これと矛盾するように見えるひとつの出来事は二都物語のマネット医師の手記に出てくる若い農民の少女の話だ。しかしこれはデファルジ夫人へのぬぐいがたい嫌悪を説明するために挿入されたたんなる時代劇で、ディケンズはこれに賛成する素振りを見せていない。デイヴィッド・コパフィールドでは典型的な十九世紀風の誘惑が扱われているが、階級問題はたいして彼の興味を惹いてはいないようだ。ヴィクトリア時代の小説作法では性的な間違いが罰せらないまま見過ごされるのは許されないことで、そのためにスティアフォースはヤーマスの砂浜でおぼれ死ぬ。しかしディケンズも老ペゴティも、そしてハムでさえ、スティアフォースが裕福な両親の顔に泥を塗る罪を重ねたとは感じていないようだ。スティアフォース一家は階級的動機によって動かされているが、ペゴティ一家は違う……スティアフォース夫人と老ペゴティの間の場面でさえそうではないのだ。もし二人がそうであれば、もちろん二人はスティアフォースだけでなくデイヴィッドに対しても反対する立場をとったことだろう。

互いの友でディケンズはユージーン・レイバーンとリジー・ヘクサムのエピソードを非常に現実的な筆致で扱っていて、そこには階級的な偏見は見られない。「私を放せ、バケモノ!」式の伝統に従えば、リジーはユージーンを「はねつける」か、彼によって傷つけられてウォータールー橋から身投げしていたことだろう。またユージーンは薄情な誘惑者か、社会に戦いを挑む英雄となっていたことだろう。しかし少なくともどちらもそのような振る舞いはしていない。リジーはユージーンの申し出に驚いて彼の元から逃げ出すが、それを嫌がっている様子はほとんどない。ユージーンは彼女に惹かれるが慎み深すぎて口説こうともしないし、自分の家柄を理由に結婚しようともしない。最終的に二人は結婚するが、いくらかの炊事仕事を失うであろうトウェムロウ夫人を除けば誰もそれを悪く言わない。その様子は現実の生活で起きるであろうことと非常に近い。しかし「階級意識」的な小説家であれば彼女にブラドリー・ヘッドストーンを当てがったことだろう。

しかしこれが反対になった時……つまり貧しい男性が誰か彼より「上位」の女性に恋焦がれる時には、ディケンズは即座に中産階級的態度へと後退する。彼は男性よりも「上位」の女性(正真正銘の「女性」)というヴィクトリア朝的な観念を非常に好む。ピップはエステラが自分より「上位」だと感じているし、エスター・サマソンはガピーより「上位」だ。リトル・ドリットはジョン・チヴァリーより「上位」だし、ルーシー・マネットはシドニー・カートンより上位なのだ。これらの「上位」性の一部はたんに道徳上のものだが、一部は社会的なものである。ユーライア・ヒープがアグネス・ウィックフィールドと結婚しようとしていることをデイヴィッド・コパフィールドが知った時、そこにはまず間違いない階級的反応が見られる。下劣なユーライアは突然、自分が彼女を愛していることを告げる。

「ああ、コパフィールド様、アグネスが歩いた地面にさえ私は純粋な愛情を抱くのです」

僕は、炎の中から赤熱した火かき棒をつかみだしてそれで彼を追い回してやろうかという狂った考えに捕らわれた。まるでライフル銃から打ち出された弾のように、その言葉は僕に衝撃を与えた。しかしこの赤毛の獣の考えを知って激怒するアグネスの姿が私の頭に浮かび(何かの間違いでその卑劣な精神が彼の肉体を乗っ取ったかのような彼を見ると)僕はめまいを覚えた……「アグネス・ウィックフィールドはまるで月のように君の上の方(デイヴィッドは後にそう言う)、君の大それた望みが届かないところにいると僕は思う」

ヒープの卑しさ……卑屈なしぐさ、Hを発音しないその訛りといったもの……がどれほどこの作品全体で繰り返されているかを思うと、ディケンズの考えていることの性質についてはあまり議論の余地は無い。もちろんヒープは悪役なのだが、悪役といえども性生活を営む。「清純」なアグネスがHを発音しない訛りの男とベッドを共にするということはディケンズに強い嫌悪を感じさせるのだ。しかし普段の彼は、自分より「上位」の女性と愛し合う男性をひとつのジョークとして扱っている。これはマルヴォーリオマルヴォーリオ:シェイクスピアの「十二夜」の登場人物以来、イギリス文学で定番のジョークのひとつなのだ。荒涼館のガピーはその例のひとつだし、ジョン・チヴァリーもそうだ。またこのテーマの非常に意地の悪い扱いがピクウィック・ペーパーズでの「夜会」にある。そこでディケンズが描くバースの使用人たちはある種の空想上の生活を生きている。彼らは「目上の人々」を真似てディナーパーティーを開き、自分たちの若い女主人と自分たちは愛し合っているのだというふりをする。彼にとってこれが非常に滑稽なことであることは明らかだ。使用人がこうした妄想をすることと、彼らが自らの身分を教条的に受け入れることと、どちらが好ましくないことなのかという疑問はあるにせよ、これはひとつの物の見方ではある。

使用人に対する彼の態度に関して言えばディケンズは当時においても先進的というわけではない。十九世紀においては家庭内での使用人労働に対する反乱はまだ始まったばかりで、その反乱は年五百ポンド以上の収入を持つあらゆる人々の大きな悩みの種だった。十九世紀のコミック誌では膨大な数のジョークが使用人の増長を取り上げていた。

長年、パンチは「使用人女性主権」と呼ばれるジョークを掲載してきたが、突如として使用人が人類の一員であるという驚くべき事実が暴かれたのだ。ディケンズはこうしたことに関してときに間違いを犯している。彼の作品は従来の滑稽な使用人でいっぱいだ。彼らは不誠実(大いなる遺産)、無能(デイヴィッド・コパフィールド)、体にいい食事から顔を背ける(ピクウィック・ペーパーズ)といった具合で、それはどれも抑圧された炊事番を持った偏狭な主婦が心に抱く思いだ。しかし十九世紀の急進主義において興味深いのは、彼が使用人の共感的を呼ぶ姿を描こうとする時に、はっきりそれとわかる封建的人物像を作り出すことだ。サム・ウェラー、マーク・タプリー、クララ・ペゴティ、彼らは全員、封建的な人物で「旧家の家臣」という分類に属している。自らを主人の家族と考え、犬のように忠実であると同時に完璧に打ち解けているのだ。マーク・タプリーとサム・ウェラーがスモレット、さらにさかのぼってセルバンテスからいくらかを受け継いでいることは間違いない。しかしディケンズがこうした人物像に惹かれていることは興味深い。サム・ウェラーの態度は明確に中世的なものだ。彼はピクウィック氏の後を追ってフリート監獄に入るためにわざと逮捕され、後にはピクウィック氏がまだ自分を必要としていると感じて結婚することを拒否している。二人の間の特徴的な場面がある。

「お給金があろうとなかろうと、賄いがあろうとなかろうと、寝泊りする場所があろうとなかろうと、このサム・ウェラー、あなた様にバラバラ:サザーク・ロンドン自治区を指す言葉の古宿から連れ出されたからには、ついていきますぞ、何があろうとも…」

「我が良き友よ」熱中していた自分をひどくきまり悪そうにウェラー氏が再び腰を下ろすと、ピクウィック氏は言った。「おまえはあの若いご婦人のことも考えなければいけないよ」

「あの若い娘っ子についてはちゃんと考えてます、旦那さま」サムは答えた。「あの若い娘っ子については考えているんです。あいつに言ったんです。俺がどれだけ乗り気か教えました。こっちの準備ができるまであいつは待つ用意があるし、そうするだろうと思いますよ。もしそうしなかったら俺が迎えるべき娘っ子じゃなかったってことで、俺はよろこんであきらめます」

現実世界で若い女性がこれについて何と言うかは容易に想像がつく。しかしこの封建的な雰囲気に注目してほしい。サム・ウェラーは自らの人生の何年かを主人のために捧げる用意が当然のようにできていて、さらに主人の面前に座ることもできるのだ。現代の男性の使用人は決してそんなことをしようとは考えないだろう。使用人に対するディケンズの考えでは、主人と使用人が互いに愛しあうだろうという願望に疑問の余地は無いのだ。互いの友のスロッピーは登場人物としてはひどい失敗だが、サム・ウェラーと同じような忠誠心を表している。こうした忠誠心はもちろん自然で人間的で好ましいものだ。しかしまた封建主義的なものでもある。

常のごとく、ディケンズがおこなっていることは既存のものを理想化しようという試みのように思われる。家庭内での使用人労働が避けがたい完璧な悪と見なされていた時代にディケンズは作品を書いていた。労働を楽にする道具も無く、富は大きく偏在していた。それは大勢の家族、おおげさな食事、不便な家屋の時代で、一日に十四時間、地下の台所で奴隷のようにあくせくと働くことは当たり前すぎて目も引かなかった。そして奴隷労働の実態を思えば、封建的関係はまだ耐えられるものだったのだ。サム・ウェラーとマーク・タプリーはチェアリブル兄弟に劣らず空想的な人物である。主人と使用人の存在が避けられないとすれば、主人がピクウィック氏、使用人がサム・ウェラーのようであればどれほどいいことだろう。もちろん使用人がまったく存在しなければそのほうがずっといい……しかしそれはディケンズには想像もつかないことだろう。高度な機械類の発達が無ければ、人類の平等は実現不可能だ。これもディケンズには想像できないことなのだ。


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