何年か前、友人の一人に、その教区をかつて受け持っていたブレイの牧師ブレイの牧師:宗教改革期のイギリスで政治状況が変わるたびに宗旨を変えた人物。現在では「日和見主義者」の代名詞となっている。で有名なバークシャーの小さな教会に連れていかれたことがある(実際はブレイから数マイル離れたところだったが昔はひとつの生活圏だったのだろう)。教会の庭には一本の大きなイチイの木がそびえ立ち、その足元の注意書きによればそれはまさにブレイの牧師その人が植えたものだった。あのような人間がこんな遺物を残しているという事実が当時、強く私の関心をひいた。
彼がザ・タイムズの論説記者になれるほどの才覚を備えていたにしてもブレイの牧師を称賛すべき人物として語る者はまずいないだろう。しかし歳月を経た後、彼の残したものは戯れ歌と一本の美しい木だけだった。それは何世代もの間、人々の目を安らがせ、彼が政治的売国主義によって生み出した悪影響を帳消しにしたことはまず間違いない。
ビルマの最後の王となったティーボーティーボー:ティーボー・ミン。ビルマ(現在のミャンマー)・コンバウン王朝の最後の王。もまた善良な人間とはほど遠かった。酒におぼれ……主に誇示するためであろうとはいえ……五百人の妻を持ち、王位についてまず行ったことは七十人とも八十人とも言われる兄弟の首をはねることだった。しかしマンダレーの埃っぽい通りにタマリンドの木々を植えることで後世の人々に慈善を施した。その木々は一九四二年に日本の焼夷弾によって焼き払われるまで心地よい日陰を提供していたのだ。
「跡に遺され甘く華やかに香るのは正しい行いだけ」と歌った詩人ジェームス・シャーリーはいささか一般化しすぎであるように思われる。十分な時間が過ぎた後で見ると不正な行いが実に見栄えのいいものに見えることも時にはある。ブレイの牧師のイチイの木を目にしたとき、それは私に何かを思い出させた。後になって私はジョン・オーブリーの作品集を手に入れて、十七世紀前半のどこかの時点で書かれたに違いないある田園詩を再読した。オーバーオール夫人という人物について書かれたものだ。
オーバーオール夫人はある牧師の妻だが、ひどい不貞を働く。オーブリーによれば彼女は「誰であっても拒むことはほとんどなく」、「見たこともないほどこの上なく愛らしい眼を持っていたが、驚くほどふしだら」だった。その詩(「色男の牧師」という題で、これはジョン・サーベイ卿と呼ばれる人物を指しているようだ)はこんな風に始まる。
横たわった色男の牧師
なんと厳格、慎み深い
またや田舎娘を待ちわびる
なんと快活で、純粋
丘のふもとに頭を横たえ
腰に手を当て
全ては失ったもののため
さあ、あれやそれやこれやそれ……
甘美な彼女、愛おしい
常と変わらぬ囚われの色男
あんなに優美な娘はいない
さあもう一度楽しもうじゃないか
行列は長く伸び
誰にも見せてやるものか
彼女のような女でも
さあ、あれやそれやこれやそれ
この詩はここから六つの節にわたって続き、「さあ、あれやそれやこれやそれ」の繰り返しには間違いなくひわいな意味が込められている。しかし詩はすばらしい節回しで終わるのだ。
だけど可愛いい娘も昔の話
今じゃ地べたに踏みつけられ
彼女に何が起きたのか
色男の牧師は責められない
なぜかって? 彼女の身の報い
自分で自分を持ち崩し
自分に正直すぎたのさ
さあ、あれやそれやこれやそれ
オーバーオール夫人はその悪名においてはブレイの牧師と変わらないが、彼よりもずっと興味深い人物だ。彼女にまつわるもので残っているのは一編の詩だけだというのに、それはいまだに多くの人々を楽しませている。いくつかの理由からそれが詩選集に採られることは決してないにしろだ。彼女によって引き起こされたであろう苦しみ、そしてその人生の最後に彼女を襲ったに違いない悲惨と徒労は夏の夕べのタバコの草の葉の匂いにも似た消えがたい香りのようなものへと姿を変えたのだ。
しかし話を木々に戻そう。木を植えること、とりわけ寿命の長い広葉樹を植えることはほとんど費用や面倒をかけずにできる後世の人々への贈り物であり、もしその木が根付けば良かれ悪しかれあなたの他のどんな行いよりもずっと後までその目に見える影響は残る。ウールワースウールワース:有名なスーパーマーケットチェーンで六ペニーのツルバラを買って戦争の前に植えたという短い文章を一、二年前にトリビューンに書いたことがある。それを読んだ読者の一人から私は怒りの手紙を受け取った。そんなバラはブルジョア的だと言うのだ。しかし今でも私はタバコやあるいはすばらしいフェビアン研究所のパンフレットのひとつに使うよりもずっとよい六ペンスの使い方だったと思っている。
つい先日、昔住んでいたその小屋で一日を過ごす機会があったのだが十年近く前に植えたツルバラの成長にはうれしい驚き……正確に言えば気づかず良い行いをしていたという気持ち……を覚えた。成長するものに投資した時に少額の金銭で何をなし得るか、そのツルバラにかかった費用はまさにそれを証明する価値ある記録だと私は思う。
初めはウールワースで買った二苗のツルバラと三苗のポリアンサで、それぞれ六ペンスだった。それから二本のバラの木だ。これは苗畑から持ってきた雑多な寄せ集めの一角をなしている。この寄せ集めは六本の果樹、三本のバラの木、二本のセイヨウスグリの木からなっていて、全て合わせて十シリングだ。果樹の一本とバラの木の一本は枯れてしまったが残りは盛大に咲き誇っている。合計で五本の果樹、七つのバラの茂み、二本のセイヨウスグリ、締めて十二と六ペンス十二と六ペンス:1シリングは12ペンスなのでオーウェルの誤記があるのではないかと思われるである。これらの植物はたいした世話を必要とせず、初めにかかった額以上の金銭はかからない。ときおり農場の馬の一頭が門の外で立ち止まって催した時に私がバケツに集めたものを除けば、肥料さえやっていないのだ。
九年の間にその七つのバラの茂みは延べで百カ月から百五十カ月の間、花を咲かせているはずだ。植えた時には苗木に過ぎなかった果樹は今では立派に育っている。先週、その中の一本のプラムの木が花を満開に咲かせた。リンゴの木々の調子も実によさそうだった。最初は一家の弱々しい一員だったコックスオレンジピピン種のリンゴ……もし元気な木だったらその雑多な寄せ集めの仲間入りをすることもなかっただろう……はたくましく育ち、十分な数の果実をつけた枝を伸ばしている。コックスのリンゴの木を植えたのは公共心からの行動だったことを私は主張しておきたい。それらの木々がすぐに実をつけることはないし、私もそこに長く居着くとは思っていなかった。私自身でその木々からリンゴの実をとったことはないが、どうやらたくさん実を収穫している人間はいるようだ。汝らその実によって彼らを見分ける汝らその実によって彼らを見分ける:マタイによる福音書7章16節、そして誰もが知るようにコックスオレンジピピンは良い実をつける。しかし私は誰かに見返りを施そうと意識してそれを植えたわけではない。ただその茂みがみすぼらしいと感じて、たいした準備もせず地面に苗を植えただけだ。
私が今までの人生でやらずに後悔していて、いつかやってみようと思っていることのひとつにクルミの木を植えるということがある。最近ではクルミの木を植える人間は誰もいない……目にするクルミの木はほとんど決まって古木だ。クルミの木を植えればそれは孫のためになるだろうが、誰が自分の孫のためにそんなつまらないことをやろうとするだろうか? マルメロや桑、セイヨウカリンを植える者もいない。しかし自分の小さな土地を持っていれば植えたいと思わせる庭木というものはある。また一方で、通りかかった生け垣や空き地の木々、とりわけオーク、トネリコ、ニレ、ブナといった木々のひどい伐採の跡を立ち直らせるためにできることがあるのではないかと思う。こういった伐採は先の戦争の間に起きたものだ。
リンゴの木でさえ百年ほどは生きる。私が一九三六年に植えたあのコックスのリンゴの木は二十一世紀になっても変わらず実をつけていることだろう。オークやブナは数百年は生きるだろうから、最後に切り倒されて木材へと変わる前に数千人、数万人の人間を楽しませることだろう。個人が再び木を植えるというやり方によって社会に対して全員に課せられた義務が免除されると言っているわけではない。しかし悪いアイデアではないだろう。日常生活では反社会的な活動に勤しんでそれを日記に書き留めていればいい。そして適した季節が来たら大地にどんぐりをひとつ埋めるのだ。
ブレイの牧師と同様、あなたは人生において本当に多くの悪事を働くことだろう。しかし植えたどんぐりの二十にひとつでも成長すれば、最後には全くの慈善家として知られるようになるのだ。