一九八四年 第三部, ジョージ・オーウェル

第三章


「君の回復過程には三つの段階がある」オブライエンが言った。「学習、理解、承認だ。これから君は第二段階にはいる」

いつものようにウィンストンは背を横たえている。しかし最近では拘束も緩くなっていた。まだベッドに固定されてはいるものの膝を少し動かせたし、頭を左右に向けたり肘から先の腕を上げることもできた。あのダイヤルに対する恐怖も少なくなっていた。十分すばやく頭を使えばあの苦痛も回避できるようになっていたのだ。オブライエンがレバーを引くのはほとんどの場合、馬鹿げた言動を見せた時だった。時には会話の間、一度もレバーが使われないこともあった。尋問が今まで何回あったのか彼には憶えきれなかった。作業には長い時間がかかり、無限に続くかのように思われた……少なくとも数週間は続いただろう……時には数日、時にはたったの一、二時間の間隔で対話はおこなわれた。

「そこに横たわりながら」オブライエンが言った。「君はこう思って……私に尋ねさえする……なぜ愛情省はこんなに時間を費やしてまで自分のことを問題にするのだろう。自由の身だった時に君を悩ませていた疑問も本質的には同じものだ。君は自分の住む社会のメカニズムは理解しているが、その下に存在する動機は理解していない。自分の日記にこう書いたのを憶えているかね。『どのようにしてかは理解できたが、なぜかは理解できていない』君が自らの正気を疑うのはこの『なぜ』について考える時だ。君はあの本、ゴールドスタインの本の少なくとも一部は読んだ。あれは君が今まで知らなかった何かについて教えてくれたかね?」

「あなたはあれを読んだことがあるのですか?」ウィンストンは言った。

「あれを書いたのは私だ。執筆に参加したと言った方がいいだろうな。君も知っている通り、個人で本を書くことなどできないからな」

「真実なのですか。あれに書かれていたことは?」

「現状の説明としては正しい。だがそこで表明されている計画は無意味なものだ。知識の秘密裏な集積……啓蒙の段階的な拡大……プロレタリアートによる究極的な反乱……党の打倒。君はそんな内容を予測していただろう。全て無意味だ。プロレタリアートは反乱など起さんよ。千年経とうが、百万年経とうがね。彼らには無理だ。その理由を君に教える必要は無いだろう。君は既に知っている。もし君が暴力による反乱を夢見ているならあきらめたまえ。党を打倒することのできる方法など存在しない。党の支配は永遠だ。まずそれを君の思考の出発点にすることだ」

彼がベッドに近づいた。「永遠だ!」彼は繰り返した。「さて『どのようにして』と『なぜ』という疑問に戻ってみようじゃないか。君はどのようにして党がその権力を維持しているかについては十分よく理解している。さあなぜ我々が権力に固執しているか言ってくれ。我々の原動力は何だ? なぜ我々は権力を欲しなければならないのか?」彼は黙ったままのウィンストンに付け加えた。「さあ、答えるんだ」。

しかしウィンストンはしばらくの間、何も言わずに黙っていた。疲労感が彼を圧倒していた。狂ったような興奮の輝きがかすかにオブライエンの顔に戻って来ている。次にオブライエンが言うであろうことが彼にはわかった。曰く、党が自らの目的のために権力を得ようとすることはない。ただ大衆の幸福を思ってのことなのだ。曰く、権力を得ようとするのは大衆が脆弱で、自由に耐えることも真実に向きあうこともできない臆病な生き物であり、彼らより強い者によって支配され体系的に騙されなければならないからなのだ。曰く、人類の選択は自由と幸福との間にある。そして人類の大多数にとっては幸福の方が重要なのだ。曰く、党は弱者の永遠の守護者であり、他者の幸福のために自らの幸福を犠牲にしながら善を招き寄せようと邪悪をおこなう献身的な集団なのだ。ウィンストンは思った。恐ろしいのはオブライエンがそう語れば、自分がそれを信じてしまいそうなことだ。彼の顔を見ればそれがわかる。オブライエンは全てを知っている。世界が本当はどのようなものなのか、どのような欺瞞の中で人々が生きているのか、どのような嘘と野蛮によって党が彼らをそこにつなぎとめているのか、彼はウィンストンの千倍もよく知っているのだ。彼はそれら全てを理解し、考察し、そして無視しているのだ。究極の目的の前には全てが正当化されるのだ。自分よりも知能の高い狂人、自分の意見を公正に聴き、それでもなお自身の狂気を貫く者に対して何ができるというのだ? そうウィンストンは思った。

「あなた方は私たちの幸福のために私たちを支配している」彼は弱々しく言った。「あなた方は人類には自らを統治する力が無いと信じている。そして……」

彼は続けようとして悲鳴を上げそうになった。鋭い痛みが彼の体を貫いたのだ。オブライエンがあのダイヤルを三十五まで上げていた。

「馬鹿げている。ウィンストン。それは馬鹿げている」彼は言った。「君はそんなことを言うほど愚かではないだろう」

彼はレバーを戻してから続けた。

「私が質問に対する答えを教えよう。党が権力を得ようとするのは完全に自身のためだ。他者の幸福など我々は全く興味がない。我々が興味があるのは権力だけだ。富でも、贅沢品でも、長寿でも、幸福でもなく権力だけ、純粋な権力だけだ。純粋な権力が何を意味するかは君も今では理解しているだろう。我々は過去のどの独裁者たちとも違って我々が何をしているのかをわかっている。他の者は皆、我々によく似たものでさえも臆病で偽善的だった。ドイツのナチスとロシアのコミュニストはその手法においては我々に非常に近かった。しかし彼らが自らの動機を認める勇気を持つことは決してなかったのだ。自分たちは人類が自由と平等を達成した楽園に至るまでの限られた期間だけ仕方なく権力を持つのだという風に彼らは装った。いや、おそらく自分自身で信じてさえいた。我々は違う。手放そうという意志を持つ者が権力を掌握することなど無いと我々は知っている。権力は手段ではない。目的だ。誰も革命を保障するために独裁制を敷いたりしない。独裁制を確立するためにこそ革命をおこなうのだ。迫害の目的は迫害なのだ。拷問の目的は拷問なのだ。権力の目的は権力なのだ。さあ、君は私の言う事を理解したかね?」

ウィンストンはオブライエンの顔に浮かんだ疲弊感を見て以前と同じように衝撃を受けた。力強く、肉付きが良く、厳格で、ウィンストンに無力感を感じさせる知性と抑制された情熱が満ちている。しかしその顔は疲れていた。目の下は腫れ、頬骨のあたりの皮膚はたるんでいる。オブライエンは彼の上に覆いかぶさるようにしてその疲れた顔をわざと近づけて来た。

「君はこう考えている」彼が言った。「私の顔は老けて疲れている。君はこう考えている。権力について語ったところで自らの体の老いさえ防ぐことができていないではないかと。ウィンストン、個人はただの一細胞にしか過ぎないということを君は理解していないのか? その細胞の消耗は組織体の活力なのだ。指のつめを切ったからといって死ぬことはないだろう?」

彼はベッドから離れると片手をポケットに突っ込んでうろうろと歩きまわり始めた。

「我々は権力の司祭なのだ」彼が言った。「神は権力だ。しかし今のところ、君にとっては権力とはたんなる言葉にしか過ぎない。君は権力が意味するものが何なのかよく考えて見るべきだ。君が理解しなければならないことの一つ目は権力とは集合的なものであるということだ。個人は個人であることをやめることによってのみ権力を手にすることができる。君は党のスローガンを知っているだろう。『自由は隷属』。逆もまた然りということに気づいたことはあるかね? 隷属は自由なのだ。一人でいるとき……自由であるとき……人は常に敗北するのだ。全ての人間に死が運命づけられている以上、それは避けようの無いことだ。それは全ての敗北の中でもっとも巨大なものだ。しかしもし無条件の服従を完璧におこなうことができれば、もしアイデンティティーを放棄することができれば、党と融合することができれば、その人間は党になり、全ての権力を持つ不滅の存在となるのだ。君が理解しなければならないことの二つ目は権力は人類を支配する力であるということだ。その肉体を……いや何よりも精神を支配するのだ。権力が物質世界……君が呼ぶところの外部の現実……を支配しているかどうかは大した問題ではない。我々の物質世界に対するコントロールは既に完全なものになっている」

一瞬、ウィンストンはあのダイヤルの存在を忘れた。彼は体を起こそうと荒々しい努力を続けたが、ただ体が痛々しくねじ曲がるだけだった。

「しかしどうやって物質世界をコントロールするというのです?」彼は叫んだ。「天候や万有引力の法則さえあなた方はコントロールできていない。伝染病や、苦痛、死だって……」

オブライエンは手の動きで彼を制した。「我々は精神をコントロールすることで物質世界をコントロールする。現実とは頭蓋骨の内側に存在するのだ。君も徐々に学んでいくだろう、ウィンストン。我々にできないことなど無いのだよ。透明になることも、空中を浮遊することも……なんでもできる。私がそう望めばシャボン玉のように床から浮き上がることだってできる。党がそんなことは望まない以上、私もそんなことは望まないがね。君は自然法則に対する十九世紀の考えを忘れ去る必要がある。我々が自然法則を作り上げるのだ」

「それは違う! あなたはこの惑星の支配者ですらない。ユーラシアやイースタシアはどうです。あなたは彼らをまだ征服できていない」

「大した問題じゃない。我々にとって都合がよくなったときに征服するさ。それにもしそうしなかったからといって何か違いがあるかね? 我々は彼らの存在を閉めだしてしまうことができるんだ。オセアニアが世界なのだ」

「しかしそんな世界は砂上の楼閣に過ぎない。人間はちっぽけで……無力だ! 今までどれだけ存在してきたというのです? 数百万年前にはこの地球は無人だった」

「くだらない。この地球は我々と同じ年齢だ。我々より古いということはない。どうすれば我々より古いということになるのだ? 人間の意識を通さなければ存在するものなど無いというのに」

「しかし地層からは……マンモスやマストドン約4000万年前から11000年前まで生息していたゾウ型の大型哺乳類、人間が現れる前にこの地上で生きていた巨大な爬虫類の、絶滅した動物の骨がたくさん見つかっている」

「君は今までそんな骨を見たことがあるかね、ウィンストン? もちろん無いだろう。十九世紀の生物学者がでっち上げたのだ。人間の前には何も無い。もし終わりが来るとしてだが、人間の後にも何も無いだろう。人間の外側には何も無いのだ」

「しかし全宇宙は私たちの外側にあります。星を見てください! あの内のいくつかは百万光年も離れたところにあるのです。決して私たちの手には届かない所にあるのです」

「星とは何だね?」オブライエンが冷淡に言った。「あれは数キロ向こうで燃えるちょっとした炎だ。我々はそれを手にすることができる。もしそうしたければだがね。あるいはぬぐい去ることも可能だ。この地球が宇宙の中心なのだ。太陽と星々はその周りを回っているのだ」

ウィンストンはもう一度必死にもがいた。今度は彼も何も言わなかったがオブライエンはまるで反論に答えるように続けた。

「もちろん特定の目的においてはこれは真実ではない。航海する場合や日蝕を予測する場合には地球が太陽の周りを回り、星々は百万キロの百万倍も向こうにあるとした方が便利なこともしばしばあるだろう。しかしそれがどうした? 君は我々には天文学の二重体系を作ることができないとでも思っているのか? 星々は我々の必要に応じて近くにも、遠くにもなるのだ。君は我々の数学者がそれはおかしいと言うとでも思っているのか? 二重思考のことを忘れたのか?」

ウィンストンはベッドの上で身を縮こまらせた。彼が何を言おうが棍棒で殴りつけるように即座に論破されるだろう。しかしそれでも彼にはわかっていた。わかっていたのだ。自分が正しいということが。自らの頭の外側には何も存在しないという考え……それが誤りだと証明する方法が確かあったのではなかったか? それは誤った推論だということがはるか昔に示されてはいなかっただろうか? 彼には思い出せなかったが名前すら付けられていたはずだ。彼を見下ろすオブライエンの口の端にかすかに引きつるような笑みが浮かんだ。

「教えてあげよう、ウィンストン」彼が言った。「形而上学は君の助けにはならんよ。君が思い出そうとしている言葉は唯我論「確信できるのは自分の精神の存在だけであり、それ以外のあらゆるものの存在は信用できない」とする哲学上の考え方だ。しかし君は間違っている。これは唯我論ではない。そう呼びたければ集団的唯我論と言ってもいいだろう。しかし全くの別物だ。実際のところ正反対の物なのだ。全ては余談だがね」彼は口調を変えて付け加えた。「我々が日夜、闘争に明け暮れる目的であるところの現実の権力とは物事に対する力ではなく人間に対する力なのだよ」彼はいったん言葉を止め、しばらくの間、またあの将来性のある学生に質問をしている教師のような雰囲気を漂わせた。「人はその権力を他の者に対してどのように行使するかわかるかね、ウィンストン?」

ウィンストンは考えた。「相手を苦しめることによってです」彼は言った。

「その通り。相手を苦しめることによってだ。服従だけでは十分ではない。もし相手が苦しんでいなければ、どうやって相手がこちらの意思に従っているのか自分の意思に従っているのか確認できる? 苦痛と屈辱の中にこそ権力は存在するのだ。人間の精神をばらばらに引き裂き、好きなように新しい形状に再構成することこそが権力なのだ。さあ、我々が創りあげようとしている世界がどのようなものか君にはわかり始めているのではないかね? 過去の改革論者が夢想した馬鹿げた快楽主義的なユートピアの対極にあるものだ。恐怖と裏切りと苦痛の世界だ。蹂躙し蹂躙される世界だ。改良されるに連れて無慈悲な行為が減るのではなく増してゆく世界だ。我々の世界における進歩はより苦痛の増してゆく方向への進歩だ。過去の文明は自分たちは愛情や正義の上に立脚すると主張した。我々の文明は憎悪の上に立脚している。我々の世界には恐怖と怒りと征服と自己卑下以外の感情は存在しなくなるだろう。他の物は全て我々が破壊する……全てだ。既に我々は革命以前から残っている思考習慣を打ち倒しつつある。我々は親と子の間の、人と人の間の、男と女の間の絆を断ち切った。もはや誰も妻や子供や友人を信頼しようとはしない。しかし将来的には妻も友人も存在しなくなるのだ。子供たちは生まれた瞬間に母親から取り上げられる。ちょうど雌鶏から卵を取り上げるようにだ。性本能は根絶やしにされるだろう。生殖は配給カードの更新のような年中行事になるだろう。我々はオーガズムをも滅ぼすだろう。我々の神経学者は今もその研究に取り組んでいる。党に対する忠誠以外は忠誠心も存在しなくなる。ビッグ・ブラザーに対する敬愛以外は愛情も存在しなくなる。敗北した敵に向けられる勝利の笑い以外は笑いも存在しなくなる。芸術も、文学も、科学も存在しなくなる。我々が全能になった暁にはもはや我々は科学をも必要とはしなくなるのだ。美しさと醜さの区別も存在しなくなるだろう。好奇心も、生きることに対する喜びも存在しなくなるだろう。同じように全ての楽しみは打ち壊されるだろう。しかし常に……これだけは忘れるな、ウィンストン……常に権力への陶酔は存在する。常に増大を続け、その巧妙さを増していく。常に、瞬間ごとに、勝利に対する官能と無力な敵を蹂躙することに対する興奮が存在するようになるのだ。もし未来の描像が欲しければ人間の顔を踏みにじるブーツを想像しろ……それが永遠に続くのだ」

彼はウィンストンが何か言うのを待つように言葉を止めた。ウィンストンは再びベッドの上で体を縮こまらせるようにした。何も言えない。彼の心臓は凍りついたようだった。オブライエンは続けた。

「それが永遠に続くということを憶えておくことだ。踏みつけられるための顔は常に存在する。異端者、社会の敵は常に存在し何度でも打ち負かされ侮辱され続けるだろう。君が我々に捕まってから経験した全てが……継続し、悪化してゆくだろう。スパイ活動、密告、逮捕、拷問、処刑、失踪。それらが無くなることは決してない。それは勝利の世界であるのと同じくらい恐怖の世界でもあるのだ。党は力を増大させ寛容さを失ってゆく。反対勢力は弱体化し独裁は強化されてゆく。ゴールドスタインと彼の周りの異端者どもは永遠に生き続けるだろう。毎日のように、いや各瞬間ごとに彼らは敗北し、信用を失い、嘲笑され、唾棄されるだろう。しかしそれでも常に彼らは生き延び続けるのだ。七年の間、私が君に演じてみせたこのドラマは何度でも世代を超えて演じ続けられるだろう。いつだって巧妙な形でだ。いつだって我々は異端者をここで慈悲心と苦痛による絶叫、精神的な衰弱と軽蔑でもてなしてきた……そして最後には完璧な悔悟と転向があり、自らの意思で我々の足元にひれ伏すのだ。それこそが我々が用意している世界なのだ、ウィンストン。勝利に次ぐ勝利、征服に次ぐ征服に次ぐ征服の世界。権力が思いのままにおこなう終わりなき抑圧、圧制、弾圧。世界がどのようなものになるのか君も気付き始めているだろう。しかし最終的には理解するだけには留まらない。君はそれを受け入れ、歓迎し、その一部となるのだ」

ウィンストンはなんとか話せるようになるまで力を取り戻していた。「そんなことは無理だ!」彼は弱々しく言った。

「どういう意味だ、ウィンストン?」

「あなたが今言ったような世界を作り上げることなどできない。夢物語だ。不可能だ」

「なぜ?」

「恐怖と憎悪と残虐の上に文明を築きあげるなんてことは不可能だ。決して持ちこたえることなどできない」

「なぜできない?」

「そこには生命力が無いからです。崩壊してしまう。自ら死を選ぶでしょう」

「馬鹿な。君は憎悪は愛情よりも多くの疲弊をもたらすと思い込んでいる。しかしなぜそうだと言える? それにもしそうだとしてどんな違いが生まれるというのだ? 我々が今より早く消耗してゆくことを選んだとしよう。三十歳にして老齢期となるように人間の命を加速させたとしよう。それでどんな違いが生まれるというのだ。個人の死は死ではないということを君は理解できないのか? 党は不滅なのだ」

いつものようにその声はウィンストンを叩きのめし無力感へと追い込んだ。この論争を続ければオブライエンがあのダイヤルをまたひねるのではないかという不安が彼を包んでもいた。しかしそれでも黙っていることはできなかった。オブライエンが言ったことに対する言葉にならない恐怖の他には何の助けも無く、何の根拠もないまま彼は弱々しく反撃にでた。

「私にはわかりません……わかる気もありません。あなたたちは何かで失敗するでしょう。あなたたちを何かが打ち負かすでしょう。生命があなたたちを打ち負かします」

「我々は生命をもコントロールしているのだ。ウィンストン。その全ての段階でだ。君は人間の本質とでも呼ぶべき何かが存在し、それが我々の行いによって暴発し、我々に対して対抗すると想像しているのだろう。しかし我々が人間の本質を作り出すのだ。人間には無限の可塑性がある。あるいはプロレタリアか奴隷が蜂起し、我々を打ち倒すという以前の考えに舞い戻っているのかね。そんな考えは捨ててしまえ。彼らは無力だ。ちょうど動物のようにな。人類とは党のことだ。他の者は範疇外だ……考慮するに値しない」

「どうでもいいことです。最後には彼らがあなたたちを打ちのめすでしょう。遅かれ早かれ彼らはあなたたちが何者であるかを理解します。そしてその時こそ彼らがあなたたちをばらばらに引き裂く時です」

「それが起きるという証拠が何かあるのかね? そうなるという理由が何か?」

「いいえ。私がそう信じているのです。私にはあなたたちが失敗することがわかるのです。この宇宙にはあなたたちが決して踏み越えることのできない何かが……それが精神なのか、原理なのか私にはわかりませんが……存在するのです」

「君は神を信じるのか、ウィンストン?」

「いいえ」

「それでは何なのだ。その我々を打ち倒すであろう原理とは?」

「わかりません。おそらくは人間の精神です」

「それでは君は自分のことを人間だと思っているのかね?」

「ええ」

「もし君が人間だというならば、ウィンストン。君は最後の人間だ。君の同族は絶滅した。我々が後継者だ。君は自分が一人ぼっちだということを理解しているのかね? 君は歴史の外にいる。君は存在しないんだ」彼の物腰が変わり、口調は荒々しくなった。「君は自分のことを我々より道義的に優れていると思っているのかね。我々の欺瞞や残酷さを理由に?」

「ええ。私の方がまだましだと思います」

オブライエンは何も言わなかった。二人の人間が話しているのが聞こえてくる。しばらくしてウィンストンはその内の片方が自分であることに気づいた。それは彼がブラザーフッドに加入したあの夜のオブライエンとの会話を録音したものだった。嘘をつき、盗み、偽造し、殺し、薬物摂取と売春を広め、性病を蔓延させ、子供の顔に硫酸を浴びせかけることを誓約している自分の言葉を彼は聞いた。オブライエンはまるでこんなデモンストレーションはおこなう意味も無いというようにわずかにいらだったしぐさを見せた。彼がスイッチをひねると音声は止まった。

「ベッドから起きたまえ」彼は言った。

拘束が自動的に解けた。ウィンストンは床に降りるとふらふらと立ち上がった。

「君は最後の人間だ」オブライエンが言った。「君は人間の精神の守護者だ。自分の姿を見るといい。服を脱ぎたまえ」

彼は自分のオーバーオールの留め具を外した。ファスナーははるか昔にねじり取られている。逮捕されてからこれまで一度でも服を脱いだことがあったかどうか彼は思い出せなかった。オーバーオールの下の体には薄汚い黄ばんだぼろ布が巻きつき、かろうじて下着の残骸であることがわかるだけになっていた。それを地面に脱ぎ落とした時になって彼は部屋の突き当たりの壁に三面鏡があることに気づいた。彼はそれに近づいてゆき、しばらく立ち尽くした。不意に悲鳴が彼の口から漏れた。

「前に進め」オブライエンが言った。「鏡の間に立つんだ。横からの様子もよく見るといい」

彼が立ち止まったのは恐怖のためだった。弓のように曲がった灰色の骸骨のようなものが自分に向かって進んでくる。自分であることがわからないというだけではなくその外見は実に恐ろしげなものだった。彼は鏡に近づいていった。背骨が曲がっているためにその生き物の顔は前に突き出されているかのように見える。はげ上がった頭皮へと続く整った額、ねじ曲がった鼻、殴られた跡のある頬骨の上には恐ろしげで油断無い目が光る惨めな囚人の顔だった。頬にはしわが走り、口はすぼまっている。確かにそれは彼自身の顔だったが、彼には自分の内面が変わった以上に変わり果てているように思えた。そこに浮かぶ表情は彼が感じたものとは違うものになるだろう。頭はところどころはげていた。最初、彼は白髪になったのかと思ったのだが白く見えているのは頭皮だったのだ。手と顔の周りを除くと彼の体は時間が経って染み付いた汚れで灰色に覆われていた。汚れの下にはそこかしこに赤い傷跡が走り、くるぶしの近くでは静脈瘤性の潰瘍が真っ赤に腫れ上がって皮膚が爛れて剥がれ落ちていた。しかし真に恐ろしいのはやせ細ったその体だった。肋骨が骸骨のように浮き上がり、足はやせ細って太ももより膝のほうが太いくらいだった。オブライエンが両側を見るよう言った意図をようやく彼は理解した。驚くほど背骨が彎曲している。薄い両肩は胸がくぼむほど丸まり、骨ばった首は頭蓋骨の重みで二つ折りになりそうだった。まるで六十代の何か悪い病気に苦しんでいる人間の肉体のようだ。

「君はときどき思っただろう」オブライエンが言った。「私の顔は……党内局のメンバーの顔は……年老いて疲れ切っているように見えると。君自身の顔についてはどう思うかね?」

彼はウィンストンの肩をつかむと自分自身の姿をよく見ろとでも言う風に振り向かせた。

「自分の置かれている状態を見ろ!」彼が言った。「君の体中のこの薄汚い垢を見ろ。足先の間の糞便を見ろ。君の足に走るこの吐き気を催させる傷を見ろ。君は自分が山羊のような悪臭を放っていることに気がついているのか? どうせそんなものにも気づかなくなっているのだろう。君の衰弱ぶりを見ろ。見えるか? 君の二の腕なら私の親指と人差指でもつかんで指を合わせられる。首の骨をにんじんのようにへし折ることだってできる。我々に捕まってから君の体重が二十五キロも減っていることに君は気づいているのか? 髪だって束になって抜け落ちている。見ろ!」彼はウィンストンの頭を引き寄せると髪を一房むしりとった。「口を開けてみろ。九、十、十一本。残っているのはそれだけだ。君が我々の元に来たとき何本有った? そして残り少ない歯も抜けかけている。これを見ろ!」

彼はウィンストンの残っている前歯の一本を親指と人差指で強くつかんだ。鋭い痛みがウィンストンのあごを貫いた。オブライエンがグラグラとしていた歯を根元からねじって抜いたのだ。彼はそれを監房の床に投げ捨てた。

「君は腐りかけている」彼が言った。「ばらばらに崩れ落ちそうになっている。君は何だ? 汚物の詰まった袋じゃないか。さあ、振り返って鏡をもう一度見るんだ。君と向かい合っている物が見えるか? これが最後の人間だ。君が人間なのだとすればこれが人間というものなのだ。さあ、もう一度服を着ろ」

ウィンストンはゆっくりとぎくしゃくした動きで服を身につけ始めた。どれだけ自分がやせ細り、衰弱しているのかということに彼は今まで気がついていなかったのだ。彼の頭に浮かんだ考えは、思っていたより長いこと自分はこの場所にいたのだ、という一つだけだった。みすぼらしいぼろ布を体の周りに留めると突然、自分のぼろぼろの体に対する悲哀の感情が彼を襲った。自分でも気がつかないうちに彼はベッドの脇の小さないすに崩れ落ち、涙を流し始めていた。彼は自分が明るい白い光の下で座ってすすり泣く汚れた下着でひとかたまりにまとめられた骨の塊であることを理解した。その姿は醜く、グロテスクだ。しかし泣き止むことはできなかった。オブライエンがまるで労るように彼の肩に手を置いた。

「永遠にこれが続くわけではない」彼が言った。「いつだって君がそう願えば抜け出せる。全ては君次第なんだ」

「あなたがやったんだ!」ウィンストンは泣きじゃくった。「あなたが私をこんな状態にしたんだ」

「いいや、ウィンストン。君は君自身でそうなったんだ。これは君が党に対して反逆しようとした時点で君が受け入れたことなんだ。最初の一歩から全て決まっていたことなんだよ。君にとって予測外だったことは何も起きていないはずだ」

彼はしばらく言葉を止めてから続けた。

「我々は君を殴った、ウィンストン。我々は君を粉々に打ち砕いた。君は自分の体がどうなっているか見ただろう。君の精神も同じ状態だ。私には君に大したプライドが残されているとは思えない。君は蹴りつけられ、鞭打たれ、侮辱された。痛みに悲鳴を上げ、自分の血と嘔吐物と共に床の上を転げ回った。慈悲を乞いながらすすり泣き、あらゆる人間、あらゆる物を裏切った。恥じるべきでない部分が自分に残されていると思うのかね?」

まだ瞳からは涙が溢れ出していたがウィンストンはすすり泣きをやめ、オブライエンを見上げた。

「私はジュリアを裏切ってはいません」ウィンストンは言った。

オブライエンは考えこむように彼を見下ろした。「ああ」彼が言った。「ああ。それは確かに本当だ。君はジュリアを裏切っていない」

何ものにも壊すことができないように思えるオブライエンに対する不思議な畏敬の念が再びウィンストンの心にあふれた。何という知性。彼は思った。何という知性なのだ! 自分に対して言われたことをオブライエンが理解できないなどということは決して無いのだ。他の人間であれば誰もが彼はジュリアを裏切ったと即座に答えるだろう。彼らが拷問でも彼から搾り出すことのできなかったものとは何なのか? 彼は彼女について知っていることの全てを彼らに話した。癖、性格、今までの人生。二人で会った時に起きたことはどんなに些細なことも自白した。彼が彼女に言ったこと。彼女が彼に言ったこと。闇市で手に入れた食べ物のこと、性行為のこと、党に対するあやふやな反抗計画のこと……全てだ。しかしそれでも彼が考える意味では彼は彼女を裏切っていなかった。彼女を愛することをやめてはいなかったし、彼女への思いは変わらないままだった。オブライエンは彼の意味するところを説明の必要も無しに理解したのだ。

「教えてください」彼は言った。「あとどれくらいで私を銃殺するのですか?」

「おそらくはずっと後になる」オブライエンが言った。「君は難しい症例だ。しかし諦めてはいけない。遅かれ早かれ皆、治癒するのだ。それが終われば我々は君を銃殺する」


©2011 H. Tsubota. クリエイティブ・コモンズ・ライセンス 表示-非営利-継承 2.1 日本