とある怪文書, ジャック・ロンドン

とある怪文書


〔資本家にして財閥による寡頭制の権力者、ロジャー・ヴァンダーウォーターとしてここで言及されているのは、南部地方において数百年にわたり製綿産業を支配したヴァンダーウォーター家の第九代当主とみられている。ロジャー・ヴァンダーウォーターが権力を握っていたのは西暦二十六世紀末の数十年である。時代としては、実業家たちによる苛烈な寡頭支配体制が前期共和制の廃墟に興ってから五世紀が経過しようとしていた。

内的証拠から、ここで取り上げる物語が文書としてまとめられたのは二十九世紀以降のことであると我々は確信している。それまでこの種の題材を文字にすることは、手書きにせよ活字にせよ、不法行為とされていただけでなく、労働階級の識字率は壊滅的で、読み書きができる人物は希少例だったからである。それは超越者による暗黒の統治であった。その語録において、人々の大多数は「家畜」と見立てられていた。あらゆる識字教育は弾圧された。当時の法令集にあたれば、労働階級にABCを教えただけでも重罪とし、しかも教師側の身分の高低を斟酌しんしゃくしなかった、この差別政策の実体が見当たることだろう。教育に対するこういった厳重規制を支配者側に課したのは、支配階級が支配者であり続けるために不可欠であった。

前述した状況の結果のひとつが、物語ることを生業なりわいとする語り部の登場である。語り部たちは財閥権力に金で雇われ、伝説や神話、夢物語に寄せた無色無害な物語を語って聞かせた。だが自由を求める心が死に絶えることはなく、扇動者たちは語り部という隠れ蓑をまとい、奴隷階級に革命を説いた。これから紹介する物語の流布を権力側が禁止したその証拠として、アッシュベリー刑事裁判所の二七三四年一月二十七日の記録を挙げたい。この裁判において、本稿の物語を労働者の集まる居酒屋で語ったジョン・ターニーなる人物に対し、アリゾナ砂漠の硼砂ほうしゃ鉱山における労働五年の判決が下されている。――編者記す〕


聞いてくれ、同志諸君。今から僕は一本の腕にまつわる話をする。トム・ディクソンという男の片腕の話だ。一流の織工だったトム・ディクソンは、支配者ロジャー・ヴァンダーウォーター、かの地獄の猟犬の工場で働いていた。この工場は「地獄の底辺」と呼ばれていた……そう呼んだのはそこで働く奴隷たちで、僕が思うに、それは奴隷たちの実感そのものだっただろう。工場はキングズベリーの外れにあった。キングズベリーにはヴァンダーウォーターが夏を過ごすのに使っていた豪邸もあって、これは工場からもっとも離れた場所に建てられていた。キングズベリーがどこかわからない? 同志諸君、君たちが知らないことはたくさんある。悲しいことだ。ものを知らないからこそ君たちは奴隷なのだから。この話を終えた後、君たちに文字と文章を覚えてもらうための教室を開きたいと思っている。支配者連中はたくさんの本を読み、書き、手元においている。だからこそかれらは支配者であり、豪邸で暮らし、働きもしないのだ。労働者が――労働者全員がだ――読み書きを覚えれば強くなれる。その強さをもってすれば自分たちに繋がれた鎖を断ち切ることができるだろう。そして世界には支配者も奴隷も存在しなくなるのだ。

キングズベリーは、同志諸君、旧アラバマ州にある。ヴァンダーウォーター家が三百年にわたってキングズベリーを我が物にしてきた。そしてヴァンダーウォーター家が所有する奴隷の厩舎と工場は、キングズベリー内にとどまらず、州外にまで及んでいる。ヴァンダーウォーター家のことは聞いたことがあるだろう。聞いたことがないという者があるものか? ――だが、ヴァンダーウォーター家について君たちが知らないことを、僕は今から話して聞かせようと思う。初代のヴァンダーウォーターは、君たちや僕と同じく、一介の奴隷だった。信じられないだろう? 初代は奴隷だった。それが三百年以上前の話だ。初代の父親はアレクサンダー・バレルの奴隷厩舎の機械工であり、母親は同じ厩舎の洗濯女だった。この点に疑いの余地はない。僕は君たちに真実を語っている。これは歴史の話だ。支配者連中が持つ歴史の本に一字一句その通りに書かれているが、それを君たちが自分で読んで確認するわけにはいかないだろう。なぜか。支配者連中が文字を学ぶのを禁じているからだ。わかっただろう、こういったことが本の中に書かれているからこそ、文字を学ぶことが禁じられているのだ。支配者連中には知識があり、そしてものごとをよく見通している。もしこうした本が君たちに読まれるようになると、支配者への敬意が失われてしまうかもしれない。それはとても不都合だ……支配者連中にとって。だが僕は知っている。読むことができるから知っている。そしてこの目で読んだ支配者たちの歴史書に何が書かれていたか、君たちに話して聞かせたい。

初代ヴァンダーウォーターの名はヴァンダーウォーターではない。ヴァンジ――ビル・ヴァンジといい、機械工であるヤージス・ヴァンジと洗濯女であるローラ・カーンリーの間に生まれた子だ。ビル・ヴァンジという若者は強い男だった。奴隷として生き続けたなら、奴隷解放運動のリーダーとして歴史に名を残していただろう。しかし現実はそうでなく、ヴァンジは支配者に仕える道を選び、そして大いに報われた。ほんの子供のころから奉公をはじめたが、それは自分が暮らす厩舎のスパイとしてのものだった。実の父親を扇動的言動者として告発したと言われている。これは事実だ。僕はこの目で記録を確かめている。厩舎に置いておくには優秀すぎた。アレキサンダー・バレルはヴァンジを厩舎から拾い上げ、まだ子供だったヴァンジに読み書きを教えた。ヴァンジは多くのことを教わり、統治機構の秘密機関に身を置いた。もちろんもう奴隷服を着てはいなかった。例外的に、奴隷たちの企みごとを内偵する場合には着ることもあっただろう。たとえば、大英雄たる同志ラルフ・ジャコバスを裁判にかけ、電気椅子によって処刑せしめたのは、十八歳のヴァンジその人だった。もちろん、君たち全員がラルフ・ジャコバスという輝かしいその名前を耳にしたことがあるだろう。だが、ラルフ・ジャコバスに死をもたらしたのが初代のヴァンダーウォーターで、その名前がヴァンジだったという話は聞いたことがないはずだ。僕は知っている。本で読んだからだ。こういった興味深いことがらが本にはたくさん書かれている。

ラルフ・ジャコバスが非業の死を遂げたのち、ビル・ヴァンジの名前は変化の第一歩を踏み出した。『狡猾スライヴァンジ』という名で広く遠くまで知られはじめたのだ。例の秘密機関において高い地位を得、多くの利権を得たが、しかしなお支配階級の一員ではなかった。支配階級の男性陣はヴァンジを迎え入れるのにやぶさかではなかったのだが、女性陣がスライ・ヴァンジを仲間に加えるのを拒絶したのだ。スライ・ヴァンジは支配者たちによく仕えた。元が奴隷だったことから、奴隷の手口を熟知していた。からめ手は通用しなかった。当時の奴隷たちは今よりも勇敢で、自由を求めて常に何かを仕掛けていた。スライ・ヴァンジはどこにでも行き、奴隷たちのあらゆる陰謀と計画をくじき、その指導者を電気椅子に送り込んだ。二二五五年、ヴァンジの名に次の変化が訪れる。いわゆる「大叛乱」が勃発した年だ。ロッキー山脈の西側の地域で千七百万の奴隷がその主人を打ち倒すべく勇気をふるって蜂起した。仮にこのときスライ・ヴァンジが生きていなかったなら、この叛乱は成功の目を見たかもしれない。だがスライ・ヴァンジはしっかりと生きていた。支配者たちは事態の収拾に関する全権を与えてヴァンジを派遣した。八か月にわたる闘争の中で百三十五万人の奴隷が殺された。ヴァンジが、ビル・ヴァンジが、スライ・ヴァンジが、奴隷を殺しに殺して「大叛乱」を叩き潰したのだ。その功績は大いに報いられた。そうして奴隷の血で両手を赤く染めたヴァンジを、以後、人は『血まみれのブラッディーヴァンジ』と呼んだ。わかっただろう、同志諸君、本の中になんと興味深いことが書かれていることか。そして僕は保証する。もっともっと興味深いことがらが本にはいくらでも書かれているということを。僕と一緒に勉強をするだけで一年もしないうちにこうした本を一人で読めるようになるだろう。そうとも、中には六か月程度で読めるようになる者もいるはずだ。

ブラッディー・ヴァンジは相当な年齢まで長生きし、生涯にわたり、支配者連中からも仲間として認識されていた。だが、ヴァンジ自身は支配者になれなかった。生を受けた場所が、前に言ったとおり、奴隷厩舎だったのだ。だがしかし、ヴァンジは大いに報われた! 十を超える大邸宅を構えた。支配者ではなかったとはいえ、幾千もの奴隷を所有した。水上の豪邸と謳われた巨大な遊覧船を有し、島を一つ丸ごと手に入れてコーヒー農園を営み、万の奴隷を使役した。だが晩年のヴァンジは孤独だった。同胞たるべき奴隷たちからは忌み嫌われ、断絶した。ヴァンジが尽くしてきた人々はヴァンジを同胞とすることを拒絶し、見下した。支配者連中はヴァンジが奴隷の生まれだからと見下したのだ。莫大な富を築いて死んだ。だがその死は安らかなものではなかった。良心の呵責に苛まれ、己の過去の行いすべてと己の名にこびりついた赤い染みとを悔い、苦悩のうちに死んでいった。

ところがヴァンジの子供たちについては事情が違った。子供たちは奴隷厩舎で生まれたわけでなく、さらに当時の支配者の盟主だったジョン・モリソンが特別に下した裁定もあり、支配階級へとなりあがったのだ。そうしてヴァンジの名は歴史のページから消えた。その名はヴァンダーウォーターとなり、ブラッディー・ヴァンジの子ジェイソン・ヴァンジは、ヴァンダーウォーターの系譜の始祖、ジェイソン・ヴァンダーウォーターとなった。だがこれは三百年前の話であり、こんにちのヴァンダーウォーター一族はその起源を忘れ、自分たちの肉体は、君たちや僕、あらゆる奴隷たちの肉体と根本的に異なるものからできているという認識でいる。ここで君たちに問いたい。なぜ一介の奴隷がほかの奴隷たちの主人になりえるのか? なぜ一介の奴隷のその息子が多数の奴隷の主人となりえるのか? 答えは君たち自身で出してもらいたいので僕からこれ以上は言わないが、忘れてはならないのは、ヴァンダーウォーター家の始祖たちは奴隷だったという点なのだ。

ところで同志諸君、このあたりで話のはじめにもどって、トム・ディクソンの腕のことを話すことにしよう。ロジャー・ヴァンダーウォーターのキングズベリーの工場は、まさにその名のとおりの「地獄の底辺」だったわけだが、そこで働いているのはもちろん生きた人間だった。男も女も未成年も、幼児さえも働かされていた。働く者みな法の下では奴隷なりの所定の権利を与えられていたが、法の下の話にすぎず、権利の多くは「地獄の底辺」の二人の監督官、ジョセフ・クランシーとアドルフ・マンスターによって奪われていた。

これは長い話なのだが、一切合切を話すつもりはない。僕は腕の話だけをするつもりでいる。奴隷たちの賃金は食べるにも事欠く水準だったが、はからずも、そこから月々一部を基金として積み立てるよう法律に定められていた。この基金で、事故で怪我を負ったり、病気によって就労が困難になったりした不幸な作業員を支え合おうというわけだ。むしろ君たちのほうがよく知っているだろうが、こうした基金は監督官が宰領する。法律でそうなっているからで、つまり「地獄の底辺」の基金は二人の悪名高い監督官の手に委ねられていた。

そう、クランシーとマンスターはこの基金を私物化していた。労働者が事故に巻き込まれたときの基金の払い出しに承認を与えるのは、慣例としては労働者側のはずだった。が、二人の監督官は払い出しを拒否した。奴隷たちに何ができただろう? 法の下では権利があった。だが奴隷たちには法へのアクセスがなかった。監督官に苦情を申し立てた者には懲罰が加えられた。どのような懲罰か、君たちにはおのずとわかるはずだ――職務怠慢と言いがかりをつけて罰金を課す。――社営の販売所において追加料金をとる。――家族に対して嫌がらせをする。――調子の悪い機械を割り当て、働くほど飢えるように仕向ける。

ついに「地獄の底辺」の奴隷たちはヴァンダーウォーターに抗議することにした。その年、ヴァンダーウォーターはキングズベリーで数か月を過ごしていた。奴隷の一人は字を書くことができたのだが、これはその母親が読み書きができたという巡り合わせによるもので、母親はそのまた母親から秘かに教わった読み書きのすべを、同様に息子へと引き継いでいた。だからこの奴隷はみなの苦境を訴える嘆願を書き上げ、からかさ連判状にすることにした。奴隷全員が記号で署名した。そうして連判状は、正規の切手を貼った封筒に納められ、ロジャー・ヴァンダーウォーターの元へと郵送された。ロジャー・ヴァンダーウォーターは一顧だにしなかった。連判状を二人の監督官に転送しただけだった。クランシーとマンスターは怒った。夜になって二人は看守の一団を奴隷厩舎に放つ。看守たちはつるはしの柄を手にしていた。次の日、「地獄の底辺」で労務につくことができたのは半数ほどしかいなかったという。手ひどく棒で打たれたのだ。字を書ける例の奴隷はとりわけ激しく打たれ、三か月しか生きることができなかった。だが死ぬ前にかれはもう一度書いた。何のために書いたのか、それをいまから聞かせよう。

それから四週間か五週間か経ったころ、トム・ディクソンという奴隷が「地獄の底辺」での作業中にベルトに巻き込まれ腕をもぎとられた。同僚たちはいつもどおりに基金からの払い出しを承認し、クランシーとマンスターは、これもいつもどおり、基金からの払い出しを拒否した。字を書ける奴隷は、瀕死の重体であったが、あらたに嘆願書をしたためた。そしてこの書状をトム・ディクソンの胴体からちぎれた腕の掌に押し込んだ。

一方その頃、ロジャー・ヴァンダーウォーターはキングズベリーの反対側の外れにある豪邸で病に伏せっていた――君たちや僕が寝込んでしまうような重い病気ではない。ちょっとした消化不良、ことによると暴飲暴食を原因とするひどい頭痛にすぎなかったかもしれない。だが、手厚く世話されてきたためにひ弱であったヴァンダーウォーターにとって、寝込むにじゅうぶんな症状だった。こうした人々は、生涯を真綿にくるまれて暮らしているようなもので、めっぽうひ弱にできている。ロジャー・ヴァンダーウォーターはひどく頭痛に苦しんでいた。信じられないかもしれないだろうが、同志諸君、その苦しみは、ロジャー・ヴァンダーウォーターの主観からすれば、トム・ディクソンが腕を付け根からもぎとられたときのそれに匹敵するものだった。

ロジャー・ヴァンダーウォーターは意外にも農学を好み、その実践として、キングズベリーから三マイル離れた農場で苺の新品種を栽培していた。この新種の苺はヴァンダーウォーターの自慢の種であり、自ら足を運んで視察と初摘みとを行いたがっていたが、体調不良のため果たせずにいた。体調不良を理由として、ヴァンダーウォーターは農場の老奴隷に命じ、初摘みの苺を一箱分、直接持ってこさせることにした。一連の経緯は豪邸に詰める使用人の噂するところとなったが、その中には夜ごと奴隷厩舎で寝起きする者もいた。農場の監督官はみずから苺を運ぶべきだったが、仔馬の調教中に足を折ってしまい床に伏せっていた。夜、豪邸の皿洗いがこの話を厩舎に持ち帰り、あくる日に苺が運び込まれるということが人々の知るところとなった。そして「地獄の底辺」の奴隷たちは人間であり、臆病な牛とは違ったので、話し合いの場をもった。

字を書ける奴隷は、棒叩きの傷が悪化し瀕死の容体だったが、自分がトム・ディクソンの腕を持っていくと言った。そのうえ、どうせ死ぬのだからそれが少し早まってもなんの問題もないとも言ったのだ。そこで五人の奴隷が、看守がその夜最後の巡回を終えた後、奴隷厩舎から抜け出した。その一人が例の字を書ける奴隷だった。道路わきの藪に身をひそめているうちに日は昇り、やがて主人に献上する果物を運んで町に向かう老奴隷がやってきた。農園からやってきた奴隷は老齢でリウマチを患っており、字を書ける奴隷は棒叩きのため体の自由が利かなかった。そのため、両者の歩き方はそっくりに見えた。字を書ける奴隷は老奴隷と服を取り換えて広縁帽子を目深にかぶり、馬車の御者席に座って街に出発した。農場の老奴隷は縛り上げて藪の中にとどめた。夕刻、奴隷たちは老奴隷を解放し、厩舎を抜け出した罰を覚悟の上で帰っていった。

一方その頃、ロジャー・ヴァンダーウォーターは苺が届くのを待ちながら豪奢な寝室で横になっていた。その寝室の豪勢さ、快適さ。そういったものに縁がない僕や君たちが目の当たりにしたとしたら、目が潰れてしまったかもしれない。字を書ける奴隷は、のちに、その光景を楽園をかいま見たように思ったと言っていた。それはそうだろう! その寝室には万単位の奴隷の労働力と生命力とがつぎこまれていながら、当の奴隷たちは野獣よろしく劣悪な巣穴で睡眠をとっているのだから。字を書ける奴隷が苺を運ぶのに銀の大盆を使うことになった――そうだ、ロジャー・ヴァンダーウォーターは苺の作柄について直接話をしたがっていたのだ。

字を書ける奴隷は瀕死の体をひきずるようにして膝行しっこうし、浮世離れした寝室の奥へ、寝台に横たわっているヴァンダーウォーターのそばへと進み、銀の大盆を捧げた。盆には青々とした大きな葉がかぶせられていたが、それをかたわらに控えていた近侍が取り払い、ヴァンダーウォーターの検分を求めた。そしてロジャー・ヴァンダーウォーターは肘をついて身を起こし、見た。大盆にはもぎたての見事な苺が、まるで貴重な宝石のように盛りつけられている。そしてその中央にトム・ディクソンの胴体からもぎりとられた腕があった。その腕がよくよく洗い清めてあったのは同志諸君に言うまでもないだろう。だから、血のように赤い果物の間にあってはひどく白々として見えた。さらにヴァンダーウォーターは見た。死んで硬直した指が握りしめている、「地獄の底辺」で働く者たちの嘆願書を。

「手に取って読め」と字を書ける奴隷は言った。そして支配者が嘆願書を手に取るとほぼ同時に、それまで驚きのあまり動けずにいた近侍が、拳を固め、膝をついた姿勢をとったままの奴隷の口元を殴りつけた。奴隷はいずれにせよ死にかけており、体にはまるで力が入らず、心に感じるものもなかった。うめき声も上げずに横倒しに倒れこみ、唇の端から血を流しながら静かに横たわった。警備兵の後ろに逃げ込んでいた医者が警備兵たちとともに前に進み出ると、奴隷は引き起こされた。だが引き起こされながら、奴隷は床に転がったトム・ディクソンの腕を抱き上げた。

「生きたまま犬の餌にしてやる!」と近侍は怒り狂って叫んだ。「生きたまま犬の餌にしてやる!」

だがロジャー・ヴァンダーウォーターは、頭痛のことも忘れ、しかしなお眉根を寄せたまま、黙れと命じてから嘆願書を読み進んでいった。読んでいる間、あたりは沈黙に包まれていた。怒り狂う近侍も、医者も、警備員たちも、みな立ちつくしている。直立不動の人々に囲まれ、口の端から血を流しながらも、奴隷はトム・ディクソンの腕をしっかりと抱えていた。ロジャー・ヴァンダーウォーターは嘆願書を読み終えると、奴隷に顔を向けて言った――

「もしこの書状に書かれたことに一つでも嘘があったなら、生きていることを後悔してもらうことになるだろう」

奴隷は言った。「ずっと後悔の中で生きてきたのだ」

ロジャー・ヴァンダーウォーターは奴隷をしげしげと見つめた。奴隷は言った――

「おまえのせいで最悪の目にあった。私はもうじき死ぬ。もう一週間ももつまい。だから今すぐ殺されても構わん――」

「それをどうするつもりか?」と支配者はトムの腕を指さして訊ねた。奴隷は答えた――

「厩舎に連れて帰って土に埋める。トム・ディクソンは大切な仲間だった。肩を並べて織り機を動かしたのだから」

もう話すことはほとんどない、同志諸君。その奴隷とトムの腕は荷車に乗せられて厩舎に戻された。結局、この一件で処罰された奴隷はいなかった。それどころか、ロジャー・ヴァンダーウォーターは事実調査を行い、監督官二名、ジョセフ・クランシーとアドルフ・マンスターを処罰した。二人の終身身分は剥奪された。二人それぞれ額に烙印を押され、右手を切断された上で路傍に追放、以来乞食となりやがてのたれ死んだ。基金はしばらくの間正しく運用された――しばらくの間だ、同志諸君。というのも、ロジャー・ヴァンダーウォーターの後は、その息子、アルバートが継いだが、これは残酷な支配者で狂人と言っていいほどだったからだ。

同志諸君、かの支配者の前に腕を運んで行った奴隷は僕の父だ。勇敢な人だった。さらに、母親から秘かに読み書きを教わったとおりに、この僕にも読み書きを教えてくれていた。父は棒叩きの傷がもとで早くに死んだので、ロジャー・ヴァンダーウォーターは僕を厩舎から拾い上げ、いろいろな進路を示した。「地獄の底辺」の監督官になることもできただろうが、僕は語り部になることを選んだ。国土をさすらい、各地で僕の同胞である奴隷たちと縁を通じた。ここだけの話、僕がこうしたことを君たちに聞かせているのは、君たちが僕を売ったりしないとわかっているからだ。そうだろう、僕も君たちも知っている通り、もし僕を売ったりすれば、僕は舌を切られ、となると君たちはもうお話を聞くことができなくなる。そして同志諸君、僕は伝えたい。良き時代がやってくるということを。この世のみなが苦しまずにすむ、支配者も奴隷もない時代がやってくるということを。だが良き時代を迎えるには下準備が必要だ。まず君たちは字が読めるようにならなければならない。文字になった言葉には力がある。僕がここにきたのは君たちに字の読み方を教えるためだ。ここを去ることになった時には、他の者が君たちのために本を手配する――歴史の本をだ。それらの本から君たちを支配する連中について学んで欲しい。学び、支配者と同じ強さを手に入れるのだ。


〔編注――出典『史料集:断章と素描』。初版四四二七年刊行、全五十巻。二百年後の今、その正確さと貴重さを鑑み、国家委員会歴史研究部によって復刻版が編まれた〕


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