ジョージ・オーウェル

政治対文学:ガリヴァー旅行記についての論考


ガリヴァー旅行記では少なくとも三つの視点から人間の持つ性質が攻撃あるいは批評されていて、言外に読み取れるガリヴァー自身の性格はその過程でいくぶん避けがたく変化している。第一部での彼は典型的な十八世紀の船乗りである。大胆で、実務的で、情緒を解さない。その素朴なものの考え方は冒頭の身の上書き、彼の年齢(冒険が始まった時、彼は四十歳で二人の子供がいる)、彼のポケットの中身の一覧、とりわけ何度か登場するその眼鏡によって巧みに読者に印象づけられる。第二部での彼もだいたいにおいては同じ性格だが物語でそれが必要になる瞬間には愚かな人間へと変わり「私たちの高貴なる国家、芸術と武器の女王、フランスの災厄」などなどの大言壮語をし、同時に自らの愛を公言する国に対して得られたあらゆる恥ずべき事実から顔を背けることができるようなる。第三部では第一部での様子にずっと近くなるが、しかしそれでも廷臣や学者たちととりわけ付き合いが深くなり、彼の社会的地位が上がったのだろうという印象を与えられる。第四部での彼は人類への嫌悪に取り憑かれている。これは以前の作品にはまったく、もしくはまれにしか見られなかったもので、彼は非宗教的な一種の隠遁者へ姿を変えてフウイヌムフウイヌム:ガリヴァー旅行記に登場する馬の姿をした徹底して理性的な種族の善性についての瞑想に没頭できるようなどこか人里を離れた場所に住みたいと考えている。しかしこうした一貫性の無さはガリヴァーが主として対比を生み出すために存在していることによって否応なくスウィフトに課せられたものだ。たとえばガリヴァーが第一部では思慮深く振る舞い、第二部では少なくともときおりは愚かに振る舞うのは必要なことなのだ。なぜならこの二つの作品での本質的な思惑は同じもの、つまり彼を六インチの身長の生き物であると想像させることによって人間の姿を不合理なものとして描くことにあるからだ。ガリヴァーが引き立て役として振る舞わない時には彼の性格にはある種の一貫性があり、とりわけその機知と物理的詳細の観察からはそれが見て取れる。ブレフスキュ国の軍艦を奪い取る時、巨大なネズミの腹を裂き開く時、そしてヤフーの革で作ったもろいかご舟に載って海に漕ぎ出す時の彼はほとんど変わらない人物であり、同じ文体で描かれている。もっと言えば明敏な時のガリヴァーは端的にスウィフト自身なのではないかと感じずにはいられないし、少なくともひとつ、同時代の社会に対するスウィフトの私的な不満が漏れ出したように見える出来事も存在する。リリパット国の皇帝の宮殿に火がついた時、ガリヴァーがそれを小便で消し止めたことは憶えているだろう。彼はその冷静さを褒め称えられるどころか宮殿の周囲を水浸しにしたことで死罪を犯したと告発される。行われたことにたいする最大限の嫌悪を抱いてのことだろうと思うのだが、皇后は法廷の最も遠いところへ身を引いて、自分が使うに足るように建物を修理することは決してできないと力強く断言し、その報いを受けさせずに済ませることはできないと強い確信を持って言うのだ。

G・M・トリベルヤン教授(アン女王統治下のイングランド)によれば、スウィフトが出世に失敗した理由のひとつは桶物語が女王の不興を買ったことにある……このパンフレットでおそらくスウィフトは自分がイギリス王位のために多大な貢献を果たしたと感じていたことだろう。それは非国教徒、とりわけカトリック教徒を酷評し、その一方で国教会には触れていないからだ。いずれにせよ、ガリヴァー旅行記が厭世的で恨みに満ちたものであることを否定する者は誰ひとりとしていないだろう。とりわけ第一部と第三部では偏狭な政治的党派心へと陥りがちだ。狭量と寛大、共和主義と独裁主義、理性への愛と好奇心の欠如、それら全てがそこではない交ぜになっている。人間の肉体への嫌悪はスウィフトの特徴とされているが、これが支配的なのは第四部でだけのことだ。しかしこの新しい大きな関心事にもどうしたわけか驚きはわかない。これら全ての冒険、雰囲気の変化は同じ人物に起きたであろうものであり、スウィフトの政治的忠誠心と最終的な彼の絶望との間の相互的な結びつきはこの作品の最も興味を惹かれる特徴のひとつであるように感じられるのだ。

政治的にはスウィフトは当時の革新政党の愚行によって強情なトーリー主義的なものへと駆り立てられた人々のひとりだった。ガリヴァー旅行記の第一部は表面上は人間の大きさを風刺したものだが、少しうがった見方をすればイングランド、ホイッグ党、そしてフランスとの戦争に対しての率直な攻撃であると見ることもできる。この戦争は……同盟の動機が邪悪なものだったにせよ……単一の反動勢力によってヨーロッパが圧制下に置かれることを防ぐものだった。スウィフトはジャコバイトではなかったし、厳密な意味ではトーリー主義者でもなかった。この戦争において彼が掲げた目標はたんに平和条約を調停し、イングランドの完全な敗北を避けることだった。それでもやはり彼の態度には売国の色合いがあり、それが第一部の終盤に顔をのぞかせて寓意を少しばかり妨げている。ガリヴァーがリリパット国(イングランド)からブレフスキュ国(フランス)へと逃げ出す際に、六インチの身長の人間は本来は卑劣な存在であるという前提が抜け落ちてしまっているように見えるのだ。リリパット国の人々がガリヴァーに対して最大限の欺瞞と下劣さで振る舞うのに対して、ブレフスキュ国の人々は寛容で率直な振る舞いをし、作品のこの節はそれまでの章に見られる全方位への幻滅とは間違いなく異なる雰囲気で終わる。明らかにスウィフトの敵意はまず第一にイングランドに対して向けられている。ブロブディンナグ国ブロブディンナグ国:ガリヴァー旅行記に登場する巨人の国の王が考える「これまで造物主が地球の表面に爪を立てて苦しんだ矮小で醜悪な害虫の中で最も有害な種族」は「おまえの種族(つまりガリヴァーの国の人々)」であり、末尾に置かれた植民地化と外国征服を非難する長い一文は、そうではないとわざとらしく明言されているにも関わらず明らかにイングランドに向けられたものだ。またイングランドの同盟国でありスウィフトの最も有名なパンフレットで標的にされている国のひとつであるオランダも第三部で大なり小なり心任せな攻撃を受けている。個人的な覚え書きのように見える文章さえ存在する。そこでガリヴァーは自分が発見したさまざまな国がイギリス直轄の植民地にはなり得ないことに対する満足を記録している。

確かにフウイヌムにはあまり戦争への備えが無さそうに見える。科学とはまったくの無縁だし、とりわけ飛び道具に関してはそうだ。しかし仮に私が国務大臣だったら彼らを侵略するように進言することは決してしないだろう……二万の彼らがヨーロッパ式の軍隊の中央へ雪崩れ込んでくるところを想像して欲しい。兵隊が入り乱れ、馬車が引き倒され、兵士の顔は叩き潰されてミイラのように変わる。彼らの後ろ足から繰り出される恐ろしい一撃によってそれがなされるのだ……

スウィフトが言葉を無駄に費やしたりはしないことを考えれば「兵士の顔は叩き潰されてミイラのように変わる」というこのフレーズはおそらくマールバラ公爵の無敵の軍隊が同じ目に合うところを見たいという隠された願いを示すものだろう。似たような雰囲気はいたるところに見られる。第三部に登場する国のうち「まったくの発見者、目撃者、密告者、告訴人、検察官、証人、宣誓者からなる一群の人々、そして彼らに付き従う卑屈ないく人かの従者がいて、彼らは皆、国務大臣たちの威を借り、その指示を受け、雇われているのだ」というその国はラングドン(Langdon)と呼ばれているが、これは一文字を抜かせばイングランド(England)のアナグラムだ(この作品の初期の版には誤字が含まれているので、恐らく元は完璧なアナグラムだったのだろう)。人間の持つ性質に対するスウィフトの肉体的嫌悪は間違いなく十分に現実的なものだったが、彼の人間の高貴さへの反駁や貴族、政治家、王宮の人気者といった人々への罵倒は主として身近な出来事に対してのものであり、自身が不遇な党派に属している事実からわき上がっているのではないかと感じずにはいられない。彼は不正と抑圧を非難するが、しかし彼が民主主義を好んだ形跡は認められない。その並外れて強大な力にも関わらず言外に示される彼の立ち位置は現代における無数の小賢しい保守党員……アラン・ハーバート卿やG・M・ヤング教授、エイトン卿、トーリー改革委員会、あるいはW・H・マロックから始まる大勢のカトリック護教論者と非常によく似ている。それが何であれ「現代的」、「進歩的」の名に値するものを巧みなジョークでやりこめることに長けた人々、現実の出来事の流れに自分たちが影響を与えられないことを知っているがためにしばしば極端な意見を取るような人々だ。まったくのところキリスト教廃止論を駁すといったようなパンフレットは、ブレインズ・トラストブレインズ・トラスト:BBCで放送されていたラジオ番組をいじって遊ぶ「ティモシー・シャイティモシー・シャイ:イギリスの記者D・B・ウィンダム・ルイスのペンネーム。風刺記事を多く書いた。」やバートランド・ラッセルの間違いを暴露して見せるロナルド・ノックス司教とよく似ている。そしてスウィフトがその桶物語での冒涜行為を許されていること……時に敬虔な信者にも許されていること……は宗教的感情が政治的感情に比べてずっと力を失っていることをはっきりと証明している。

しかしスウィフトの思想の反動的傾向はそれ自体では彼の政治的立ち位置をたいして示しはしない。重要なのは彼の科学に対する態度、さらに広く言えば知的好奇心に対する態度だ。ガリヴァー旅行記の第三部で描かれる有名なラガードのアカデミーがスウィフトの時代のいわゆる科学者の多くに対する適切な風刺であることは間違いない。注目すべきはその仕事に携わっている人々が「立案者」として描かれていることだ。つまり人々は公平無私な研究をおこなっているわけではなく、たんに労働を減らし金銭を稼ぐであろう装置を見つけ出そうとしているだけなのだ。かと言ってスウィフトが「純粋」科学を価値のある活動だと考えていた証拠は……間違いなくその反対の証拠はこの作品に多く存在するが……存在しない。もっと真面目な種類の科学者たちは第二部ですでにやり込められている。ブロブディンナグの王にひいきにされている「学者たち」がガリヴァーの小さな身長について説明を試みる場面だ。

長い議論が繰り広げられた後、彼らは満場一致で私がレルプルム・スカルカスであると結論した。字義どおりに解釈すればこれは先天性奇形ということである。ヨーロッパの現代哲学であればまさに頷くことのできる決定だろう。ヨーロッパの教授連中は超自然的原因へ逃げ込む古い習慣を軽蔑する。アリストテレス信奉者たちは自らの無知を糊塗しようと務めて、あらゆる困難に対処できるこのすばらしい解決策を発明したのだ。口に出すことの許されない人類の知恵の進歩である。

これだけを見るとスウィフトはたんに疑似科学に敵対しているだけに思われるかもしれない。しかし多くの個所で彼は、直接的に実用目的を目指していないあらゆる学問や思索の無益さを説くことに尽力している。

(ブロブディンナグの)学問はまったく不完全なものである。そこで考察の対象となるのは道徳、歴史、詩作、数学だけで、それらについて言えば彼らは傑出していると言わざるを得ない。しかしそれ以外のもの、生活に役立つであろうものへの応用、農業の改良、あらゆる機械技術は私たち同様、あまり高く評価されない。そしてイデア、実在、抽象概念、超越論的事物に関して言えば、私の説明は彼らには少しも理解されなかったのである。

スウィフトにとっての理想的存在であるフウイヌムもまた機械に関しては保守的だ。彼らは金属を知らず、船については聞いたこともない。実際のところ農業もおこなってはいないし(彼らが生活を頼るオート麦は「自然に育つ」のだと説明されている)、車輪も発明されていないように見える[下記注記]。文字も持っていないし、物理世界に対する好奇心もさして持ち合わせていないことは明らかだ。自分たち自身の国のそばに住人のいる国が存在するということを信じようとしないし、太陽と月の動きと日食の性質は理解しているが「彼らの天文学における発展はそれがせいぜい」なのだ。対照的に飛行島ラピュータの哲学者たちは数学的思索に絶えず没頭し、彼らと会話する前には耳を空気袋で叩いて彼らの注意を引かなければならない。彼らは一万の恒星を目録に記録し、九十三の彗星の周期を決定し、ヨーロッパの天文学に先んじて火星に二つの月があることを発見している……スウィフトが、これら全ての知識を無益で馬鹿げていてつまらないものと見なしていることは明らかだ。推測できることだが、彼は科学者に居場所があるとすればそれは研究室であり、科学知識は政治的事柄とはまったくの無縁であると考えている。

[注記:フウイヌムは老いて歩けなくなると「そり」あるいは「そりのように引かれるある種の乗り物」に乗って運ばれると書かれている。これらには車輪は無いように思われる。(原著者による注記)]

私にとって……まったく不可解だったのは彼らに見られる新奇と政治へと向かう強い傾向、公共問題への絶えざる調査、国事への意見申し立て、党派的意見のあらゆる些事に至る情熱的な論争である。それは私の知るヨーロッパの数学者のほとんどに見られるものとまさに同じ傾向ではあったが、私にはその二つの科学の間に少しの類似も見出すことはできなかった。ただしこうした人々が、最小の円は最大の円と同じ角度を持つのだからこの世界を制御し管理するには球体を手に取って回転させる以上の能力は必要ないのだと思っていることを除けば、だが。

「私にはその二つの科学の間に少しの類似も見出すことはできなかった」というフレーズはどこかで見たことがないだろうか? これはまさに、科学者が神の存在や魂の不滅に対して疑問視する意見を口にした時に大衆的なカトリック護教論者が驚いて上げる声なのだ。よく言われるように科学者とはあるひとつの限られた領域のみにおける専門家である。他の領域においてなぜその意見に価値があるといえるだろう? そこで言外に示されているのは神学はたとえば化学と同じ様に精密科学であり、神父もまたひとりの専門家であって彼が下したある特定の主題に対する結論は受け入れられなければならないということなのだ。スウィフトは実質的にはこれと同じ主張を政治家のためにおこなっているのだが、さらに一歩、歩を進めている。自らの見解において彼は科学者が……それが「純粋な」科学者であっても、当面の問題にかかずらう研究者であっても……有益な人物であることを認めようとはしないのだ。もし彼がガリヴァー旅行記の第三部を書いていなかったとしても作品の残りの部分から推測できることだが、トルストイやブレイクと同様、彼は自然現象を研究するという概念そのものを嫌っているのだ。彼がフウイヌムの「理性」をおおいに称賛する時、その「理性」とは観察した事実から論理的推論を描き出す力を第一に意味するわけではない。それが何かを彼が定義することは決してないが、ほとんどの文脈においてそれは良識……つまりこじつけと抽象概念を自明のものとして軽蔑的に受け取ること……あるいは情熱と迷信の欠如を意味しているように見える。全体的に言えば彼は、私たちが知るべきことを私たちは既に知っていて、ただ間違ったやり方で自分たちの知識を使っているだけなのだと考えているのだ。例えば医学は無用の科学で、それはもし私たちがもっと自然な生き方をすれば病気など存在しないだろうからだ。しかしスウィフトは簡素な生活を送ったわけではないし、高潔な野蛮人の賛美者でもない。彼は文明と文明の技術を支持していた。好ましい礼儀、好ましい会話、あるいは文学や歴史に関する事柄の研究にさえその価値を認め、さらには農業、航海術や建築技術を研究する必要があり、それらを改良することで利益が得られることを理解していた。しかし彼が言外に示す目標は静的で好奇心の欠けた文明……彼の時代の世界より少しだけ清潔で、少しだけ良識的で、極端な変化や不可知なものへ突き進むことの無いものなのだ。受け入れられている誤った考えから誰もが自由になるべきだとたんに期待するだけでなく、彼は過去、とりわけ古典古代を崇め、現代人は過去数百年の間に急速に退行したと信じている[下記注記]。死霊を思いのままに呼び出すことのできる魔法使いの島でのことだ。

[注記:それが見られるとスウィフトが主張した肉体的退廃は当時実際に起きていたのだろう。彼はそれを梅毒による結果だとした。梅毒はヨーロッパにおける新しい病気で、現在よりもその感染力はずっと強かったと思われる。また蒸留酒も十七世紀には目新しいもので、当初はアルコール依存症をおおいに増加させたはずだ。(原著者による注記)]

私は、大きな議場のひとつでローマの元老院が目の前に現れることを望んだ。相対するのは現代の代議士だ。初めの者たちは英雄や半神のように見え、もう一方は行商人やすり、追いはぎやいじめっ子の集団のように見えることだろう。

スウィフトは第三部のこの節を使って記録された歴史の真実性に攻撃を仕掛けているにも関わらず、ギリシャやローマを扱う時にはすぐさまその批判精神は彼から失われてしまうのだ。もちろん彼はローマ帝国の腐敗について言及するが、彼はほとんど無分別とも言うべき態度で古代世界の指導者のいく人かを称賛する。

ブルトゥスを見て私は深い畏敬の念に撃たれた。まったく見事な徳、偉大なる勇猛、確固とした意思、祖国に対する真の愛、人々に対する広い博愛、その表情全てに現れた冷静さ、それらが容易に見て取れるのだ……光栄にも私はブルトゥスと多くの言葉を交わし、彼の先人であるユニウス、ソクラテス、エパメイノンダス、小カトー、トマス・モア卿、そして彼自身は永遠に共にいると教えられた。この世界の全ての時代を見ても七人目を付け加えることができない六人の男たちSEXTUMVIRATEである。

この六人の中にキリスト教徒がひとりしかいないことに気がつくことだろう。これは重要な点だ。スウィフトの厭世主義、過去への畏敬、人間の肉体への無関心と嫌悪をひとつにつなぎ合わせれば、たどり着くのは宗教的な反動主義者……つまりこの世界は実質的に改善不可能であり、重要なのは「来世」だけであると唱えて社会の不公正な秩序を擁護する人々……に共通してみられる態度なのだ。しかし、スウィフトは少なくとも通常の言葉の意味においては、どのようなものであれ宗教的信念のしるしを見せない。死後の生命を真剣に信じている様子もないし、彼の考える善の概念と結びついているのは共和制、自由への愛、勇敢さ、(実質的には公共心を意味する)「博愛」、「理性」、その他の無宗教的な資質だ。このことはスウィフトに別の傾向があることを思い出させる。進歩に対する彼の不信や人間の持つ性質への大きな嫌悪とは必ずしも調和しないものだ。

まず初めに言っておきたいのは、彼は「建設的」、さらには「進歩的」になる時さえあるということだ。時に一貫性を欠くことはユートピア作品においてはその活力の目印とも言っていいものだが、スウィフトも純粋な風刺であるべき文章に時に称賛の言葉を差し挟むことがある。若者の教育に関する彼の考えはリリパット人によって生み出されたそれで、このテーマに関してはフウイヌムのそれともほとんど変わらない。リリパット人もまたさまざまな社会制度と法制度を持っていて(例えば老齢年金があったり、法律破ったことに対する罰則や法律を守ったことに対する褒賞があったりする)、それはスウィフトが自身の国を支配していると考えているものだ。それについて書く文章の半ばでスウィフトは自分が風刺をおこなっていたことを思い出して「これらに関係する法律やそれに続く法律に関して、元々の制度は理解できたが、人間の本性の退行によってこうした人々が陥っているひどく恥ずべき腐敗については理解ができなかった」と付け加える。しかしリリパット国がイングランドを表しているであろうのに対して、彼の語っている法律と同等のものがイングランドに存在したことは一度もない。建設的な提案をおこなおうとする衝動が彼にとって手に余るものであったことは明らかだ。しかし言葉の狭い意味における、政治思想へのスウィフトの最大の貢献は、現在、全体主義と呼ばれているものに対する彼の攻撃、とりわけ第三部におけるそれである。彼が極めて明確に予見したものはスパイの跋扈する「警察国家」である。そこでは終わりなき異端狩りと反逆罪裁判が繰り広げられ、それら全ては民衆の不満を戦争ヒステリー変えることで無効化するために計画されたものなのだ。思いだす必要があるのはここでスウィフトは実にわずかな部分からその全てを推察しているということだ。彼の時代の弱体化した政府は既に出来上がった実例を彼に提供することはなかった。例えば政策立案者のための学校の教授が描かれ、彼は「企てと陰謀を発見するための巨大な説明書を私に示して見せ」、人々の排泄物を調べることでその密かな考えを理解することができると主張する。

排便時には人間は決してそれほど厳粛にも、思慮深くも、意志強健もならないためだ。このことを数多くの実験から彼は発見した。例を挙げてみれば、王を殺す最も良い方法は何かを試しに考えてみた時にはその糞便は緑色を帯びた。しかし謀反の企てや都市への放火だけを考えた時にはまったく異なる結果となったのだ。

この教授と彼の理論は、当時おこなわれた政治犯裁判で、ある人物の便所から見つかった手紙が証拠として提出されたというあまり驚きもしない、気持ち悪くもならない事実からスウィフトが着想を得たものだと言われている。同じ章の後半ではロシアでの粛清のまっただなかにいるような気分に襲われる。

その国民にはラングドンと呼ばれているトリブニア王国トリブニア王国:トリブニア(Tribnia)はブリテン(Britain)のアルファベットの順序を変えたもの。では……いわば、まったくの発見者、目撃者、密告者、告訴人、検察官、証人、宣誓者からなる一群の人々は……容疑者が告発されている企てがどのようなものかを彼らの中で最初に合意して決めている。その後で手紙や書類の全てを確保し、それを投獄されている持ち主にあてがうための効果的な策が講じられるのだ。こうした書類は単語や音節、文字の秘められた意味を極めて巧妙に読み解く芸術家の一団へ引き渡される……こうした方法がうまくいかなかった場合でも、さらにふたつの有効な手段が残されていて、それらはアクロスティックアナグラムと呼ばれている。最初の方法では文の頭の文字全てが政治的意味を持つものとして読み解かれる。つまりNは企てを、Bは騎兵連隊を、Lは海軍艦隊を意味するのだ。また二番目の方法では疑いのある書類のどれかに登場するアルファベットの文字を入れ替えることで不満を持つ一派の奥底にある計画をあらわにすることができる。例えば私が手紙で友人に「OUR BROTHER TOM HAS JUST GOT THE PILES(私たちの兄弟のトムは山へ行ったところだ)」と書いたとしよう。熟練の解読者であればこの文章を構成する同じ文字が次のような言葉「RESIST–A PLOT IS BROUGHT HOME–THE TOUR(注:tower)(抵抗せよ―計画は持ち直した―あの塔だ)」と分析できることを発見するだろう。これこそがアナグラム法である。

同じ学校の他の教授たちは簡略化された言語を生み出したり、機械によって本を執筆したり、焼き菓子に講義内容を刻んでそれを飲み込ませることで生徒たちに教育をおこなったり、あるいはある人間の脳の一部を切り取って別の人間の頭に移植することで個性を完全に失わせようと試みたりしている。これらの章が持つ雰囲気には奇妙な既視感がある。こうしたひどい愚行を扱う様には、全体主義の目標のひとつは人々を正しい考えへ導くことではなく、実際には人々の意識を低下させることなのだという気づきがあるからだ。また、普段、ヤフーの一族を支配している指導者や最初に汚れ役を買って出て後には身代わりになる「人気者たち」に対するスウィフトの説明は明らかに現代でも目にする類型によく当てはまる。しかしこれらの全てをもってスウィフトこそが最初の抜きんでた独裁への敵対者、自由な知性の擁護者であると推察していいものだろうか? 否だ。推察できる限りにおいて彼自身のものの考え方はさしてリベラルなものではない。彼が貴族や王侯、司教、将校、上流階級の婦人たち、騎士団、叙勲者、多くの太鼓持ちを嫌っていたことは間違いないが、民衆はその支配者たちよりも優れていると考えたり、社会的平等の推進を支持したり、代議制に熱心だったりする様子は見られない。フウイヌムは本質的には種族に基づくカースト制度の一種によって組織化されている。下働きをする馬たちはその主人とは違う肌の色をしていて、この両者が交配をおこなうことはない。スウィフトが称賛するリリパット人の教育システムは世襲による階級区分を当然のものとしていて、最貧階級の子供たちは学校には行かない。「彼らの仕事は大地を耕して作物を育てることだけで……従って彼らを教育しても公共にもたらされる利益は少ない」からだ。また自身の著作がその恩恵に浴しているというのに言論や報道の自由をとりわけ強く支持しているようにも見えない。ブロブディンナグ国の王は、イングランドに複数の宗教や政党があることに驚き、「公共に害をなす意見」(文脈から見てこれはたんに異端的な意見を意味しているように思われる)を持つ者はその意見を変える必要は無いにせよ、秘しておくべきだと考えている。「どのような政府であれ絶対権力は第一の存在である必要があり、第二の存在が力を持たないようにしなければ弱体化を招く」ためだ。ガリヴァーがフウイヌムの土地を後にする仕方はスウィフト自身の態度を暗示している。少なくともそこに彼の態度が顔をのぞかせていることは確かだ。スウィフトは一種のアナーキストであり、ガリヴァー旅行記の第四部で描き出されているのは無政府社会なのだ。それは通常の意味における法でなく、皆が自発的に受け入れる「理性」の命令に従って統治されている。総会でのフウイヌムたちはガリヴァーの主人に彼を処分するよう「勧告」し、隣人たちはそれに従うよう彼に迫る。理由は二つだ。ひとつはこの普通でないヤフーの存在は部族の者たちを動揺させるということ、もうひとつはフウイヌムとヤフーの間の友好的な関係は「理性や自然の本性に反し、そんなものはこれまで誰も聞いたことがないものである」ことだ。ガリヴァーの主人は従うことにあまり気乗りしないが、「勧告」(それが何であれフウイヌムには何かが強制されることはないと語られる。たんに「勧告」されるか「忠告」されるかするだけだ)を無視するわけにはいかない。これはアナーキストや平和主義者の求める社会に現れる全体主義的傾向を非常によく描き出している。法律の存在しない社会、理屈の上では強制の存在しない社会では唯一の裁定者は世論となる。しかし群を作る動物に存在する服従へのとてつもなく大きい衝動のために、世論はどのような法体系よりも不寛容なものになるのだ。人間が「汝、なすなかれ」という言葉によって統治されている場合、個人はある程度の奇行をおこなうことが可能だ。しかし建前の上では「愛」や「理性」によって統治されている場合には他の全員とまったく同じように振る舞い、考えることを絶えず迫られるのだ。フウイヌムはほとんど全ての問題に対して全員一致の意見を持つと語られる。彼らがこれまで議論をおこなった問題はヤフーをどう扱うかについてだけだ。それ以外の場合には彼らの中から異議の声が上がる余地はない。真実は常に自明であるか、さもなくば発見不可能だったり、さして重要でないためだ。彼らの言語には明らかに「意見」を表す言葉は存在しないし、その会話において「見解の相違」が生まれることも無い。事実上、彼らは全体主義組織の最終段階に到達しているのだ。この段階において服従は警察力を必要としないほど全面的なものになっている。スウィフトはこうしたものに賛意を唱える。彼は多くの才能に恵まれたがそこには好奇心も気立ての良さも含まれてはいなかったからだ。意見の相違といったものは彼にはまったくの偏屈に見えていたのだろう。彼は言う。「(フウイヌムにとっての)理性は私たちにとってのそれのように解決困難な問題ではない。人はもっともらしく問題の二つの側面を議論する。しかし激情や利害によって問題が複雑に入り組んだり、覆い隠されたり、偏ったものにならなければ、ただちに裁定をくだせるし、そうあるべきなのだ」。言い換えれば、私たちは既に全てを知っているというのだ。そうであればなぜ反対意見に寛容でなければならないのか? 自由も進歩も存在しないフウイヌムの全体主義社会はこの質問から必然的に導かれるものなのだ。

スウィフトを反逆者や因習打破主義者だと考えるのはもっともなことだ。例えば彼は女性は男性と同じ教育を受けるべきだと主張した。しかしこうした特定の副次的な問題を別にすれば、彼を「左派」に分類することはできない。彼はトーリー主義のアナーキストであり、権威を軽蔑しながらも自由を疑い、貴族的な態度を保ちながらも既存の貴族社会は堕落し軽蔑に値するものであることをはっきりと理解していた。スウィフトが彼独特の辛辣な批判を金持ちと権力者に浴びせる時には、私が先に述べたように、彼自身があまり力の無い党派に属していたことや彼が個人的な失望を抱えていたことに関しては忘れる必要があるだろう。「裏」は常に「表」よりも過激なものになり、それには明確な理由があるものだ[下記注記]。しかしスウィフトの最も本質的な点は、人生……理性的で脱臭されそれではなく、確固とした大地の上におけるごく普通の人生……は生きるに値するものになり得るということを彼が信じられないということなのだ。もちろん誠実な人間であれば、今や人類は成熟して幸福こそが通常の状態となった、などとは言わないだろう。しかしおそらくそれは通常の状態になり得るし、全ての真剣な政治的議論は実のところこの問題の周りを巡っているのだ。スウィフトはトルストイと……私が考えるところでは気がつかれている以上に……多くの共通点を持っている。彼は幸福の実現に疑いの目を向けるもうひとりの人物だ。両者には同じ無政府主義的な考え方が見て取れ、それが独裁的な気質を覆い隠している。どちらも科学に似たような敵意を向け、反対意見の持ち主には同じように苛立ち、自身が興味の無い問題には同じように重要性を認めることができない。またどちらの場合も人生の実際的な過程に対するある種の嫌悪が存在する。ただしトルストイの場合にはそれは後半生に異なる形で訪れた。この二人の性的な不遇は同じ種類のものではないが、ここにも共通点があり、二人とも心からの嫌悪と病的な興味がないまぜになっている。トルストイは完璧な禁欲生活を説かれて改心した放蕩者だったが、かなりの老齢になるまでまったく逆の行動を続けていた。スウィフトは不能者で、人間の糞便に対して過剰なまでの嫌悪を抱いていたとされている。また彼がそれついてひっきりなしに思いを巡らせていたことはその作品を見れば明らかである。こうした人々は、ほとんどの人間が巡り合わせるわずかな幸福でさえも楽しもうとはせず、その明白な動機から、地上における生活を大幅に改善できるということを認めようとしない。その無関心とそれによる不寛容は同じ源からわき出しているのだ。

[注記:人間の愚かさと凶暴さの典型的な見本として作品の最後でスウィフトが挙げるのは「法律家、すり、将校、道化、貴族、博打打ち、政治家、女衒、医者、証言者、偽証させようと企む者、弁護士、謀反人、そしてそれらに類した人々」だ。ここに見て取れるのは力無き者の無責任な激情である。このリストを要約すれば、つまりは慣習的な規範を破る者と守る者だ。例えば謀反人を非難するのと同じ理由で無理なく将校を非難できるだろうか? あるいはまた、すりを止めさせようと思えば法律が必要で、これは法律家が必要であることを意味する。この全体を締めくくる最後の文章に見られる嫌悪はまず間違いのないものだが、そこで述べられる理由は極めて不十分なものだ。そのためにこの文章はいくぶん説得力のないものになっている。そこには個人的な恨みが働いているのではないかと感じずにはいられない。(原著者による脚注)]

スウィフトの嫌悪、恨み、厭世主義は、現世の後にやってくる「来世」という背景があってこそ意味を持つものなのではないだろうか。こうしたものを彼が真剣に信じているようには見えないが、そうであれば地上に存在し得るであろう楽園の建設が必要となる。しかしそれは私たちが知る何ともまったく異なる何か、彼が異議を唱える全てのもの……嘘、愚かさ、変化、熱狂、喜び、愛、汚物……が取り除かれた何かだ。理想の存在として彼は馬を選んだ。糞が不潔でない動物だ。フウイヌムは陰鬱な獣だ……何かを主張することはそれに値しない労働だと広く認められている。スウィフトの才能によって彼らはもっともらしい存在になっているが、彼らに嫌悪以外の感情を覚える読者はほとんどいないだろう。そしてそれは人間より優れた動物を目にして虚栄心に傷がつくためではない。二つの種族の内ではフウイヌムはヤフーよりもずっとよく人間に似ていること、ヤフーに対してガリヴァーが嫌悪を抱き、同時に彼らは自身と同じ種類の生物であると彼が認識していること、そこには論理的な不条理さが存在する。この嫌悪は彼が初めて彼らを目にした時に彼を襲う。「これまでの自分の旅で」。彼は言う。「これほど不愉快で、またこれほど強い嫌悪が自然と沸き上がる動物を見たことは一度もなかった」。しかし何と比較してヤフーが嫌悪を感じさせるのだろう? フウイヌムではない。この時点ではガリヴァーはまだフウイヌムを目にしていない。彼自身、つまり人間との比較に他ならないのだ。しかし後半で、ヤフーは人間であり、全ての人間がヤフーであるために人間社会はガリヴァーにとって耐えがたいものへ変わったと語られる。そうであればなぜ彼は人間の持つ性質に対する嫌悪を以前は抱かなかったのだろうか? 実際のところ語られているのはヤフーが人間とは途方もなく異なり、それにも関わらず同じであるということなのだ。スウィフトは過ぎた怒りに駆られ、自分の仲間である生き物に向かって「おまえはおまえよりも薄汚れている!」と叫んでいるのだ。しかしヤフーに対して強い親近感を感じることは不可能である。そしてまたフウイヌムが魅力に欠けるのは彼らがヤフーを虐げているためではない。彼らが魅力に欠けるのはその統治手段である「理性」が実際のところは死への欲求であるためだ。彼らには愛も、友情も、好奇心も、恐怖も、悲しみも……彼らの社会でナチス・ドイツでのユダヤ人とまったく同じ位置を占めているヤフーに対する感情を除けば……怒りも、憎しみもない。「彼らは自分たちの子供に愛情を持っているわけではないが、その教育においては理性の命じるところに従って全面的に子供たちの面倒が見られる」。「友情」と「博愛」によって蓄えを提供するが「その相手は特定の対象に限定されず、種族全体に広くまたがっている」。彼らもまた会話に価値を認めているが、その会話において意見の相違は存在せず、「最小限の言葉で最大限の意味を持つように表現された有用な事柄以外は口にされない」。彼らは厳格な産児制限をおこなっていて、各夫婦は二頭の子供を産み、それが終わると性的な交わりを断つようになる。結婚は年長者によって優生学的原則に基づいて決められ、性的な意味においては彼らの言葉に「愛」に相当する言葉は存在しない。誰かが死んだ時には事前に決められている通りに事が進められ、そこには悲しみの感情は一切ない。彼らが目指しているのは肉体的な生を保ちながらも可能な限り死体のように振る舞うことであるように見える。彼らの特徴のいくつかは彼らが使う言葉の意味においては厳密には「理性的」とは思えないことは確かだ。例えば彼らは肉体的な剛健さだけでなく運動能力にも大きな価値を置いているし、詩を作ることに熱中している。しかしこうした例外も彼らからすれば別に気まぐれなものではないのだろう。スウィフトはおそらくフウイヌムの肉体的な強さを強調することで彼らが決して憎むべき人類に征服されないことを明らかにしようとしたのだろうし、詩を好むのは彼らの上品さを表すためで、それはスウィフトにとっては詩が科学に対するアンチテーゼに見えたため、彼の視点からはそれがあらゆる探求の中で最も実用性のないものに見えたためなのだろう。第三部で彼は「想像力、空想、発明」こそが望ましい能力であり、(音楽を愛好しているにも関わらず)ラピュータの数学者にはそれが完全に欠如していると述べている。ここで心に留めておかなければならいことは、スウィフトは滑稽詩の見事な書き手であったにも関わらず、価値があると彼が考えていた詩はおそらく道徳的な詩であろうということだ。フウイヌムの詩について彼はこう語る。

他の全ての生き物(のそれ)よりも優れていると言わざるを得ない。そこで表現される彼らの直喩の正当さ、そして彼らによる描写の綿密さ、正確さは間違いなく非類のないものである。その両方において彼らの詩は極めて豊かなものであり、たいていの場合、そこには友情や博愛についての高貴な考え、あるいは競走やその他の肉体的な運動の勝者に対する称賛が含まれている。

悲しいかな、スウィフトの才能をもってしても私たちがフウイヌムの詩の価値を見極めるための見本を生み出すには至らなかった。しかし説明からするとそれは怜悧なもの(おそらくは英雄を謳った二行連句カプレット)で、「理性」の原則と深刻な矛盾をきたすようなものではないようだ。

幸福を描くことがひどく難しいことはつとに有名であり、公正で秩序だった社会の描写が魅力的だったり説得力のあるものであることはほとんどない。しかし「好ましい」ユートピアの創造者のほとんどは、もっと完全な生があるとしたらそれがどのような生活となるかを示して見せようと努めるものだ。スウィフトはたんに生を拒絶し、「理性」とは本能を屈服させることであると主張してそれを正当化している。フウイヌム、この歴史を持たない生き物は何世代にもわたって慎重な生活を送り、その頭数をまったく同じ水準に保ち、あらゆる情熱を取り除き、病に苦しむこともなく、無感動に死を迎え、それと同じ原則に従うよう若者を育てあげている……それらはいったい何のためなのだろう? 同じ過程を永久に続けていくためなのだろう。今、この場所における生は価値ある生だという観念、それを価値ある生に変えられるだろう、あるいは未来の良きもののためにそれを犠牲にすべきだという観念はまったく欠如している。フウイヌムの陰鬱な世界はスウィフトが作り上げることのできたすばらしいユートピアの限界であり、彼が「来世」を信じず、また何か通常の活動から喜びを得ることもできなかったことによって生まれたものなのだ。しかし実のところ、それはそれ自体が何か望ましいものとして用意されたわけではなく、人間の持つ性質にたいするひとつの攻撃を正当化するために用意されたものだ。常のごとく、その目的は人間に自身が弱く不合理であること、とりわけ自身が悪臭を放っていることを思い出させて屈辱を与えることにある。おそらくその究極的な動機はある種の嫉妬だ。それは生きている人々に亡霊が抱く嫉妬、自分よりも少しでも幸福な者がいる……それこそ彼が恐れていることだ……と自分が幸福になれないことを知っている人間の抱く嫉妬である。こうした考えを政治的に表現した場合、それは必ず反動主義か虚無主義のどちらかになる。そうした考えを抱く人物はその厭世主義が裏切られるであろう方向に社会が進歩するのを妨げようと欲するだろうからだ。あらゆるものを粉々に吹き飛ばすか、社会の変化を逸らすことでそれは実現できる。原子爆弾を除けばスウィフトが最終的にあらゆるものを粉々に吹き飛ばすためにはひとつの方法しかない……つまり発狂だ……しかし私が示そうとしてきたように、彼の政治的目標はまったく反動的なそれなのだ。

私がここまで書いて来たことを見れば私がスウィフトに反対し、彼を拒絶してさらには彼の矮小化を試みているように思うことだろう。政治的、道徳的な意味では私の理解の範囲内において私は彼に反対する立場だ。しかし奇妙なことに彼は私が称賛する数少ない作家のひとりであり、とりわけガリヴァー旅行記は私が決して読み飽きることのない作品のように思われるのだ。私がそれを始めて読んだのは八歳の時だった……厳密に言えば八歳になる一日前だ。翌日の八歳の誕生にもらうはずのその一冊を拝借してこっそり読んだのだ……以降、それを読み返した回数が半ダースを下回ることはないはずだ。その魅力は尽きることがないように思われる。もし六冊だけ選んで他の全ての本を捨て去らなければならなくなったとしたら、私は間違いなくその中にガリヴァー旅行記を加えるだろう。この事実はある疑問を提起する。著者の意見とその作品の面白さに結びつきがあるとしてその間の関係はどのようなものだろうか?

もし知的に公平であることができれば、自分とはまったく意見の異なる作家の長所にも気がつくことができるだろう。面白さは別の問題なのだ。優れた芸術・劣った芸術といったものがあるとすれば、その優良さ・劣悪さは芸術作品そのものに宿っているに違いない……もちろんこれは観察者と独立ではないが観察者の気分とは独立している。つまり、ある詩が月曜日には優れていて火曜日には劣っているということはあり得ない。しかし、もしその詩をそれが喚起させる美的喜びによって判定すればそれは間違いなく正しいものとなる。なぜなら美的喜び、あるいは面白さは外部から強制されることのない主観的な状態だからだ。目覚めて生活している間の大部分で、最も教養ある人物でさえ審美的感情はまったく持たないし、審美的感情を持つための力はいとも簡単に破壊される。怯えている時、飢えている時、歯痛や船酔いに苦しんでいる時にはリア王ピーターパンより優れているかどうか考えられなくなる。知識的な意味では優れていることもわかるだろうが、それはただそう記憶しているというだけのことだ。正常な状態に戻るまではリア王の長所を感じ取ることはないだろう。また審美的な判断は悲惨なまでに転覆することがある……政治的、道徳的な見解の不一致による場合にはその原因に気がつきにくくなるので、それはさらに悲惨なものとなる。ある作品があなたを怒らせ、傷つけ、あるいは怯えさせるとしたら、いかなる長所があろうともあなたはそれを楽しむことはできないだろう。それが何か望ましくないやり方で他の人々に影響を与えそうな有害な作品だとあなたが思ったとしたら、あなたはそれには長所など無いことを証明するための審美的な理論を構築することだろう。現在の文学批評の非常に多くは二つの尺度基準の間をあちらこちらへとさまようこうした種類のごまかしから成り立っている。さらにまたこの反対の過程が起きることもある。面白さが見解の相違を打ち負かすのだ。何か有害なものを面白がっているとはっきり認識しているときでさえこれは起きる。その世界観はとりわけ受け入れがたいものであるが、それにも関わらず極めて人気の高い作家であるスウィフトはこの良い例である。自分たちがヤフーでないと強く確信しているにも関わらず、なぜ私たちはヤフーと呼ばれてもそれを気にしないのだろうか?

スウィフトは間違っているから、というよくある回答では不十分である。実際のところ、彼は正気を失っている。しかし彼は「優れた作家」だった。作品の文学的な優劣はそれが扱っている題材とは多少なりとも分けて考えることができるというのは真実である。人々の中には言葉を操ることに関して天性の才能を持つ者がいる。生まれながらに「勝負勘」を持つ者がいるのと同じだ。その大部分はタイミングと、言葉を使う時にどれくらい強調をおこなうべきかを本能的に知っているかどうかについての問題だ。手近な例として先に引用した第一部の「その国民にはラングドンと呼ばれているトリブニア王国では」で始まる文章をもう一度見てみよう。この文章の持つ力強さの多くは最後の「これこそがアナグラム法である」という文によるものだ。厳密に言えばこの文は不要だ。私たちは既にアナグラム解読について理解している。しかし、わざとらしい厳粛な反復にその言葉を口にするスウィフト自身の声が聞こえるかのように思え、まるで釘を打ち込む最後のひと打ちのように描写されている行動の愚かしさが強調される。しかしスウィフトの散文のその全ての力や簡潔さや、ひとつに留まらずその一連の全ての信じ難い世界をほとんどの歴史書よりももっともらしく描くことを可能にした創意に富んだ取り組みも……もし彼の世界観が本当に攻撃的、あるいは衝撃的なものであれば、私たちがスウィフトを楽しむ助けにはならなかっただろう。多くの国々の何百万という人々が、その反人間的な含意を大なり小なり見て取りながらもガリヴァー旅行記を楽しんでいることは間違いないし、第一部や第二部を単純な物語として受け取っている子供さえ、身長六インチの人間がいると考えることの馬鹿馬鹿しさを理解している。スウィフトの世界観が完全に間違っているものとは感じられない……あるいはもっと正確に言えば常に間違っているとは感じられないということがこの説明になることは間違いない。スウィフトは病的な作家だ。ほとんどの人間であれば時たま陥るだけの陰鬱な気分に彼は恒常的に浸っていて、それはまるで黄疸かインフルエンザの後遺症に苦しむ者が同時に作品を執筆するエネルギーを持っているかのようだ。しかしその気分は私たち誰しもが知るものであり、書き記されたそれに私たちの何かが反応するのだ。例えば彼の最も特徴的な作品のひとつ「淑女の化粧室」だ。それによく似た詩「うら若き佳人、臥床に入る」を付け加えてもいいだろう。これらの詩に表現された見方とブレイクの言葉「裸の女性は神聖な姿」に込められた姿はどちらの方が真実に近いだろうか? ブレイクの方が真実に近いことは疑いない。しかし、ときおり暴かれる女性的美しさの欺瞞を目にした時に感じるある種の喜びを感じ取れていないのはどちらだろう? 人間の生活で目にするもののうち、汚物と愚劣、悪意を除く全てを拒絶することでスウィフトは自身の描く世界の像を偽っている。しかし彼がおこなう全体からの要約の一部は確かに存在するものであり、それは私たち全員が知りながらも口に出すことをためらう何かなのだ。私たち……大多数を占める、通常の人物であれば……頭のどこかで人間は高貴な動物であり、人生は生きるに値することを信じている。しかし内なる自身とでも言うべきものも存在し、それは少なくともときおりは実存への嫌悪に呆然とするのだ。こうした奇妙なやり方で喜びと嫌悪は結びついている。人間の肉体は美しく、同時に不快で滑稽だ。この事実はどこでもいいので遊泳プールへ行けば確かめることができる。生殖器官は欲望の対象であると同時に嫌悪の対象でもある。全ての言語ではないかもしれないが非常に多くの言語でその名前は乱用されている。肉は美味だが肉屋は人の気分を悪くする。また、私たちの食べ物の全ては究極的には糞便と死体からわき出たもので、この二つはあらゆるものの中でも私たちが最も嫌悪を抱くものであろうことは確かだ。幼児期を抜け出し、しかしまだ世界を新鮮な目で見ている子供は驚嘆と同じくらい嫌悪によって心を動かされる……鼻水や唾への嫌悪、歩道に落ちた犬の糞への嫌悪、蛆に覆われている死んだヒキガエル、大人たちの汗の臭い、老人のひどい醜さ、その禿げた頭と球根のような鼻。病や汚物、奇形に対する止むことの無い叫び声において、実のところスウィフトは何も生み出してはいない。ただ彼には何かがそのまま残っているのだ。人間の行動、とりわけ政治におけるそれは彼が説明して見せたとおりのものだが、そこには彼が認めようとしなかった他のもっと重要な要因が含まれている。これまでに私たちが理解できている限りにおいては、嫌悪と苦痛はこの惑星の上で生活を続けるためには必要不可欠なもので、それゆえにスウィフトのような悲観主義者の言い分「もし嫌悪と苦痛が常に私たちとともにあり続けなければならないとしたら、いったいどうすれば人生を大きく改善できるというのか?」には理がある。その態度は実質的にはキリスト教徒の態度、そこから「来世」という賄賂を差し引いたそれである……しかし、それはおそらく、この世界は浮世であり墓穴は安らぎの場所であるという信念よりもなお脆弱な信仰だ。私は確信を持って言えるが、それは間違った態度であり、行動に有害な影響を与えるであろうものだ。しかし陰鬱な葬送の言葉や田舎の教会での死体のほのかに甘い匂いに反応するように私たちの何かがそれに反応するのだ。

少なくとも題材の重要性を認める人々の間では、人生に対する明白に誤った見方を表現している作品は「優れた」ものにはなり得ない、としばしば議論される。例えば現代において真に文学的価値を持つ作品は大なり小なり「進歩的」な傾向を持つ、と言われているのだ。こうした議論が無視しているのは、歴史を通じて進歩と反動の間では同じような争いが繰り広げられてきた事実、またどの時代であれ最高の作品群は常に複数の異なる観点から書かれていて、そのうちの一部は他のものよりも明白に誤りを多く含んでいるという事実だ。ある作家が伝道者である場合、彼への最大の問いは彼が自身の語っていることを本当に信じているのか、それがひどく馬鹿げたものではないと言えるのかということだ。例えば現在であればカトリック教徒や共産主義者、ファシスト、平和主義者、あるいはアナーキストによって書かれた優れた作品というものを想像することは可能だ。おそらく伝統的リベラルやごく普通の保守主義者によるそれも想像できるだろう。しかし心霊主義者やブックマン主義ブックマン主義:フランク・ブックマン牧師によって20世紀前半に創始された国際的な道徳・精神運動。道徳再武装主義(MRA、Moral Re-Armament)とも呼ばれる。者、あるいはクー・クラックス・クランの一員によって書かれた優れた作品など想像もつかない。作家が抱いている信念は医学的な意味における正気、そして連続した思索の力と相容れるものでなければならない。その上で問われるのが作家の才能であり、それはおそらく強い信念の別名だ。スウィフトは普通の意味での良識は持ち合わせていなかったが恐ろしく強力な洞察力、ひとつの隠された真実を見抜き、それを歪め、誇張する力を持っていた。ガリヴァー旅行記が今なお読まれていることが証明するのは、信念の力がその背後にありさえすれば正気を保った世界観があるだけで偉大な芸術作品を生み出すのには十分であることだ。

1946年9月
Polemic

関連

目次