ジョージ・オーウェル

あの楽しかりし日々 第二章


聖シプリアン校は学費の高い、お高くとまった学校で、当時、ますます高慢に、そして私が想像するにますます学費が高くなっている最中だった。この学校が特別なつながりを持っているパブリックスクールはハロウ校だったが、私がいた頃はイートン校へと進む少年たちの割合が増え続けていた。彼らのほとんどは裕福な親を持つ子供だったが総じて貴族的な血筋ではない富裕層、ボーンマスやリッチモンドの生け垣で囲われた大きな邸宅で暮らし、自動車や執事は手にしているが田舎の私有地は持っていないような人々だった。その中に外国生まれの者が何人かいた……南米生まれの少年たち、アルゼンチンの畜産業の有力者の息子たち、ロシア人が一、二人、シャムの王子、あるいは王子だと言われている者さえひとりいた。

サンボには二つの大きな野望があった。ひとつは爵位を持つ少年をその学校に呼び込むこと、もうひとつはパブリックスクール、とりわけイートン校の奨学金を勝ち取る生徒を育て上げることだった。私がいた終り近くの頃、彼はイギリスの本物の爵位を持った二人の少年を受け入れることに首尾よく成功した。私の記憶によればそのひとりはみすぼらしい、よだれを流す小さな生き物で、ほとんどアルビノと言っていい姿をして弱々しい目は上の方をずっと向き、長い鼻の先では常にしずくが震えているように見えた。サンボは彼らのことを第三者に話す時には決まってその爵位について触れ、彼らが来て最初の数日は実際に面と向かって彼らに「~卿」と呼びかけるほどだった。学校の周辺に誰か訪問者が姿を見せた時に彼らに注意を集める方法を彼が編み出したことは言うまでもないだろう。憶えているのは一度、そのお気に入りの小さな少年が夕食で息を詰まらせる発作を起こし、鼻水が彼の鼻から彼の皿へと滴り落ちたことだ。ぞっとするような光景だった。劣った者は誰しも汚いちっぽけな獣と呼ばれて、すぐに部屋の外へと追い出されるものだが、サンボとフリップは「男の子はどこまでいっても男の子」の精神でそれを笑っていた。

とても裕福な少年たちはみんな、多かれ少なかれ隠しようのない雰囲気を持っていた。この学校にはいまだにヴィクトリア朝時代の「寄宿生」のいる「私塾」のかすかな気配が残っていて、後になってサッカレーの作品でそうした種類の学校について読んだとき、私はそこにすぐさま類似を見て取った。裕福な少年たちは午前のなかばになるとミルクとビスケットの食事をし、週に一、二度、乗馬の授業を受け、フリップは母親のように彼らの面倒を見て、洗礼名で彼らを呼んだ。そして何よりも彼らは決して鞭で打たれることがなかった。両親がかなり遠くにいる南米生まれの者は別として、サンボがこれまで父親の年収が二千ポンド以上の少年をひとりでも鞭で打ったことがあるかどうかは疑問である。しかし彼は学校の評判のために時に経済的な利益を犠牲にする意志を見せることがあった。折に触れて特別な計らいによって彼は何人かの少年の学費を大幅に減額した。その少年たちが奨学金を勝ち取り、それによって学校に良い評判をもたらしそうな場合だ。私自身、聖シプリアン校に在籍したのはこうした条件によってだった。さもなければこれほど学費の高い学校に私を入れる余裕は私の両親にはなかったはずである。

最初のうち、自分が学費の減免を受けていることを私は知らなかった。フリップとサンボがそのことで私を責めだしたのは私が十一歳になった頃からだった。最初の二、三年、私は普通の教室に出席していたがギリシャ語を習い始めて(八歳でラテン語を、十歳でギリシャ語を習う)間もなく奨学クラスへと移った。このクラスでは古典についてはその大部分がサンボ自身によって教えられていた。二、三年の期間にわたって奨学生の少年は知識を詰め込まれる。皮肉に言えばそれはクリスマスに備えてガチョウが餌を詰め込まれるのと同じことだった。そしてその知識ときたら! 才能ある少年の経歴を作り上げると言うこの仕事は熾烈な試験にかかっている。少年がまだ十二歳か、十三歳かの時におこなわれるこうした試験はよく言っても邪悪なものだが、奨学生をイートン校やウィンチェスター校といったところに送り込むための予備校さえ存在し、あらゆるものを成績という観点から見るために、そうした問題点が教えられることはない。率直に言って聖シプリアン校ではあらゆる過程が一種の信用詐欺の準備だった。自分が知っている以上のことを知っていると試験官に印象付けるだけのことを学び、可能な限りそれ以外のことで脳に負担をかけないことが責務だった。試験では価値の無い科目、地理学などはほとんど完璧に無視された。もし「古典専攻」であれば数学も無視され、科学は一切、教えられなかった……さらに自然博物に対する関心は押さえつけられ軽蔑されていた……また余暇に読むことが推奨される本は「イギリスの新聞」の観点から選ばれていた。奨学生の主要科目であるラテン語とギリシャ語は重視されていたが、それらでさえ意図して見掛け倒しの不健全なやり方で教えられていた。例えばギリシャやラテンの著者の作品は一冊たりとも読み通されることはなかった。「即席翻訳」の題材になりそうなものという理由で選ばれた短い節を読むだけだ。最後の一年か、その少し前に私たちは奨学金に応募し、ほとんどの時間を過去の年の奨学金論文への取り組みだけに費やすようになる。サンボはそうした論文の束を持っていて、それらは有名なパブリックスクールのそれぞれから集めたものだった。しかし全ての中でも最もひどい辱めを受けているのは歴史の授業だった。

当時、ハーロー歴史賞と呼ばれるナンセンスなものがあった。多くの予備校がエントリーする、年に一度のコンテストだ。それに毎年勝利することが聖シプリアン校、そしておそらくは私たちにとっても伝統で、そのコンテストが始まって以来設定された全ての論文を私たちは入念に調べ、出そうな問題を尽きるまで集めた。それらは引用文の名前を大声で叫んで答えるというような馬鹿げた問題だった。ビーガムビーガム:インド中央部に位置したボーパール藩王国を1819年から1926年まで支配した四人の女性藩主を指す。から略奪をおこなったのは誰か? 無甲板船上で首をはねられたのは誰か? ホイッグ党の入浴に出くわして彼らの服を持って逃げ去ったのは誰か? 私たちの歴史の授業は総じてこうした水準でおこなわれていたのだ。歴史は互いに関係の無い、わかりにくい、しかし……どうしたわけかその理由が私たちに説明されることは決してないが……重要な事実の羅列で、それらに結びついた明確なフレーズをともなっているのだった。ディズレーリは高潔さによって平和をもたらし、クライヴクライヴ:ロバート・クライヴ。18世紀のイギリスの軍人、政治家、貴族。イギリス領インド帝国の基礎を築いた。は自身の凡庸さに仰天した。ピットピット:ウィリアム・ピット(小ピット)。18世紀のイギリスの政治家。ただし実際に「新世界に従来の均衡を是正するよう呼びかけた」のはピットの配下であるジョージ・カニングである。は新世界に従来の均衡を是正するよう呼びかけた。そして年号と記憶術だ(例えば「A black Negress was my aunt: there's her house behind the barn黒いニグレスは私のおばで、納屋の後ろには彼女の家がある」という文句の頭文字が薔薇戦争での戦いの頭文字にもなっているというのを知っているだろうか?)。歴史に「精通」しているフリップはこうしたものでよく楽しんでいた。年号にまつわる陽気な馬鹿騒ぎを思い出す。負けず嫌いの少年たちは自分の席で飛び跳ねながら熱心に正解を叫んでいたが、同時にそれが指し示す謎めいた出来事の意味についてはみじんも関心を持っていなかった。

「一五八七年」

「サン・バルテルミの虐殺!」

「一七〇七年?」

「アウラングゼーブが死んだ!」

「一七一三年?」

「ユトレヒト条約!」

「一七七三年?」

「ボストン茶会事件!」

「一五二〇年?」

「ああ、先生、お願い、先生……」

「お願い、先生、お願い、先生! 僕に答えさせて、先生!」

「いいでしょう! 一五二〇年?」

「金襴の陣!」

などなど。

しかし歴史とこうした補助科目はそれでもそうひどいものでもなかった。本当に大変だったのは「古典」だ。振り返ってみると、当時はそれ以降したことがないほど熱心に勉強していたし、当時は要求されているだけの努力を完全におこなうことは決してできないように思えたものだ。とても淡い色の固い木でできた長い光沢のあるテーブルを囲むように私たちは座り、その場にいるサンボは煽り、脅し、熱心に説教し、ときどき冗談を口にし、めったにないことだったが褒め称え、しかし絶えず刺激を与え続けた。頭脳がしかるべき調子で集中状態を維持するように刺激を与えるのだ。それはちょうど眠そうな者に針を刺して覚醒させ続けるのと同じだった。

「進め、ちっぽけな怠け者ども! 進め、不真面目で役立たずの小僧っ子ども! おまえらの何が問題かって、怠け者の腑抜けだってことだ。食いすぎるからそうなるんだ。とんでもない量の飯を貪り食って、それからここにきて半分寝たようになる。進め、さあ、再開だ。おまえらは考えていない。頭を振り絞っちゃいない」

彼はよく自分の銀色の鉛筆で生徒の頭を叩いたものだった。私の記憶ではその鉛筆はバナナほどのサイズがあるように思え、間違いなくこぶができるほど重かった。あるいは耳の周りの短い毛を引っ張ったり、時にはテーブルの下に足を延ばしてすねを蹴っ飛ばしたりした。時には何もうまくいかない日もあった。そうなると「よし、わかった。何が欲しいかはわかってるぞ。午前中いっぱい、そいつを催促しっぱなしだったからな。ついて来い。ちっぽけな怠け者。書斎に入るんだ」という具合になる。そして殴打、殴打、殴打で、背中は赤いみみずばれだらけでひりひりと痛んだ状態になる……後年になるとサンボは乗馬鞭をやめ、もっと強い痛みを与える細い籐製のステッキを好むようになった……そうして再び勉強に取り組むのだ。こうした体罰はめったに起きなかったが、一度ならずそうしたことがあったのを私ははっきりと憶えている。ラテン語の文の途中で部屋の外に出され、鞭打ちを受け、それからそのまま同じ文を読むという具合だった。そんなやり方はうまくいくはずがないと考えるのは誤りだ。特定の目的に対しては非常にうまく機能する。実際のところ、古典教育が体罰無しでおこなわれたことがあるのか、あるいはそれ無しでうまく進むのかに関して私はおおいに疑問を持っている。当の少年たち自身はその有効性を信じていた。ビーチャムという名前の少年がいて、彼は特筆すべき頭脳は持っていなかったが明らかに奨学金を得る喫緊の必要があった。サンボはまるで倒れて動けなくなった馬にそうするようにゴールに向けて彼を鞭で打った。彼はアッピンガム校の奨学金に応募し、まずい結果になったことをはっきりとわかった状態で戻ってきた。一、二日後、彼は怠惰を理由に手ひどい鞭打ちを受けた。「この鞭打ちを試験の前に受けられたらよかったのに」彼は残念そうに言った……この発言を私は見下げ果てたものだと感じたが、言っていることは完全に理解できた。

奨学クラスの少年たちがみんな同じように扱われたわけではない。少年が学費の節約に無頓着な裕福な両親の息子だった場合には、サンボはどちらかというと父親のようなやり方で彼を追い立てた。冗談や皮肉を言いながら突っつき、また時に鉛筆で叩くことはあったが、髪の毛を引っ張ったり鞭で打ったりすることは無かった。痛めつけられるのは貧乏だが「賢い」少年たちだったのだ。私たちの頭脳は彼が投資している金鉱で、従って私たちから配当金を絞り出す必要があった。サンボとの間の金銭的な関係の性質を理解するずっと以前には、他の多くの少年たちと同じような人間関係を築けていないためだろうと私は自分を納得させていた。実のところ、その学校には三つのカーストが存在していた。貴族や大富豪といった背景を持つ少数の者、学校の大部分を構成する郊外に暮らす普通の富裕者の子供たち、そして牧師やインドの役人や困窮している寡婦といった者たちの息子からなる私のような下っ端がいくらか。こうした貧乏な者たちは狩猟や木工といった「追加授業」の参加から遠ざけられ、衣服からちょっとした持ち物にいたるまで屈辱を与え続けられた。例えば私は一度も自分用のクリケットのバットを手に入れられなかった。「おまえの両親にはそんな余裕はないだろう」と言われるのだ。学校での生活の間、ずっとこのフレーズはつきまとった。聖シプリアン校では家から持ってきた金を手元に置いておくことは許されていなかった。学期の初日に「預け入れ」し、ときどき監督の下で使うことが許されるのだ。私、そして私と同じような境遇の少年たちは模型飛行機といった高価なおもちゃを買うことを絶えず邪魔された。例え必要なだけの金がある場合でもだめなのだ。とりわけフリップは意識して貧しい少年たちに質素倹約を叩き込もうとしているように思えた。「これはあなたのような子が買えるものだと思うの?」と彼女が誰かに言ったのを憶えている……彼女は全校生徒の前でこうも言った。「あなたたちはお金を手に育つわけではありません。そうですね? あなたたちはお金持ちではない。分別ある行動を学ばなければなりません。身の程をわきまえなさい!」また週ごとの小遣いもあって、それで私たちはお菓子を買っていた。小遣いはフリップが大きなテーブルで配った。大富豪たちは週に六ペンスもらっていたが、普通はせいぜい三ペンスだ。私ともう一、二人の者は二ペンスしか許されなかった。私の両親はこの影響について教えてくれなかったし、週に一ペニーの節約は二人にとってはたいした差でもなかったのかもしれない。しかしそれは立場の違いを表すものだったのだ。さらにひどかったのは誕生日ケーキのささいな違いだ。普通、それぞれの少年は誕生日にロウソクのついた大きな糖衣のかかったケーキをもらい、それがお茶の時間に全校生徒にふるまわれる。常のごとく、それは少年の両親の支払いで提供されるものだ。私はこうしたケーキを一度も手にしなかった。私の両親が前もって十分な額を支払っていただろうにも関わらずだ。尋ねる勇気はなかったが、毎年のように私は今年こそケーキが現れるであろうというみじめな希望にすがった。一、二度など早まって仲間に今年こそケーキが来るのだというふりをして見せたことさえある。そしてお茶の時間が来るとケーキは無いのだ。それによって私はさらに人望を失った。

ごく早い段階で、パブリックスクールの奨学金を勝ち取れなければ自分にまともな将来はないという考えが私に刷り込まれた。奨学金を勝ち取るか、さもなくば十四歳で卒業して、サンボお気に入りのフレーズで言うところの「年収四十ポンドの使いっぱしりの少年」になるしかないのだ。私の置かれた環境ではそれを信じるのも無理はなかった。「良い」パブリックスクールに行けなければ身の破滅だということは聖シプリアン校ではまったく当たり前のこととして広く受け入れられていた。そうした全てを決める恐ろしい闘いによる重圧、神経への作用を成人した人間に伝えるのは容易ではない。試験の日がゆっくりと近づいてくるのだ……十一歳、十二歳、そして十三歳、運命を決するまさにその年だ! おおよそ二年の期間にわたって、私が「あの試験」と呼んでいたそれが意識の上から完全に消えた日は一日たりとも無かったように思う。私の祈りの言葉には決まってそれが出てきたし、鶏料理の叉骨の長い方を取った時叉骨の長い方を取った時:食事の際、皿に残った鳥の叉骨を二人で引き合って長いほうを取ると願い事がかなうという願掛けの風習がある。や蹄鉄を拾った時、細い三日月に頭を七回下げた時細い三日月に頭を七回下げた時:月に頭を下げながら呪文を唱えることで願い事がかなうという願掛けの風習がある。、あるいは願掛けの門を触れずに通り抜けるのに成功した時には当然のように「あの試験」に受かるように願った。また一方でおかしなことに私は勉強したくないという抑えがたい衝動にも苦しめられていた。自分の眼前にある作業に気分が悪くなり、ごく簡単な障害を前にした動物のように呆けて立ち尽くす日々もあった。また休暇の時も私は勉強できなかった。奨学生はバチェラー氏というある人物から追加の授業を受けることがあった。感じのいい、とても毛深い男性で、すてきなスーツを着て、町のどこかにある典型的な独身者用の「すみか」……本の並んだ壁、タバコのひどい悪臭……に住んでいた。休暇の間、バチェラー氏は週に一度、課題の束から一部を抜き取って私たちに送り付けてくるのだった。どうしたわけか私はそれができなかった。ごくありきたりな義務感が失せていき、テーブルの上に置かれた何も書かれていない紙と黒いラテン語辞書が、私の余暇を侵していくが、どうしたわけか私は手をつけることができない。そして休暇の終りにはただバチェラー氏に五十行か、百行だけ書いて送るのだ。その理由の一部はサンボと彼の鞭から遠く離れていたことにあるのは間違いない。しかし学期中でも怠惰と愚かな考えに捕らわれる時期を過ごすことはあった。私は恥ずかしさの中に深く深く沈みこみ、さらには弱々しくすすり泣きながら抵抗するようなことさえやってみせ、自分の罪を完全に自覚しながら、それでも何も改善できないか、あるいはその気が起きなかった……どちらなのかは自分でもはっきりとはわからなかった。そうなるとサンボやフリップに呼び出されるのだが、その時には鞭で打たれることさえされなかった。

フリップは悪意に満ちた目で私を探るように見た(その目は何色だっただろう? 私の記憶では緑だが、実際に緑の目をした人間はいない。おそらくハシバミ色だったのだろう)。彼女は決まって彼女独特の、甘い言葉でいじめるようなやり方で始めた。そのやり方をもってすると必ず相手の警戒心をくぐり抜け、良心に一撃を加えることができるのだ。

「あなたがこんな振る舞いをするほどまともさを失ったとは思っていません、そうでしょう? あなたのお母様やお父様は好き好んであなたに何週間も何週間も、何カ月も何カ月も時間を空費させ続けようとしていると思っているの? 手にしたチャンスを全て投げ捨てたいと思っているの? 自分たちが決して裕福でないことはわかっているでしょう? 他の子たちと同じことをさせる余裕がご両親に無いことはわかっているでしょう? あなたが奨学金を取れなければどうやってご両親はあなたをパブリックスクールへやれるの? お母様がどれだけあなたを誇りに思っているか私は知っています。お母様をがっかりさせたいんですか?」

「彼はもうパブリックスクールへ行きたいと思ってないんじゃないかな」まるで私がそこにいないかのような口調でサンボがフリップに話しかける。「彼はその考えをあきらめたんだと思うよ。年収四十ポンドの小僧っ子になりたいのさ」

恐ろしい、泣き出したくなるような気持ち……胸がいっぱいになり、鼻の後ろのあたりがむずむずした……がすでに私に襲いかかっていた。フリップが切り札を取り出す。

「あなたの振る舞いは私たちに対して本当に正しいものだと思いますか? なんだかんだ言って私たちはあなたの面倒を見てあげたでしょう? 私たちがあなたのためにどれだけのことをしてあげたかわかっていますね?」彼女の視線が私を深く貫き、彼女がはっきりと言わなくても私には確かにわかった。「私たちはおまえを何年もここにおいてやった……バチェラーさんがおまえを指導できるように休暇中に一週間おいてやることさえした。おまえが思っている通り、おまえを家に送り返さなければならないのも面倒だが、何学期も何学期も、ここで子供にただ飯を食らわせておくこともできない。おまえの振る舞いはまったく正しいものではないと思う。そうじゃないか?」

そうなれば、私にはみじめな「いいえ、先生」あるいは「はい、先生」という言葉以外の返答は残されていなかった。私の振る舞いは明らかに正しくないことだった。そしてどこかの時点で望まない涙が目頭から決まってあふれ出し、鼻を伝って流れ落ちるのだった。

私が学費免除生だということをフリップは決して率直な言葉では言わなかった。それが「私たちはあなたの面倒を見てあげたでしょう?」といったような漠然とした言葉の方が深く感情に訴えかけるためであることは疑いようがない。普段から横柄な言葉使いで、自分の生徒たちに愛されようとは思っていないサンボはさらに容赦ない言葉でそれを言った。「おまえは私の恩情で生活できているんだ」はそうした時の彼のお気に入りのフレーズだった。鞭打ちの間に少なくとも一度はその言葉を聞いた。ただしそうした場面はそう多くはなかったし、彼らも他の少年たちの前ではそうしたことをしなかったということは言っておかなければならない。みんなの前では、私は依然として貧乏で両親はあれやこれやの「余裕がない」という立場のままだったが、実際のところ従属的な立場のままだったわけではない。私の学業が特にひどくなった時に拷問道具に類したものが持ち出されたかどうかはどうしても回答できない話題だ。

十か十二の歳の子供にとってこうした種類の出来事が与える影響を理解するには、子供はバランス感覚や蓋然性の感覚が未発達であることを思い出す必要がある。子供はひどく利己的、反抗的になり得るが自身の判断に確信を与えるための十分な経験を持っていない。全体的に言えば、教えられたことを受け入れ、周囲の大人の知識や力を考え得る限りで最も突拍子もないやり方で信じるものだ。例をあげよう。

聖シプリアン校では自分の金を手元に置いておくことは許されないと私は書いた。しかしながら一、二シリングであれば隠し持つことができて、私はときどきそれを使ってこっそりお菓子を買い、それを校庭の壁に茂ったツタの中に隠しておくことがあった。ある日、お使いにやられた時に私は学校から一、二マイル向こうのお菓子屋に行ってチョコレートをいくらか買った。店から出てくると、反対側の歩道に小柄な険しい顔つきの男がいるのが見え、彼は私の学帽を凝視しているように見えた。すぐさまひどい恐怖が私を襲った。その男が誰なのかは疑いようがないように思えた。サンボによって派遣されたスパイだ! 気がつくと私は背をそむけ、まるで自分の足が勝手に動き出したかのようにぎくしゃくとした動きで走り出した。しかし次の角を曲がったところで私は再び歩くよう自分を押さえつけた。走るのはやましいところがある印であり、町中のあちらこちらに別のスパイが配置されているであろうことは明らかだった。その日と次の日の一日中、私はあの書斎への呼び出しを待ち続け、ついにそれが無かった時にはひどく驚いた。私立学校の校長が大勢の情報屋を並べているのはおかしいと私は思わなかったし、彼らには給料を支払う必要があるだろうということさえ頭に上らなかった。学校の中でも外でも大人であれば誰しもが、私たちが規則を破る邪魔立てをするために自発的に協力するのだと私は考えていたのだ。サンボは全能で、あらゆる場所に彼の密偵がいることはごく自然に思われた。この出来事が起きた時、私は十二歳にはなっていたように思う。

私はある種の秘めた悔恨の憎しみをもってサンボとフリップを嫌っていたが、二人の裁定に対して疑いの念が起きることはなかった。パブリックスクールの奨学金を勝ち取るか、さもなくば十四歳で使いっぱしりになるしかないと二人に言われれば、それが自分の前にある逃れられない選択肢なのだと私は信じた。とりわけ、自分たちはおまえの後援者なのだと二人が私に語る時には私はサンボとフリップのことを信じた。もちろん今では、サンボからしてみれば私が割の良い投機対象だったことはわかっている。彼は私に金を投じ、それが良い評判という形で払い戻されることを期待していた。見込みのある少年がときどきそうなるように、もし私が期待薄になれば速やかに私を放り出しただろうことは容易に想像できる。結局、その時が来て私は彼に奨学金を勝ち取ってやることになったが、彼がそれを自分の学校の入学案内でおおいに活用したことは疑うべくもない。しかし学校とは第一に営利目的の投機であるということは子供にとって気がつくのが難しいことだ。学校とは教育のために存在し、校長は自分のためか、あるいは子供をいじめるのが好きなために自分に規則を守らせるのだと子供は信じる。フリップとサンボは私と友人になることを選び、二人の友情には鞭打ち、叱責、屈辱を与えることが含まれていたがそれらは私のためを思ってのことであり、それによって私はどこかの事務所のスツールに座らされずに済んでいる。それが二人の見解であり、私はそれを信じていた。従って私が二人に多大な恩義を負っていることは明らかなのだった。しかし私は恩義を感じていなかったし、そのことを自分でよくわかっていた。反対に私は二人ともを憎んでいた。私は自分の主観的な感情を制御できなかったし、自分がそれに気がつかないように隠すこともできなかった。しかし自分の後援者を憎むのは不道徳なことではないだろうか? 私はそう教えられたし、そう信じていた。子供は提示された行動規範を受け入れるもので、例えそれらを破ったとしてもそれは変わらない。八歳か、さらにはそれより以前から私が罪の意識から完全に逃れられたことは一度もなかった。冷淡だったり反抗的だったり思われることをしようとしても、それはただひどい恥ずかしさと不安感を覆う薄い被膜にしかならないのだ。少年時代を通して私は、自分は無価値であるという強い確信を抱いていた。自らの時間を浪費し、自らの才能を蝕み、途方もなく愚かで、邪悪で、恩知らずな振る舞いをしているという確信だ……そしてそれら全てが逃れられないものであると思ってしまうのだ。なぜなら私はまるで重力の法則のように絶対的な行動規範の中で生きているのに、その行動規範は私には守ることが不可能なものだからだ。


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