時々私をおとずれる禅宗の老僧、――生け花その他、古い芸術の名人――がある。色々の古風な信仰に反対の説教をして縁起や夢合わせなどを信じないように説き、ただ仏の教えをのみ信ずるように勧めて居るが、それでも檀家には評判がよい。禅宗の僧でこんなに懐疑的なのも少ない。しかしこの私の友人の懐疑も絶対ではない。先日遇った時、話は死者の事に及んだが、何だか気味の悪い事を聞かされた。
「幽霊だの、お化けだのと云う事は愚僧は信じない」僧は云った。「時々檀家の人が来て幽霊を見た、不思議な夢を見た、と云って来る。しかし詳しく尋ねて見るとそれには相応の説明のつく事が分って来る。
ただ、愚僧は一生に一度、中々説明のつかない妙な経験をした事がある。その頃、九州にいて若い沙弥であった。若い時にはだれもやらねばならぬ托鉢をやっていた。ある晩、山地を旅して居る間に禅寺のある村に着いた。きまり通りそこへ行って宿を頼んだが、主僧は何里か離れた村へ葬式に出かけて、一人の老尼だけが留守に残っていた。尼は主僧の留守中、人を入れる事はできない、それから主僧は七日間は帰るまいと云った。その地方では檀家に死人があれば、僧が行って七日の間、毎日読経して仏事を行う習慣となっていた。……愚僧は食物はいらない、ただ眠る所さえあれば結構と云った。その上非常に疲労して居る事を話して頼んだので、尼はとうとう気の毒がって、本堂の須弥壇の近くに蒲団を敷いてくれた。横になると愚僧はすぐに眠ってしまった。夜中に――大層寒い晩であったが――愚僧の休んで居る近くの所で木魚をたたく音と、誰かが唱える念仏の声で眼がさめた。眼を開けたが、寺は真暗で、鼻をつままれても分らない程の暗さであった。それで愚僧は不思議に思った。こんな暗がりのうちで木魚をたたいたり、読経をしたりするのは一体誰だろう。しかし響きは初めは余程近いようだが、何だかかすかでもあった。それでこれは自分の思いちがいに相違ないとも考えて見た、――主僧が帰って来て寺のどこかでお勤めをして居るのだとも考えて見た。木魚の音と読経の声に頓着なく、愚僧は又寝込んで、そのまま朝まで眠りつづけた。それから起きて顔を洗って着物を整えるとすぐに老尼をさがしに行った。それから昨晩の御礼を云ったあとで、『昨夜あるじは御帰りになりましたね』と云って見た。『帰りません』老尼の答は意地悪そうであった。『昨日申しました通り、もう七日間は帰りません』『ところで昨晩誰か、念仏を唱えて木魚をたたくのを聞いたので、それで、あるじが御帰りになった事と思いました』と愚僧は云った。『ああそれならあるじじゃありません、それは檀家です』と老尼は叫んだ。愚僧は分らなかったから『誰です』と尋ねた。『勿論死んだ人です。檀家の人が死ぬといつでもそう云う事があります。そのほとけは木魚をたたいて念仏を唱えに来ます』……老尼はそんな事には長い間慣れて来たので、云うまでもない事と思うて居るような口振で云った」