このパラドクスは、上記の文章では面白おかしく表現されているが、仮言命題の理論の大きな難問であると私は考えている。この問題は何人かのベテラン論理学者たちに議論されてきたものであり、私も意見を提出してきたのだ。彼らとの手紙のやりとりの中で、たくさんの対立する意見が出てきた。それらを目にして私が確信したのは、「仮言命題とは何なのか」「それらをどう扱うべきなのか」という問題について、論理学の教師や著述家たちが何らかの同意を得るためには、このテーマはさらに進んだ検討を必要とするということだ。
元々の論争は、一年以上前に論理学の学生二人の間に起こったものだ。記号では次のように表現できる。
二つの命題、AとBがある。
次の二つが正しいとする。
このとき、Cは真でありうるのか、これが問題だ。
この二つの命題の、文字A・B・Cを、名前アレン・ブラウン・カーで置き換え、「真」と「真でない」を、「外出中」と「店にいる」で置き換えれば、次のようになると分かるだろう。
これは「ジョーおじさん」が議論を組み立てるときに使った二つの命題そのものだ。
この点に関連して、いくつかのとても興味深い問いが浮上する。例えば次のようなものだ。
仮言命題は、その帰結部分が偽であっても、正当なものと見なされうるのか?
「もしAならばB」と「もしAならば、Bでない」という二つの仮言命題は両立可能なのか?
次の命題の間には、(もしあるとすれば)どういう意味上の違いがあるのか。
ちょうど今、このパラドクスが具体的な形を取って私のもとへ送られてきた。きっと、必然的真理の具体例として、問題に新たな光を投げかけるだろう。
三つの線分KL・LM・MNがあるとしよう。これらの線分は、LとMにおいて、LMの同じ側に、互いに等しい鋭角を形作っている。
「A」は「点Kと点Nが一致する。従って三つの線分は三角形を形作る」を意味するとしよう。
「B」は「この三角形は、互いに等しい底角を持つ」を意味するとしよう。
「C」は「線分KLと線分MNは、互いに等しくない」を意味するとしよう。
すると次の二つが得られる。
二番目の命題は、証明を要しない。そして一番目のものはユークリッド原論の命題1-6において証明されている。もちろん、それがユークリッドの意図をきちんと表現しているかどうかには疑問の余地があるけれど。
私は、論理学に興味を持つ『マインド』誌の読者が、これらの興味深い問題の解決に助力してくれることを大いに期待している。