ジョージ・オーウェル

チャールズ・ディケンズ 第四章


ディケンズが農業について書かなかったことと絶えず食べ物について書き続けたことはたんなる偶然ではない。彼はロンドン育ちだった。腹が体の中心であるのとまったく同じようにロンドンは地球の中心である。そこは消費者の町、完全に文明化されているがあまり有用でない人々の町だ。ディケンズ作品の表皮の下を覗き込んだときに強い印象を覚えるのは、十九世紀の小説家がそうであるように彼がひどく無知であることだ。物事が実際にどのように起きているかを彼はほとんど知らない。こう言うとそれはまったくの間違いであるように思われるだろうから、これにはいくらかの説明が必要だ。

ディケンズは「下層の生活」……例えば債務者監獄……を鮮明にかいま見た経験があり、同時に人気小説家であり、普通の人々を描くことができた。それは十九世紀に特徴的なイギリスの小説家の全員について言えることだ。彼らは自分たちの住む世界を熟知していたが、一方で現代の作家は絶望的なまでに孤立している。そのために小説家自身についての小説こそが現代小説の典型なのだ。例えば「大衆」と触れ合うためにジョイスが十年近くを地道な取り組みに費やした時でさえ、彼の「大衆」は最終的にはユダヤ人と当時の高尚な人々の何人かへと変わってしまった。少なくともディケンズはこうしたことに苦しめられることはなかった。彼はやすやすと大衆の欲求、愛、野心、強欲さ、復讐といったものを取り入れていった。しかし彼がまったく描いていないものがある。労働だ。

ディケンズの小説では労働につきものの出来事は全て舞台の外で起きる。それらしい職業についている主人公はデイヴィッド・コパフィールドだけで、彼はまず速記者になりその後、小説家になった。これはディケンズ自身と同じだ。他のほとんどの者に関して言えばどうやって生活の糧を得ているかはまったくの舞台裏だ。例えばピップはエジプトでの「事業に携わっている」。それがどんな事業であるのかが私たちに語られることは無いし、ピップの職業生活に関しては作品のうちの半ページほどしか割かれていない。クレナムは中国での詳細不明な事業の後、ほとんど実態のわからない事業をドイスと共に営んでいる。マーティン・チャズルウィットは建築家だが稼業にあまり長い時間を費やしてはいないようだ。いずれの場合でも彼らの冒険家精神が直接その仕事の成果に向けられることは無い。この点においてディケンズと例えばトロロープの間の違いは驚嘆すべきものである。こうなる理由のひとつはディケンズが、自らの登場人物が就いているであろう職業について多くを知らないためだということは疑いない。グラドグラインドの工場では実のところ何がおこなわれているのだろう? ポドスナップはどうやって金を稼いだのだろう? マードルはどんな詐欺を働いたのだろう? わかるのはディケンズはトロロープとはちがって議会選挙や証券取引所での仕事の詳細については無知だったということだ。商業や金融、産業、政治を扱う必要が出てくるとすぐさま彼は曖昧に濁すか、皮肉を言って避難する。実のところ彼がよく知っているはずの法的な手続きについてさえそうなのだ。例えばディケンズ作品での訴訟とオルレイ農園での訴訟を比べてみるといい。

そしてこれこそがディケンズの小説の不必要な枝葉末節、ひどいヴィクトリア朝的「筋書き」の原因のひとつなのだ。確かにこの点において彼の小説全てが同じわけでない。二都物語は非常に優れた簡潔な物語だし、ハード・タイムズも異なったやり方で書かれている。しかしこれらは決まって「ディケンズ的でない」として拒絶される二つなのだ……ついでに言えばこれらは月間連載されたものではない。一人称で書かれたこの二つの小説はどちらも優れた物語で、筋書きが脇道に逸れることがない。しかしニコラス・ニクルビーオリバー・ツイストマーティン・チャズルウィット互いの友といった典型的なディケンズの小説は常にメロドラマ的枠組みの周囲を巡っている。こうした作品でもっとも記憶に残らないものはその中心的物語だ。一方で、そのそれぞれのページの記憶は生涯、読者の頭から離れずにいるのではないかと私は思う。ディケンズは最大限に集中した鮮烈さを持って人々を見つめたが、それは常に私生活における人々、「キャラクター」としての人々であって社会の機能を担う一員としての人々としてではなかった。つまり彼の人々に対する視線は静的なものだったのだ。ピクウィック・ペーパーズが彼の最高傑作となったのはその結果だった。この作品は物語とはまったく呼べない、たんなる情景描写の連続だ。物語は遅々として進まない………登場人物はただくどくどとしゃべり続け、白痴のごとく振る舞い、それが無限にも感じられる。彼が登場人物を行動に移させようとするとすぐさまメロドラマが始まる。登場人物の、ごく普通の仕事を中心として展開する行動を描くことができないのだ。偶然、陰謀、殺人、偽装、隠された意図、生き別れの兄弟といったものが入り乱れるクロスワードパズルのような文章はこれが原因だ。ついにはスクィアズやミコーバーといった人々さえこの構造に飲み込まれている。

もちろんディケンズは不明瞭であるだとか、たんなるメロドラマ作家であると言えばそれは馬鹿げたことだろう。何といっても彼は事実をきわめて重んじ、さらに情景を想起させるその力はおそらく並び立つ者が無いものなのだ。ディケンズが何かについて描けばそれは生涯、読んだ者の頭に残り続ける。しかし見方を変えれば彼の物の見方の堅固さは彼に欠けているものを示唆している。結局のところ、それはたんなる無頓着な観衆が目にしているもの……物事の表面的な見栄え、無機能な部分、表面だ。ある状況の中にいる人間がその状況自体を理解することは決してできない。すばらしい手際で彼はその外観を描き出せるが、ディケンズはあまり過程を描くことはしない。彼が描く記憶に残るような鮮烈な情景はたいていは余暇の瞬間、田舎宿の喫茶室や駅馬車の窓から見た景色で、彼がそこで触れるのは宿屋の看板や真鍮のドア・ノッカー、塗られた水差し、商店や民家の内装、衣服、顔、そしてとりわけ食事なのだ。それら全ては消費者の視点から観察されている。コークスタウンコークスタウン:ハード・タイムズに登場する架空の街について描く時、彼は数段落を費やして少しばかりうんざりしている南部からの訪問者が感じるであろうランカシャーの町の雰囲気を呼び起こそうとしている。「そこには黒々とした運河、ひどい臭いの染料で染められた紫の水が流れる川、そして窓がたくさんついた建物の巨大な山脈があり、一日中、ぎしぎしときしみ声が上がり、蒸気エンジンのピストンが単調に上下動を続けている。その様子はまるで鬱の発作に襲われた象の頭のようだ」。

これがディケンズがもっとも工場の機械に肉薄したものである。エンジニアや綿花の仲買人であればまったく異なる見方をするだろうが、そのどちらも象の頭という印象的な表現はなし得ないだろう。

まったく異なる意味で、彼の人生への態度は極めて非物質的な物である。彼はその手と筋肉よりもずっと多くその目と耳を通じて生きてきた人間だ。実際のところは彼の気質はそこから暗示されるほどには書生的なものではない。ひどく恵まれない健康と肉体にも関わらず彼は動静という点では活動的で、生涯を通じて並外れた遊歴を繰り返し、また少なくとも舞台装置を作り上げるための十分な大工仕事をこなした。しかし彼は自らの手を使う必要を感じる種類の人間ではなかった。例えば彼がキャベツ畑で野良仕事をしているところを想像することは難しい。彼が農業について何かを知っているという証拠はまったく無いし、賭け事やスポーツといった物については明らかに何も知らない。例えば彼はボクシングに何の興味も示さないのだ。彼が作品を書いていた時代を考えればディケンズの小説の持つ肉体的な暴力性の少なさは驚くべきものだ。例えばマーティン・チャズルウィットとマーク・タプリーは、リボルバー拳銃とボウイナイフで常に二人を脅すアメリカ人たちに対して驚くべき穏やかさで接している。イギリスやアメリカの平均的小説家であれば拳での殴り合いとあらゆる方向に向けた銃撃戦を繰り広げさせるところだろう。そうしたものを持ち出すにはディケンズは慎み深すぎるのだ。彼は暴力の愚かさを理解しているし、例えそれが理屈の上だけであっても殴り合いなどには関わらない用心深い都市階級に属しているのだ。またスポーツに対する彼の態度には社会的感情がないまぜになっている。イングランドでは主に地理的な要因からスポーツ、とりわけ野外スポーツとスノッブさは分かちがたく結びついている。例えばレーニンは射撃が大好きだったと言っても、イギリスの社会主義者はまったくそれを信じないということがよくある。彼らの目には射撃や狩猟といったものが地主階級のお高くとまった伝統習慣としか映らない。ロシアのような巨大な未開発国ではそれが異なる姿となり得ることを彼らは忘れているのだ。ディケンズの立場からはほとんど全てのスポーツが格好の風刺対象となる。その結果、十九世紀の特定の一面……ボクシング、競馬、闘鶏、アナグマ攻め、密猟、日常生活におけるネズミ捕り、サーティースサーティース:ロバート・スミス・サーティース。19世紀のイギリスの小説家、編集者。のためにリーチリーチ:ジョン・リーチ。19世紀のイギリスの諷刺画家。が描いた絵に留めおかれたすばらしい一瞬……は彼の視界の外へと外れているのだ。

一見したところ「進歩的」な急進主義者であるにも関わらず彼が機械に疎いことは注目に値する。彼は機械の詳細にも機械によってなし得る物事についても興味を示さない。ギッシングが指摘するように、ディケンズが駅馬車の旅の描写で見せるような熱烈な感情を持って鉄道の旅を描くことはない。彼の作品のほとんど全てが、あたかも十九世紀の最初の四半世紀にいるかのような奇妙な感覚を感じさせる。実際のところ彼にはその時期へ回帰していく強い傾向がある。五十年代なかばに書かれたリトル・ドリットは二十年代後半を扱っているし、大いなる遺産(一八六一年)は時期は示されていないが、明らかに二十年代から三十年代を扱っている。現在の世界を可能にした発明や発見(電報、後装式の銃、天然ゴム、石炭ガス、パルプ紙)が初めて現れたのはディケンズが生きている間のことだったが、彼は作品の中でそれらにほとんど触れていない。リトル・ドリットでのドイスの「発明」についての語り口の不明瞭さはとりわけ奇妙なものだ。それは極めて独創的で、革命的なもので「彼の国と同胞にとってとてつもなく重要な」何かと表現され、またその作品の重要な連環のひとつであるにも関わらず、その「発明」が何なのかについてはついに語られることは無いのだ! 一方でドイスの肉体的特徴についてはディケンズの典型的な筆致によって描写されている。彼は風変りな、エンジニアに特徴的なやり方で親指を動かす。確かにドイスは強く記憶に残るが、常のごとくディケンズはそれを外面的なものに集中することで成し遂げているのだ。

機械に対する能力を欠いていても機械の持つ社会的可能性を理解している人々(テニスンはその一例だ)は存在する。ディケンズはそうした考え方の特徴も持たない。未来に対する意識を彼はわずかにしか示さないのだ。彼が人類の進歩について語る時、それはたいていは道徳面における進歩……人間はもっと善良になれるという内容なのだ。おそらく彼は、人間は技術発達が許す範囲でしか善良にはなれないということを決して認めようとはしないだろう。この点こそディケンズと彼の現代における相似形であるH・G・ウェルズとの最大の違いである。ウェルズは未来というくびきに繋がれているが、ディケンズの非科学的な気質はまた異なるやり方で彼を損なっている。それによって彼はポジティブな態度を取りづらくなっているのだ。彼は封建主義的、農業的な過去を嫌い、同時に現代の産業に関してはその実際を知らない。そのため残るのは(科学、「進歩」といったものを意味する)未来しかないが、それが彼の思考に入り込んでくることはめったにない。従って視界に入る全てを非難しながらも彼は比較対象となる確かな基準を持たないのだ。すでに指摘したように彼は当時の教育システムを完璧な正当性でもって非難しているが、結局のところ寛大な教師以外には提案できる改善案を持たない。なぜ彼は学校がどうあるべきかを指し示さないのだろう? なぜ彼は自らの息子をパブリックスクールに送り込んでギリシャ語で苦しめる代わりになんらかの自身の計画に沿って教育しないのだろう? それはそうした想像力を彼が持ち合わせていないためなのだ。彼は絶対の倫理観を持っているが、知的好奇心はごくわずかしか持ち合わせていない。そしてここにこそディケンズに大きく欠けた何か、十九世紀と私たちとを隔てているように思えるものがある……彼は仕事に対する理想というものを持ち合わせていないのだ。

デイヴィッド・コパフィールド(たんにディケンズ自身)という疑わしい例外を除けば、彼の作品からは自分の職に何よりも関心を寄せている中心的登場人物は一人足りとも見つけられない。彼の作品の主人公が働くのは生活し、ヒロインと結婚するためであって、何か特定の物事に対する情熱的な興味を感じているためではない。例えばマーティン・チャズルウィットは建築家たろうという熱意に燃えてはいない。医者や弁護士でも同じようにうまくこなすことだろう。いずれにせよ、典型的なディケンズの小説では機械仕掛けの神デウス・エクス・マキーナが最後の章になると黄金の入ったカバンを手に現れ、主人公はひどい困難から解放されるのだ。「これこそこの世界で私がおこなうべきことだ。他のものは全てつまらない。もし貧窮しようとも私はこれをやる」という感情が人間の性分を、科学者、発明家、芸術家、司祭、探検家、そして革命家へと変える……こうしたモチーフはディケンズの作品にはほとんど完全に欠落している。よく知られているように彼自身は奴隷のように働き、自分の仕事はこれまでごくわずかな小説家しかなし得なかったものだと信じていた。しかし小説を書くこと(そしておそらく演じること)を除けば、こうした情熱を傾けられる天職を彼は想像できなかったように見える。しかし結局のところ、彼の社会に向けられたいくぶんネガティブな態度を考えればそれはいたって自然なことだ。人々の良識を除けば、彼には期待できる切り札は何も無かった。科学は興味を惹かなかったし、機械は残酷で醜い(まるで象の頭だ)。商売はバウンダービーのような無法者の領分である。政治はといえば……タイト・バーナクルのものだ。実際のところ、ヒロインとの結婚、身を落ち着けること、質素で寛大に生きることの他には目的など存在しない。そして私生活ではそれをずっと好ましくおこなえるのだ。

おそらく、ここにディケンズの秘められた想像力の背景をかいま見ることができる。彼の考えるもっとも望ましい生き方とはどのようなものだろうか? マーティン・チャズルウィットが彼のおじとそれを成し遂げた時、ニコラス・ニクルビーが金と結婚した時、ジョン・ハーモンがボフィンの助けで金持ちになった時、彼らは何をおこなったのか

答えは明らかだ。彼らは何もおこなっていない。ニコラス・ニクルビーは自分の妻の金をチアリブル兄弟と一緒に投資して「裕福で成功した商人になった」が、彼がすぐに引退してデヴォンシャーへと移ったことからすると彼はあまり熱心に働かなかったと考えていいだろう。スノッドグラス夫妻は「小さな農場を購入して営んでいたが、それは生業というよりは趣味のためだった」。これこそがほとんどのディケンズの作品の結末にある精神……ある種の喜びに満ちた無為なのだ。働いていない若い男(ハートハウス、ハリー・ガウアン、リチャード・カーストン、改心する前のレイバーン)を非難しているように見える個所でも、それは彼らが冷笑的で不道徳であるためか、他の誰かの重荷になっているためだ。「善良」で「自活」できているのであれば、たんに配当金を貰いながら五十年を過ごしたところでそれが責められる理由は無いのだ。どんな時でも家庭生活があればそれで十分だ。そして結局のところそれが彼の生きた時代の一般的な考え方だったのだ。「上流社会的な充足」、「ちょっとした資産」、「独立した資産を持った紳士」(あるいは「安楽な暮らし向き」)……こうしたさまざまな言葉が十八世紀、十九世紀の中流ブルジョアの奇妙で空虚な夢についての全てを教えてくれる。それは完璧な無為の夢だ。チャールズ・リードは現金の結末でその精神を完璧に告げている。現金の主人公、アルフレッド・ハーディーは典型的な十九世紀小説の(パブリックスクール・スタイルの)主人公で、要するに「天才」とリードが表現するところの才能に恵まれている。彼は古風なイートン校出身者で、オックスフォードの学者だ。彼はギリシャとラテンの古典のほとんどを暗記し、プロボクサーと互角の試合をすることができ、ヘンリーでのダイヤモンド・スカル・ボートレースでは勝利を収めている。彼は信じられないような冒険を潜り抜け、そこではもちろん非の打ち所の無い勇敢な振る舞いをする。その後、二十五歳の時に財産を相続してジュリア・ドッドと結婚するとリバプールの郊外にある義理の両親と同じ屋敷に落ち着くのだ。

彼らはみんなでアルビオン・ヴィラで暮らしました。アルフレッドのおかげで……ああ、なんとすてきな邸宅か! 人の住処でこれほど楽園に近いものがあるでしょうか。しかしその幸福な住人全員を取り巻く壁がもはや役に立たなくなる日が来ます。ジュリアがアルフレッドに愛らしい子供を産んだのです。二人の乳母が招き入れられ邸宅ははち切れんばかりでした。さらに二か月が経つと、アルフレッドと彼の細君は隣の邸宅へとあふれだしました。それは二十ヤードほどしか離れていませんでした。引っ越しには二つの理由がありました。長い別離の後にはよくあることですが、キャプテンとドッド夫人には二人の足元で遊ぶもう一人の子供が天国から授けられ……

これこそヴィクトリア朝的ハッピーエンドの典型……三、四世代からなる大きくて幸福な家庭、全員が同じ家に一緒に詰め込まれて牡蠣棚のように常に増え続けるという情景だ。強く印象に残るのはそこで暗示されるのがまったく安楽で、安全で、苦労の無い生活であることだ。スクワイヤ・ウェスタンスクワイヤ・ウェスタン:十八世紀のイギリスの小説家ヘンリー・フィールディングの小説「捨て子トム・ジョーンズの物語」の登場人物のような激しいまでの無為でさえないのだ。

ディケンズの持つ都会的な背景、そして人生における道義心を欠いた冒険的軍事への無関心さは重要な意味を持つ。彼の描く主人公はいったん財産を手に入れると「落ち着いて」働こうとはしないだろう。乗馬や狩猟、射撃、決闘、女優との駆け落ちや競馬で金を失うことさえしない。ただ立派な羽毛ベッドのある家で暮らすだけで、できれば隣家にはまったく同じ生活を送る血縁者がいるといい。

裕福で成功した金持ちになったときにニコラスが最初におこなったのは父親のかつての家を買うことでした。時がたつと次第に彼には愛らしい子供が増えていき、家は改築されて大きくなっていきました。けれども昔からの部屋が取り壊されることも昔からの植木が植え替えられることもなく、過ぎ去った時と結びついたものは何ひとつ取り除かれも手を加えられもしませんでした。

石を投げれば届く距離には元気が出るような子供の声が響くもうひとつの邸宅がありました。そこでケイトは……少女時代と同じように忠実で穏やかで、愛情に満ちた妹、同じように愛情に満ちていました。

リードの作品から引いて来た一文と同じようにここには内輪にこもった雰囲気がある。そして明らかにこれこそがディケンズにとっての理想的な結末なのだ。ニコラス・ニクルビーマーティン・チャズルウィットピクウィック・ペーパーズではそれが完璧に達成されている。他のほとんどの作品でもその程度はさまざまだが同じような状態だ。例外はハード・タイムズ大いなる遺産だ……後者は実態としては「ハッピーエンド」であるが作品の全体的な傾向とは矛盾していて、これはブルワー・リットンの要望に応えて挿入されたものだ。

追い求めるべき理想は次のようなものだ。十万ポンドの資産、たくさんのツタで覆われた古風な邸宅、甘く女性的な妻、大勢の子供、労働の無い生活。全てが安全、柔和、平和で、また家庭的であることはとりわけ重要だ。通りの向こうの苔むした教会墓地にはハッピーエンドに至る前にこの世を去った愛すべき人々の墓がある。使用人たちは愉快で封建的で、足元では子供たちがおしゃべりしている。炉端には古い友人が座り、過去の日々について話し、豪華な食事、コールド・パンチとシェリー・ニーガスが終わることなく供される。羽毛のベッドとウォーミングパンウォーミングパン:長柄のついたフライパン状の器具で、石炭を入れてベッドを温めるのに使われる、ジェスチャーゲームと目隠し鬼ごっこがおこなわれるクリスマスパーティー。しかし毎年のように子供が生まれる他は何事も起きないのだ。奇妙なのは、こうしたものが本心から幸福として描かれていること、あるいはディケンズがそのように装えることだ。こうしたものが存在すると考えるだけで彼は満足なのだ。この一点だけをとってもディケンズの最初の作品が書かれてから百年以上が過ぎ去ったことが容易に見て取れるだろう。現代の人間でこうした無目的と大きな活力を結びつけることができる者はいないのではないだろうか。


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