ジョージ・オーウェル

チャールズ・ディケンズ 第五章


ここまで読んだディケンズ好きな人間はおそらく全員、私に対して怒りを感じていることだろう。

私はここまで彼の「メッセージ」という観点からのみディケンズを議論し、その文学的な良し悪しをほとんど無視してきた。しかし全ての作家、とりわけ全ての小説家は、それに自覚的であるかどうかによらず「メッセージ」を持ち、その作品は極めて些細な点においてもそれに影響を受けるのだ。全ての芸術はプロパガンダである。ディケンズ自身もヴィクトリア朝時代の主要な小説家もこれを否定しようとは思わないだろう。一方で全てのプロパガンダが芸術であるわけではない。先に述べたようにディケンズは盗むに値すると感じられる作家の一人だ。彼はマルクス主義者に、カトリック教徒に、とりわけ保守主義者に盗まれてきた。疑問はこうである。いったいそこにある盗まれるべきものとは何なのだろう? なぜ誰もがディケンズに目を向けるのだろう? なぜ私はディケンズに目を向けるのだろう?

こうした疑問は簡単に答えられるものではない。概して審美的な行為とは何か不明瞭なもの、あるいは審美的でない動機によって腐敗させられた何かであって、そのせいで文学批評とは全て巨大なたわ言のもつれあった塊なのではないかと人は考える。ディケンズの場合、問題を複雑にしている要因はその親しみやすさだ。偶然にも彼は誰しもが子供の頃から親しむ「偉大な文筆家」の一人なのだ。読んだ時には反抗と吐き気を催させるが時間が経つにつれ、それとはまったく異なる効果が現れる。例えば子供の頃に覚えた愛国的な詩「汝、イングランドの船乗り」や「軽騎兵の突撃」といったものには誰しもが密かな愛着を感じる。詩そのものというよりもそれによって呼び覚まされる記憶を味わうのだ。そしてディケンズでもそれと同じ関連付けの力が働く。おそらく大多数のイギリス家庭には彼の作品の一冊や二冊は転がっているはずだ。多くの子供は文字を読めるようになる前に彼の作品の登場人物を憶え始める。ディケンズの作品がどれも挿絵画家に恵まれているおかげだ。それほど早く吸収されたものが批評的な判断の対象になることは無い。そして、それについて考える時には全てがディケンズの欠点や馬鹿げた点に思われるのだ……融通の利かない「筋書き」、代わり映えのしない登場人物、冗長さ、抑揚のない段落、「憐憫的」なうんざりするようなページの数々。すると次のような考えが頭に浮かぶ。自分はディケンズが好きだと言う時、私はただ子供の頃のことを考えるのが好きだと言っているのではないだろうか? ディケンズはたんなる装置のひとつなのではないだろうか?

もしそうであれば、彼は欠くことのできない装置だ。それがお気に入りの作家であれ、人が作家についてどれほど頻繁に考えるかは答えるのが難しい問題だ。しかし実際にディケンズを読んだ人間が一度も何かの拍子に彼のことを思い出すことなく一週間を過ごせるものかどうかは怪しい。彼を好いていようとそうでなかろうとネルソン記念碑のように彼はそこに存在し続けているのだ。いつ何時、名前さえ思い出せない作品の場面や登場人物が頭の中に飛び込んでくるかもわからない。ミコーバーの手紙! 証言台に立つウィンクル! ギャンプ夫人!  ウィティタリー夫人とトゥムレイ・スナッフィム卿! トジャーズ(ジョージ・ギッシングは、ロンドン大火記念塔の前を通り過ぎる時に頭に浮かぶのはロンドン大火ではなく決まってトジャーズのことだ、と語っている)! レオ・ハンター夫人! スクィアズ! サイラス・ウェグとロシア皇帝の衰亡! ミス・ミルズとサハラ砂漠! ハムレットを演じるウォプスル! ジェリビー夫人! マンタリーニ、ジェリー・クランチャー、バーキス、パンブルチュック、トレイシー・タップマン、スキムポール、ジョー・ガージェリー、ペックスニフ……まだまだ続いていく。それは一連の作品というよりはひとつの世界なのだ。それは純粋に愉快な世界ではない。ディケンズと聞いて頭に浮かぶものの中には、そのヴィクトリア朝的な陰鬱さと死体愛好癖、血なまぐさい場面も含まれる……サイクスの死に様、クルックの人体自然発火、死刑囚監房のフェイギン、ギロチン台の周りで編み物をする女たち。驚くべき範囲で、これら全てがそうしたものに関心の無い人々の頭の中にも入りこんでいるのだ。大衆演劇場のコメディアンは舞台でミコーバーやギャンプ夫人の真似をした時に観客がそれを理解することを十分に確信できている(少なくともつい最近まではできた)。観客の中でディケンズの作品をちゃんと通して読んだことのある者は二十人に一人もいないというのにだ。彼に嫌悪の念を感じる人々さえ無意識に彼を引用してしまうのだ。

ディケンズはある程度までであれば模倣が可能な作家だ。本当の大衆文学……例えばエレファント&キャッスル版のスウィーニー・トッド……では彼はまったく臆面もなく盗用されている。しかしそこで模倣されているものはたんにディケンズ自身が過去の小説家から取り入れて発展させた伝統的な物、「キャラクター」の崇拝、つまりエキセントリックさである。彼の豊かな独創性は模倣できない。それは登場人物の独創性でも「状況設定」の独創性でない。言葉のやり取り、そして具体的な細部についての独創性なのだ。ディケンズの作品の際立った、見間違えることのない印はその不必要なまでの詳細さなのだ。私が言っているものの例を挙げよう。以下に引いた物語はさして愉快なものでもないが、そこには指紋と同じくらい独特なひとつのフレーズがある。ボブ・ソーヤーのパーティーで、ジャック・ホプキンス氏は姉のネックスレスを飲み込んだ子供の話をする。

次の日、子供は二つのビーズを飲み込みました。その次の日は三つをいただき、それが一週間続き、彼は全部で二十五のネックスレスのビーズをたいらげました。勤勉な少女でめったに着飾ることのなかった彼の姉はネックレスを失くして涙を流しながらあちらこちらを探し回りましたが言うまでもなく見つけ出すことはできません。数日後、一家が夕食をとっているときのことです……羊の焼いた肩肉とその下に敷かれたジャガイモの夕食でした……おなかの空いていないあの子供は部屋の周りで遊んでいました。すると突然、雹を降らせる嵐のようなひどい物音がしました。「おい、やめなさい」と父親が言いました。「なんもやってないよ」と子供が答えます。「ああ、二度とやるんじゃないぞ」父親が言います。しばし静寂が訪れた後、さっきよりもひどい物音が再びしました。「おい、言うことを聞かないのなら」父親が言います。「すぐにベッドに連れて行ってしまうぞ」。言い聞かせるように彼が子供を揺さぶると、今まで誰も聞いたことのないようなかたかたという物音がそれに続きました。「なんてことだ、この子のなかだ」父親は言いました。「どこかでクループクループ:激しい咳を伴う小児病をもらってきちまったんだ!」。「そんなんじゃないよ、父さん」子供は泣きだしながら答えます。「ネックレスなんだ。僕が飲み込んだんだよ。父さん」父親は子供を抱え上げると病院へと走って行きました。揺れるのに合わせて少年の胃の中のビーズがかたかたと鳴り続け、人々はこの聞きなれない音がどこから鳴っているのか確かめようと宙を見上げたり地下室に降りたりしました。「そいつは今は病院さ」ジャック・ホプキンスは言いました。「歩き回ると変な音が鳴るんで、患者を起こさないように仕方なくそいつを夜警のコートでくるんでいるって話だ」

総じて十九世紀のコミック誌に出てきそうな話ではないだろうか。しかし見間違うことのないディケンズの筆致は、他の誰も思いつかないだろうもの、羊の焼いた肩肉とその下に敷かれたジャガイモに現れているのだ。これが物語にどう貢献しているのか? 答えは貢献していない、だ。まったく不必要なもの、ページの端に置かれた小さな装飾的走り書きに過ぎず、ただその走り書きによってディケンズ特有の雰囲気が作り出されているだけだ。ここでもうひとつ気がつくのはディケンズによる物語の語り口が長々しいことだ。引用にするには長すぎるが、ピクウィック・ペーパーズの四十四章にあるサム・ウェラーの強情な患者の話は興味深い例だ。偶然にも、ここに比較の基準となるものがある。意識的にか無意識的にかはわからないがディケンズが盗用をおこなっているからだ。この物語はある古代ギリシャの作家によっても語られているのだ。今、その文章を見つけ出すことは私にはできないが何年も前の学生だった頃に読んだことがある。それはだいたいこんな風だった。

強情であることで有名な、あるトラキア人が主治医から警告を受ける。ワインを大びん一本飲めばそれで死ぬだろうというのだ。それを聞いたそのトラキア人はワインの大びんを飲み干すとすぐさま建物の屋上から飛び降りて死んだ。彼が語ったところによれば「こうすればワインで死ぬことはないだろうから」ということだった。

ギリシャ人の話ではこれで全てだ……約六行ほどである。サム・ウェラーの話ではこれがおおよそ一千語になる。要点に到達するまでに、患者の衣服、食事、立ち居振る舞い、さらには読んでいる新聞についての全てが語られ、医者の乗る馬車の風変りな構造、それによって御者のズボンがコートと合っていない事実が隠されていることが説明される。その次は医者と患者との会話である。『「クランペットは体に良いんでしょう」と患者が言った。「クランペットは体に良くはないですよ」と医者はひどくきっぱりと答える』といった具合だ。最後には元の物語は子細な記述の下に埋もれてしまう。ディケンズのもっとも特徴的な一節はどれも同じ有様だ。彼の想像力はまるで雑草か何かのようにあらゆるものを圧倒する。スクィアズは少年たちに対抗するために立ち上がるが、そうなるとすぐさま二ポンド十シリング足りないボルダーの父親や、モッブズが脂身を食べないと聞いて寝込んだり、スクィアズ氏が彼を鞭で打ってもっと幸せな気持ちにさせることを望むモッブズの継母について聞かされることになる。レオ・ハンター夫人は「死の床にあるカエル」という詩を書くが、そのまるまる二連が紹介される。ボフィンが守銭奴のふりをしようとすればすぐさまヴァーチャー・ホプキンスやレヴ・ブリュベリー・ジョーンズといった十八世紀の守銭奴たちのあさましい生涯、さらに「羊肉パイの物語」や「掃き溜めの宝物」といった章見出しが繰り広げられる。存在さえしないハリス夫人について普通の小説の登場人物三人分よりも事細かに書き連ねられる。例えば文章の中ほどでの彼女の幼い甥がビンに入れられて、ピンクの目をした女性、小人のプロイセン人、生きている骸骨と一緒にグリニッジ・フェアで展示されたことがわかる。ジョー・ガージェリーは強盗がどうやって穀物と種子の取り扱い業者であるパンブルチュックの家に押し入ったかを事細かに説明する……「やつらはレジの金を盗り、金庫の金を盗り、ワインを飲み干し、蓄えておいた食料を食べ、彼の顔を引っぱたいて鼻を引っ張り、ベッドの足に彼を縛りつけると十発ほど食らわせてから種苗年鑑を口いっぱいに詰め込んで叫び声を上げられないようにした」。ここにも見間違えることのないディケンズの筆致が見て取れる。種苗年鑑だ。しかし他の小説家であれば描写するのはこうした暴挙の半分がせいぜいだろう。あらゆるものが次々に積み上げられていき、詳細に詳細が、脚色に脚色が重ねられていく。こうしたものこそロココ調……ウェディング・ケーキに対して同じような指摘をする者もいるだろう……であると指摘して見せたところで無益なことだろう。それを好む者も好まない者もいるだろう。十九世紀の作家はサーティース、バーラム、サッカレー、あるいはマリアットでさえ、ディケンズ的な豊かであふれ出すような描写をいくらかはおこなっているが、彼と同じほどの規模に達している者は誰一人としていない。現在においては、こうした作家の魅力はどれも部分的には時代の雰囲気に負われている。マリアットがいまだにはっきりと「少年向け作家」とされ、サーティースが狩猟家たちの間で伝説的な名声を勝ち得ているにも関わらず、その読者のほとんどはまず間違いなく本好きの人々だ。

注目すべきはディケンズのもっとも成功した作品(最高の作品ではない)が小説ではないピクウィック・ペーパーズであり、また愉快なものではないハード・タイムズ二都物語であることだ。小説家においてはその生まれ持った創造力が大きく自身を制約する。決して抗うことのできない風刺がまじめな状況であるべきところに絶えず割り込んでくるのだ。この良い例が大いなる遺産の序章にある。脱獄囚であるマグウィッチは教会の墓地で十六歳のピップを捕まえる。この場面はピップの視点から、ひどく恐ろしげに始まる。泥だらけで足には鎖を引きずる囚人が、墓石の間から突然姿を現して少年につかみかかり、彼を逆さにしてポケットの中身を奪うのだ。次に囚人は少年を脅して食べ物とやすりを持ってこさせる。

石の上でまっすぐに立ったままやつは僕を腕でつかみ、次のように恐ろしい言葉を続けました。

「明日の朝早くにやすりと食べ物を持ってくるんだ。たくさん持って向こうの古い砲台まで来い。必ずやれ。一言でもしゃべったり、俺や他の人間を見たと気取られるそぶりを見せたりするなよ。そうすればおまえはこれまで通り生きていける。もし失敗したり、俺の言うことを聞かなければそれがどんなに些細なことでもおまえの心臓と肝臓を引き裂いて、あぶって食っちまうぞ。俺が一人だと思ってるんだろうがそれは間違いだ。もうひとり若いやつが隠れていて、そいつと比べれば俺は天使だ。その若いやつも俺が言ったことを聞いている。若いやつは男の子供を捕まえて、そいつの心臓や肝臓を抜き取る秘密の技を持っているんだ。あの若いやつから隠れようと農場の荷車に潜り込んだ男の子供がいたな。扉に鍵を掛けようが、温かいベッドに潜り込もうが、毛布にくるまろうが、頭からシーツをかぶろうが、どんなに居心地が良くて安全だと思ったところで、あの若いやつはゆっくりと這いよってかっさばいちまうんだ。今のところはおまえに手を出さないよう俺がそいつに言い聞かせてるが、ずっとそうしているのは難しい。そいつがおまえの内臓に手を出さないよう押さえつけておくのはなかなか大変だ。さあ何か文句があるか?」

端的に言ってここでディケンズは誘惑に屈している。まず第一に、飢えていて、さらには追われている男はこんな風には話さないだろう。さらに言えばこのせりふには明らかに子供の考え方に関する卓越した知識が見られるが、実際に語られている言葉は後に続く内容とまったく調和していない。このせりふによってマグウィッチはパントマイムで演じられる悪辣な質屋か、あるいは子供の目を通して見た恐ろしい怪物へと変えられている。この作品の後半での彼はそのどちらとも違う姿で描かれ、筋書きの転換点である彼のおおげさな感謝は、このせりふによって説得力の無いものになっている。常のごとくディケンズの想像力が彼を圧倒しているのだ。情景の子細な部分があまりに見事過ぎて忘れがたく残る。マグウィッチよりも重要でない登場人物でさえ、いくつかの魅力的なフレーズによって説得力の無いものになりがちだ。例えばマードストン氏は毎朝のデイヴィッド・コパフィールドの授業を恐ろしく難解な算術の計算問題で締めくくる習慣がある。決まってそれは「チーズ屋に行って、四ペンス半ペニーのダブルのグロスターチーズを四千個買ったとしよう。支払いはいくらか」という風に始まる。ここでの典型的なディケンズの細かさはダブルのグロスターチーズだ。しかしこれはマードストンの人柄にしては人間味がありすぎる。彼であれば金庫を五千個とすることだろう。こうした旋律が打ち鳴らされるたびに小説の調和が乱される。しかしそれが大きな問題になっているわけではない。ディケンズは明らかに全体よりも細部の方がずっと優れている作家だからだ。彼はまさに断片、細部に優れている……構造は腐敗しているが、ガーゴイルの装飾はすばらしい……そして後になって一貫性の無い行動を強いられる登場人物を作り上げる時こそ、彼はすばらしい作品を書くのだ。

もちろん、ディケンズに対して登場人物が一貫性の無い振る舞いをすると論じられることは普通はない。一般的には彼はそのちょうど反対の行動で非難されることが多い。彼の描く登場人物はたんなる「類型」だと考えられている。それぞれは大雑把にはあるひとつの特質を表現していて識別できるようにある種のラベルのようなものが付けられているというのだ。ディケンズは「風刺家に過ぎない」……これがよくある非難であり、それはある面では正しく、ある面では間違っている。まず第一に彼は自分のことを風刺家だとは考えていないし、登場人物が完全に一貫したものとなるよう常に気を配っている。スクィアズ 、ミコーバー、ミス・モーチャー[以下の注記]、ウェッグ、スキムポール、ペックスニフ、そしてその他の多くの登場人物は最終的には「筋書き」に従い、場違いな場所で実に驚くべき振る舞いをする。彼らは、幻灯機のスライドのように登場するが三流映画に巻き込まれて終わるのだ。ときには元の幻影が打ち砕かれる一文を指し示すことさえできる。そうした一文がデイヴィッド・コパフィールドにある。あの有名な夕食パーティーの(羊の足が生焼けだったあれだ)後、デイヴィッドは彼の客を紹介していく。彼は階段の上にいるトラドルズを呼び止める。

[注記:ディケンズはミス・モーチャーを一種のヒロインへと変えた。これは彼が風刺したある現実の女性がこれまでの章を読んで、いたく傷ついたためだ。それ以前は彼は彼女に悪役を演じさせるつもりだったのだ。しかし、こうしてできた登場人物の行動はどれもつじつまが合わないように思えることだろう(原著者による脚注)]

「トラドルズ」僕は言いました。「ミコーバーさんは何もひどいことをしようとしちゃいないよ、君。だけどもし僕が君だったら彼に何かを貸そうとはしないだろうね」

「コパフィールド」トラドルズはほほ笑みながら返事をしました。「僕は人に貸せるようなものは何ももっていない」

「君には名前があるじゃないか」僕は答えました。

この個所を読むと、こうしたものが遅かれ早かれ避けがたかったのだとしても、この発言は少しばかり不協和音を奏でている。この物語は非常に写実的なもので、デイヴィッドは成長して最終的にミコーバー氏がどんな人間であるか、要はたかり屋の悪党であることを理解するようになっている。もちろんのことだがこの後、ディケンズは自身の感傷に打ち負かされ、ミコーバーは心を入れ替えることになる。しかし必死の努力にも関わらずその瞬間から元のミコーバーは完全に忘れ去られるのだ。大体においてディケンズの描く登場人物が巻き込まれる「筋書き」は細部において現実味がない。またそれだけでなく現実に対して多少なりとも言い訳がましいものなのだ。しかし一方で彼らが属する世界はネバーランド、あの世のようなものだ。しかしそれを見れば「風刺家に過ぎない」という非難が正しいものではないことがわかる。彼が常に風刺家以上の何かであろうとしているにも関わらず、ディケンズが決まって風刺家だと思われているという事実はおそらく彼の天才のはっきりとした印なのだろう。彼が作り出した怪物たちは今でも怪物として記憶されている。メロドラマもどきに巻き込まれているにも関わらずだ。彼が最初に与える衝撃があまりに鮮烈すぎて以降の何をもってしてもそれを拭い去ることができないのだ。子供時代に出会ったこうした人々は、決まってある特定の姿勢、ある特定の行動をしている姿で記憶されるものだ。スクィアズ夫人はいつも硫黄と糖蜜をさじですくい、ガミッジ夫人はいつもすすり泣き、ガージェリー夫人はいつも夫の頭を壁に打ちつけ、ジェリビー夫人はいつも子供たちが転げ落ちている最中にパンフレットを書いている……そして彼女たちは全員、嗅ぎタバコ入れの蓋に描かれた小さな輝く精密画のように永遠にその姿を留めるのだ。その姿はまったく信じ難い、すばらしいもので、さらにはどうしたわけか真剣な小説家の努力よりもなお堅固で、永遠不変で、記憶に残るものなのだ。彼が生きた時代の基準においてもなおディケンズは飛びぬけて技巧的な作家だった。ラスキンの言葉を借りれば、彼は「舞台を囲むかがり火の輪の中で働くことを選んだ」。彼の描く登場人物はスモレットのものよりもさらにゆがめられ、簡略化されている。しかし小説の書き方に規則などないし、どんな芸術作品でも考慮に値するその価値のテスト方法はたったひとつしかない……すなわち生き残ることである。この試験にディケンズの描く登場人物は合格している。彼らを記憶している人々が彼らを人間だとはまず考えていないにせよ、それは別の問題だ。彼らは怪物だが、いずれにせよ存在し続けているのだ。

それでもやはり怪物を描くということには短所がある。そうすることで結局、ディケンズはある特定の雰囲気でしか語ることができなくなっているのだ。人間の精神には彼が触れたこともないような巨大な領域が存在する。彼の作品にはどこにも詩情が存在しないし、真の悲劇もない。さらには性愛さえ彼の視界からはほとんど外れている。実際のところは時に言われるほどには彼の作品は無性的であるわけではないし、彼が作品を書いていた時代を考えれば十分に彼は率直である。しかし彼にはマノン・レスコーサランボーカルメン嵐が丘に見られるような感情の跡が存在しないのだ。オルダス・ハクスリーによるとD・H・ローレンスはかつてバルザックを「巨大な小人」と評したそうだが、同じことはディケンズにも言える。彼がそれについてまったく知らず、また言及したいとも思わなかったたくさんの世界が存在するのだ。非常に迂遠なやり方を別にすればディケンズから学べることはそう多くはない。こう言うとすぐさま十九世紀のロシアの偉大な小説家が頭に浮かぶ。なぜトルストイがつかんでいたものはディケンズのそれよりずっと大きなものに思えるのか……なぜ彼は自分自身への理解を深めてくれるように思えるのか? それは彼の方が才能に恵まれていたからでも、結局のところ知性で優れていたからでもない。彼が成長していく人々を描いたからなのだ。彼の描く登場人物は魂を鍛え上げようと悪戦苦闘するが、一方でディケンズの描く登場人物はすでにそれを終えて完璧なのだ。私の頭の中でディケンズの描く人々はトルストイのそれよりもずっと広い領域にずっと鮮烈に存在しているが、まるで絵画か家具のように常にひとつの変わることのない姿をしている。

ディケンズの描く登場人物と空想上の会話を交わすことなど思いもつかないだろう。だが例えばピーター・ベゾウホフピーター・ベゾウホフ:「戦争と平和」の主人公ピエール・ベズウーホフ(ピョートル・ベズウーホフ)を指すと思われるとであればそれも可能だ。これはたんにトルストイの方がずっとまじめであるからというわけではない。自分が話しかけるところを想像できる愉快な登場人物もいる……例えばブルームやペキュシェブルームやペキュシェ:ギュスターヴ・フロベールの小説「ブヴァールとペキュシェ」の登場人物を指すと思われる、あるいはウェルズのポーリー氏ポーリー氏:ウェルズによる小説「ポーリー氏の生涯」の主人公でさえそうだろう。これはディケンズの描く登場人物には精神生活がないためなのだ。彼らは言うべきことを完璧に言うが、別の何かについて話しているところをまったく想像できないのだ。彼らは決して何かを学んだり、憶測したりしない。彼の描く人物の中でおそらくもっとも内省的なのはポール・ドンビーだが、彼の考えることは支離滅裂だ。ではこれはトルストイの小説がディケンズのものより「優れている」ことを意味するのだろうか? 実際のところ、このような「優れている」、「劣っている」という観点での比較をおこなうことが馬鹿げているのだ。もし私がトルストイとディケンズを比較しなければならないはめになったら私はこう言うだろう。トルストイの魅力はおそらく長い目でみればずっと広範なものになるだろう。それはディケンズが英語圏の外ではほとんど理解不能であるためだ。一方でディケンズは無学な人々にも手が届くものだが、トルストイはそうではない。トルストイの描く登場人物は国境を越えることができ、ディケンズはタバコのおまけのカードに描かれることができる。しかしソーセージと薔薇のどちらかを選ぶ必要が無いのと同じように彼らのどちらかを選ぶ必要などないのだ。彼らが目指すところはほとんど重ならない。


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