東京の劇壇に於て、決して衰える事のない人気のある物の一つは、名高い菊五郎一座の「牡丹灯籠」の芝居である。舞台を十八世紀の真中に取ったこの物すごい芝居は、もとは支那の話から思いついた物だが、円朝と云う小説家が口語体の日本語で書いて、地方色も全然日本風にした伝奇体の話を、劇にした物である。私はその芝居を見に行った。そして菊五郎は恐怖の喜びの一種変った物を私に感じさせた。
「この話のすごいところを英語の読者に示しては如何です」――と東洋哲学の迷路を通って適当に私を案内してくれる友人は尋ねた。「西洋の人が殆んど知らない超自然のある普通の観念を説明する役に立ちましょう。私、翻訳してお助けしても宜しい」
私は喜んでその思いつきを受け入れた。そして私共は円朝の話の余程異常な方の部分をつぎのように摘要した。ところどころ、もとの物語を縮める必要があった。そして会話のところだけはもとの文章をそのままに訳するようにした、――そのうちには、心理学的の興味の特別な性質を偶然もって居る物がある。
――これは牡丹灯籠の物語のうちの幽霊の話である。――
江戸牛込に飯島平左衛門と云う旗本がいたが、一人娘のお露はその名の示す朝露のように綺麗であった。飯島は娘が十七ばかりの頃に後妻を娶った。それでお露が継母と一緒では幸福に暮らせない事を知って、娘のために柳島に綺麗な別荘を造って、お米と云うこの上もなく良い女中をつけて、そこに住まわせた。
お露はその新しい家で楽しく暮らしていたが、ある日の事、かかりつけの医者山本志丈が根津に住んでいた萩原新三郎と云う若い侍を連れて見舞に来た。新三郎は非常に立派な青年で、甚だ上品であった。そして二人は一見して恋に落ちた。その短い訪問の終らないうちに、彼等は――老いた医者に聞かれないように工夫して――永久に変らない誓をする事ができた。それから別れる時、お露はその青年にささやいた、――「忘れないで下さい。もしこれでお目にかかれないと、私きっと死にます」
新三郎はその言葉を決して忘れなかった。そしてお露に会う事ばかり考えていた。しかし一人でお露を訪問する事は礼が許さない。彼は医者が再びその別荘へ連れて行く約束をしたから、その医者と同行する又の機会を待つより他はなかった。不幸にして老人はこの約束を果さなかった。彼はお露が突然この青年に対して愛を感じた事をさとった。それで万一の事があったら、彼女の父が自分を責任者と考えるだろうと恐れた。飯島平左衛門は人の首をよく斬るので評判であった。志丈が新三郎を飯島の別荘へ紹介した事の結果を考えれば考える程、彼は恐ろしくなって来た。それでわざと彼の若い友人を訪れる事を避けた。
幾月か過ぎた。新三郎が来てくれない本当の理由を少しもさとらないお露は、自分の愛が蔑視されたと思い込んだ。それから衰えて死んだ。すぐにあとで、忠実な女中のお米も女主人の亡くなった事を悲しんで死んだ。それで二人は新幡随院の墓地へ相ならんで葬られた、――この寺は名高い菊人形の見せ物が年々開かれる団子坂の近傍に今もある。
新三郎は何事が起ったか少しも知らなかった。しかし彼は失望と心配で長い間、病気になった。彼は次第に回復して来たが、未だ余程衰弱していた。そこへ突然、山本志丈から訪問を受けた。老人は長く無沙汰をした事に対して色々尤もらしい言分をした。新三郎は彼に云った。――
「春の始めからずっと病気をして居りまして、今でも未だ何にも喰べられません。……ちっとも来て下さらなかったのは少しひどいですな。もう一度、飯島さんのお宅へ御一緒に行く約束だったと思います。それから先日丁寧にもてなされましたから、御礼に何か贈物をしたいのですが。勿論自分では行かれません」
志丈は厳かに答えた、――
「実に惜しい事でしたが、あの若い婦人は亡くなられました」
「亡くなった!」新三郎は真青になってくりかえした。「亡くなったとおっしゃるのですか」
医者は暫らく気を落着けるように黙っていた。それから面倒な事を余り真面目に取らない事にきめた人のような軽い早い調子で、続いて云った、――
「あなたを紹介したのは私の大失策でした。あの人はすぐあなたが好きになったらしいのです。あなたはあの小さい部屋で一緒にいた時、――何かその愛情に油を注ぐような事を云ったんじゃありませんか。とにかく、あの人はあなたが好きになって来た事が分ったので、私心配になりました、――父親が聞いて、私ばかりを悪者にするだろうと思ったからです。そこで――すっかり白状いたしますが、――あなたをお訪ねしない方がよいときめまして、わざと長い間、参らなかったようなわけでした。ところが、つい二三日前、偶然、飯島家を訪ねて、お嬢さんの亡くなった事と女中のお米さんの亡くなった事を聞いて、非常にびっくりしましたよ。それから、色々考えて見ますと、そのお嬢さんはあなたを恋い慕って死んだに相違ない事が分りました。〔笑って〕ああ、あなたは全く罪作りだね。全くだね。〔笑って〕女が恋慕して死ぬなんて云う程、好男子に生れて来るのは罪ですな註。……〔真面目に〕まあ、死んだ者は仕方がない。今更云って見てもどうにもならない、――今となってはあのお嬢さんのために念仏でも唱えるより他はない。……さようなら」
それから老人は急いで行った、――彼自ら知らないうちにできた責任を感じて居るその苦しい事件について、これ以上の話を避けようとして。
[註 この会話はあるいは西洋の読者に変に思われるかも知れないが、これは写実である。この場面全体には全く日本風の特色がある。(原著者による註)]
お露の死を聞いてから、新三郎は悲哀のためにぼんやりとなった。しかし、はっきり考える事ができるようになるとすぐに、彼は女の名を位牌に書き込んで、家の仏壇の中に置いて、その前に供物を捧げて念仏を唱えた。それからあと毎日供物を捧げて、念仏をくりかえした。そしてお露の記憶は彼の心から決して去らなかった。
盆前に、彼の単調な孤独を破るような事は何も起らなかった。――死人の大祭であるその盆は七月十三日に始まるのであった。それから彼は家を綺麗に飾って、その祭の準備をした、――帰って来る魂の案内になる灯籠をかけて、精霊棚に精霊の食物を置いた。そして盆の第一夜に、日没の後、彼はお露の位牌の前に小さい灯明をつけて、それから灯籠に火をともした。
その夜は晴れて大きな月があった、――そして風がなくて、大層あつかった。新三郎は縁側へ出て涼んでいた。軽い夏の着物を一枚着ただけで、彼はそこで考えながら、夢を見ながら、悲しみながら坐っていた、――時々団扇で扇いだり、時々蚊やりの煙りをつくったりしながら。あたりは静かであった。この辺は淋しいところで、人通りは殆んどなかった。聞える物はただ近傍の流れのおだやかな音と、虫の音だけであった。
ところが、この静けさが、――カラン、コロン――と鳴る女の駒下駄の音で破られた、――それから急にこの音は段々近くなって庭を囲んで居る生垣のところまで来た。それから新三郎は好奇心に駆られてつま立てをして生垣の上から覗こうとした。すると女が二人通るのが見えた。牡丹の飾りのある綺麗な灯籠をもった女は女中らしかった、――もう一人は十七歳ばかりの華奢な少女で、秋草の模様の刺繍のある振袖を着ていた。殆んど同時に二人の女はふり向いて新三郎を見た、――そして彼はお露と女中のお米の二人を認めて、全く驚いた。
彼等はすぐに足を止めた。そして少女は叫んだ、――
「まあ、不思議。……萩原さんだ」
同時に新三郎は女中に云った、――
「ああ、お米さん。君はお米さんだね。――よく覚えていますよ」
「萩原さん」お米はこの上もない驚きの調子で叫んだ。「とても本当とは信じられなかったでしょう。……ね、私達は、あなたがお亡くなりになったと聞いていましたから」
「こりゃ驚いた」新三郎は叫んだ。「ところで、私は又あなた方お二人とも亡くなられたと聞いていました」
「まあひどい話ですね」お米は答えた。「どうしてそんな縁起の悪い事を云うのでしょうね。……誰ですか、そんな事を云ったのは」
「どうぞお入り下さい」新三郎は云った、――「ここでもっとよくお話し致しましょう。庭の門が開いています」
そこで彼等は入って、挨拶をとりかわした。それから新三郎は二人を楽に坐らせてから云った、――
「長い間お訪ねしないで大層失礼しましたがお赦し下さい。実は一月程前にあのお医者の志丈が私にお二人の亡くなられた事を云ったのです」
「それじゃあなたにそんな事を云ったのはあの人ですか」お米は叫んだ。「随分ひどいですね。ところで、あなたが亡くなったと云って聞かせたのもやはり志丈です。つまりあなたを騙そうと思ったのでしょう、――それはあなたがそんなに人を信用して何でもお任せなさる方だから、騙すのは何でもないのでしょう。きっとお嬢様はあなたがお好きな事を何かの言葉でお洩らしになったのが自然と、お父様の耳に入ったのでしょう、そうすると、あの継母のお国がお医者に手を廻して、私達が死んだとあなたに聞かせて、別れさせるように工夫したのでしょう。とにかく、お嬢さんがあなたの亡くなられた事を聞いてすぐ髪を切って尼になりたいとおっしゃいました。しかし私は髪を切る事だけは止めて、しまいにただ心の尼になるようにと勧める事ができました。そのあとでお父様はある若い人にみあわせようとなさいましたが、お嬢様はお聞きになりません。それで色々ごたごた致しましたが、――重にそれはお国から起った事ですが、――とうとう私達は別荘から出まして、谷中の三崎で小さい家を見つけました。そこで今、少し内職をして――どうかこうか暮らしています。お嬢様はあなたのために念仏ばかり唱えていらっしゃいます。今日は盆の初日ですからお寺参りに行きました。それで帰るところです――こんなにおそく――こんなに不思議にお遇する事になりました」
「ああ不思議だね」新三郎は叫んだ。「こりゃ本当か知らん――それとも夢でなかろうか。私もここではたえずお嬢さんの名を書いた位牌の前に念仏を唱えていました。御覧なさい」そこで彼は精霊棚にあるお露の位牌を二人に見せた。
「御親切に覚えていて下さって、どんなに嬉しいか分りません」お米は微笑しながら答えた。……「あの、お嬢様の方では」――彼女はお露の方へ向いて続けた。その間お露は袖で半ば顔をかくしながらつつましく黙っていた、――「お嬢様の方では、あなたのためなら七生の間お父様に勘当されても、たとえ殺されても構わないと本当に云っていらっしゃるのです。……さあ、今夜ここに置いて下さいませんか」
新三郎は嬉しさの余りに顔が青くなった。彼は感極まって震え声で答えた、――
「どうぞ、いて下さい。しかし大きな声をしないように願います――実はすぐそばに白翁堂勇斎と云う人相見で、人の顔を見て占をする男が住んでいます。少し物好きな男ですから、余り知らせたくないのです」
二人の婦人はその晩、若い武士の家に泊って、夜明け少し前に帰った。そしてその晩から七晩引続いて毎晩、――天気がよくても悪くても、――いつでも同じ時刻に来た。新三郎はその少女に益々愛着を感じた。そして二人は鉄の帯よりも強い迷いのくさりで、互につながれていた。
さて、新三郎の家の隣りの小さな家に住んで居る伴蔵と云う男がいた。伴蔵とその妻おみねは召使として新三郎に二人とも使われていた。二人とも若い主人に忠実に仕えていた。新三郎のためにこの二人は比較的安楽に暮らす事ができた。
ある晩、余程おそく、伴蔵は主人の部屋で女の声のするのを聞いて不安に感じた。彼は新三郎が甚だ温順で親切だから、誰か狡猾ないたずら女に騙されて居るのかも知れないと心配した、――こんな場合には先ず困るのは使用人である。それで彼はよく見張りをしようと決心した。それでその翌晩、彼は新三郎の住家へつま立てをして忍び寄って、雨戸のすき間から覗いた。寝室の行灯の明りで、彼は蚊帳の中に主人と、知らない女が一緒に話をして居るのを認める事ができた。始めは女をはっきり見る事ができなかった。彼女の背中が彼の方に向いていた。――彼はただ彼女が大層華奢である事、――それから着物や髪の風から判断して、――大層若いらしい事だけを見た。耳をすき間にあてると、話はよく分った。女は云った、――
「それでもし父が私を勘当したら、あなたは私を引取って下さいますか」
新三郎は答えた、――
「引取りますとも――いや、かえってその方が有難い。しかしあなたは一人娘で可愛がられていますから勘当などの心配はありません。心配な事は私共はいつか別れなければならないと云う残酷な目に遇う事です」
女はおだやかに答えた、――
「決して、決して、他の人を夫にもつ事は考えて見るだけの事もできません。たとえ私達の秘密が洩れて、父が私のした事を怒って殺すような事があっても、やはり――死んでからも――あなたの事を考えずには居られません。それからあなただって私がいないでは長く生きて居られないでしょうと私信じています。……」それから彼に寄りそうて、唇を彼の頸にもって行ってキスした。それから彼もそのキスを返した。
伴蔵は聞いていながら驚いた、――この女の言葉は卑しい女の言葉でなくて、身分ある人の言葉であったからである。それから彼はその女の顔をどうにかして一目見ようと決心した。そして家の廻りをあちこち歩いて、あらゆるすき間、割れ目を覗いて見た。そしてとうとう見る事ができた。しかし同時に彼は氷を浴せられたように身震いをして、頭の毛が逆立った。
その理由は、その顔はずっと以前に死んだ女の顔、――愛撫して居る指は肉のない骨ばかりの指、――腰から下のからだは何もなくて、非常にうすくあとを曳いた影になって消えて居る物であったからであった。愛して居る男の迷った眼が若さ、愛らしさ、美しさを見て居るところには、覗いた人の眼にはただ恐怖と、そして死の空虚が見えるばかりであった。同時に他の女の姿、そしてもっと物すごいのが、部屋の中から立ち上った。そして覗いて居る男を見ようとするように、こちらへ、すばやく進んで来た。それから非常な恐怖のうちに、彼は白翁堂勇斎のうちへ飛んで行って、狂気のように戸をたたいて、彼を起す事ができた。
人相見、白翁堂勇斎は大層老人であった。若い時に多く旅行をして色々の物を見たり聞いたりして居るから容易には驚かない。しかしこのびっくりして居る伴蔵の話は彼を驚かし又恐れさせた。彼は古い支那の書物で、生者と死者の間の恋愛について読んだ事はあるが、不可能の事として決してそれを信じなかった。ところが、彼は今、伴蔵の話は偽りではない事、萩原の家には何か余程変な事が実際行われて居る事がたしかである事をさとった。もし事実が伴蔵の考えて居るような物であったら、この若い武士は到底助からない事になる。
「もしその女が幽霊なら」――勇斎はその驚いた下男に云った。「もし女が幽霊なら、旦那はじきに死ぬにきまって居る、――だから助けようと思えば、何か非常手段を講ぜねばならない。そしてもし女が幽霊なら、死相が男の顔に現れる。何故と云うに、死人の魂は陰気で、生きて居る人の魂は陽気、一方は積極、一方は消極である。幽霊の花嫁をもって居る人は生きて居られない。その人の血のうちに百年生きる生命の力が存在していても、その力はすぐになくなるに相違ない。……それでも私は萩原様を助けるためにできるだけの事をしよう。そこで当分この事について誰にも何も云ってはいけない、――君の家内にも。夜の明け次第、私は旦那に会いに行く」
翌朝、勇斎に問われた時、新三郎は始めのうちどんな女もその家を訪ねて来た者はないと云おうとした。しかしこんな下手なやり方は駄目と思ったのと、それからこの老人の目的に利己的なところは全然ない事を認めたので、彼は最後に実際起った事を認めて、この事を秘密にして置きたいと思う理由を述べる事にした。飯島のお嬢さんについては、できるだけ早く彼の妻にしようと計画中であると彼は云った。
「そんな気ちがいじみた事」余りの事に驚いて勇斎は癇癪を起して叫んだ。「毎晩ここへ来る人達は、あれは死人です。あなたは何か恐ろしい迷にかかっています。……あなたが長い間お露様が死んだと思って、念仏を唱えて位牌の前に供物をしたのは何よりの証拠です。……死人の唇があなたに触れたのです、――死人の手があなたを撫でたのです。……丁度今もあなたの顔には死相が現れて居るが――あなたは信じない。……さあ、御願いだから、聞いて下さい、もし助かりたければ。そうでないとあなたは二十日以内に死にます。その人達は――あなたに下谷区の谷中の三崎に住んで居ると云ったのですね。あなたはいつかそこへ見舞に行った事があるのですか。勿論ないでしょうね。それじゃ今日行って、――大急ぎで――その谷中の三崎へ行って、家をさがして御覧なさい。……」
烈しい勢いで熱心にこの助言を云ってから、白翁堂勇斎は突然帰った。
新三郎は、成程とは思わないが、びっくりして、少し考えてからこの人相見の助言に随う事に決心した。谷中の三崎へ着いた頃は未だ朝のうち早かった。そしてお露の家をさがし始めた。彼は町から横町まで隅から隅へ悉くさがして、門札を悉く読んだ。それから機会のある毎に尋ねて見た。しかしお米の云ったような小さい家に似た物は少しも見当らなかった。それから彼が尋ねた人のうちで、二人の婦人の住んで居る家を知って居る者は一人もなかった。最後にもうこれ以上さがしても無駄と分ったので、彼は近路を通って家へ帰る事にしたが、その路は偶然、新幡随院のお寺の境内を通り抜けていた。
突然、彼の注意は、寺の後ろに相並んで立って居る二つの新しい墓に引かれた。一つは普通の墓で、身分の賤しい人のために建てられたような物であった。今一つは大きな立派な物であった。そしてその前に多分盆の時分に置いたままになって居る綺麗な牡丹灯籠がかかっていた。新三郎はお米がもって来た牡丹灯籠はこれと全く同一である事を思い出して、その暗合を変に思った。彼は又墓を見た、しかし墓には何の説明もない。どちらにも俗名はない、ただ戒名ばかり。それから彼は寺に入って尋ねようと決心した。彼の質問に対して、執事の僧の答えたところでは、大きい墓はこの頃、牛込の旗本、飯島平左衛門の娘のために建てられた物、そのとなりの小さい方はその婦人の葬式のあとですぐ悲しみのために死んだ女中のお米の物であった。
直ちに新三郎の記憶に、お米の言葉が、もう一つの、そして気味の悪い意味をもってかえって来た、――「私達は出まして、谷中の三崎で小さい家を見つけました。そこで今少し内職をして ――どうかこうか暮らしています……」なる程ここに非常に小さい家がある、――そして谷中の三崎に。しかし少し内職をしてとは何だろう。
恐ろしくなって、武士は大急ぎで勇斎の家に帰って、相談と助けを願った。しかし勇斎はこんな場合に何の助けもできないと云った。彼はただ新幡随院の高僧、良石和尚のところへ、直ちに法の力をもって助けて貰うように頼んだ手紙をもたせて、新三郎をやるより外はなかった。
高僧、良石和尚は博学な聖い人であった。霊の眼で如何なる悲しみの秘密をもさぐり、その源となって居る悪因縁の性質を知る事ができた。彼は新三郎の話を冷静に聞いてから云った、――
「あなたが前の世で犯した過ちのために、今、大層大きな危険があなたの身の上にふりかかって居る。死人とあなたとの悪因縁は非常に強いのだが、そのわけを云っても、あなたには中々分りにくいだろう。それでただこれだけ云って置こう、――あの死人は憎みのためにあなたに害を加えようとは思っていない。あなたに対して何の怨みももっていない。かえってあなたに対して、非常に烈しい熱情をもって居る。多分この少女は今の世のずっと前の世から、――三世も四世も前の世から、あなたを恋い慕っていたのであろう。それで生れ変る毎に姿や境遇が変っても、あなたのあとを追いかけて来る事は止まないのだ。それだから、その女の力から逃れる事は中々むずかしい。……しかし今、この力のあるお守りを貸して上げる。それは海音如来と云う仏の黄金のお姿だが、――その仏の御法の教えは海の音のように全世界中に響くところから来て居る。それでこの小さいお姿は殊に死霊除けになる。これをあなたは袋に入れて帯の下に、からだにつけてお出でなさい。……その上、愚僧はやがてこの迷って居る魂の成仏するように施餓鬼を勤めます。……それからここに「雨宝陀羅尼経」と云う貴いお経がある。これをあなたは必ず毎晩、誦まねばならない。……その上このお札の一包みを上げるから、――家へはいれるところはどんなに小さくても、皆それぞれ一枚ずつ貼りなさい。そうすればその聖い経文の功徳で死人は入られない。しかし――どんな事があっても――お経を誦む事を止めてはなりません」
新三郎はこの高僧に感謝した。それからそのお守りとお経とお札の一包みを携えて、日没前に家に帰ろうと急いだ。
勇斎の忠告と助力によって、新三郎は家のすき間に日没前に悉くお札を貼る事ができた。それから人相見は、この青年を一人残して、家に帰った。
日が暮れたが、暖かく又晴れていた。新三郎は戸を固く閉じて、腰に貴いお守りをつけて、蚊帳に入った。そして行灯のあかりで「雨宝陀羅尼経」を誦み始めた。長い間、彼はその意味を少しも理解しないで、その文句だけを誦んでいた、――それから彼は少し眠ろうと試みた。しかし彼の心は未だその日の不思議な事件のために余りに興奮しすぎていた。夜中が過ぎた。それでも少しも眠られない。とうとう八つ時を知らせる傳通院の大きな鐘のボーンと鳴るのを聞いた。
それが止んだ。そして新三郎は突然、例の方向から近づいて来る下駄の音、――しかし今度はもっと徐ろなカラン、コロン、カラン、コロン――を聞いた。突然、冷汗が彼の額に流れた。急いでお経を開いて震える手で彼はそれを声高く又誦み出した。足音が段々近くなった、――生垣に近づいた、――止まった。その時、不思議にも新三郎は蚊帳の中にじっとして居られなくなった。彼の恐怖心よりも更に強い物が彼をふり向かせた。それから「雨宝陀羅尼経」を続いて誦む事を止めて、愚かにも彼は雨戸に近づいて、すき間から夜の中を覗いた。家の前にお露が立って、お米が牡丹灯籠をもって居るのが見えた。そして二人とも入口の上に貼ってあるお札を眺めていた。今までこれ程――生前と雖もこれ程――お露が美しく見えた事はなかった。そして新三郎は殆んど抵抗のできない力で彼女の方へ自分の心が引かれるのを感じた。しかし死の恐怖と不可解の恐怖が彼を押えた。そして彼の心のうちの恋愛と恐怖の争いのために、彼は焦熱地獄の苦しみを体に受けて居る人のようになった。
やがて彼はこう云って居る女中の声を聞いた、――
「お嬢様、はいれません。萩原様は心変りをなさったに違いありません。昨夜なさった約束を破りになったのですもの。そして私達を入れないように戸を閉じてあります。……今夜ははいられません。もう心変りをした人の事など考えない事に決心なさる方が賢いのですよ。あなたに会いたくない事は確かです。だからそんな不親切な人のために苦労しない方がましですよ」
しかし女は泣きながら、答えた、――
「ああ、あんなに堅い約束をとりかわしたあとでこんな事があろうとは思わなかった。……男の心と秋の空とよく聞いていたけれど、それでも萩原様の心が、こんなに私達を本当に入れて下さらない程むごいわけはない。……お米、どうかしてはいる方法はないかね。……そうでないと、どうしても帰る事はいやだから」
こんな風に、長い袖で顔を隠しながら、続いて頼んだ、――甚だ綺麗に、甚だ哀れに見えたが、新三郎には死の恐怖が強かった。
お米は最後に答えた、――
「お嬢様、そんなむごいような男の事を、どうしてそんなに気にかけなさるのです。……さあ、家のうしろからでもはいる事ができないか、行って見ましょう。一緒にお出でなさい」
それからお露の手を引いて、家のうしろの方へ行った。そこで二人は焰が吹き消される時、光が消えるように、突然消えた。
毎晩毎晩、丑の刻に幽霊が来た。毎晩、新三郎はお露のしのび泣きを聞いた。しかし彼は自分では救われたと信じたが、実は彼の召使達の不忠実によって彼の運命がすでに決定して居る事は少しも想像しなかった。
伴蔵は勇斎に、これまでの事は決して誰にも云わない約束をしていた。しかし伴蔵は幽霊のために安眠する事を長くは許されなかった。毎晩お米は彼の家に入って、彼を起して、主人の家のうしろの甚だ小さい窓の上にあるお札を除く事を彼に頼んだ。そこで伴蔵は恐怖の余り、翌朝までにお札を除く事をその度毎に約束した。しかし夜が明けると、それを除く決心がつかなかった、――新三郎のためにならないと信じたからであった。とうとうあるあらしの夜、お米は叱責の叫びをもって彼の眠りをさまし、枕もとに立って云った。「用心しろ、どうして私達をからかって居るのか。もし明日の晩までにあのお札を取り去らないと、どんなにお前を憎んで居るか思い知らせてやる」それから話して居るうちに非常に恐ろしい顔をして見せたので、伴蔵は殆んど恐怖のために死にそうになった。
伴蔵の妻のおみねは、これまでそんな事は少しも知らなかった。彼女の夫にも、これは悪夢のように思われたのであった。今夜に限って、彼女は不意に目をさまして、誰だか女の声が伴蔵と話して居るのを聞いた。殆んど同時にその話が止んだ。そしておみねがあたりを見ると、行灯のあかりで、――恐怖のために身震いをして血の気のない――夫だけが見えた。知らない女はいない。戸が堅く閉じて居る。誰もはいる事は不可能に見えた。それでも妻の嫉妬心は燃え上った。彼女は伴蔵を罵り責め始めたので、伴蔵は秘密を打明けて、今自分の立って居る恐ろしい板挟みの地位を説明せねばならなくなった。
そこでおみねの怒りは驚きと不安に変った。しかし彼女は怜悧な女であった。それで直ちに主人を犠牲にして夫を救う方法を思いついた。彼女は伴蔵に――死人と妥協する事を勧めて――狡猾な助言を与えた。
彼等は翌晩、又丑の刻に来た。彼等の来る音、――カラン、コロン、カラン、コロン――を聞いておみねは隠れた。しかし伴蔵は暗がりで彼等に会いに出かけて行った。そして妻に云われた事を云うだけの勇気があった、――
「はい、お叱りを受けるだけの事はございます。決して御立腹になるような事を致したくはございません。お札を取らないわけは、実は家内と私は萩原様の助けでようやく暮らして居るような次第で、萩原様に何か災難でもあると私共も不幸になるのでございます。しかし黄金百両もございましたら、誰からも助けて貰う事は要りませんから、御望み通り致しましょう。それで百両頂けたら、私共も生活に困るような心配をしないで、お札を取る事ができます」
これだけ云ったら、お米とお露はしばらく黙って顔を見合せていた。それからお米は云った。
「お嬢様、この人には何も恨みをいだく理由はないのだから、この人に面倒をかけるのはよくないと私、申しましたでしょう。しかし萩原様は心変りをしていますから、もうかれこれ思うても仕方がありません。お嬢様、もう御一度御願いですから、あんな人の事をあきらめて下さい」
しかしお露は泣きながら、答えた、――
「お米、どんな事があっても、どうしても、思い切る事はできません。……お札を取って貰うために、百両手に入れる事はできるでしょう。……お米、お願いだから、もう一度――たった一度でいいから、萩原様にお目にかからせて頂戴」それから袖で顔をかくしながら、彼女はこんな風に口説き続けた。
「まあ、どうしてこんな事を私にせよとおっしゃるのですか」お米は答えた。「私お金をもたない事をよく御存じじゃありませんか。しかし私がこれ程、申し上げても、こんな気まぐれを是非なさろうと云うのなら、仕方がないから、どうにかしてその金をさがし出して、明晩ここへもって来ねばなりますまい。……」それから、その不忠実な伴蔵に向って、云った。「伴蔵、もう一つ云う事がある。萩原様は今からだに海音如来のお守りをつけていますが、それがあるうちは近づけません。お札を取って、それからどうにかして、あのお守りを取って貰いたい」
伴蔵は力なく返事した、――
「百両頂けたら、それもやれましょう」
「さあ、お嬢様」お米は云った。「明晩まで、――待って下さいね」
「ああ、お米」お露はすすり泣いた、――「萩原様に会わないで、又今晩も帰るのかね。ああ、ひどい」
それから、女の幽霊は、女中の幽霊に伴われて去った。
又つぎの日が来て、又つぎの夜になった。それでその夜、死者は来た。しかし今度は萩原の家の外に嘆きの声は聞えなかった。不忠実な下僕は丑の刻にその報酬を見つけて、お札を取除けて置いたからであった。その上、主人の風呂に入って居る間に、黄金のお守りを袋から盗んで銅の像を一つ代りに入れて置く事ができた。そして彼は海音如来を淋しい野原に埋めて置いた。それでこの訪問者は何等故障に遇わなかった。袖で顔をかくしながら、蒸気のなびくように、お札をはぎ取ってある小さい窓から入った。しかし家の中でこれから何が起ったか、伴蔵は決して知らなかった。
彼が主人の家に近づいて、雨戸をたたこうとしたのは、日が高く上ってからであった。長年の間に、返事のなかったのは今度が始めてであった。それでその沈黙が恐ろしかった。くりかえし、彼は呼んだ。しかし返事はなかった。それからおみねの手伝いを得て、家に入って、寝室へひとりで行って、そこで呼んだが駄目であった。彼は光線を入れるために、雨戸をがらがらとあけた。しかし家の中には何の音もしなかった。とうとう彼は蚊帳の隅をあげて見た。しかし彼がそこを一目見るや否や、恐怖の叫びをあげて、家から逃げ出した。
新三郎は死んでいた――恐ろしく死んでいた、――そして彼の顔はこの上もない苦悩で死んだ人の顔であった、――それから彼の側に女の骸骨が横たわっていた。そしてその腕の骨、手の骨は彼の頸の廻りにしっかりからみついていた。
占師、白翁堂勇斎は不忠実な伴蔵の頼みによって、死骸を見に行った。老人はそれを見て驚き恐れたが、注意してあたりを見廻した。彼はすぐに家のうしろの小さい窓からお札が取除いてある事を認めた。それから新三郎の体をしらべて黄金のお守りがその袋から取られて、その代りに不動の銅像を入れてある事を発見した。彼は伴蔵を疑うた。しかし事件は余りに重大なので、これ以上の行動を取る前に、僧良石と相談する事を安全と考えた。それで、これまでの事実を丁寧に調べた上で、彼は老人の足でできるだけ早く新幡随院のお寺へ行った。
良石はこの老人の訪問の目的を聞かないうちに、彼を奥の一室へ誘うた。
「あなたはいつでもここへ御出でなさい」良石は云った。「どうぞお楽にお坐りなさい。……さて、萩原様も亡くなってお気の毒です」
勇斎は驚いて叫んだ、――
「そうです、亡くなりました、――しかしどうして御存じですか」
僧は答えた、――
「萩原様は悪い業の結果のために苦しんだのです。それからあの下男は悪人です。萩原様に起った事は避けられません、――あの運命はずっと前の世からきまった事です。もうこの事に就て心を悩まさない方が宜しい」
勇斎は云った、――
「行いの清い僧は百年さきの事までも分る力が得られると承わっていましたが、そんな力の証拠を目前に見たのはこれが始めてでございます。……しかし、未だ心配な事が一つございますが……」
良石はさえぎった。「あの聖いお守り、海音如来の盗まれた事でしょう。あの姿は野原に埋めてあります。来年八月中には、見つけられて私のところへ帰って参ります。それだから心配には及ばない」
益々驚いて、老人の人相見は云って見た、――
「私は陰陽道や占を研究して、人の運を云いあてて生活を営んで居りますが、あなたがどうしてこんな事を御存じか分りかねます」
良石は厳かに答えた、――
「どうして知って居るか、どうでも宜しい。それよりも萩原様の葬式についてお話したい。萩原家には勿論、きまった墓地がある。しかしそこへ葬るのはよくない。飯島のお嬢様お露の側に葬らねばならない。その因縁は非常に深いのだから。それから、あなたは色々の恩義を受けて居るから、費用を出して墓を建てておやりなさい」
それで新三郎は谷中三崎、新幡随院の墓地でお露の側に葬られる事になった。
――これで牡丹灯籠の物語の幽霊の話が終る。
私の友人は私にこの話は興味があったかどうかと尋ねた。それで私は答えて、――この作者の研究の地方色がもっとはっきり分るように、――新幡随院の墓地へ行って見たいと云った。
「すぐ一緒に参りましょう」彼は云った。「しかし、その人物について、あなたはどうお考えですか」
「西洋風に考えると、新三郎は軽蔑すべきやつです」私は答えた。「私は心のうちで、私共の物語歌の本当の愛人と比べて見ていた。その人達は実はキリスト教信者だから、人間に生を享けるのはたった一回しかない事を信じていたにも拘らず、非常に喜んで、死んだ恋女と一緒に墓へ行きました。しかし新三郎は――うしろにも、前にも百万の生命のある事を信じて居る仏教徒であった。しかも彼は幽界から彼のところへ帰って来た女のために、この一つの浮世をさえ捨てる事をしない程利己的であった。利己的よりも、更に一層臆病であった。生れも育ちも武士だと云うのに、幽霊が恐ろしさに坊さんに助けて貰おうとした。どの点から云ってもつまらない男です、あんな者をお露がしめ殺したのは、たしかに当然です」
「日本の見方から云っても、やはり」私の友人は答えた。「新三郎は余程賤しむべき男です。しかし作者がこんな弱い性格を使わなければ、有効に運んで行かれないような事件を発展させるのにこんな人物が役に立って居るのです。私の考えでは、この物語のうちで唯一人好きな人物はお米ですね。昔風の忠実な親切な女中の型で、――賢くて、怜悧で、色々の才智があって、――死ぬまで忠実どころか、死んでからさきまで忠実なのですから。……とにかく新幡随院へ参りましょう」
私共は、お寺は面白くなく、墓地は恐ろしく荒れはてて居る事を発見した。昔、墓であった場所は芋畠になっていた。その間に墓石が色々の角度で傾いて居る。墓の面の文字はこけで読めない、台石ばかり残って居るのもある。水鉢はこわれ、仏像の首のないのや手のないのがある。近頃の雨は黒い土にしみ込んで、――ところどころ汚水の溜りができていて、その廻りには無数の小さい蛙が跳んでいた。芋畠を除いて――一切の物が何年間も打棄ててあったらしい。門をすぐ入ったところにある小さい家で、一人の女が何か食事の準備をしていた。それで私の同行者は牡丹灯籠にある墓の事を知って居るかと彼女に聞いて見た。
「ああ、お露とお米の墓でしょう」彼女は微笑しながら、答えた、――「それは寺のうしろの第一の通りの終りに近いところで、――地蔵様のとなりにあります」
このような種類の思いがけない事に、日本では他にもよく出遇う。
私共は雨水の溜りと新芋の緑のうね、――その根は必ず大勢のお露やお米の髄を食んでいたに相違ない、――その間を拾いながら進んだ、――そして私共はとうとう苔蒸した二つの墓についたが、その墓の面は殆んど消えていた。大きい方の墓の側に、鼻のかけた地蔵があった。
「文字は中々読めません」私の友人は云った――「しかしお待ちなさい」……彼は袂から白い紙を一枚取出して、その誌銘の上に置いて、粘土の一片をもって紙をこすり始めた。そうするうちに、黒ずんで来た表面に、文字が白く現れて来た。
「宝暦六年〔一七五六年〕――三月十一日――子歳、兄、火……これは吉兵衛と云う根津のどこかの宿屋の主人の墓らしい。もう一つの方に何が書いてあるか見ましょう」
又新しい紙を一枚取って、戒名の文句をやがて取った。そして読んだ、――
「『円明院法曜偉貞謙志法尼』……誰か尼さんの墓ですね」
「何だ、ばかばかしい」私は叫んだ。「あの女は本当に私共を馬鹿にして居る」
「それは」私の友人は抗言した。「あなたの方が悪い。あなたは気分を味わいたくて、ここへ来たのだから、あの女は精々お気に入るように努めたわけです。あなたもこの怪談を本当だとは思っていないでしょうね」